ひでさんの思いつき日記

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記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

四国八十八ケ寺の33番から38番(高知)の札所参りー3 (2021-3-10 3/11)

2021-03-21 | お出かけ

2021-3-10(水)11(木)は快晴で家内の運転で息子と3人でドライブがてら 
四国八十八ケ寺の33番から38番の札所を回って来ました。

 左の画像は3/10に行った四国八十八ケ寺の
 30番から38番の札所の地図です。
 30番の善楽寺は以前にお参りしていて
 今回は諡号1000年記念バッジを貰いに
 行き、31番の竹林寺と32番の禅師峰寺は
 以前にお参りしているので 今回はパス
 して、33番の雪渓寺と34番種間寺と
 35番清瀧寺は前回のブログに載せました。
 今回は36番  青龍寺と37番 岩本寺と
 38番 金剛福寺の記録です。

  下の画像は宿泊した足摺岬の近くの
 「ホテル足摺園」です。

      

 

 

     下の画像は四国88カ所36番青龍寺・37番岩本寺・38番金剛福寺です。

    


       ① 36番 青龍寺

    

        

    青龍寺の歴史・由来

    青龍寺を遍路するときは、「宇佐の大橋」を渡る。
     昭和48年に橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡った。
             弘法大師も青龍寺を創建するさいに、この湾を船で渡っていた。
    その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。

             弘法大師が唐に渡り、長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かって
             真言第八祖となられ、帰朝したのは大同元年(806)であった。
             縁起では、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、
             東の空に向かって独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。
            独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去った。

            帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、
           独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇に奏上した。
           大師は弘仁6年、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、
           寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」を名のっている。

           明治のころまで土佐7大寺といわれ、末寺四ヶ寺、脇坊六坊をもつ名刹であった。
          また、本尊の波切不動明王像は大師が入唐のさい、暴風雨を鎮めるために現れたと伝えられ、
          いまも航海の安全や豊漁、世間の荒波をも鎮めてくれると、深く信仰されている。

       青龍寺の見どころ
         愛染明王坐・奥の院・横浪県立自然公園
      (北側は浦ノ内湾、南には雄大な太平洋の景観を楽しめる公園。)

   

            

       

 

      

  


    ② 37番 岩本寺

       

                                                大師堂・本堂内陣の格天井画

       

       岩本寺の歴史・由来

   清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、
   五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。
   歴史は天平の世まで遡る。
   寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、
   現在地より北西約3㎞の付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる
   末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。
   仁井田明神の別当職であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。
   弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。
   大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、
   それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、
   薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。
   大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。
   このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、
   また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。

   天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。
   再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺に、
   寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。
   戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、
   神仏習合の札所として隆盛を誇っていた。
   明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、
   五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、
   寺領地の大半を失ってしまう。
   再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っている。

        

        

                 

                 


      ③ 38番 金剛福寺

         

                        

    金剛福寺の歴史・由来

   四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、
   境内は120,000平方メートルを誇る大道場。
   弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に
   観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。
   ときの嵯峨天皇に奏上、勅願により伽藍を建立、
   勅額「補陀洛東門」を受し、開創したと伝えられる。
   弘仁13年、大師49歳のころといわれる。

   岬は、濃緑の樹海と白亜の灯台、それに断崖に砕ける波涛、観世音さんの浄土を連想させ、
   自然の大庭園に圧倒させられるのだが、ここにたどり着く遍路の旅もまた壮絶を極める。
   前の三十七番札所から80余km、いまは車で約2時間余、歩いたら約30時間、
   3泊4日はかかり、四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」である。

   縁起の仔細をみると、大師は伽藍を建立したときに
   三面千手観世音像を彫造して安置し、「金剛福寺」と名づけられた。
  「金剛」は、大師が唐から帰朝する際、日本に向けて五鈷杵を投げたとされ、
   別名、金剛杵ともいう。   
   また、「福」は『観音経』の「福聚海無量」に由来している。
   歴代天皇の勅願所となり、武将からも尊崇された。
   とくに源氏一門の帰依が厚く、源満仲は多宝塔を建て、
   その子・頼光は諸堂の修復に寄与している。

   戦国時代以降、海の彼方にある常世の国・補陀落浄土を信仰して、
   1人で小舟を漕ぎ出す「補陀落渡海」が盛んだったことや、
   一条氏、山内藩主の支えで寺運は隆盛した。

   大師因縁の「足摺七不思議」といわれる遺跡が、岬の突端をめぐるように点在している。

  金剛福寺の見どころ 
   本尊・三面千手観世音立像・土佐五色石の庭園・真念庵・嵯峨天皇宸筆の勅額
   (「補陀洛東門」と彫られた木額。
     嵯峨天皇は弘法大師、橘逸勢とともに平安初期の能筆家「三筆」の1人。)

     

     

     

   

       

 

       

 


