ヒーメロス通信


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水の家(6)日笠芙美子、季刊詩誌『舟』2012年5月15日発行より

2012年05月30日 | 同人雑誌評

「水の家(6)」日笠芙美子、季刊詩誌『舟』147号2012年5月15日発行より

水の家(6)日笠芙美子
小林稔

    水に抱かれ水を抱いて
    おまえは眠っている
    やわらかいからだが
    藻のように揺れている
          「水の家(6)」冒頭四行

 人は生まれいつかは死を迎える。言葉をもたらされた人間はその意味を
問わざるをえない生き物である。しかし、それだからこそ他の動物とは違
い、現在の時間を燃焼できるのではないだろうか。この冒頭の四行で読み
手は一つの生命体の誕生を告げられる。生命の起源が水の中にあることと、
羊水に浸された母胎で細胞が増殖し、やがて個となる生命体が外界の空気
に触れる瞬間を待ち望んでいることが重なり合う。つまり二つの誕生のプ
ロセスを経て、私たちが世界と呼ぶ空間に存在し始めるといえよう。

    だれが呼んだのだろう
    あのまどろみから
    ぽっかりと浮かびあがった時
    世界はどっと
    おまえの小さいからだに流れ込み
    おののき 震えて
    泣き止まなかった
              「同」五行目からの第二連

 私たちがこの世界に生まれ出るとき、さらに遡れば受胎したとき、だれ
かが呼んだのだろうか。そして誕生したばかりの生命体が世界で生きる宿
命を背負ったときの、怖れに打ち震えるような泣き声は、祝福にあふれた
人々の視線の中で、その一人ひとりが遠い記憶を呼び起こす。この世の生
は苦難に満ちたものであり、輪廻転生を断ち切るべく涅槃を祈願した仏陀
が私の脳裏を過っていく。赤子の最初の泣き声に暗示される苦悩と歓喜の、
言葉以前の声。やがて、私たちは少しずつ言葉を覚え始める。

    水に抱かれ水を抱いて
    わたしは眠っている
    ほの暗く あたたかい
    どこよりも深いあの場所で
                    「同」第三連

 生まれたときから死のときに向かって進み始めた私たちは、何度となく
胎児の、「水に抱かれ水を抱いた」ときのことを想起する。ほんとうに覚
えている人などいるはずがないのだが、「どこよりも深いあの場所」とは
意識の及ばない無‐意識界であろうが、言葉を知ってしまった私たちが経
験の末に忘却していく、意識の底にある貯蔵庫から不意に立ちあがり、意
識の上層部に現れ出る言葉を書き留めることが詩作であり、その書かれた
ものを詩と呼ぶのではないかと私は思う。

    おまえがわたしを呼ぶのか
    わたしがおまえを呼ぶのか
    閉じても閉じても開く
    蒼い牛の目のように
                     「同」第四連

 生きるとは、誕生から死の途上である現在までの距離を反復することで
ある。始点からの呼びかけに応え、現在地点から置き去りにした「私」に
呼びかける。生の意味を問いつづけることが、生きることの意味だと問い
つづけるように。

    流れ過ぎた時間があって
    世界は数えきれない凹凸があって
    とおくまで来た気がするが
    おまえはわたしを生きたのだろうか
    わたしはおまえを生きたのだろうか
                     「同」第五連

 人生は一般的には生前、何をしたかで計量させる。詩を書くことを決
意した人生はそうしなかった人生とは確実に異なるであろう。もちろん
言葉を残さない人であっても、人生の意味を深く捉えることがあるが、
ほんらい詩とは個人を越えたものである。このことは誤解される危険が
ある。個人を越えたものをさがしあて詩を書くことではない。個として
の生を深く生きることなしに、個人を越えた言葉に辿り着けないのだ。
プラトンは「自己への配慮」を哲学的主題にした。「配慮すべき自己と
は何か」を師と弟子の対話の中から探求する道を主張した。そこでも言
葉は重要な道具である。古代において「善」や「正義」は神を措定しな
ければ成立しない。世界の根拠になる第一の要因に「魂」を置いたプラ
トンとは違い、私たちは神概念を退け、ギリシアの原子論を端緒とする
物質を根拠に置く世界認識、科学的世界観に支配されている。しかし私
たちは精神と物質の両方から成り立っている。詳細はこの私のブログの
カテゴリーから読むことができるのでここではそれ以上立ち入らない。
詩人には経験の質が問われているということを単に言いたかったのであ
る。

    ふいに目覚める真夜中
    再びの声で
    水は問うている
                     「同」最終第六連

 詩は万人に共有されるものであるが、世間から詩人として認められ
るか否かが問題なのではなく、詩人は自ら意志して詩人になるもので
あろう。「とおくまで来た気がする」と書く筆者は、己の生から死を
考えることを基底に、人類の誕生、さらに世界の成り立ちにまで思い
をめぐらしているに違いない。詩人であろうとすることが、必然的に
そのような問いに応えることを要請されているのだと私は思う。



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