1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

選挙バカの詩×31『重き一票』

2013-06-30 21:46:15 | 雑談の記録
 永田夫妻の自宅は昭和に乱開発された住宅地の一角にあり、大通りから奥まった所にあった。道は大変狭く車を止めてドアを開けると、それがブロックの壁に当たるような狭さだった。

 家には軽乗用車を駐める程度の駐車スペースがあったが、最近そこに車を駐めた気配はなかった。そして、家やブロック塀に据え付けられた真新しい手摺が、住人の体の不自由を主張しているようだった。

 僕は磨りガラスに格子が入った引き戸の前に立つと呼び鈴を押した。返事は聞こえなかったのだが、引戸の向こうには明らかに人の気配を感じた。もう一度呼鈴を押して三原事務所から来た者だと告げると、すぐに返事が帰ってきてガチャガチャと忙しそうな鍵を外す音が鳴って引戸が開けられたのだった。

 目の前にオモチャのように小さいおバァちゃんとおジィさんが現れた。二人は迎えが今か今かとと玄関前で息を潜めて待っていたのであった。おジィさんは玄関に腰を下ろしていたが、既に靴を履いていた。おバァちゃんはファーの付いた白いダウンのコートに黒の帽子を被り精一杯のおめかし姿だった。

 おジィさんは一人で立ち上がることが困難だった。待っていた時間が長かったせいかもしれない。僕は介護の経験はなかったが、とにかく、このおジィさんを立たせなければならなかった。玄関から道路まではすぐなのだが、段差は数カ所あり、このおジィさんを抱えながらの数mが途方もない距離に思えたのだった。

 おジィさんは片方の手でしっかり僕の腕を掴み、もう一方は杖で自身の体を支えた。その全くおぼつかない足取りで体をゆっくり前に進めながら、そのおジィさんはしゃがれ声で念仏のように言うのだった。

 「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます、、、」

 おジィさんを車に乗せるクライマックスの瞬間も「ありがとうございます」だった。車に乗ったあともそれはしばらく続いていた。
 しばらくすると、そのおジィさんに代わって、おめかしおバァちゃんがおジィさんの体の具合を説明するのだった。車を進めると、おバァちゃんは路地の抜け方を教えながらご近所さんの話や、ここは散歩道だの、ここがリハビリの病院だの、ここがグランドゴルフの広場だの、ここが郵便局だのを一生懸命説明してくれるのだった。

 僕はこの路地に入ってきた当初、無造作に開発されたその入り組んだ住宅地について毒づいたのだが、おバァちゃんの話を聞いているうちに、この何の変哲もない町がこの老夫妻にとっては大事な「ふるさと」であることに思い至ったのだった。

 そして、主人がどうしても三原候補に投票したいというのだが、このような状態で途方に暮れていたところに、わざわざ来て頂いてありがとうございますと感謝するのであった。
 
 突然、おジィさんが思い出したように言った。
 「誰だったかね?、誰だったかね?」
 おバァちゃんが言った。
 「ミハラさん!、ミ、ハ、ラさん!」
 「そうだった、三原さんだった、、三原さん、三原さんはイイ人だもんなぁ〜、そうそう、三原さん、三原さん、、、」
 そして、しばらく念仏のように「三原さん」を続けるのだった。
 また、突然、おジィさんが言った。
 「何だったかね?何だったかね?」
 おバァちゃんが言った。
 「民自党!ミン、ジィ、トーでしょ!」
 「そうだった。民自党、民自党、民自党、、、」
吉本新喜劇も顔負けの真剣なボケとツッコミに、僕は安全第一の運転を心がけたのだった。

続く、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×30『重き一票』

2013-06-28 20:52:03 | 雑談の記録
 選挙戦は終盤に突入していった。そして、我々にとっての最終兵器がいよいよ投入されたのだった。東京から持ち込まれた「サヨピン」だ。と言っても「サヨピン」は自らの意志で熊本にやって来たのだが、その小型犬のような可愛らしさと気さくな語り口、そしてなんと言っても笑ったときの口元のチャーミングさが、前回選挙で年配先輩達から絶大な支持を得た大きな理由であった。

 夕刻、事務所に出向いたときのことだった。サヨピンファンクラブ会員番号No.1の野間口先輩がテーブルを挟んでサヨピンと話し込んでいた。サヨピンは困惑気味の表情だった。ファン会員の無理なお願いに困っているのかと思い心配になって二人に近づいた。ところが、話を聞いてみると無理なお願いというか相談をしていたのは彼女のほうだった。

 電話作戦による支援依頼をしていたところ、投票に行きたくても主人の足が悪いためにどうしたらいいだろうかという相談を受けたとのことだった。詳しく聞くとその夫妻はかなりの高齢の様子で、老老介護で投票所に向かうのは困難な様子だった。

 サヨピンも相談を受けたもののどうして良いか判らず、電話の向こう側の高齢女性の長い話に耳を傾けるだけだったそうだ。だが、彼女のなんとかしてあげたいという気持ちが十分伝わってきたのだった。

 僕はその老夫妻の住所をサヨピンに聞きいた。なんと、会社から車で僅か10分足らずの距離だった。
 「、、明日なら、連れてってやれるかも、、特別な予定はないし、、でも、、できれば午前中の早い時間、、9時くらいがいいかな〜、、サヨピン、、悪いけどそのばぁちゃんにもう一度電話してみてくれない、、」
 彼女はすぐに電話を掛けたが、また、その話の長いこと長いこと。何から何まで話さないと気持ちが収まらないやかましいタイプの老婆だなと思うと億劫になったがサヨピンの丁寧な対応に負けてはいられないと思ったのだった。

 結局、その老主人のリハビリの時間の都合で翌日の午後1時過ぎに伺うことになった。
 そして、高齢先輩夫妻を投票所に案内したあと、自分のウォールに任務完了の知らせを老夫婦と一緒に撮った画像と併せて投稿したのだった。
サヨピン!任務完了しました!  S23年卒の永田先輩と奥様を期日前投票にご案内してきました!  仕事の合間をぬって車を出しただけだけど、こんなに人に感謝されたことは生まれて始めてだよ!たかだか数10分の出会いだったけど、貴重な時間だったよ!  いろんなお話しができました!  奥様が、昨日、電話を取り次いでくれた女性にくれぐれもヨロシクとのことでした!  この票は重い!泣!。コメントが返ってきた。

吉末 武志
ご苦労様です〜そんな積み重ねですよね〜 
12月14日 15:08 〓 いいね!を取り消す 〓 4

藤谷 千晶 あ~♪ 
昨日の先輩へのフォローをしてくれたんだね!!さゆぴんが、すっごく優しく対応してたのと、東くんの行動力♪素敵な仲間達に、改めて感動!!
12月14日 15:17 〓 編集済み 〓 いいね!を取り消す 〓 8

林 優雅
東センパイ、良い表情!!充実感みなぎっておられますね☆
12月14日 15:19 〓 いいね!を取り消す 〓 8

山口 浩司  
(*^ー゜)b グッジョブ!!
12月14日 15:35 (携帯より) 〓 いいね!を取り消す 〓 7

谷垣 征一郎
いろんなドラマを作ってるね。頑張って!
12月14日 16:23 (携帯より) 〓 いいね!を取り消す 〓 7

田中 聡子
さゆぴんも東くんも、さすがだなぁ… 感動して、ちょっと泣きそう(T_T)今日は電話口で先輩方から沢山激励されて泣きそうだったのに、さらに涙腺がゆるむ…
12月14日 18:38 〓 いいね!を取り消す 〓 7