四国八十八ケ寺の33番から38番(高知)の札所参りー2 (2021-3-10 3/11)

2021-03-21 | お出かけ

2021-3-10(水)11(木)は快晴で家内の運転で息子と3人でドライブがてら 
四国八十八ケ寺の33番から38番の札所を回って来ました。

 左の画像は3/10に行った四国八十八ケ寺の
 30番から38番の札所の地図です。

 30番の善楽寺は以前にお参りしていて
 今回は諡号1000年記念バッジを貰いに
 行きました。

 31番の竹林寺と32番の禅師峰寺は
 以前にお参りしているので 今回はパス
 して、33番の雪渓寺に行きました。

 お参りした後 昼食に「土佐タタキ道場」
 というお店に行きました。
       

 その後 34番の種間寺と
 35番の清瀧寺にお参りしました。
 

        下の画像は四国88カ所33番雪渓寺・34番種間寺・35番清瀧寺です。
    


       ① 33番 雪渓寺

    

    雪蹊寺の歴史・由来

    土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。
    幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立っていることでも名高い。
    雪蹊寺はそこから西へ約4キロほどである。
    雪蹊寺の縁起は、まず3つの特色から挙げておく。

    1つ目は、四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であること。
    弘法大師によって弘仁6年に開創されたころは真言宗で、「高福寺」と称した。
    その後、寺名を「慶運寺」と改めているが、廃寺となっていた寺を再興したのは
    戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から
    月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。
    元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、
    元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改め、今日にいたっている。

    2つ目は、鎌倉時代の高名な大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、
    運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、
    また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげる
    かわい師童子像を彫造して安置したとされる。
    一時、慶運寺と名のったのもこう
い善膩した由縁で、弟子の道運、
    海覚作の12神将共に16体、これらはすべて国の重要文化財に指定されている。

    3つ目は、「南学発祥の道場」といわれ、江戸初期の住職、天質和尚が
    朱子学南学派の祖として活躍し、谷時中野中兼山などのすぐれた儒学者を数多く生みだしている。     雪蹊寺で出家し四国を17回遍路した山本玄峰師は、まさに行雲流水の禅僧であった。

 

        

 


    ② 34番 種間寺

   
        

   種間寺の歴史・由来

    土佐湾の沿岸は、四国霊場のメッカのようである。
    種間寺もその一つで、土佐湾の航海に結びついた興味深い縁起が伝えられている。

    6世紀のころである。敏達天皇の6年(577)百済の皇子から多くの経論とともに、
    仏師や造寺工を贈る旨の勅書がとどいた。
    彼らが渡来したのは用明天皇の時代、大阪・四天王寺の造営にあたった。
    ようやく落慶し、その帰途の航海中であった。土佐沖で強烈な暴風雨におそわれて、
    種間寺が建つ本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れて寄港した。
    彼らは、海上の安全を祈って約145㎝の薬師如来坐像を彫造し、
    本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされている。

    その後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師が
    この地を訪ねたのは弘仁年間である。
    大師はその薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創された。
    その折に唐からもち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆
    またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。

    天暦年間(947〜57)には、ときの村上天皇が「種間」の勅額を下賜され、
    また、土佐藩主の山内公からの加護が厚く、
    広大な田畑や山林を寄贈されており、堂舎の修築も行われている。
    本尊は「安産の薬師さん」で、また、底の抜けた柄杓に人気があり、信者が多い。

        

 

 


      ③ 35番 清瀧寺

   

   

   清瀧寺の歴史・由来

    土佐市の北部。醫王山の中腹にあるが、ここは「土佐和紙」「手すき障子紙」で知られる
    高知県の紙どころ。その源をたどると弘法大師と因縁浅からぬ霊場であることがわかる。
    「みつまた」をさらし、和紙を漉く重要な水の源泉として、信仰の厚い札所である。

    縁起によると、養老7年に行基菩薩が行脚していたところ、
    この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。
    これを本尊として堂舎を建て、「影山密院・釋本寺」と
    名づけて開山したのが初めと伝えられている。
    弘法大師が訪ねたのは弘仁年間(810〜24)のころ。
    本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して
    閼伽井権現と龍王権現に一七日の修法をした。
    満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。
    そこで山号や院号、寺名を現在のように改め、霊場とした。

    この水は、麓の田畑を潤すことはもとより、「みつまた」をさらし、紙を漉くうえで重宝され、
    やがては土佐和紙産業をおこすことにも貢献している。

    寺伝では、平城天皇の第三皇子が弘法大師の夢のお告げで出家し、
    真如と名のった。
    真如はこの寺を訪ね、息災増益を祈願して、逆修の五輪塔を建立、後に入唐している。
    大師十大弟子の1人である。
    また、江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、寺領百石の寄進を受けるなど、
    七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。

    厄除け祈願の名刹で、そのシンボルが本堂の屋根より高い大きな薬師如来像である。