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「押し付けられた憲法」論を考える

2016年04月02日 06時10分00秒 | これは許せない
2016・3・24
「押しつけられた憲法」とは
 
日本国憲法の制定過程を振り返って「押しつけ憲法」だとする考え方があり、それが現在の改憲論の有力な理由の一つになっている。そこから「自主憲法制定」などと叫ぶ者もいる。
 「押しつけ憲法論」をどう考えたらよいのだろうか。誰が誰にどういう理由でおしつけたのか。
 1945年、第二次世界大戦末期に発布されたポツダム宣言は、連合国が日本に戦争終結を促し、敗戦後の日本の在り方(軍隊の解散、戦争犯罪人の処罰、民衆主義の復活、民主的政府の樹立、など)を述べたものである。この宣言が7月26日に発布されてから日本が受諾するまで約20日間の期間があったのは、時の日本政府が、これを受諾した場合、「国体護持」つまり戦前の絶対的な天皇制が維持できるかどうか、心配したからである。
 敗戦が決定的になった時、支配層の最大の関心事は、大日本帝国憲法下の天皇制をいかに守るかということであった。連合国からの文書に「日本国ノ最終的ノ統治形態ハボツダム宣言ニ従ヒ、日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニヨリ決定」するとの一文があり、宣言の中にも同様の条項があった。この文はいうまでもなく国民主権の精神を述べたものであるが、日本政府はこの条項を甘く判断し、日本国民は「国体護持」を選択するであろうとの判断で宣言受諾を決定したと言われる。
 1945年8月15日、日本国民は初めて聞く天皇の声で敗戦の事実を知る。
 日本は連合国の占領下に入る。
 新しく日本を作り直そうというとき、新しい憲法を制定しなければならない。そのとき日本の支配層は、天皇の地位をどうするか、国の主権をだれが持つかということが問題であった。彼らの考えは、国体護持=天皇主権にあった。
  政府が最初に作った憲法草案は、大日本帝国憲法の第3条(天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス)の字句を訂正しただけのものであった。当時の政党も自由党、進歩党などの案も大日本帝国憲法と基本において同じであり、当時の日本の支配層がどれほど国体護持に執着していたかということがわかる。
 これに対して国の内外から、民主化=国民主権の要求が高まりつつあった。
 日本の政府の保守的な考え方が民主化の妨げになっており、日本政府に民主的な憲法を作る能力はないと判断したGHQは、日本の民主的な憲法研究家らで作る憲法研究会の案を参考にし、GHQ 案を政府に示す。
 この案を見た国体護持にこり固まっていた日本政府の驚きは大変なものであったが、天皇制を残すには、象徴天皇制以外に道はなく、この案をもとに新憲法草案を作成し国会審議を進めることとなったのである。
 この当時の権力者たちの次世代、次々世代の世襲の政治家たちが「憲法改革」を叫ぶ所以であろうか。
 世界の何世紀にもわたる自由と民主主義の国家へのとりくみはフランス人権宣言、アメリカ独立宣言などを通じて世界の趨勢となっていた。そのことがポツダム宣言に反映されていたのだ。
 さらに日本国民の意識は、次にみる調査で明らかである。 
 憲法制定当時の世論
 象徴天皇制について 支持85% 反対13% 不明2%
 戦争放棄について 戦争放棄の条項必要 70% 条項不必要 28% 不明2%
 (毎日新聞1946年5月27日)
天皇主権・国体護持にしがみつくかつての政治の中枢、支配層の思惑はとんでもなく外れていた。
大日本帝国憲法下の日本の再生などありえなかったのだ。
日本国憲法はGHQに押し付けられたものではなく、敗戦まで日本国家から塗炭の苦しみを味わわされていた日本国民が、国民主権、平和主義、民主主義の日本を求めて政府に突きつけた、押し付けた、日本国憲法であると言えるのではないか。

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