1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

誇り高き選挙バカ×37

2013-01-01 23:02:36 | 雑談の記録
パレードのあと、同級生は事務所に戻りました。明日のセレモニーに備えるためのブースの後片付けと帰陣式の参加のためでした。
帰陣式が終わると事務所の雰囲気は、一部緊張感を残しながらも全体としては安堵の空気に包まれ支援者の顔には笑顔がありました。
事務所の奥には間仕切りがありその向こう側がスタッフや支援者の食事や休憩場所となっていました。さらに壁を挟んだその奥は建物全体の倉庫で臨時の炊出し場所として使用されていました。入口はシャッター式でしたが、そこはいつも開かれた状態で寒風が吹き込む中、候補のお母さんをはじめとるする炊出しの女性ボランティアスタッフの方がいつも忙しなく働いていました。

我々同級生の多くは、選挙戦の期間中は極力そこで食事は頂かなかったのですが、その日の夜は炊出しの年配女性の労いのこもった強い勧めで食事を摂ることにしました。その日の夕食は勝利にちなんだトンカツで温かい汁物も振るまって頂きました。我々同級生は心のこもった食事をありがたく頂きながら今日までの戦いぶりを賑やかに振り返っていたのでした。
大きいテーブルを囲んだその中に選挙長の松村先生もいました。松村先生は、現状はまだ厳しくそのことを野球の試合に例えて我々に話してくれました。最終回まで来たけど現状は1-1の同点、これからが最後の勝負時、終わってみれば5-1になってる試合をやろうじゃないか。そのようなことを語ってくれました。一方、そのときK団長は食事も摂らず後片付けに専念していました。また、後輩諸君の何人かは夜の活動に向けて繁華街に戻っていきました。パレードに参加していた多くの後輩諸君も繁華街に残って最後の活動をしていると聞いていました。
食事が終わり安堵の表情でいると、ブースの影から厳しい表情で我々を見つめるK団長の姿がありました。
「ヤバっ、雷が落ちるぞ」
案の定でした。K団長は一堂をブースに呼ぶと、まだ我々には出来ることがあるのではないか、同級生に最後のお願いだってできるし、知人友人にだって電話ができる、トニカク、投票箱が閉まるそのときまで、やれることは全部やろう、そのような檄を我々に飛ばしたのでした。そして、K団長は自分の頭をカリカリと掻いたのでした。こうやって毛が抜けていくんだろうなぁと思いましたが、あるとき、K団長が言ったことも思い出していました。
「ニシ、オレ、できることは全てやりたいんよ、負けて悔いが残ることだけは絶対にしたくないし、マジで負けたくないとたい」
同級生に対する檄は言いにくかったことと思います。しかし、K団長にとっては、言わなかったことで後悔したくない気持ちと「言えない」自分に負けたくないという二つの思いがあったのだと感じました。ですので、K団長の檄に関しボクはあんがい平気で聞くことができたのでした。そして、正面でションボリとなっていたS藤さんを笑わせようと自分の鼻をプクプク広げて見せたのでした。


続く、、、
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誇り高き選挙バカ×36

2013-01-01 21:33:38 | 雑談の記録
パレード隊の構成概要は以下のようなものでした。
各団体の4、5名が進行方向に4、5列で並び、前の2、3名が団体旗を持ちます。その前方に候補とウグイス嬢、そしてそれを取り囲むようにビラ配り隊が配置されました。さらに、その前方には歩行者や買い物客の安全確保及び店舗に対するお詫び隊員の数人がいたように思います。
ボクはそのビラ配り隊のセンターで、言ってみればこのパレード隊の切り込み隊長のようなものでした。

「上通り」と「下通り」は、熊本県内最大の繁華街の中心的な通りで、電車通りを挟んだ北側が上通り、南側が下通りと呼ばれています。
出発地の上通りは、全長約400mで建物の3階部分までがアーケードに面しています。一方、下通りは上通りよりやや大きいアーケード街で全長約500m、幅15m、高さ15mの規模を有しています。そして、その両アケード街には約300店舗近い専門店が軒を連ね九州でも有数の娯楽商業地区となっています。そのため、土日祝日は買い物客等で大変な賑わいとなっています。

