1969/04/09に生まれて

1969年4月9日に生まれた人間の記録簿。例えば・・・・

選挙バカの詩×28『活動の実態』

2013-06-11 21:45:57 | 雑談の記録
 全くそのとおりだと思う。それを最も深く理解して選挙を戦っていたのが、対抗馬で帝国維新の会から立候補した三世議員の末野氏であることは言うまでもない。氏は新党へ鞍替えするまでは、母から多額の小遣いを貰いながら首相の座についた波戸山氏の重要腰巾着として、シッカリその後ろに張り付いてはカメラへの露出を図り知名度アップに血道を上げていたのだった。

 一方、三原は民自党の第一選挙区支部長になるまでは、ごく普通の家庭に育った一般人に過ぎず、いわゆる、地盤看板カバンとは無縁の人間であった。また、黄城高時代はハンドボール部の主将であったが、勝山や門田のような「知名度」は殆ど無く、従って、彼等の支援を得ることができなければ無援の可能性もあった。

 ただ、事情は民自党県連では異なっていた。当時の「公募」は民自党にとって日本初ということもあり、特に第一選挙区での連敗脱出は県連の最重要課題であった。このため、二〇〇五年の衆議院選挙では民自党の議員団はフル回転で三原を支援し、当時の古泉旋風を追い風に三原は復活当選を果たしたのだった。しかし、当時、同級生が行っていた活動が、当選にどのように寄与できていたかと問われると返答に窮せざるを得ない。当時の我々は、選挙戦についてあまりに無知であり、「ローラー作戦」の内容すら知らず、その作戦も重倉議員の名簿と地図を拝借してのかりそめの活動であった。そして、有力とされる先輩の声や指示にひたすら従い、今日は西へ、明日は東へという具合であったのだ。

 第一選挙区の有権者数は約三七万人である。過去二回の投票率は六五%以上で当選得票数は十万票を超えている。

 第一選挙区に住所を置く黄城高の同窓生は約八〇〇〇人だ。これは有権者数に対して2%程度であり、いかにも貧弱に思える数字なのだが、その八〇〇〇人が五人の知人・友人に支援をお願いし、それが投票行動に繋がると仮定すると、その人数は八〇〇〇×五=四4〇〇〇〇(四万人)となり当選得票数の四割を占める。投票率が低下するような環境下でこの組織票を固めれば、さらにその比率は上がっていくのである。従って、黄城高の「組織」固めは選挙結果に大きな影響を与えると考えられるのだ。

 しかし、八〇〇〇人なのである。八千件でもいい、八千軒でもいいだろう。名簿から住所を調べ地図に落とし込み、実際に訪問して支援をお願いするのである。これをローラー作戦と呼ばずして何と形容すれば良いのだろうか。

 二人一組の一班が一日に訪問できる数は平均七〇件だ。一班体制だと一一五日、十班体制でも十日以上という計算になる。小学生の算数レベルだが、延べ人数は軽く二○○人を超える。地図作りの人員を含めると三○○人に達する。これが、我々に与えられた課題なのであった。知名度の無い一般人が、知名度を誇る有名人に勝つための努力が、如何に大変で困難を極める作業であるか理解頂けると思う。

 この不可能とも言える作業をなんとしてもやり遂げるのだと言って一歩も譲らなかったのが勝山なのであった。そして、「名誉」なことにローラー隊長に任命されたのが僕なのであった。隊長は大将の命令に従わなければならないが、作戦の計画策定は隊長の任務であった。

 効果的な作戦遂行のため、計画の基本は小学校の校区によって分類・整理した。三原の地域後援会も小学校区で区割りされた単位で組織されていた。しかし、校区数は四七校区と多く、限られた人員でしかも短期間に「勝つ」ための効果的な活動を行うためには、優先順位を定めて集中攻撃を図らなければならなかった。従って、隊長の僕に求めらたのはその優先順位の決定だった。僕は過去二回の選挙におけるローラー実績と同窓生の校区人口及び地理的条件を考慮して四七の校区を四つのレベルに分類し、その分類に基づいて作戦図(校区分類割付図)を作成したのだった。そして、作戦は勝山の号令のもと実行されたのであった。

続く、、、
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