ひでさんの思いつき日記

志度の畑の事・お出かけの記録・パソコンに関することなど
記録に残しておきたいような出来事を時々書いていきます。

四国八十八ケ寺の72番から75番の札所に行って来ました。(2020-5-27)

2020-06-09 | お出かけ

コロナ騒動で何処にも行けない毎日が続いていますが、5月の27日に善通寺の従弟の

葬儀に参列して その後 善通寺にある四国八十八ケ寺の72番から75番の札所を回って来ました。

 母の実家は善通寺の有岡という大麻山が
 見える所にあり、よく行っていました。
 従弟は享年73歳で一緒に過ごしたことだ
 思いだされます。
 善通寺のお寺には何度も行っていて、今回
 「カタパン」と亀が懐かしかったです。
 葬儀があったのは生野で 75番→74番
 →72番→73番の順にお参りしました。

 



       

第72番札所 我拝師山 延命院 曼荼羅寺

聖観音立像:笠松と呼ばれていた「不老松」の幹に刻んだ弘法大師座像。
      お遍路さんは笠松大師をさすっては在りし日の姿を偲んでいます。

笠松大師:観音堂に安置されており、158cmの檜一木造りで端麗な佇まい。
     平安後期の作。香川県有形文化財。
     四国88カ所記念切手にこの仏様のお顔が描かれています。

曼荼羅寺の歴史・由来

縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。
讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していました。
弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。
母玉依御前の仏果菩提を祈るためだったともいわれています。
唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。
本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、
寺名を「曼荼羅寺」に改めました。

また、四国霊場の古い案内書には、樹齢1200年を超す弘法大師お手植えの
「不老松」の存在も紹介されています。
高さは4m足らずですが直径が17〜18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような
印象的な姿で県の自然記念物にも指定されていました。
しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されています。

曼荼羅寺の近くには「水茎の丘」という丘がありますが、ここに庵を建てて7年余り
暮らしていたのが西行法師。
この寺に通い、本堂前の平らな石の上でよく昼寝をしていたようで、
この石は「西行の昼寝石」と呼ばれ今も同じ場所にあります。
また、その横には「笠掛桜」と呼ばれる桜の木も。
西行が都に帰る際、同行者が形見にと桜の木に笠をかけたまま出発したのを見て
「笠はありその身はいかになりぬらんあはれはかなきあめが下かな」
という歌を詠んだそうです。

 

        

第73番札所 我拝師山 求聞持院 出釈迦寺

捨身ヶ嶽禅定まで登れなくても、ここでご宝号を唱え、祈願すれば同じぐらいの
ご利益があるといわれます。

捨身ヶ嶽遥拝所:寺の境内から50分ほど登った場所にあり、
さらに100m進むと大師捨身のお行場が毎月旧暦15日には護摩祈祷が行われています

出釋迦寺の歴史・由来

出釋迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがあります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。

この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあります。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がつきました。ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれています。

また、弘法大師が身を投じた場所は、ここからさらに50mほど登った場所にあります。下を見れば足のすくむような深い谷底ですが、眼下には讃岐平野や瀬戸内海を一望できる絶景が広がります。

 

        

第74番札所 医王山 多宝院 甲山寺

本堂:檜の一木造りで、重厚な姿と力強く引き締まった表情が印象的な
   「薬師如来像」が祀られています。
毘沙門天の岩窟:大師堂の左手にある奥行12mほどの岩窟。
        大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られています。

甲山寺の歴史・由来

甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。
平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していました。
ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、
仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言いました。
弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養しました。

その後、嵯峨天皇の勅命を受けてこの地にある日本最大の溜池「満濃池」の修築工事を監督する別当に任命された弘法大師。朝廷が派遣した築池使さえも達成できなかった難しい工事です。
弘法大師は甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法しました。
すると大師を慕って数万人の人々が集まり、力を合わせてわずか三ヶ月で完成させたのです。
朝廷からこの功績を称えられ、金二万銭を与えられた弘法大師は、その一部を寺の建立にあて、
先に祈願をこめて刻んだ薬師如来を本尊とし、安置。山の形が毘沙門天の甲冑の形に似ていることから
「甲山寺」と名づけられました。
薬師如来は、心身に災いする一切のものを除くといわれる仏様。
甲山寺を訪れた人々の力強い支えとなっていることは言うまでもありません。

甲山寺の見どころ

本堂・毘沙門天の岩窟・子安地蔵(大師堂へ続く石段の隣に祀られたお地蔵様は子宝に
   ご利益があるとか。 
   子宝を願ってお地蔵様の前掛けを持ち帰り、叶うと新しい前掛けを持ってくる習わし。)

 

        

第75番札所 五岳山 誕生院 善通寺

金堂:善通寺の本堂。創建当時の金堂は、永禄元年(1558)、
   三好実休の兵火により焼失し、現在の建物は、
   元禄12年(1699)に上棟されたものです。
   本尊・薬師如来坐像は、像高3メートルにも及ぶ
   丈六の巨像で、元禄13年(1700)、
   御室大仏師北川運長によって造像されました。