スタッフの指示により隊列が組まれました。
周囲には報道陣も集り、いやが上にも緊張は高まってきました。
選挙カーの音が近づいてきました。ウグイス嬢と共に候補者が現れ、いよいよ出発となりました。演説会場では法定ビラの配布はOKとなっています。候補者がマイクを取ったその瞬間がボクのスタートでした。

ボクの役目は至極簡単です。ビラを1枚でも多く、通行している人に貰って頂くだけでした。これが難しいか簡単なことかは個人によって判断の別れるところですが、要はどうやったら受け取って頂くかを真剣に考えることだと思います。このようなビラ配りは誰でも経験できるものでもありません。マニュアルだってありません。
ビラ配布は、実に簡単なことですが、まず「気持ち」が大事です。どのくらい強い気持ちを持っているかで結果は異なってくると思います。
強い気持ちを持てば、それが自然に行動に現れてくると信じるしかないのです。大袈裟かもしれませんが、そうしないと「恥ずかしい」とか「受け取ってもらえなかったらどうしよう」等という弱い心に埋没してしまって出来ることも出来ない状態に陥ってしまうからです。
早い話がバッターボックスに立つときと同じ心境なのです。打席に入るまではそれぞれの「流儀」というものを大事にしなければならないのですが、打席に入ってしまえばそれはもう関係ありません。来た球を打つだけです。ボクの場合はビラを必死で配るだけ。それだけでした。

パレードの先頭に立つと、多くの人々が何事かと思いそこを避けて通り抜けようとするのがよくわかります。そういう人にビラを受け取って頂かなければなりません。

大きく一呼吸し、最初の一歩を踏み出しました。
「こんにちは、木原みのるです、宜しくお願いします」
これをひたすら連呼しながら、そして笑みを絶やすことなく、ビラを通行者の手元に差し出し、その瞬間は膝を折りさらに腰を曲げる。そして、どうか受け取って下さいと心の中で叫ぶ。その連続を繰り返すしかありません。通行者に無視されようが、罵声を浴びられようが、蔑視されようが、受けとってもらえなければ、次の通行者にお願いするのみです。
それでも受け取ってもらえる確率は6割くらいです。
確率が高いのは、やはりなんと言っても年配の女性達です。
そして、その次が綺麗な女性達です。なんとなく頷けます。
以外に反応が良いのが、ヤンチャ風の若者たちです。彼らの多くは首を突き出しながら「ウッス」「ザッス」とか言いながら受け取ってくれるのです。それから、若いカップルの確率も高いです。彼氏は広い心を彼女に見せたいのかもしれません。そうすると自然に彼女も受け取ってくれるのです。通行者と歩調を合わせて接近するのもよし。呼吸を合わせるもよし。ですが一番確率が高かった方法は、驚かせ気味に元気良く挨拶し、驚いたところに笑み見せると同時にお詫びとお願いをするのです。そして安堵の表情を見せた瞬間に手元にビラを差し出します。すると、通行者の方はなんだそんなことかという具合にほぼ反射的に受け取ってくれるのです。
反応が最低なのは、なんと言ってもイケてない半端学生風の男子です!
同じくイケてないオッサンが言うのもなんですが、そんな彼らには「キャバクラで遊んでこい!、金貸してやるから!」って気持ちになるのです。

しかし、ボクは通行者の選り好みをしている場合ではありませんでした。旅行者や報道人、果ては未成年者にアジア系外国人にまで間違ってビラを差し出していたのでした。

実は、ビラ配りというものは、チームプレーでやっているいうことを読者の皆様はご存知でしょうか。ビラの補給隊員、パレードに興味を示すフリフリ隊員、そして候補者と握手をする手筈となっている店員さんを店舗前に呼び出す声掛け隊員がいるのです。
補給隊員の一人は見た目が鳥類的でマシンガントークで有名なY村君でした。フリフリ隊員は言わずもがなのH田君で、受け取ってくれそうな人を見つけてはアイコンタクトをしてくれるのでした。また、声掛け隊員はモアイ的風貌のY林君でした。
また、候補者の後に続く黄色いパレード隊員は「キハラ!キハラ!」を連呼しながら、沿道の人達にまるで自分が候補者の如く大きく手を振るのでした。

