『シリーズ進化学6 行動・生態の進化』(長谷川眞理子、河田雅圭、辻和希、田中嘉成、佐々木顕、長谷川寿一著、岩波書店刊)を読む。
個体の行動も進化により形成されるのかという疑問に対して、然りという答えをダーウィニズムは出しつつある。こうしたことに対して実証的な研究により地道に証拠が積み上げられつつあるということはいいことだ。
興味深かったのは、第一章で取り上げられている一夫一妻制と一夫多妻制の違いを引き起こす遺伝子についてである。前者をとるプレーリーハタネズミ(以下プレーリー)と後者をとるサンガクハタネズミ(以下サンガク)の行動の違いは、神経内分泌ホルモンであるオキシトシンとバソプレッシンが関係している。一夫一妻のプレーリーではオキシトシンの放出により雌が交尾をした雄といっしょにいることを好むことを促進し、バソプレッシンは雄が同様に交尾した雌といっしょにいることを好むことを促進したり、子供の世話をすることを促進する。しかしサンガクでは、バソプレッシンにより雄はグルーミングが促進される。両者でホルモン自体の構造は同一なのであるが、これらの受容体の脳内分布が異なっている。したがってこの違いが行動の差を導き出しているのであろう。
と今までならばここまでしか結論づけられなかったところであるが、面白いのはここからである。Youngらのグループが2004年にNatureに発表した研究では、乱婚制であるハタネズミの雄の腹側淡蒼球(脳の部位の名称)にウイルスベクターを使って、バソプレッシン受容体遺伝子を導入した結果を報告している。すなわち分子生物学的手法を使って、脳のバソプレッシン受容体の分布だけをプレーリー型に変えてしまったのである。するとその雄はペアの雌と身を寄せ合う時間が増加し、さらにその雄は子供の世話をするようになった。
さらに面白いのは、この受容体の脳内分布を決定付けているのは、その遺伝子の上流にある調節領域にある。プレーリーのバソプレッシン受容体遺伝子の上流には、マイクロサテライトDNAという繰り返し配列が挿入されている。この部位は突然変異率が高いことがしられている。したがって番を形成するという「自然の愛の発露」と思える現象も、まったく偶然によって起こる遺伝子のごく限られた部位の突然変異によって誘発されることがありうるということをこの研究は示しているのである。
その他血縁淘汰を取り上げた第二章も非常に面白い。利他行動がどうして生物にみられるのか。この問題はダーウィンさえも自分の説への致命的反証ではないかと頭を悩ませた生物の行動である。血縁淘汰はそれを説明する理論であるが、ヒトのように明らかに血縁がないにもかかわらず利他的行動をとることがある。ここに人間の崇高さを認める立場もあるが、進化論が面白いのはそうした現象もいくつかの条件によって形成されうる行動であることを示してくれることである。ここで使われる互恵性モデル(あるとき利他行動をした個体が別の機会にはそれを受ける側になりうるとするモデル)、相利性モデル(利他的行動をした個体が同時に利他行動の受益者になれるとするモデル)では、相互作用する個体どうしが「協力」あるいは「非協力」のカードをどう使うかという囚人のジレンマゲームを繰り広げることになる。
しかしヒトのような集団では、相互作用が一回きりという場合も多々ある。こうした場合には過去に相手がとった行動を前提にはできない。この場合はその相手に付随する情報に基づいて行動を決める。すなわちその相手が「いい」個体なのか「悪い」個体なのかという情報である。個々の相互作用でその個体がどのような行動をとったかということは「集団の全体に見られて」(情報の透明性)おり、そのことは全個体が記憶として共有されているという前提がまず必要なのであるが、その前提があるとして、「いい」個体には協力し、「悪い」個体には協力しないという戦略をとることが進化的に安定した戦略とされる。これは誰が考えても当たり前のことであるが、重要なことは、その例外規則である。すなわち協力しないという行動を相手にとった場合でも、その相手が「悪い」個体であるとみなされている場合には、協力しない行動をとった当の個体は、「いい」個体であると周りから認められることである。
ヒトの利他性を説明する一つの仮説であると考えられるが、気になるのは本書では敢えて説明されていない「いい」「悪い」の実質的内容である。これはその集団がどういうことを「いい」とみなすかどうかにかかっている。利他行動というと他者に対して利益となるような行動を思い浮かべてしまうが、上のモデルでいくと例えばある特定の個体を迫害することを「いい」ことだとその集団で認知されている場合には、その個体を迫害することが集団の構成員にとっては「いい」ことだとされ、それに従わない個体は「悪い」とされてしまうことである。したがって上のモデルは、利他行動の説明モデルというには不正確であると思う。宗教的な迫害や学級内でのいじめなど、一定の閉鎖的集団の中で、その外部からは「悪い」こととしか思えないことが広まってしまう現象をこのモデルは説明していると考えたほうがより妥当であろう。
学校でのいじめ問題が大きく取り上げられているが、もし上のモデルがある程度正しいとすれば、学級や学校という集団を閉じた状態にしたままで、いじめをした生徒を出席停止にしたり、懲罰を加えたりしてもいじめがなくなることはないだろう。そのいじめはなくなってもまた別のいじめが発生するに違いない。
進化的にみてヒトがある集団で迫害行動をとるような性向が備わっているとするならば、私たちはそれを認めた上で、どのようにすれば効果的に回避できるか生物学的な観点も考慮にいれて対策を講じていくのが合理的であろう。声高に規律や懲罰を厳格にして、愛国心を叩き込めばいいのだとすることは、一つの野蛮である。