東 英介
このご夫妻はね、子供がおらっさんでね、ミハラのことをね、息子か孫のように思ってるんだよ。「もう私どもは死ぬばっかりですが、キハラさんに託したいのです」・・・泣き!・・・「今度、三原さんと一緒に遊びに来てください」って・・・超泣き!
12月14日 18:43 〓 いいね! 〓 11

田中 聡子
ちょっ、夕飯の支度中に泣くよ…(T_T)
12月14日 18:46 〓 いいね!を取り消す 〓 6

谷垣 征一郎 そら、イイ報告をしにいかなくちゃね
12月14日 18:46 (携帯より) 〓 いいね!を取り消す 〓 5

松 さゆり
電話をした張本人のサヨピンです!私のお願いを聞いてくれた東君、本当にありがとう♪夜に事務所でミッション完了の話を聞いて、感謝、感激!とあまりの面白さで涙がチョチョギ出ました(^^)/今日の欽ドン賞、決定!東君、サイコー♪
12月14日 21:39 〓 いいね! 〓 6

谷垣 征一郎
欽ドンと来たか……オリの分も頑張って来てちょ。
12月14日 22:21 (携帯より) 〓 いいね! 〓 3

松 さゆり
は〜い(^^)dびっ微力ですが、ガンバリます♪
12月15日 9:40 〓 いいね! 〓 2

野間口 剛
あぁ昨日のあの話ですね。そばにいて東君の素早い行動力には驚きました。それとサユピンさんは人使いが巧みですな〜。
12月15日 14:49 〓 編集済み 〓 いいね! 〓

続く、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中九州支部予選準決勝戦

2013-06-22 22:28:16 | 雑談の記録
残念ながら先週行われた中九州支部予選大会は準決勝敗退でした。

HP管理者として、今回の大会では動画撮影を試み、以下のような2分半のムービーを作ってみました。

中九州支部予選準決勝戦
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×29『過去の戦い』

2013-06-14 22:12:08 | 雑談の記録
 前回の第45回衆議院議員選挙は二〇〇九年の夏に行われた。当初、この衆議院選挙は、当時の阿曽首相の人気を背景として二〇〇八年の秋に行われることが支配的な雰囲気であったために、現職だった三原代議士はその年の夏に選挙事務所を開いたのだった。そして、それと同時に黄壁城高の有志の会による後援会活動も始まったのだった。

 しかし、その後の阿曽首相の資質問題等に関連した民自党に支持率低下に加え、アメリカ合衆国のサブプライムローン問題に端を発した経済低迷に対処するための補正予算成立を先決として、選挙は先送りされたのだった。
 これによって、有志の会による後援会活動は出鼻を挫かれるかたちになったのだが、準備期間を必要とする我々にとっては先送りはむしろ歓迎される出来事であった。しかし、三原陣営にとっての先送りは、他の民自党候補と同様に、事務所費の増大やその後引き続いたの民自党の支持率低下を招き、約一年後の不利な選挙戦を強いられる結果となったのだ。

 勝山をはじめとする有志の会の同窓生は、毎週木曜日に事務所に集まり、政治情勢や後援会体制作りについて話し合い来るべき決戦の日に備えたのだった。しかし、解散と言われなが時間だけがいたずらに経過していく中で活動のモチベーションを維持するのは困難なであった。中だるみ的な時期もあった。だた、時間の経過とともに世間では政権交代の風が次第に強くなり、それと比例して我々には危機感がつのっていった。しかし、有志の会の危機感とは裏腹に、世間の「風」を受けた支援者の声には諦めの霧が掛かり始めたのだった。

 そして、いよいよ選挙戦に入ってもその霧が晴れることはなく、むしろ濃くなっていくかのようだった。我々の力ではどうにもならない濃い霧と風に包まれた中での戦いは、ある意味、自分との戦いであったように思う。自らが激しく活動していなければ、濡れしぼんで吹き飛ばされるような感覚だった。

 当時、三原は現職であり各業界団体からの支援は今回の選挙よりも多かったが、黄壁高の有志の会の協力者及びその活動力は今回のそれと比べると明らかに少なかった。

 そして、三原は落選した。確かに、善戦は出来た。それなりの票数を得ることもできた。だが、復活当選を果たすには至らなかった。
 落選が確定したのは、即日開票の一日が終わろうとしている頃だった。一縷の望みを抱いて事務所に残っていた支援者も、三原の敗戦の弁を待って蜘蛛の子を散らすように去って行った。

 三原は今回の選挙期間中に限らず、いろんな場面でよく口にしていたことがある。それは、前回の選挙で落選が確定し、事務所の雛壇から敗戦の弁を話したときの心境だ。
 「、、オマエ、よく、その話をするよな、、」
 「、、あぁ、よく話してるな、、」
 「、、なんか、理由とかあるんか?、、」
 「、、ある、、」
 「、、なに?、、」
 「、、忘れないようにさ、、」
 「、、なるほど、、」
 「、、オマエ、ワカッテル?、、」
 「、、ナントナク、、」
 「、、ほら、人間ってウマく出来ててさ、、イヤな事ってすぐ忘れるようにできてるだろ、、でも、、忘れちゃダメなんだよな、、ダメなんだよ忘れちゃ、、」
 「、、確かに、オレ、前回の選挙のこと、もう殆ど思い出せんし、、」
 「、、だろ、、」
 「、、ナルホドな、、」
 「、、ほら、プロスポーツ選手がさ、負けたときの写真とか、相手チームが勝った写真を自分のロッカーに貼ってあるって話があるだろ、、それと一緒だよ、、悔しさを忘れないようにさ、、もっとカッコつけると、負けたことに負けたらダメってことさ、、」
 「、ほーっ、なるほどなぁ〜っ、カッケー!、」
 
しかし、選挙バカは当時の心境を詩に残しているのであった。

『走れ火の玉』

火の玉は 考えない
しかし 意思を持っている
火の粉をふりまき走り抜ける

火の玉は 考えない
しかし 意思を持っている
自身の炎が種火となる

火の玉は 考えない
しかし 意思を持っている
種火はやがて大火をまねく

火の玉は 考えない
しかし 意思をもっている
燃え上がれ 激しく燃えろ

火の玉は 考えない
しかし 意思をもっている
走れ 走り抜けろ
灰になるまで 命尽きるまで

続く、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全国大会へ駆け上がれ!

2013-06-11 22:20:45 | 雑談の記録
このバカブログサイトは、最近、ご存知の選挙バカシリーズで持っていると思われても仕方がないと思う今日この頃、みなさん如何お過ごしですか。

hiratakuwaは、先日、生まれ初めて整骨院に行きました。 ゴールデンウィーク頃、トレーニング中に左脚ふくらはぎを肉離れしてしまってなかなか癒えないまま、ゴルフしたり、審判したりで週明けは痛みを抱えて出勤していたのでした。

ま、そんなことはさておき、愚息が所属するチームが熊本地区予選で優勝し次週の中九州大会に駒を進めました。あと2勝で全国への切符をものにできます。 愚息もようやく調子を取り戻し、なんとか代打要員としてゲームにも出場できるようになりました。

下にhiratakuwaが作成した入団式の歓迎ビデオを紹介したいと思います。 ご鑑笑下されば幸いです。なお、ここをクリックしますと、hiratakuwaが管理するチームのサイトもご覧頂けます。

入団式2013 ムービー

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×28『活動の実態』

2013-06-11 21:45:57 | 雑談の記録
 全くそのとおりだと思う。それを最も深く理解して選挙を戦っていたのが、対抗馬で帝国維新の会から立候補した三世議員の末野氏であることは言うまでもない。氏は新党へ鞍替えするまでは、母から多額の小遣いを貰いながら首相の座についた波戸山氏の重要腰巾着として、シッカリその後ろに張り付いてはカメラへの露出を図り知名度アップに血道を上げていたのだった。