このようにして、約40分に及ぶパレードは終了したのですが、自分が着ていたジャンバーの内側は発汗による水蒸気でグッショリになっていました。その鼻つまみモノのジャンバーをスッタフリーダーに戻したときのアリャマコリャマというY津さんの表情が今でも鮮明に頭の中に残っています。

でも、本当に疲れました。
正直に言うと、ボクはキハラよりたくさん歩いたし、たくさん声を掛けたように思います。実にボクが配ったビラは間違いなく300枚は越えていたように思います。マッジで!


続く、、、
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誇り高き選挙バカ×35

2013-01-01 20:19:20 | 雑談の記録
金曜日の夜の事務所でのことでした。事務所スタッフや各団体の若手リーダー達が大きなテーブルを囲んで立ち会議をしていました。しばらくして、K団長に呼ばれました。テーブルには熊本市繁華街の地図が広げられていました。
K団長の話はこうでした。
明日の夕方から上通りから下通りにかけてキハラのパレードを行う。ついてはオマエが先頭に立ち、通行者にビラを配りながら候補者と握手できそうな人を見つけてくれ。集合時間は明日午後5時。

「やっぱ、パレードすんのかよ、マジかよ、またかよ(泣)」
顔にはそう出ていたかもしれません。しかし、疲労のピークを通り越し、若干顔も腫れあがり気味で鬼の形相だったK団長に、ボクは一言、
「ワカッタ」
と応えたのでした。


国道3号線から上通り側に入った路地に車を停めました。車にはカミさんと息子が乗っていました。当初、パレードを見学してみようかななどとカミさんは言っていましたが、ここに到着するまでの渋滞にウンザリだったようで、送ったら帰ると言い出したのでした。それは結構なことだと思いました。
「最後の戦いた、子供は帰って早よ寝ろ」
そう言って車のドアを閉めました。
ちょっとカッコつけてみました。

集合場所に向かうと既に何人かのスタッフや団体の人達がいました。ボクは青年部会長のN山さんと世間話をしていたところ驚きの出会いがありました。なんと、投票日の翌日に打合せの予定になっている某町村の係長さんと出くわしたのでした。係長さんはいつもの作業着とは異なり、黒のピーコートに黒のマフラー、黒の太縁メガネに不精ヒゲでチョイワルオヤジ風の出立ちでした。突然の出会いにお互い恐縮しまくりだったのですが、カクカクシカジカとお互いの近況を説明しあい、ついでに明日の打合せ内容まで話が及ぶと、さらに、今回の選挙長である松村先生と係長さんが同級生であるという話しに至り、二人で大いに盛り上がったのでした。

係長さんがその場を離れた頃には同級生や後輩諸君も集り、各団体の女性や若者が集まっていました。そして、お互にこれまでの選挙戦を讃えあい、黄色のスッタフジャンバーに着替えたり団体のノボリを立てたりしながら出発の準備を整えるのでした。



続く、、、
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誇り高き選挙バカ×34

2013-01-01 19:20:00 | 雑談の記録
選挙戦最終日の土曜日の午前はカミさんにドライバーを務めてもらって最後の活動を行いました。近隣校区での活動であったために、持久走大会でお手伝いをしている保護者さん達が子供達の安全確保のためにルート沿いにたくさん立っておられました。それを横目に活動するのは本当に忍びない気持ちでした。沿道横の路地に車を留めて先輩宅を訪れた後のことでした。振り向くと道を挟んだ向こう側の歩道を息子が走っているのが見えました。思わず声をかけてしまいました。
「オイッ!」
息子はボクに気がつくつとニッと笑っただけで、通り過ぎていきました。車に戻るとカミさんに遼太郎と会ったと言いました。
「あ~、やっぱり」
カミさんは、車のバックミラーに一瞬映った息子の姿をちゃんと見ていたのでした。

