『アクシデント 事故と文明』(ポール・ヴィリリオ著、小林正巳訳、青土社刊)を読む。
この一年間もさまざまな大事故が報道された。そのたびに事故を生み出した原因究明の声が上がり、犯人捜しが始まる。責任者が決していないわけではないが、誰とも特定しがたい状況というのがあったり、確かに事故を引き起こしたのはある特定の個人であるが、その人だけに帰してしまっていいのか釈然としない状況というのがあったりする。
ある特定の原因(cause)があって、単線的な因果系列である事件(case)が起こるという解釈では現代の事故は解明できなくなっている。caseは語源では身の上に落ちてくるものであり、事故accidentとは、まさにこちらに(ac=to)降りかかる。こうした思考は、ある運動体としてのシステムを実体とみなし、そこに起きる事故は予期し・「なかった」こと、偶然の空隙に現れたが本来はあるべきで「ない」ものと理解する。ヴィリリオは、しかし事故はわれわれが発明したものではないかと問題提議する。
事実、生産様式に対して与えられた傲慢なまでの優位性により、前工業化社会で通用していた生産様式/破壊様式(単に消費様式にとどまらない)という旧来の弁証法は隠蔽されてしまったように思われる。何らかの「実体」の生産とは、とりもなおさず典型的な「事故」の生産でもあったとすれば、故障や不調とは、生産の乱調というより、特定の不調の生産、さらには部分的にせよ全体的にせよ破壊の生産ということになろう。このように探求の方向を根底から修正することで、事故の遠近法を想像することも可能となろう。
事故はある生産様式が創造されたときにすでにその中に胚胎している原罪なのである。本の冒頭で引用されているヴァレリーのカイエからの文句は示唆的である。「道具は意識から消えていく傾向がある。その作動は自動的になったと日常よく言われる。ここから引き出すべきは、次のような新たな方程式だ。すなわち、意識は事故があってはじめて目覚めるというものだ」。ここからヴィリリオは現代文明に潜むわたしたちの無意識=狂気を彼独特の黙示録的語り口で指摘する。
ここには私たちが創造しながら私たちの制御を超えてしまった巨大技術(原子力技術や遺伝子工学技術)があることは間違いない。そしてその影響が瞬時にして全世界に拡散するという、速度と圏域も著者が指摘するもう一つの重要な点である。
いつ起きるかもしれない事故に対して私たちはどう備えればいいのか。問題は備えるために防衛線を張り巡らせ敵を包囲するということができないということである。「戦争は、まず包囲術のうちにその姿を現す」というクラウゼヴィッツのようにはいかない。私たちはそれほど潜在的な事故と親密になっているのだ。ちょうど爆弾を抱えたテロリストが隣に住んでいるかもしれないように。