1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

記憶と誓い

2022-05-04 21:15:26 | ゴーストライター
GWも中盤を迎え、皆様には記憶に残る良い休日をお過ごしのこととお察ししたい。
一方、不肖西には、こんなにゆっくりとした時間を過ごしつつあるGWの連休は記憶にない。

そう、記憶にないと言えば、心臓発作で昏倒した令和4年4月10日だ。
丸1日がすっぽりと欠けているのだ。

前日の4月9日は53歳の誕生日で、お昼は火の国サラマンダーズの試合を藤崎台球場に観にいっていてその試合内容が記憶にはある。夜は妻と近所にイアタリアンを食べに行き、その時食べたメニューも思い出すことができる。

しかし、4月10日のことは全く思い出せない。
妻が言うには、午前中は車のタイヤ交換で出かけていたのだそうだが、その記憶がない。ランニング中に昏倒しているのだが、その途中で苦しくなったとか前兆のようなものを感じた記憶もない。
ただ、入院中にその日の気象データを見ることで思い出したことがあった。
その日は、四月の初旬としては温かく乾燥していたことだ。
妻が後に話してくれたことによれば、その日は珍しく給水用のボトルを持参して家を出たとのことだった。私は、まだ、十分に温かい時間に家を出発したのだ。

そして、入院中にもう一つ思い出したことがあった。
4月10日の記憶が無かった自分は、何か記録に残してあることが有りはしないかと、スマホの中身をチェックしたのだ。すると、4月10日付けの画像があったのだ。
花の写真を撮るなどのメルヘン文化精神は具備されていないにも関わらず、なんと、ツツジの美しい画像があったのだ。しかも、その撮影場所はいつも折り返す予定地点の交差点よりも更に1km弱進んだ先だった。
私は、その画像を見つけるまで、昏倒を起こした時刻や場所は、日が暮れて暗くなった時間の近所の人通りの多い通称第二空港線と思い込んでいた。
しかし、ツツジの画像を見つけたことで、その日は明るいうちに走っておこうと思って家を出発したことを朧げながら思い出したのだった。

そして、退院してさらにわかった事がひとつ。
4月10日13:54で保存されたクソ文書。
ここでは詳しく書かないが、日本史に関する考察を「弥生時代中期を出発点とし現代に至る日本史に通底する精神的背景とバックグラウンド」的なことを書いていたのだ。確かにそのようなアイディアが浮かんでいたような気がしないでもないが、おそらく、その文書の夜の完成を見込み、気分転換を兼ねてランニングに出たのではないだろうか。

前置きが長くなった。

昨日(令和4年5月2日)、熊本市消防局益城西原消防署を訪問した。
自分自身に起こったことの経緯を確認するためだ。
私は着用型AEDを装着しているため、車の運転は御法度。
妻の運転で消防署へ向かった。

対応して頂いたのはK永署長、M田副署長、Y本警防課長の3名だった。
残念ながら実際に救命を行った隊員の方々に会うことはできなかった。彼らは私たちの到着と入れ違いに救急車とポンプ車が出動していったところだった。

私は、応接のソファで姿勢を改めて正すと、この度の件について、妻と頭を下げて謝意を伝えた。そして、病院で行われた処置、その予後や現在の健康状態について説明した。

署長をはじめとする副署長、課長様には本当に良かったと言って頂いた。そして、元気な姿で来署頂いたことは、救命活動を行っている隊員の今後の士気向上にもつながることとして感謝のお言葉さえ頂いた。

そして以下の説明を受けた(主治医のM永先生からの説明も含む)。
通報入電時刻  16:58
救急隊到着時刻 17:06
発生場所 上益城郡益城町馬水167「キムチの里」直売所東側路上
通報者 益城町在住 M下 氏(男性) 及び連絡先

そして、通報者のM下氏は第一発見者ではないことを知らされた。

「では、どなたが救急隊が到着するまでのあいだ、救命措置を行なってくれたのでしょうか。」

現場では、私が心肺停止状態で一刻を争う状況であったので、通報者以外の人物から話を聞く余裕はなかったとのことだ。

心臓発作(致死性不整脈)が発生したあと、電気ショックを受けて心臓が拍動するまでの時間が、その後の生存率に大きく関わっている。一般には拍動の開始が1分遅れるごとに生存率は7〜10%ずつ減少すると言われている。5分で生存率は50%だ。
通報から救急隊到着までの時間は8分、この時間から考えられる生存率は約20%になるが、発作が発生した時刻や拍動までの時間を加味すれば生存率はさらに下がる。

救急車両では2度目の電気ショックで心臓が動き出したとのことだった。

5 日目に意識を取り戻したとき、主治医のM永先生から私が生存していることは奇跡だと言われ、存命に一番寄与したのは、第一発見者による救急隊到着までの間続けられた胸骨圧迫(心臓マッサージ)による救命措置だったと聞かされていた。

西原消防署としても、救命措置を行った人物について何らかの手掛かりはないものかと管轄の御船警察署にも相談したそうだが、その人物に繋がる情報は得られなかったとのことだった。

そして、本日(令和4年5月3日)、通報者であるM下氏に連絡をとった。

M下氏によれば、
西原方面に向かっていた車が路上に急停車し、そこから人が出てきたことで、歩道に人が倒れていることに気がついたとのこと。駆け寄ると車から降りてきた40代と思われる男性から救急車を呼ぶように指示されたとのことだった。その男性は直ぐに心臓マッサージを始め、救急隊が到着するまで続けたそうだ。
倒れていた私は、呼びかけに応じることは無く顔面からは出血が始まっていて、とにかく、救急車が到着するまでの時間が途方もなく長く感じられたそうだ。
そして、私が救急車で搬送されると、その人物は多くを語らず車に乗ってその場を離れたとのことだった。もちろん、M下氏にとって、その人物は見ず知らず。ただ、乗っていた車が特徴的だったそうだ。

「白のベンツの4駆でしたよ」

おそらく、メルセデス・ベンツGクラス、だ。

第一発見者による適切な処置と指示。奇跡的な生還と意識回復後に感じた胸部の肋骨痛。目撃された高級車種。
これらのことから類推される人物は、医療関係者ではなかろうか。
激感謝だ。

しかし、私がこうして命を繋ぐことができたのは、第一発見者だけでなく、救命を行う社会システムと現代医学、それと高度な看護の連携にほかならない。

救われた命、大切にすることを誓う。


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