個体の行動も進化により形成されるのかという疑問に対して、然りという答えをダーウィニズムは出しつつある。こうしたことに対して実証的な研究により地道に証拠が積み上げられつつあるということはいいことだ。
興味深かったのは、第一章で取り上げられている一夫一妻制と一夫多妻制の違いを引き起こす遺伝子についてである。前者をとるプレーリーハタネズミ(以下プレーリー)と後者をとるサンガクハタネズミ(以下サンガク)の行動の違いは、神経内分泌ホルモンであるオキシトシンとバソプレッシンが関係している。一夫一妻のプレーリーではオキシトシンの放出により雌が交尾をした雄といっしょにいることを好むことを促進し、バソプレッシンは雄が同様に交尾した雌といっしょにいることを好むことを促進したり、子供の世話をすることを促進する。しかしサンガクでは、バソプレッシンにより雄はグルーミングが促進される。両者でホルモン自体の構造は同一なのであるが、これらの受容体の脳内分布が異なっている。したがってこの違いが行動の差を導き出しているのであろう。
と今までならばここまでしか結論づけられなかったところであるが、面白いのはここからである。Youngらのグループが2004年にNatureに発表した研究では、乱婚制であるハタネズミの雄の腹側淡蒼球(脳の部位の名称)にウイルスベクターを使って、バソプレッシン受容体遺伝子を導入した結果を報告している。すなわち分子生物学的手法を使って、脳のバソプレッシン受容体の分布だけをプレーリー型に変えてしまったのである。するとその雄はペアの雌と身を寄せ合う時間が増加し、さらにその雄は子供の世話をするようになった。
さらに面白いのは、この受容体の脳内分布を決定付けているのは、その遺伝子の上流にある調節領域にある。プレーリーのバソプレッシン受容体遺伝子の上流には、マイクロサテライトDNAという繰り返し配列が挿入されている。この部位は突然変異率が高いことがしられている。したがって番を形成するという「自然の愛の発露」と思える現象も、まったく偶然によって起こる遺伝子のごく限られた部位の突然変異によって誘発されることがありうるということをこの研究は示しているのである。
その他血縁淘汰を取り上げた第二章も非常に面白い。利他行動がどうして生物にみられるのか。この問題はダーウィンさえも自分の説への致命的反証ではないかと頭を悩ませた生物の行動である。血縁淘汰はそれを説明する理論であるが、ヒトのように明らかに血縁がないにもかかわらず利他的行動をとることがある。ここに人間の崇高さを認める立場もあるが、進化論が面白いのはそうした現象もいくつかの条件によって形成されうる行動であることを示してくれることである。ここで使われる互恵性モデル(あるとき利他行動をした個体が別の機会にはそれを受ける側になりうるとするモデル)、相利性モデル(利他的行動をした個体が同時に利他行動の受益者になれるとするモデル)では、相互作用する個体どうしが「協力」あるいは「非協力」のカードをどう使うかという囚人のジレンマゲームを繰り広げることになる。
しかしヒトのような集団では、相互作用が一回きりという場合も多々ある。こうした場合には過去に相手がとった行動を前提にはできない。この場合はその相手に付随する情報に基づいて行動を決める。すなわちその相手が「いい」個体なのか「悪い」個体なのかという情報である。個々の相互作用でその個体がどのような行動をとったかということは「集団の全体に見られて」(情報の透明性)おり、そのことは全個体が記憶として共有されているという前提がまず必要なのであるが、その前提があるとして、「いい」個体には協力し、「悪い」個体には協力しないという戦略をとることが進化的に安定した戦略とされる。これは誰が考えても当たり前のことであるが、重要なことは、その例外規則である。すなわち協力しないという行動を相手にとった場合でも、その相手が「悪い」個体であるとみなされている場合には、協力しない行動をとった当の個体は、「いい」個体であると周りから認められることである。
ヒトの利他性を説明する一つの仮説であると考えられるが、気になるのは本書では敢えて説明されていない「いい」「悪い」の実質的内容である。これはその集団がどういうことを「いい」とみなすかどうかにかかっている。利他行動というと他者に対して利益となるような行動を思い浮かべてしまうが、上のモデルでいくと例えばある特定の個体を迫害することを「いい」ことだとその集団で認知されている場合には、その個体を迫害することが集団の構成員にとっては「いい」ことだとされ、それに従わない個体は「悪い」とされてしまうことである。したがって上のモデルは、利他行動の説明モデルというには不正確であると思う。宗教的な迫害や学級内でのいじめなど、一定の閉鎖的集団の中で、その外部からは「悪い」こととしか思えないことが広まってしまう現象をこのモデルは説明していると考えたほうがより妥当であろう。
学校でのいじめ問題が大きく取り上げられているが、もし上のモデルがある程度正しいとすれば、学級や学校という集団を閉じた状態にしたままで、いじめをした生徒を出席停止にしたり、懲罰を加えたりしてもいじめがなくなることはないだろう。そのいじめはなくなってもまた別のいじめが発生するに違いない。
進化的にみてヒトがある集団で迫害行動をとるような性向が備わっているとするならば、私たちはそれを認めた上で、どのようにすれば効果的に回避できるか生物学的な観点も考慮にいれて対策を講じていくのが合理的であろう。声高に規律や懲罰を厳格にして、愛国心を叩き込めばいいのだとすることは、一つの野蛮である。