午前中にどうにか自分のミッションは完了しました。前回の選挙に比べるとボクの訪問数は少ないと思いますが、延べ300軒くらい訪問できたでしょうか。また、最終日までに我々の目標はほぼ達せられたと、後になってK団長から聞かされました。

午後に息子の帰りを待って病院に連れて行きましたが、道すがら事務所に寄ってK団長に資料を渡しながらミッションが完了したことと息子が総合10位でゴールしたことを報告しました。K団長は長女のYちゃんが何位でゴールしたかを息子に訊ねていましたが、息子は頭を捻るだけでした。
それから、せっかく事務所に立ち寄ったのでブースの壁に貼ってあるメッセージ用紙に息子にもメッセージを書かせることにしました。。
確か、「全員で勝ちましょう」だかなんだかを書いたように記憶しているのですが、そのメッセージは一枚目の用紙にボクが書いた「みんなで頑張ろう」に通じるものがあり、やっぱり親子なんだなぁと実感したものでした。

その後、病院に行って精密検査を受けた結果、息子の症状は予想どおり脊椎分離症であることが判明しました。初期段階でありカミさんとみんなで胸を撫で下ろしたのですが、画像にはハッキリ分離しかけている様子が素人のボクにも判るほどで、先生からは本気で治療する覚悟が必要だとの注意を受けました。翌週にはコルセットが完成し、少なくとも3ヶ月の安静が必要と言い渡されました。
この先生にお世話になるのは3度目でした。最初は今年の三月、息子がチームの浮沈を懸けてエースとして臨んだ6年生最後の大会での肘の大怪我。もう一つは、新チームに入りしレギュラーを獲得して出場した中学3年生にとっては最後の試合となった際に受けた死球による腓骨の骨折。そして、今回の練習中のダイビングキャッチとその後の無茶な持久走でした。
ボクは先生に言いました。
「スポーツってホントに身体にワルイですね」
本心も含みつつ冗談で言ったつもりでしたが、元ヴェルディ川崎のチームドクターだったT田先生は、そのあと、スポーツの素晴らしさについてトクトクと話して下さったのでした。

そして、このことが、このシリーズの冒頭で紹介した動画での迷言、『骨の折るっとた!』の下敷きになったのでした。

病院を出た時は既に4時を過ぎていました。
そして、最後のミッション遂行のために、熊本市の繁華街へ向けてアクセルを踏んだのでした。


続く、、、
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誇り高き選挙バカ×33

2013-01-01 18:15:29 | 雑談の記録
いよいよ選挙戦も終盤に押し迫った金曜日の夜のことでした。その日も帰宅は深夜となりました。カミさんと息子が起きていました。
「アナタの息子さん、話があるってよ」
話を聞くと、明日の17kmの持久走大会に出場したいとのことでした。前にも書いたように先週の野球の練習中に腰を痛めていて、初診では精密検査が必要と言われていました。なので翌日の土曜日の午後からはMRI検査が予定されていて、その週の体育も全て見学させていたのでした。

持久走大会はクラスマッチ形式とのことでした。クラスで足が速いナンバー2、3の友達は所属しているクラブサッカーチームの大会で不参加とのことでした。

「オマエが1番なのか」
「うん」
「オマエが出ないと話にならないと、、、」
「うん」
「オマエが出たって勝てるとは限らんだろう」
「そりゃそうだけど、、、」
「腰はどうなんだ、実際」
「痛くない、今日、走った」
「痛くなかった、ぜんぜん!」

沈黙が続きました。
「連絡帳持ってこい!」

担任の先生に書きました。

H先生
いつも愚息が大変お世話になっております。
明日はお手伝いに行けず申し訳なく思っております。
さて、愚息の出走につきまして許可いたしますので宜しくお願いいたします。
愚息の世界では、仲間と走ることが重要なことだと理解しているところです。
無事に完走することを願うばかりです。どうか宜しくお願いいたします。
平成24年12月14日
西 英典