 一方、三原は民自党の第一選挙区支部長になるまでは、ごく普通の家庭に育った一般人に過ぎず、いわゆる、地盤看板カバンとは無縁の人間であった。また、黄城高時代はハンドボール部の主将であったが、勝山や門田のような「知名度」は殆ど無く、従って、彼等の支援を得ることができなければ無援の可能性もあった。

 ただ、事情は民自党県連では異なっていた。当時の「公募」は民自党にとって日本初ということもあり、特に第一選挙区での連敗脱出は県連の最重要課題であった。このため、二〇〇五年の衆議院選挙では民自党の議員団はフル回転で三原を支援し、当時の古泉旋風を追い風に三原は復活当選を果たしたのだった。しかし、当時、同級生が行っていた活動が、当選にどのように寄与できていたかと問われると返答に窮せざるを得ない。当時の我々は、選挙戦についてあまりに無知であり、「ローラー作戦」の内容すら知らず、その作戦も重倉議員の名簿と地図を拝借してのかりそめの活動であった。そして、有力とされる先輩の声や指示にひたすら従い、今日は西へ、明日は東へという具合であったのだ。

 第一選挙区の有権者数は約三七万人である。過去二回の投票率は六五%以上で当選得票数は十万票を超えている。

 第一選挙区に住所を置く黄城高の同窓生は約八〇〇〇人だ。これは有権者数に対して2%程度であり、いかにも貧弱に思える数字なのだが、その八〇〇〇人が五人の知人・友人に支援をお願いし、それが投票行動に繋がると仮定すると、その人数は八〇〇〇×五=四4〇〇〇〇(四万人)となり当選得票数の四割を占める。投票率が低下するような環境下でこの組織票を固めれば、さらにその比率は上がっていくのである。従って、黄城高の「組織」固めは選挙結果に大きな影響を与えると考えられるのだ。

 しかし、八〇〇〇人なのである。八千件でもいい、八千軒でもいいだろう。名簿から住所を調べ地図に落とし込み、実際に訪問して支援をお願いするのである。これをローラー作戦と呼ばずして何と形容すれば良いのだろうか。

 二人一組の一班が一日に訪問できる数は平均七〇件だ。一班体制だと一一五日、十班体制でも十日以上という計算になる。小学生の算数レベルだが、延べ人数は軽く二○○人を超える。地図作りの人員を含めると三○○人に達する。これが、我々に与えられた課題なのであった。知名度の無い一般人が、知名度を誇る有名人に勝つための努力が、如何に大変で困難を極める作業であるか理解頂けると思う。

 この不可能とも言える作業をなんとしてもやり遂げるのだと言って一歩も譲らなかったのが勝山なのであった。そして、「名誉」なことにローラー隊長に任命されたのが僕なのであった。隊長は大将の命令に従わなければならないが、作戦の計画策定は隊長の任務であった。

 効果的な作戦遂行のため、計画の基本は小学校の校区によって分類・整理した。三原の地域後援会も小学校区で区割りされた単位で組織されていた。しかし、校区数は四七校区と多く、限られた人員でしかも短期間に「勝つ」ための効果的な活動を行うためには、優先順位を定めて集中攻撃を図らなければならなかった。従って、隊長の僕に求めらたのはその優先順位の決定だった。僕は過去二回の選挙におけるローラー実績と同窓生の校区人口及び地理的条件を考慮して四七の校区を四つのレベルに分類し、その分類に基づいて作戦図(校区分類割付図)を作成したのだった。そして、作戦は勝山の号令のもと実行されたのであった。

続く、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×27『活動の実態』

2013-06-07 20:56:30 | 雑談の記録
 総決起大会翌日の月曜日は仕事だった。その日はどうにか持ちこたえることができたが翌日は最悪だった。十一月下旬から始まった連日連夜の作業による疲れがピークに達していた。
 僕の本業は地質調査だが、現場の工程管理から調査計画立案、協議資料作成やデータ解析、報告書作成など多岐にわたる。急な相談や時には見積書の作成も急がなければならない。
 仕事とは大抵そのようなものと思うが、我々のような技術者に求められる仕事の要諦は論理性にあると思っている。常に、その結論に至る過程が一貫した論理や思考に基づいたものかどうかが問われているからだ。公共事業の削減やデフレに伴った価格下落で、いかに無駄を省きつつ安全かつ経済的に構造物を作るか、時にギリギリの選択を技術者は求められる。また、管理職ともなれば、業績向上という圧力の下で技術以外の業務にも励まなければならない。神経を消耗することも多い。
 だから、仕事では小さいながらも「判断」の連続で、この判断に誤りが生じると後に取り返しのつかないことが起こり得えるのだ。
 
 火曜日は最悪だった。
 最近酷くなりつつある老眼のせいもあると思うが、数字の読み違いや勘違いが頻発した。午後から出向いた橋梁建設の工事現場では持参した大事な資料を忘れて帰り、その途中では交通事故を起こしそうになった。
 夕刻、勝山に電話を入れ「休暇」を申請したのだった。
 そして、その日の残りの力を振り絞って近所の温泉に行き焼肉定食を喰らい、帰りに近所のスーパーで刺身と八宝菜を購入した。そして、我が家で準備してあったハンバーグとサラダも完食し、最後はアルコール度数が9%の缶酎ハイを一気飲みして布団に直行した。考えてみると忙しすぎて一日一食という日もあったように思う。
 とにかく、その日やるべきことは、休息の基本事項である「食べて寝る」ことだった。 翌日の目覚めは、新たな人生を迎えたような爽快さだった。前日とは打って変わって仕事もはかどった。
 
休んだ僕が元気になったとを悟ったのかもしれない。珍しく「バラバラ死体」からメールが届いた。メールの送信者は勝山で、去年の校内肝試し大会での設定を元に戻していないだけなのだが、真面目なメール文章の送信者が実はバラバラ死体である事を想像すると、なんだかいつもおかしい気分になるのだった。
 バラバラ死体からの指令は、「メール作戦」の原案作りでだった。早速、一案を作成して送信したのだった。バラバラ死体から返事が戻ってきた。 「面白いけど、、、」
バラバラ死体は僕の文面を不採用にしたようだった。バラバラ死体が偉そうに(笑)!
 さて、選挙活動では様々な「作戦」を実行していたのだが、有志の会の基本はローラー作戦(OB訪問)と電話作戦の二本立で行われていた。しかし、このような活動にどのような意味があるのだろうか。

 ある著名なコラムニストが言っている。
 「選挙は人気を争うコンテストではない。知名度を争う戦争だ。好きであれ、嫌いであれ、名前と顔を知られている候補者が勝つ。そういうことになっている。一万人に嫌われて五〇万人に好かれている候補と、一〇〇万人に嫌われていて八〇万人に好かれている候補者が、同じ選挙区で選挙を戦った場合、必ず後者が勝つ。選挙というのは、そいうレギュレーションなのだ。」

続く、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×26『支援の輪』

2013-06-03 21:36:12 | 雑談の記録
 嬉しいコメントやメールが続々返ってきた。特に、東京から応援に駆けつけて来てくれるという松永の君のコメントには大変驚き、そして感動したのだった。また、その日の夕方から事務所に来る友人も増えたのだった。
 
どこの世界にもいろんなタイプ、いろんな性格の人間がいるが、それは同級生においても同様だ。だが、勝山を中心とした仲間達は、どちらかというと積極性や責任感のある個性の強い集団だった。三原がハンドボール部の主将であったこともその理由の一つかもしれないが、応援に来た殆どの男子同級生は体育会系ではなかったかと思う。文化系の美術部に所属していたのは僕ぐらいだが、各言う自分も油絵などを描く一方で空手部に所属していた。