五重塔:総高43メートルに及ぶ大塔で、善通寺のシンボルとして、
    広く人々に親しまれています。創建以来、大風や火災に
    より、いくたびかの倒壊・焼失を経ましたが、
    そのたびに再建されました。
    現在の塔は、弘化2年(1845)、仁孝天皇の御綸旨に
    より再建が始められ、明治35年(1902)に
    完成したものです。
    初層には五智如来像のうちの4体が安置され、
    毎年ゴールデンウィークに特別公開を行っています。

善通寺の歴史・由来

五岳山 善通寺の創建は、『多度郡屏風浦善通寺之記』(江戸時代中期成立)によると、唐より帰朝されたお大師さまが、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したと記されています。

鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺でしたが、明治時代に至り善通寺として一つのお寺となりました。現在は真言宗善通寺派の総本山であり、また四国八十八ヶ所霊場の75番札所でもあります。

現在の善通寺は「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号し、山号の「五岳山」は、寺の西にそびえる香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五岳に由来し、その山々があたかも屏風のように連なることから、当地はかつて「屏風浦」とも称されました。そして、「誕生院」の院号は、お大師さま御誕生の地であることを示しています。御誕生所である善通寺は、京都の東寺、和歌山の高野山とならぶ弘法大師三大霊跡のひとつとして、古くから篤い信仰をあつめてまいりました。

総面積約45,000平方メートルに及ぶ広大な境内は、「伽藍」と称される東院、「誕生院」と称される西院の東西二院に分かれています。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域であり、御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所としての由縁を今に伝えています。

善通寺の見どころ

金堂五重塔御影堂(弘法大師が御誕生された佐伯家の邸宅地に建ち、奥殿には大師自筆と伝わる
           本尊・ 瞬目(ひめき)大師像が秘蔵されています。
現在の建物は天保2年(1831)に再建され、昭和12年に大規模な修築がされました。
また、御影堂地下には、約100メートルの「戒壇めぐり」があり、
暗闇の中、御宝号を唱えながら大師と結縁する道場となっています。

 

        

 香川県には歯が折れそうなくらい堅い堅い  堅パン というお菓子があります。
 堅パン は全国にたくさんありますが、
 歯が折れるんじゃないかと不安になる
 くらい堅いのはきっと善通寺の
 「熊岡菓子店」の堅パンだけ!
 善通寺の池の亀
   外来種のカメが爆発的に増加、ペット放棄で、困るNY | ナショナルジオ ...

Googleマップを載せます。


七ヶ所まいり(しちかしょまいり、ななかしょまいり)とは、四国八十八箇所霊場のうち、香川県にある第71番札所弥谷寺から第77番道隆寺までを遍路する参拝方法の総称。江戸時代後期の寛政12年(1800年)に書かれた『四国八十八番寺社名勝』には「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあり、古来1日で巡礼できる遍路として利用されていたことが窺える。

概要[編集]

それまで修行者が多く巡礼していたものが、江戸時代ごろから庶民の間で流行するようになった。その1つが四国八十八箇所である。これを模して小豆島には小豆島八十八ヵ所霊場江戸には御府内八十八ヵ所霊場など、全国各地に大小さまざまな巡礼地が作られた。また、近年では四国別格二十霊場新四国曼荼羅霊場なども各地で作られているが、これらは「移し霊場」または「写し霊場」と呼ばれ、四国遍路隆盛の証左とも言われる。

七ヶ所まいりは、四国八十八箇所巡礼が困難なものが阿波一国参りや讃岐一国参りとして、短期間で巡礼できる遍路としてはじめたことから発祥したとされる。

また、71番より遍路を始める風習は、弥谷寺ふもとの多度津湾が金刀比羅宮に参拝するための海の玄関口として栄えていたこと。1770年以降より旅籠屋で配られた道中案内記によれば、善通寺を誕生の地、弥谷寺を入学の地、海岸寺を産湯の地として金比羅山とあわせて紹介しており、四国八十八箇所遍路の大衆化以前より、弘法大師ゆかりの三箇所と金比羅山の参詣がすでに一般化していたことなどが理由とされている。

いずれにしても、当時の旅籠屋が発行した観光ガイドが金比羅参詣や弘法大師ゆかりの地の三箇所、そして七ヶ所まいり等の参拝方法の紹介役を担ったことが分かる。

七ヶ所まいり参拝順路[編集]

  1. 四国霊場第71番 - 弥谷寺(大黒天)
  2. 四国霊場第72番 - 曼荼羅寺(福禄寿)
  3. 四国霊場第73番 - 出釈迦寺(恵比寿神)
  4. 四国霊場第74番 - 甲山寺(毘沙門天)
  5. 四国霊場第75番 - 善通寺(布袋尊)
  6. 四国霊場第76番 - 金倉寺(弁財天)
  7. 四国霊場第77番 - 道隆寺(寿老人)