こうは書いたものの腰が痛いのは分かっていました。ですが、仲間と走れないことが息子にとっては「痛い」ことも分かっていました。バカ親として、無事の完走を祈るほかありませんでした。



続く、、、
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誇り高き選挙バカ×32

2013-01-01 17:12:31 | 雑談の記録
選挙期間における選挙の「花形」は遊説隊(ゆうぜいたい)ではないでしょうか。候補者を載せた選挙カーと言えばお馴染みかと思います。
ウグイス嬢が支援を連呼し、期間中に選挙区をくまなく回りながら、各演説会場ではビラ配り等のサポートが主な活動です。そんな活動が朝の8時から夜の8時まで続きます。
遊説隊が事務所に戻ってくる時間帯がボクの「出勤」時間でしたが、遊説隊長の帰陣の報告がその日の楽しみの一つでもありました。遊説隊長の報告は簡潔ですが、その日の行程や有権者の反応、候補者の頑張り具合などが、事務所スタッフや支援者の前で報告されます。そして、明日の決意を述べて一礼すると、スタッフや支援者が拍手で労うという案配でした。その後、遊説隊は炊出しの夕食を摂り、翌日の準備とミーティングを行っていました。
今回の選挙は、二十数年ぶりの師走に行われた選挙ということもあり、行く先々では交通渋滞などの遭遇もあったかと思われます。また元首相を乗せた選挙カーが事故に遭うというような報道もあり、運転手さんの気苦労も大変だったかと思います。

選挙期間の序盤でした。遊説隊が会社の近所の青果市場に来て候補者の演説会が行われたときのことでした。ボクは、その日のお昼からは、インターンシップで来社していた熊本工業高校の土木科の2年生に授業をしていました。ここ数年、土木工事従事者向けの「地質と防災」という研修会で「日本の国土の特異性と熊本の地質ーどうして日本では災害が多いのかー」という演目で講師を務めさせてもらっているのですが、それをさらに噛みくだいた内容の授業をしていました。演説会の時間が近づきボクは生徒に自習をしているように告げ、約1時間程で戻ってくると2階の会議室で授業を再開しました。
しばらくすると、1階が何やら騒々しいのです。窓から下を覗くと黄色のジャンバーを来た一同が次々に事務所に入って来ているではないですか!。
何事かと会議室を飛び出すと
「すんまっせ~んっ!トイレば~っ」
ご一行様が次々にトイレに入っていくのでした。
タスキを掛けた候補者も一緒でした。
キハラが言いました。
「すまんね~、ニシ~、結構ね~、トイレは大変とよ~、ドコ行っても~」
ナルホド、それは大変なことだと思いました。
スタッフ皆様の足し終わった後の表情がそれを一番物語っていました。
花形遊説隊の苦労を垣間見た一瞬でした。その後、一緒に下に降りてきた高校生にキハラは近づくと、「お父さんやお母さんによろしくね、キハラミノルだけんね」と握手をしました。微笑ましい一瞬であり、高校生が一番いい顔を見せた一瞬でもありました。

その後も遊説隊とはナゼか縁がありました。N夫妻を期日前投票の案内に行く前のお昼休みのことです。ボクは普段昼食をファミレスで摂ることは少ないのですが、その日はたまたま大した理由もなく会社近くのファミレスに行ったのでした。
そしたら、なんと遊説隊のご一座が悠々とお食事されているではないですか!ボクはビックリでした。
一番奥に座っていた木原候補がボクのことを皆さんに紹介してくれました。
「・・あのときトイレば借りた処の会社の人たい、・・」
その後、作業着姿のボクを由緒正しい人間であることを付け加えていたようですが、ご一行の皆さんの顔には、
「あ~、あのときのトイレの人ね~」と書かれていたのをボクは見逃しませんでした。しかし、その後、遊説隊の皆さんとお近づきになれたことは大変嬉しく思いました。そして、ウグイス嬢のチーフだったM田さんとはFBでもトモダチになり、後にメールのやりとりで選挙活動におけるコアで貴重なお話を聞かせて頂きました。本当にありがとうございました。そしてご苦労様でした。

続く、、、
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