 こういふうに書くと体育会系の礼賛を意図しているように思われるかもしれないが、選挙事務所に足を運んで作業をするとなると、先ず「体力」が求められるのはまぎれもない事実なのである。

 その代表が松田君だったのではないだろうか。松田君は、ボクシング部で身長一八〇cm、現在もトレーニングを欠かすことはなく、サーフィンやマラソンといったハードスポーツを難なくこなすスーパー四三歳の通称「マッチョ」だ。もちろん見た目も申し分ない。ただ、いったん喋りだすと、お下品用語を炸裂させるために時と場合によっては周囲に大変な誤解を与えることが彼の最大の「長所」であるために、選挙事務所などには縁遠いタイプの友人と思っていた。ところが、OB訪問活動の最初の出撃要員に松田君が名乗りを上げてくれたときには本当に嬉しく思ったのだった。

 また、学生時代に起こした「事故」が伝説となっている寡黙な色黒ヒーローの森山君が事務所に来てくれたときも嬉しかった。さらに、カネと感情(勘定)でしか動かないことで有名なオトボケ宅建業の森尾君が事務所に来たときは寝耳に水だった。そのとき僕は居合わせなかったのだが、彼はおそらく作業は一切やっておらず、いつものオトボケトークに終始していたのでないかと思う。しかし、彼はみんなのために缶コーヒー二箱分を差し入れており、またそのコーヒーが松田君が勤務する飲料メーカーであったりするから憎めないのも当然なのだ。

 圧巻は、なんと言っても中本君の登場だった。彼は十二月八日土曜日、朝一番の飛行機で東京からやってきてかと思うと最終便で帰るという、まさに神技電撃的弾丸OB訪問活動をやってのけたのだった。彼は現在ペットオーナー向けの雑誌社の代表を務めるかたわら大手新聞にも何度も取り上げられている新スポーツを主宰をするなど超多忙を極めている御仁なのだが、身につける下着もブランド品をという「気遣い」ようは一〇〇%オッサン化した僕らの良き見本としなければならないのだった。ただ、彼は三〇代のとき大病を患い死の淵から蘇った経験の持主でもあり、人生において何が一番大事かを熟知している元高校球児なのであった。

 このようなイケイケの同級生がいる一方、オドオド喋りが特徴の村木君の存在も貴重だった。保険屋らしく様々な噂話を持ち込むのだが、要領がいまいちで頻繁に勝山の愛のムチの餌食になっていた。

 こうして支援の輪は急速に広がっていった。また、市の東部で豪農とされる稲富君の納屋から前回選挙で使用した資料が発見されたことも、その後の作業を急加速させた大きな要因であった。 埃をかぶった資料を前に勝山が言った
 「・・今ごろ、持ってきやがって・・」
 しかし、そう言った勝山の顔は本当に嬉しそうだった。

 この同級生の支援の広がりが、先輩や後輩諸君からの支援へ発展したのだった。多くの同窓生が事務所のブースに集うようになり、テーブル周辺には差し入れのお菓子や飲み物が絶えることはなかった。特に、平成の卒業生で組織されている後輩諸君の活動は、同級生の発奮材料となり活動全体の相乗効果を生んだのだった。
 
また、三原候補へのメッセージは日を追うごとに増し、その大きいメッセージ用紙は何枚も増え、ブースの壁に貼りきれなくなる勢いだった。
さらに、中部地方で暮らす同級生の後藤さんからとんでもない連絡が入った。支援のお願いを自宅の電話でしたいので資料を送って欲しいとのことだった。勝山は大変な驚きを持ってそのお願いに感謝したのだった。

 事務所に来てくれる同級生や後輩女性の主な活動は、電話による支援依頼だった。事務所の財政状況は逼迫し使用電話機の数は限られていたために、寒い別事務所からの電話作業だった。電話作戦は舌力が必要だ。今回一度この作業を手伝ったのだが、僕など僅か一時間で舌がうまく動かなくなってしまった。
 こうして支援の輪が着実なものとなる中、投票日の一週間前の十二月九日の日曜日の夜に総決起大会が開催されたのだった。

続く、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×25『支援依頼』

2013-05-31 23:13:02 | 雑談の記録
また、この日の深夜には、「ローラー隊員募集」を投稿したのだった。

有志の会でOB訪問の隊長(ローラー隊長)を仰せつかっている東でございます!おはようございます!こんにちは!こんばんは!

いよいよ選挙戦も中盤に突入ですが、大々的にローラー隊員を募集致します!
黄城高の同窓生であればどなたでもOK!
八八会であればなおOK!士気が高まります!

参加できる方は土曜日の9:30に三原事務所に集合願います。
午後からだけでもOKです。もちろん日曜だってOKです。
人数把握と配置決めが必要ですので、あらかじめ連絡を頂くと助かります。
私に電話OKですが、7日(金)は午後以降にお願いします。FBのメッセージが便利かもしれません。
よろしくお願いいたします。

「え?でも具体的にどんなふうにやるの?」こんなふうにです。

二人一組で乗用車に乗り、担当校区に向かいます。
ゼンリン地図を張り合わせた校区地図には、先輩・後輩のお宅が蛍光ペンで示されてあります。
地図でお宅を捜してもらいます。校区の地形や道路状況等や個人の能力にもよりますが、校区の南から北に向かうルートで攻めていくのが分かりやすいかもしれません。
安全を確認して車を停めると、助手席の人がOB宅に向かいます。呼び鈴を押し、反応を待ちます。

「こんにちは!、ワタクシ、黄城高を昭和六三年に卒業しました東と申します。このたび、同窓生の三原みのるという者が衆議院選挙に立候補しておりまして、黄城高をご卒業された方々のご自宅等を訪問しながらご支援をお願いしているところです。」
などと言います。すると・・・、
「ちょっとお待ちください」と玄関先まで出てこられます。
そういう場合には、もう一度丁寧に挨拶をすると好印象です。そして配布物を直接手渡します。中身を取り出して説明するとより効果的ですが時間を必要とします。インターホンに話しても無反応の場合も時々ですがあります。また、取込中の場合もあるでしょう。そういう場合は、「お忙しいところ、突然、訪問いたしまして申し訳ありませんでした。三原みのるの資料をこちらのポストに投函しておきますので、よろしくお願いします!」などと言い、その場を去りますが自分達は見られているという意識が大事です。玄関ではお辞儀を忘れずに!

一方、この間、ドライバーはナニをしているかというと、次に向かうお宅のルート確認です。
助手席の人が基本はナビをつとめますが、この予習が効率を挙げるカギとなってます。お留守の場合は、ボクの場合は資料の入った封筒に、「ごあいさつに伺いました。三原みのるをよろしくお願いします。黄城高有志の会」などと書いてポストに投函しています。

だいたいこんなかんじの繰り返しです。

これで一日100軒回れば上出来だと思います。そういうワケで、OB訪問をやってみたいと思う有志の方は連絡をお願いします。
OB訪問をすると、黄城高の素晴らしさや人の絆をあらためて感じることができます。

連絡を待ってます。
そして、感動があなたを待ってます。

続く、、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×24『支援依頼』

2013-05-29 20:46:32 | 雑談の記録
平成24年12月6日  元来、ボクは喋ることが大変苦手だけど、文章はソコソコウマイって言ってくれる人の話しを聞くと、ソレを使わない手はないなと思う今日この頃、皆さんいかがお過ごしですか!。というワケで、熱く熱く書いちゃうことをお許し下さいませませ! 

