ヒーメロス通信


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武田弘子「無人駅」、季刊詩誌『舟』148号2012年8月15日発行より

2012年08月26日 | 同人雑誌評

武田弘子「無人駅」・季刊詩誌『舟』148号2012年8月15日発行
小林稔

 以前にも取り上げさせていただいた季刊詩誌『舟』の最新号148号から、気になった作品、武田弘子氏の「無人駅」にコメントしてみたいと思います。


   読みさしの本の頁から絵葉書が落ちた

   丸いテーブルと椅子
   メタセコイアの葉陰から
   六月の光がこぼれて
   白いテーブルの上を風が走る都会のテラス
   そこに誰を坐らせよう?
   まだ新しい朝の匂い


 「無人駅」はこのようにして始まる。癖のない文体で誰にでも入っていけそうな出だしである。だが、次の三連目の最初の二行で何げない日常を描いて終わる詩ではないことに気づく。


  「マルクス・アウレリウスを読んでいます」
   友人はしっかりと行き先を告げて来る


 一行目の「絵葉書」はこの友人からの手紙であったことがわかる。筆者がいう「無人駅」とは、例えばこの友人が行くところであったのか。ある本を読むことで始まる旅をいいたいのだ。


   ここから老人ホームの窓が見える
   おびただしい機器に繋がれたベッド
   そのまわりを巡る白衣の影
   閉ざされた肉体の中に
   ただひとつの鳴り止まないさみしい暗号


 生きるものが必ず辿りつく死。最新の科学は死を引き延ばそうとする。その一方で、生の意味を見つけられないままに肉体=物質と魂=精神の縫合をできる限りつづけさせようとしている。命は大切だ。それは誰でも考える。しかし精神を鍛え生の意義を考えてきたのだろうかと自問自答する。そうする人は昔から少数であったに違いない。マルクス・アウレリウスの『自省録』を読んでいると告げた友人は、生の意義を探求する旅に出ようと無人駅に向かったのだろう。たんに知識を身につける旅とは違い、自分自身の実存を求め、人間とは何かという原点を思考する厳しい旅なのである。マルクスの思考した後に残された言葉をたどり、自分の問題に引き寄せながら自分の生を考えることなのである。おそらく筆者はそのことを知って、友人の後姿を見送っているのだ。
 私は八年前の2003年以降、肉体的な危機にあったとき、ミシェル・フーコーの『自己の解釈学』という書物に出会い、いかに生きるべきかを知ろうとする私は、この難しい書物を何度も読み返した。その後、講義録のシリーズとして別の翻訳本が出るたびに購入して読んでいったが、特に『自己への解釈学』は今読み返しても新しい発見がある。(詳しいことは私が書きつづけているエセー『自己への配慮と詩人像』で述べているので参照。)
 端的にいうならば、「汝自身を知れ」というデルフォイのアポロンの神託と一体のものとして、「自己への配慮」という古代ギリシアに流布していた考えを、プラトンはソクラテスという人物を通して哲学の主題に確立させたのである。それから数百年後、ヘレニズム期の一、二世紀、まだローマにキリスト教が確立していないころ、プラトンの「自己への配慮」の主題が、人生全般を通して考えるべき問題に変わり、セネカやマルクス・アウレリウスによって後期ストア派の思想として定着したのである。彼らにとっては厳しい訓練という実践を通してエクリチュール(言語化)していくものであった。己の死を目前にして、いかに平穏にそれを受け入れていくか。そのときまで、「知と実践」をつづけたのである。
 自己を配慮することに心がけなければならない。では配慮すべき自己とは何か。自己を知るために、現在時の自分を無化しなければならないと彼らは考えた。セネカは高みからこれまでの自分を俯瞰する方法を取ったが、マルクスは周囲の事物への意識を解体させ近視眼的に自分を見つめなおしたのである。意識の表層にあるのが自我であり、深層にあって自我と連結するのが自己ではないかと私は思う。とにかく私はフーコーのいう哲学と霊性に興味を抱いたのであった。これはフーコーの、デカルト以後の哲学に対するアンチテーゼである。詩作も同様であり、詩人としての(実存的)経験を軽視し、自我と言葉の戯れに始終している現代詩への反論になると私は考える。ここではこれ以上述べないでおくが、今ある現実を意味あるものにするために、思考と実践は避けられないものである。
 それにしても、詩の一行「ただひとつ鳴り止まないさみしい暗号」とは何だろう。


   向かいの保育園の庭では
   大きな栴檀の木の周りを廻り続けている少女
   どこ迄も廻り着けない光の輪
   のけぞる喉に空が近付く


 前の第四連では現実に忍び寄る死をイメージさせれば、この五連ではこれからの長い生を与えられた幼児たちの生命力をイメージさせているといえよう。死と生の連環である。
 人生には生きるに足る価値がほんとうにあるのか。ないとするにはあまりにも現実は輝いているではないか。しかし充足した人生とはいえない。何かが欠けている。マルクス・アウレリウスは一つの例であり、他の無人駅もあるが、筆者はまだ見つけていない。


   まぶしく 私の指は
   丸いテーブルの縁をなぞりながら
   まだ友人にわたしの行く先を告げられない


 「ただひとつ鳴り止まないさみしい暗号」は解かれなければならない。筆者の肉体でも鳴っている限り無人駅を探し求めるだろう。それは一人ひとりが自分の仕方で見つけ出すものであろう。私は、セネカやマルクス・アウレリウスのエクリチュールが詩の可能性を示唆しているように思えてならない。



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