「楢葉・富岡・双葉」地区をめぐる。4年目を前にした2月6日【1】

2015-02-08 16:37:22 | 日記

原発地区「楢葉・富岡・双葉」地区をめぐる。

            4年目を前にした2月6日

 

  6日(金)いわき市に向かう。5日前から予約の電話をかけたのが7つのホテル。しかし、すべてが「空きなし」の返事であった。とにかく今はいわき市内での宿泊は困難である。聞くところによればJRいわき駅周辺のホテルに予約が得られれば「御の字」とか。ようやく現地の友人の努力で部屋が取れた。

  また夜の賑わいも、今や死語となった「花・金」もこの町にはまだ存在している。いずれにせよ、同市内の不動産価格は上昇を続けている。「原発災害」と言う負が、皮肉にも好況という現象をもたらしていると言っても過言ではない。

  その友人であるが、富岡町で被災し郡山市に避難。縁があって避難所を訪れて以来の交友を続けている。宿泊したのも久しぶりに酒を酌み交わしたかったことと、翌日に被災現地を案内していただくことを予定していたからである。

  翌日は天候に恵まれ、気温10度という「明るい日差し」の1日であった。しかし、その先々で見たこと、感じたことの「薄暗さ」は、現地に立った者でしかわからないものであろうと思う。

  私は現地から70キロ離れたところに住む。よって、現地の皆さんからは、外部の者が何を言うかとの批判を受けることもしばしばである。しかし、それだけに見えるものがあるだろうとの立場から現地訪問の報告をしたい。

  まず、最初に向かった先は広野町と楢葉町にまたがるJヴィレッジスタジアムである。日本サッカー界初のナショナルトレーニングセンターであり、東電は大株主である。かつて有名なサッカー選手たちが駆け巡ったグランドも、今は原発現場で働く労働者の仮設宿舎で埋め尽くされている。その仮設の奥には大きな掲示板が見える。そこにある時計は止まったままである。そして現場にむかう労働者がシャトルバスを待つ姿を見る。

  今や6000人ともいわれる現地労働者の宿舎の確保は大変である。6号線沿いにある「ラブホテル」にも「○○会社工事宿泊所」という看板が立ち並ぶ。

  次に自動車を止めたのが、1軒の「純和風の大きな家と素晴らしい庭」の家であった。それこそ先祖代々からMさんの家である。周りには風よけの杉林がある。いわゆる「いぐね」(屋敷林)である。趣味でこつこつ集めた庭木、置石は見事である。そして5年前に建て替えた家は、古来の建築様式と敷地の土壌が「大揺れ」にも耐えた。だが、その先では多くの家屋の無残な光景を見ることになった。

  そして富岡町である。JR富岡駅のホームの高さが幸いして駅前の商店街は流されなかった。しかし全壊の建屋が並ぶ。案内の友人は、当日その駅前の中華食堂で食事をした。そして終えて店を出た1時間後に揺れと津波が襲った。その食堂は骨組しか残っていない。このように「生死を分けた体験」をお持ちの方が沢山おられる。

  そして、駅舎であるがその姿はない。さらに、そこから見える海岸沿いには黒い山が続く。それは各地区から集められた廃棄物の4段から5段に積み重ねられた「フレキシプル・コンテナ」の山である。

  まさに異常としか言いようがない。