ハッキシ言って、政治の話しはボクにとってムズカシイです! 
議論だ!論戦だ!政策だ!舌戦だ!マニフェストだ!脱原発だ!TTPだ!消費税!福祉充実!経済再生!しがらみ脱却!官僚主義打破!地方分権!云々カンヌン! 
これらを考えることはスゴク大事だと思ってる!ホントにそう思ってる! 
だけど、それらを一つ一つ考えて、ボクなりの解答や方向性を見つけて、どうしたらいいのかを自分の力で提案するのは困難と思ってる!ハッキシ言ってボクのキャパを越えている! 

ボクは地方の一技術者に過ぎないし、デカイ子供を三人抱えて、やれ野球だ、やれマーチングコンテストだ、やれ受験だ、やれ庭の手入れだ、やれ車検だ、保険だ、クリスマスだ正月だ、そのうえ、クソみたいに入ってくる仕事だ! 
だから、政治は誰かに任せるしかないと思っている。  しかも、ちゃんと任せられる人間にだ。  「まかせられる人間なんていないじゃん!」って声が聞こえてきました。  今日は敢えて反論します!  「だったら作ればいいじゃんかッ!」  「どうやって作ればいいんじゃいッ!」  教えちゃいます!  選挙事務所に来て、ボランティアをすればいいんです!  ボランティアを一生懸命すれば、本気で「日本」のことを考えていることが候補者には伝わると信じて行動してます。ボクが候補者を応援しても直接的な利益は全くありません。間接的な利益もありません。あるのは疲労だけです。しかし、ボクの本気が候補者の本気になり、それが日本のためになるのなら、いや、日本のためになってもらわんと困るワケですが、もし日本が良い方向に進むのなら、それはボクにとって大きな意味を持つことになります。  自分は大変ラッキーだと思ってます。  だって、ボクには有権者としての一票だけでなく、より良い日本を作るためのチャンス(超チッポケチャンス)が与えられているんだから!。 

応援している候補者は、バカがつくほど真面目なヤツです。 
無愛想だ、握手がヘタだ、御辞儀の角度が甘いなどと言われ、ボク自身「コイツは選挙に弱いタイプ」だなと思うこともしばしばです。だけど、媚びない諂わない、そういうところがボクは大好きなんです!。信じるに足る男というワケです。しかも、頭もいい、体力もある、歴史も詳しい、ラーメンが大好き・・・このくらいにしときます、人を褒めるのは超苦手。 

実は、みんなの前には日本を良くするチャンスが転がってるんです。
そのチャンスを実のあるものにしたくないですか。 
候補者の看板を見る度に、名前にそんな意味を感じてます。 
ボクはバカでしょうか?。

お手伝いできることはたくさんあります。
そのお手伝いが良い日本に繋がっていくんです。 
年末で忙しい時期です。 
事務所に来れるのは一回きりかもしれない。 
構いません、全く、構いません。 
一時間でもOK、30分でもOK、顔を出すでけでもOKです!。

選挙事務所で待ってます。 
みんなの力を必要としています。 
どうか、よろしくお願いいたします。 

松永 資紹
「日本を取り戻す」には、我々が一歩を踏み出すことが必要だと思います。  という事で、週末からチッポケチャンスをつかむために、そちらにお邪魔します!。
12月6日 12:04 〓 いいね! 〓 9

松本  裕子
松永くん 東京からありがとう。心強いです(^^ゞ 
12月6日 12:14 〓 いいね! 〓 6

松田 和也
東くん、ええこと言うね。俺も同感です。  時間が空いたら、ちょっとでも顔出したいと思っとりますんで、宜しく!! 
12月6日 12:28 (携帯より) 〓 いいね! 〓 9

山崎 哲也
東、お前はバカだが、言ってることは至極マトモで感心したぞ(^o^)
12月6日 12:37 (携帯より) 〓 いいね! 〓 10

時松 佳代
東くん、ちょっと心にはいってきました。なるほど・・・って。手に負えない、って同感。日本瀬戸際ってくらいの時代のいっこいっこの問題たち、考えても手に負えない感が。。。だから、考えるってよりも、誰かいっしょうけんめい信じて任せる、のね。なるほど、ちょっと発想のシフトが生じました^^ 残念ながら選挙区違うけどね。週末どこかでお手伝い行けると思います。
12月6日 13:31 〓 いいね! 〓 5

後藤 和代
東君、私も大変共感します!ちょっと遠いので事務所にお邪魔はできませんが、また電話します。
12月6日 15:00 〓 いいね! 〓 3

続く、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×23『支援依頼』

2013-05-22 22:17:10 | 雑談の記録
 十ニ月四日が公示日だった。その日の午前は健軍神社で出陣式だった。健軍神社と言えば勝負に祀ることで広く知られ「出陣」には持ってこいの神社だ。過去の二回の選挙もここがスタートで、そのときはパフォーマンスの一環で僕と勝山は三原候補と共に自転車でこの神社を出発しただった。このときは、テレビクルーにも追われたりで、僕は少し面白半分だった。しかし、今回の出陣式でそのようなパフォーマンスは無かったようだった。僕は仕事でその日の出陣式には行けなかったが、参加者の多くから大変雰囲気が良かったという感想を聞くことができた。
 また、その日の午後は黄城高等学校近くの黄城会館前での出発式があった。勝山が学ラン破帽に裸足という出立ちで木原候補に必勝の演舞を送ったとのことだった。この鬼気迫る様子は、後に、有名な男性雑誌に紹介されるほどのものだった。
 しかし、このようにして華々しい公示日を迎えることができたのだが、選挙事務所の我々のブースにはいつもの十人弱の同級生を除き人が増える雰囲気は全くなかった。限られた人員で、ただひたすらいつ終わるともわからない作業を夜遅くまで必死でやる以外になかった。
 出陣式の翌日は、前月の事務所開きから休み無しで働きづめだったスタッフの慰労もあって夜十時に事務所は閉ざされた。我々にとってはこれからという時間で少しでも作業を進めたいという思いもあったが、その日の勝山は我々に早々と作業を終えるよう促すのだった。そして、話しがあると言って、その日集まっていた七人を近所の居酒屋に引き連れて行ったのだった。
 
 勝山の苦渋に満ちた表情が話すより先に我々には伝わっていた。この少ない人数で今後の選挙活動を行うことは極めて困難であることを。また、同級生の集まりが少な過ぎるという批判の声が熱心に支援をしている先輩や後輩から上がっていることも報告された。
 このことに最初に噛みついたのは、同級生の間では勝山の次に有名な門田だった。
 彼のことは「唄の祭典」無しに語ることはできない。僕らが高校の頃、黄城高の文化祭のといえば「唄の祭典」と言われるほど市内の高校生では有名なステージショーがあった。文化際は受験を数ヶ月に控えた秋に行われるのだが、この祭典の企画・運営・出演は部活の垣根を越えた黄城高バカ男子による一大イベントなのであった。夏の部活動が終了すると受験勉強を始めるのが進学高校生の普通の姿だ。しかし、3年男子には、この「唄の祭典」に部活以上の情熱を燃やす者達が数多くいた。なぜなら、僕らは1年の頃から先輩達が企画した「唄の祭典」に爆笑、魅了されていたが、本当の大きな理由は、そのステージを楽しみに本校生徒数を軽く凌駕する近隣女子高生が多数やってくるからなのであった。ただ、このステージショーは当時の現役進学率を低下させる一因と考えられており、県議会から中止の要請が出るほどだった。
 そんな『伝統』のステージショーを強力なリーダーシップを発揮してアホ男子を取りまとめ企画・運営・演出に携わりながら、また、ステージでは司会をこなすという偉業を成し遂げたのが門田のである。二〇〇〇人の学生によって埋め尽くされた体育館は、門田の緻密かつ大胆な演出によって何度も何度も笑撃波により揺さぶられたのである。そのときの門田は確かに輝いていた。
 
