『身体の哲学』(野間俊一著、講談社選書メチエ)を読む。
拒食症・過食症、解離症、境界例といったこの時代の精神疾患を取り上げ、それらを身体の関係から考察していく論考である。通例の精神分析理論のいずれかに寄りかかることなく、疾患それ自体にあくまでも忠実に、病める患者に即して肉薄していこうとするいい意味で野心的な著作である。
私たちが生きて行く上で体験が成り立つ安定した地盤を提供してくれるものすなわちエリクソンのいう基本的信頼感を保証してくれるものがハイマートHeimatと名づけられる。homeと同根のことばであり、わが家のような安心できる場所であるが、それはフロイトの指摘のように同時に「不気味なもの」を底に宿してもいる。それは私たちを絶え間なく魅きつけるものでありつつ、そこへ視線を向けるとめまいを起こさせるものであり、そこへ近づこうとすれば逸れていくものである。この本には書かれていないがいわば涅槃のようなものといったらよいだろうか。
自他未分の胎児の状態からこの世界へと投げ出され、Heimatの状態から永遠に分離されてしまった私たちは自分の身体を通して、出会う対象を通してそこを求め続ける。その対象と私との関係を考える際に、私というものがまず成り立って、そこから世界が成立するとみる(フロイト)か、まず関係がありそこから自己と対象が分化するとみる(バリント)かによって立場は分かれるが、この関係を著者はメルロ・ポンティを援用しキアスムと名づける。能動と受動がまさに絡み合って交差(キアスム)している関係の病理が、まさに拒食症であり、解離症であり、境界例である。拒食症は自己の属性をキアスム構造の対象として選び、ひたすら制御しようとする。境界例は他者をキアスム構造の対象として選ぶ。解離症ではキアスム構造の対象を求めず、私の存在の問いをそのまま引き受けてしまう。
ラカン的にいえば、それは想像界imaginaryの病理である。この想像的自己を i とすると拒食症は自己を対象とするからi×i(xはキアスムのχ)、他者を対象とする境界例はi×-i、対象のない解離症ではi×0と表記することができようか。