10月1日、茨城・大子町の奥久慈温泉から、約70km離れた、太平洋岸の北茨城市に行き、野口雨情、岡倉天心の世界に感動して来ました。
野口雨情のことは、昨日書いたので、今日は、岡倉天心。
茨城県天心記念五浦美術館と、天心遺跡の天心邸、六角堂を訪れ、天心の偉大な功績に感動でした。
岡倉天心は、神奈川・横浜で生まれ、50歳で亡くなったのは、茨城県の現在の北茨城市五浦(いづら)。
お墓は、東京・豊島の染井霊園、分骨して茨城・五浦にもお墓があります。
岡倉天心は、東京帝国大学(現東京大学)の文学部で、政治学・経済学など学び、文部省に入り、東大の時の恩師フェノロサらと、京都・奈良の古い神社やお寺の古美術を調査、今日の文化財保護の基礎をつくった。
東京美術学校(現東京芸術大学)創立に奔走、27歳の時、校長になる。
日本美術の伝統を生かした新しい日本画の創造を実現しようと、卒業生の横山大観や菱田春草などと一緒に、
活動を始め、35歳の時、美術学校長を退いて、日本美術院を創立した。
インド中国の寺社を訪れ、東洋の美術について、「アジアは一つなり」の「東洋の理想」を執筆して、世界にアピール、アメリカのボストン美術館の中国・日本美術部部長となって、「日本の覚醒」「茶の本」など英文で執筆、講演活動をして、欧米に東洋の文化を紹介したのです。
日本では、大観らが進めた、日本画に西洋絵画の光と空気をとりいれる試みが、世間から激しい批判を浴び、
日本美術院は経営困難になって、岡倉天心は、日本美術院の再建を目指して、ボストンで蓄えた資金をもとに、茨城・五浦に宏大な土地を買い、美術院を移し、岡倉天心は住居を構え、大観らが家族で引っ越し、活動の拠点にしたのです。
文部省主催の「文展」などで、大観等の作品が好評、認められるようになり、岡倉天心の思いは実ったのです。地元新聞は、「五浦(いづら)派画家」と呼んで、ことあるごとに、応援したようです。
中国の文人庭園を模して、六角形の観瀾亭「六角堂」を建てました。瀾は、大波という意味で、太平洋の大波を眺めながら、思索にふけり、読書三昧だったとのことです。好きな釣りにも絶好の五浦(いづら)でした。
この六角堂は、東日本大震災で、流され、翌年復元されました。
岡倉天心と横山大観らが、革新を阻む荒波を乗り越えた五浦、折しも、台風17号が接近、太平洋は荒波でした。
10月6日「今日は何の日カレンダー」より 国際協力の日(外務省1954)、国際ボランティア貯金の日(郵政省)
▲源頼朝、鎌倉に居を構える(1180)▲王室がヴェルサイユからパリへ(1789)▲学生、未成年者のカフェバー出入
りを禁止(1934)▲夕張炭鉱ガス爆発、死者・行方不明者152人(1938)▲松戸市役所に「すぐやる課」発足(1969)
▲エジプトサダト大統領をイスラム原理主義運動集団が暗殺(1981)▲有楽町マリオンオープン(1984)
▲横浜市の業者団体が特殊浴場の「トルコ」名称廃止を決定(1984)▲青函連絡船が70万航海を達成(1986)
▲エリザベス・テーラーが8回目の結婚式をあげる(1991) ▲柔道着に紺色も導入決定(1991)▲ベトナム戦争
のベト・ドク双子の被害者、べトさん亡くなる(2007)▲鈴木章・根岸英一両教授にノーベル化学賞(2010)
▲田中将大投手、開幕21連勝の世界新記録達成(2013)▲築地市場営業終了(2018)▲北海道胆振東部地震
厚真町M7。北海道全域が停電に(2018)▲岩手県沖で地震、青森・盛岡で震度5(2021)
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