 門田は、後輩からの突上げの声に対してそのような事を言われる筋合いは無いと断固とした姿勢を示した。
 「、、オレたち、こんなにやってんのに、なんでそんなこと言われなくちゃいけねぇんだ!?、それ、誰が言ってんだ!?」
 門田は怒りを露わにしたが、勝山はもっと露わに言い放った。
 「そんなの、誰だっていいだろ!、そう言われてるってのが事実なんだよ!、わかるだろ!、後輩の立場になってみろ、ロクに同級生も出てきちゃいねぇのに、支援してくれってムシのいいこと言われたらアタマに来るだろ!」
 「けど、そう言われるのは、やっているオレとしてはたまんないね、テンションめちゃ下がるし、、サイアク、、もうやりたくなくなったぜぇ、、てか、それって、事務所に来ない同級生を悪く言ってるようにも聞こえるぜ、、地元に残ってる同級生って、ほとんどが公務員じゃねぇか、、銀行員も多いし、、無理は言えねぇよ、、」
 「、、わかってるよ、、だからこうやって、いい知恵がないか集まってもらってんだよ、、実際のところ、オレだってどうしていいのかわかんないんだよ、、これから先、いったい、どうすりゃいいってんだ、、この人数でこれから先無理なのは、みんな、わかってるだろ、、」
 勝山の最後の言葉が我々の前に沈黙の雨を降らせた。ただ、一人、門田だけは軽く雨宿りしながら、面白おかしくボヤキを続けていた。
 「、、他に、、意見はないか、、ヒガシ、オマエ、なんかないか、、」
 勝山が僕に話を振ってきた。
 「これから先のことを、どうのこうの言う前に、、」
 自分自身のガス抜きが必要だった。これまでの選挙活動の最中に三原に対する批判の声を僕はずいぶん耳にしていた。
 「オレ、ミハラにも問題があるんじゃねぇのかって思ってんだけど、、」
 「、、なんだよ、問題って、、」
 「ずばり言うけど、ミハラから応援をヨロシク頼むってお願いされたことは一度もねぇぞ、、そりゃ家の前にミハラの看板は出しているから年に一度はお礼の挨拶には来てるみたいだけどよ、、お願いされたことは一度もねぇな、、まずはミハラ自身が同級生にお願いするのがスジってもんじゃねぇのか?、、オレたちはその次でいいんじゃねぇのか?」
 「ヒガシ、お前の言ってることはよくわかる、、けど、そこがオマエとオレの違いなんだよ、、オレはミハラにそんなことは望んでないし、、オレだってミハラからそんなこと頼まれたことは一度だってない、、」
 「そりゃ、オレだってミハラから直接頼まれたいって思ってるわけじゃねぇけど、他の同級生には直接会ってお願いしたっていいんじゃねぇのかぁ!?、だから、いつもこんな調子なんだよ、、バッカみてぇ!、、自分で自分のクビを絞めてるようなもんじゃねぇかっ!、、」
 僕はそのとき薄々気づいていた。勝山が同級生に対するお願いを三原には控えるよう仕向けているに違いなかった。それは「本物」の政治家を作るための一手段ではあるのだが、このことについての考え方は、僕と勝山の間に隔たりがあり、この短時間に着地点を見出すのは困難な状況だった。しかも、それは以前からお互い分かっていたことで、この時間に激しく議論する内容でもなかった。しかし、コトが既に崖っぷちだっただけに、決死のダイブ前の雄叫びが僕には必要だったのだ。勝山は同窓生からの突上げに苦しんでいたが、僕は一部の議員からの圧力に屈しかけていたのだった。
 平行線をたどっている僕と勝山の間に、山崎が橋を架けるかたちになった。
 「、、オレは逆に燃えるけどな、、確かに、今の状況じゃぁ後輩たちに突上げ喰らったって、そりゃ当り前の状況じゃねぇか、、しかし、そう言われると、逆にやってやろうじゃねぇかって気持ちになるぜ、、もう一回、マジ(本気)で同級生に頼む以外ねぇだろ、、、」
 山崎は野球部のエースだった。この負けん気の強さが山崎をエースに仕立てた原動力であったが、このときの一言が、そこに集まった同級生の気持ちを一つにしたのだった。
 いつの間にか我々の深夜会議は居酒屋のオーダーストップの時間になっていた。この会議には某社会人の軟式野球チームに敏腕マネージャーとして頑張っている永遠の乙女こと松本さんと、最近カルメンに凝っているという白衣の美天使こと鈴木さんの二人の女性同級生がいた。そして、二人は閉店間際にお店の人に気を遣いながらデザートを注文したのだが、幸せそうに真夜中のチョコレートサンデーを頬張るその姿に四十代女性の強さを感じずにはいられなかった。
 僕は家に戻ると自分は全力を尽くして事に臨んでいるのか自問したのだった。心の隅に、「これ、所詮、ボランティアじゃん」という思いがあったことは否定できない。しかし、不毛な作業を「ボランティアをやってます」というマスターベーションで覆い隠すほどの器用さは僕にはなかった。勝山が苦しんで頭を掻いている姿が脳裏から離れなくなっていた。
 パソコンを立ち上げた。電話ができるような同級生は本当に限られていた。僕ができることは、書いて友人たちに思いを伝えることだけだった。深夜のうちに下書きし、翌日の昼に投稿したのだった。

続く、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×22『支援依頼』

2013-05-20 22:37:39 | 雑談の記録
11月26日  ボクは元来、FBで「友達リクエスト」するのは苦手なんです。

  照れくさくって・・・。  だって、見ず知らずじゃないかもしれないけど、ボクのこと「こんにゃろ!」って思っている人もいると思うワケで・・・・。
  そして、こんな時期に「友達リクエスト」するなんて「選挙目的だろ」って思われること間違いナシだし・・・・。
  だけど、これを機会に、FBの友達になれたらいいなぁ〜って思うのです。
  ただ、単純に、ホントに・・・。  だから、許して下さい。
  そんなワケで今からリクエストします。  拒否、全然OKです。
  よろしくお願いいたします。

  この破廉恥とも言えるリクエストにより、友達は数十人から一気に三桁になった。僕のようなデジタルによる人間関係に抵抗を感じる者にとっては驚きの数となった。「友達」になった後、選挙のことだけを投稿するのは気が引けたため、それまであまり投稿したことのなかった自分の仕事のこと等もこの頃はよく投稿していた。正直なところ、少しでも自分に親しみを感じてもらいたいとの思いからだった。 また、友達リクエスト作戦を実行した日は、黄城高有志の会の決起集会の当日でもあったため、以下のような投稿もしたのだった。

ヒガシでございます。 この場を借りてちょいとお知らせでございます。
本日(11月26日(月) PM19:00)、国際文化会館で黄城高有志の会の決起集会があります。
「また、そのことかよ!」とみんなの心の声が聞こえてきたところですが、先を読んでくれたりしたら、ボクは天にも昇る気持ちです。ヤッホーッ! 前置きはこのくらいにして、 ・・・ナ、ナ、ナント、この集会において事務局からお願いと説明をボクがやらなくちゃいけなくなってしまいました!、あ〜、どうしよう〜(泣!)
政治のことは、ハッキリ言って、メンドクサイしムズカシイ世界です。 ボクみたいなアホ理系にはチンプンカンプンの世界です。
だから、後援会活動(三原の応援)はムズカシイことはあんまり考えずに、黄城高野球部の応援みたいなノリでやってるワケです。 「ソレとコレを一緒にするな、ボケカス!」とみんなの声が聞こえてきたところですが、先を読んでくれたりしたら、ボクはさらに天高く昇れそうです(ちなみにボクは高所恐怖症だから高いところはダメですが・・・)。
思い起こせば、野球部を応援するときのノリで一番楽しかったのは、みんなで応援したことです!。
「ゴラァッ!、野球部ばっか応援するなって!他にも部活はあるだろうがッ!」 「ハイッ、ごもっともです、以後、他の部活も応援しますッ!」 という気持ちもちゃ〜んとあります。

・・・アレ、ナニが言いたかったんだっけ?

そうそう、トニカク、みんなとやりたいな〜って気持ちなんです。
今日の決起集会には、そりゃもう、錚々(そーそー)たる先輩方が来ちゃったりするワケです。 ハッキシ言ってビビッてます。
ガチビビリです(号泣)。
ハァ〜・・・、 そんなスゴイ先輩達や忙しい同級生や後輩諸君を前にして「後援会活動についてのお願い」をしなくちゃいけないんです。
どうか、みんな、勇気を下さい。・・・来て、お願い。
今日の19:00 国際文化会館です。 市民会館の道を挟んだ向かいっかわのビルです。
早く来てくれるぶんには全然OLじゃなかったOKです。
あッ、OLで思い出した!、女子力が圧倒的に不足してるんだった。
ボクみたいなハンパオネェじゃぁ、ダメみたいなんです! ヤーテツがボヤいていました。

ちなみにですが・・・

司会進行は村吉君
三綱領唱和は稲富君
主催者挨拶は勝山君
決意表明は三原みのる君
校歌・エールは勝山君 となってます。
彼らにもどうか勇気を与えて下さい。
勝山には毛髪を、そして、三原には一票を!

最後まで読んで頂きありがとうございました!
 聞こえてきました!みんなの声が!
「いいねぇ」

続く、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×21『支援依頼』

2013-05-18 22:35:48 | 雑談の記録
 紹介した五つの散文詩的なものは、僕のブログに記録されたものだ。ブログを始めたきっかけは二〇〇五年の衆議院議員選挙だった。選挙期間中にその様子を記録しておこうと、同級生で運営していたホームページに投稿したのが始まりだった。その文章を読んだ幾人かの友人に「オマエ、文才あるんじゃ」などと言われたことに調子づいたのだったが、選挙後に疲れ果てて、正しくは飽きてしまってその投稿シリーズは尻切れトンボになったのだった。そして、それからしばらくたったある日、選挙記録ではないけれど、自分記録を作るのも悪くないなと思い立ち、二〇〇六年の十一月から自身のブログが始まったのだった。最近はめっきり更新が減っているが一時期は、ほぼ毎日のように更新していた。  いわゆるブロガーの多くが、自身のブログを読んでもらう、あるいは、目に留めてもらうために、ブログサイトに登録しているように思うのだが、そういうのには気恥ずかしさがあり―このような選挙ドキュメンタリーを書いていて恥ずかしいもへったくれもないのだが―今でも多くの人に読んでもらうための特段の努力はしていない。基本的にブログというものは、その記事を読みたいと思う人だけが読むのものであって、僕のブログの場合、何かに役に立つことが書いてあるわけでもなく、また、広告などによる金儲けなども全く意図していない。ただ、ブログは、その言葉の起源が「web log」であるとおりウェブ上の記録に過ぎず、それに則したタイトルとするならば、個人的記録の出発点の誕生日が最も相応しいのではないかと思ったのだった。
 
 理屈っぽい話はこのくらいにするが、ブログを始めて以来、やはり訪問者数が次第に増えて行くのは楽しく嬉しく思っていた。多い時は一日に300人以上の訪問があった。そして、更新が滞りがちの昨今も100人弱の訪問がある。
 ブログを始めて丸6年が経過し、長短良し悪しはあるものの一五〇〇件の記事を書いている。経験があるワリにそれほど文章力が向上しているようには思えないが、それなりに一定の評価を周囲から得ているのは確かだ。
 
 勝山の期待も「ソコ」にあったことは分っていた。
 
 選挙活動には一人でも多くの協力が必要だった。特に同級生の協力無くして活動は不可能だった。しかし、同級生とは言え、普段、連絡を取り合っているような仲間は限られていた。特に、ボクの場合は勝山を中心にした関係が殆どであったため、それ以上の広がりを期待されても到底無理な相談だった。
 
 しかし、先ずはフェイスブックを使わない手はなかった。同級生間には一般向けに非公開のウォールがあった。そこには、同級生の二十五%に相当する約百人が登録されていた。
先ずは、多くの同級生と繋がる必要があった。自分のウォールにメッセージを投稿すると、「いいね」をよく押している同級生に向けて片っ端から「友達リクエスト」したのだった。古い言い回しだが、清水の舞台から飛び降りるような心境だった。このときは、勢いで、かなり疎遠な友人にもリクエストしたように思う。以下、そのときの投稿を掲載する。

・・・続く
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

超久しぶり!

2013-05-17 23:47:46 | 雑談の記録
気がつけば5月中旬!
こんなに、更新しなかったのは初めてなワケだけど、読者の皆さんいかがお過ごしですか?

以前のパスワードではログインできなくなっているし!

ナンテコッタ!

さてさて、一月末ぐらいまで連載していた選挙シリーズは、このバカブログ上では尻切れとんぼになってるんですが、僕的にはとうの昔に完結していて、それをチロチロとアップしていうくのもなんだか読者の皆さんを欺くような気がして更新を怠っていたという身勝手極まりない言い訳をブチまけている次第です。

ですが、2月頃から年度末の忙しさと同時に、愚息が所属している野球チームのホームページ立上げの依頼があり、その準備と作成に夜な夜な粉骨砕身していたというのも事実でありまして、キャノンのイオスで撮った画像は既に数千枚を越える量に達しているわけであります。
であるからして、1回の撮影で数百枚撮った画像を選手ごとやプレイ毎に仕分けするのにスッゴイ時間がかかっちゃうのであります。

そして、撮影に凝っていてワカッタことですが、ファインダー越しに見える選手が実によく視えるということなんです。そして、撮った画像というのは、被写体だけでなく撮影者の気持ちも凄く反映されるものだということをあらためて知った次第です。

そんなワケで、最近は「言葉」によらない表現についていろいろと思い巡らせています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

選挙バカの詩×20『選挙バカの詩』

2013-01-25 22:38:48 | 雑談の記録
『命のバトン』
〈中略〉
実は、おじさん、ちょーど君たちと同じ年頃のころ、ときどき眠れない夜がありました。
自分が「死んだ」ことを想像すると眠れなくなってしまったのね。自分がこの世から消えてなくなってしまうことを考えると、もう、怖くて怖くて・・・。
だってさ、誰だってさ、生まれてきたものは、死ぬわけでしょ、絶対に死ぬでしょ、死んじゃうでしょ、死ぬことはさけられないことだよね。
でもさ、こんなこと考えると、逆に死にたくないって強く思うよね、なのにゼッタイ死んでしまう。そしてね、ゼッタイ死ぬのに、なんでワザワザ生まれてきたんだろうって考えちゃうよね。そう思わない?。
ゼッタイ死ぬなら、そんなの最初から生まれてこなきゃいいのにって。
〈中略〉
おじさんは今年で40歳になります。現在の日本人の平均寿命はだいたい80歳だから、普通に生きているとすれば、おじさんは、今、人生の折り返し地点にいると言えるよね。それで「ゴール」を「死ぬ」ってことにすれば、毎日、毎日、そのゴールに近づいているわけだから、死ぬことがどんどんどんどん自分に近づいてるって意味になるよね。こんなふうに考えると、なんだか怖くなるよね。だけど、不思議なことに今はそれほど怖いとは思わなくなったよ。

みんなぁ、目を閉じてくれるかなぁ、そして机に伏せてくれるかなぁ

今からみんなを時空の旅に招待しようと思います。

みんなは宇宙の歴史は知っているかなぁ?。
宇宙の誕生は137億年前頃だったと言われています。ビックバンと呼ばれる大爆発によって宇宙は誕生し、次々と数えきれないほどの星雲が生まれたと考えられています。
最初はチリやガスなんだけど、それが次第に集まりだしていろんな大きさの星が生まれて、今から120億年前頃に2000億個以上の星やガスが集まって銀河系ができました。
地球は太陽を中心に回っている10数個の惑星のうちの一つだけど、地球は今から46億年前に銀河系の隅っこで生まれました。
地球は生まれた最初からだいたい今ぐらいの大きさだったらしいけど、生まれたすぐの頃は、隕石がたくさん衝突していて、ぶつかったときのエネルギーでめちゃくちゃ熱かったらしいです。そして地球の上空には衝突したときに発散したガスや水蒸気が分厚い雲を作って地球を覆っていましたが、あるとき、突然、雨となっていっきに降りだしました。その雨は、雨なんて生易しいものじゃなくて、嵐にちかかったと考えられていますが、その嵐は全地球上で一度ももやむことなく1000年続いたそうです。
そして、今から43億年前に原始の海がようやく出来上がりますが、そのころはまだ生物はいませんでした。それから最初の生命体が現れるまで3億年かかり、40億年前頃になってようやく細菌程度の生物が生まれました。細菌の大きさは1ミクロン、1mmの1/1000くらいの小さな小さな生き物です。その細菌の時代は長く続きました。約30億年間が細菌や微生物の時代だったと考えられています。ですが、10億年前くらいに地球は全て氷に閉ざされる時代があって、そのときに多くの微生物は死んでしまったと考えられています。
だけど、このときに生き残った生物は、氷が解けたあとに爆発的な進化をとげて、その頃になってやっと虫みたいな生物やコケみたいな植物が生まれました。そして3億年前ぐらいになると、昆虫、魚、両生類や爬虫類などの生物たちで地球は生命にあふれました。
だけど、また問題が発生します。2億5千万年前に、シベリアで日本の面積の5倍以上のドロドロに溶けた熱い溶岩が地中からいっきに噴き出してくるという大異変が起こって、そのとき、全地球上の95%の生物が絶滅しました。だけど、生物ってのはホントにしぶとくてたくましくって、その生き残りが恐竜として、その後、地球上で大繁栄したのです。しかし、恐竜も6千5百万年前には絶滅しちゃうよね。それは隕石の衝突による環境の大きな変化が原因だったんだよね。
恐竜が絶滅してからが哺乳類の時代になるんだけど、人類の祖先が現れるのは500万年前頃。そして100万年前からはだいたい10万年を周期に氷河期と温かい時期が繰り返して、最後の氷河期が終わったのが1万年前。ちなみに、僕たちが暮らしている県では9万年前に阿蘇山が大噴火を起こして、九州の生物の多くはそのときの大爆発の熱と灰で殆どが死滅しています。

さて、ここまで駆け足で地球の歴史を旅してきたけど、どうだろう、地球の歴史ってのは実は無数の生命が生まれては死んで、生まれては死んでの繰り返しだったことに気づいてもらえたかな。
みんな目を開けていいよ。

じゃぁ、みんなに質問。地球の46億年の歴史を1年にたとえると、人間の寿命ってどのくらいでしょう。

あのね、おじさん計算してみました、答えは0.5秒、たったの0.5秒。めちゃくちゃ短いよね。地球の歴史から考えるとね、人間の寿命なんてホントに短いんだよ。生きてるか死んでるかわからないくらい短くて、どうだっていいようなものなんだよね。取るに足りないない下らないものって考えることだってできるよね。

だけどね、君たちに気づいてもらいたいことがあるの。
それは何かっていうと、僕達が、今、ここにいるのは、40億年前から始まった命のリレーのおかげなんだってこと。
今、僕達は、生きてるみんなは、その命のリレーのトップを走っているんだ。みんなはトップランナーで、40億年前からの命のバトンが、みんなに託されているってことなんだね。

おじさんが、最初に話した子供の頃の疑問を憶えてる?。
「ぜったい死んじゃうのに、なんでワザワザ生まれてきたんだろう」って。

おじさん、最近ね、命のバトンを渡すことが生まれた理由じゃないのかなぁって思うようになったよ。

自分の命は自分だけの命のように思うけど、40億年の命のリレーが今の自分の姿であることを思うと、こりゃぁやっぱり大事にしていかないといかんなぁって思うわけ。確かに、地球の歴史からすると、人間の命なんて一瞬でチッポケでどうだっていいようなものなんだけど、パッと輝いているに違いないよね。おじさんは、目を閉じて命のことを考えると、今は無数の輝きを感じることができます。その輝きは、たぶん、君たちなんだろうね。

今日、君たちは、この道徳の授業を通して命の大切さを学んだことと思うけど、おじさんは今日、君たちに命のバトンを渡せたような気がします。
次は、君たちが次の世代に命のバトンを渡してください。

お話し聞いてくれてありがとう。

その後、命の授業を受けた子供たち全員から手紙が届きました。
その幾つかを紹介したいと思います。

東さんへ
東さん、先日は、おいそがしい中、仕事もとちゅうでやめてきて下さって、ありがとうございます。ぼくは、東さんの話の中で「命は42億年前くらいから、命のリレーがつづいている」と「人間の命は、地球の歴史を1年間でたとえると0.5秒」ということが心に残っています。東さんが「時空の旅」といって想像するのが簡単でした。ぼくも、ねながら、死んだらどうしようと思う事もたまにあります。でも、この話をきいて恐くなくなりました。
宇宙から始まり、生き物の死んだり生まれたりと命のリレーが続いていて、今度は、バトンを次にぼくたちがわたす番です。だから精一っぱい生きていきたいと思います。ぼくたちは、平均じゅみょうは80才で、あと約68年もあります。なので、自殺のような事はせず、生きていきたいと思います。東さん、本当にありがとうございました。また、よろしくお願いします。
桜丘東小学校6年2組 Y・S

東さんへ
先日は、おいそがしい中、私達のためにきてくださってありがとうございました。東さんの話はとてもためになりました。
いつもは、話をしんけんにきかない私が、いつのまにか、東さんの話をしんけんに聞いていました。
私達に分かりやすく、楽しく話してくれて、話したいこと東さんの気持ちがよく伝わってきました。
私達はどうせ死ぬうんめい、もう、もどらない命、でも、その一生を大切に精いっぱい生きるということを、東さんの話で分かりました。
私も、先祖からもらった命、私の命を大切にして精いっぱい生きたいと思います。ありがとうございました。
6年2組 S・M

東さんへ
先日はお忙しい中、わざわざぼくたちのために、おいで下さり誠に有難うございました。目をとじて、時空の旅に行ったとき、東さんのお話と、宇宙の映像が合ってとてもわかりやすかったです。何十億年を1年にたとえて、人間のじゅみょうは0.5秒ということがわかりました。そして、何十億年を1年にたとえてではなく、1日でたとえてみると、0.0013698・・・・・・・とずっと続いていました。
ぼくも、時々死について考えたことがあります。「なんで生まれてきたのだろう」や「生まれてこなかったらどうしよう」などと考えてみましたが、東さんの話をきいて、「命のバトン」をつなぐために生まれてきたんだなと思いました。このたびは本当においそがしい中、本当に有難うございました。
6年2組 N・ H

涙なしでは読めなかった。
子供たちに思いを伝えることができて本当に嬉しかった。
ありがとう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする