「半双の夏」北条裕子、詩誌『木立ち』113号2012年9月25日発行
小林稔
「半双の夏」と題された作品は次のように始まる。
まひる
誰も乗っていないバスが
目の前を通り過ぎる
私の乗るべき筈だったバス
あのバスの終点は 私の町だ
「半双の夏」冒頭五行
よく見かける光景である。この詩では真昼だが、夜の田舎道で誰も乗客のいないバスが全速力で走っている光景は異様である。ここでは「まひる」、乗り遅れたのか見送ったバスが終点の筆者の住む町を想像理に浮かび上がらせる。あの町に住む自分を距離を置いて考えさせたのであろうか。
草にうずもれた 帰っていくべき墓 ふたつ みっつ
死者である祖母や叔父や叔母は
寂しいのか 寂しくないのか
墓の上に 青空が 雲が
「同」第一連最終四行
どこか渇ききった感情が感じられる表現である。現実を醒めた目で見つめながら、現実とも別の世界とも区別のつかない視線。焦燥感とも違う冷徹な眼差しといいえるような。
ねえ君
次の夏の黒い鳥の影がとんでいるよ 粗い粒子の
もうこの頃は季節の変化に 心がついいていかない
「同」第二連全部
未来の時間を計測する自分と、現在の時間のスピードに追いつけない自分がいる。
今日 六時半に目が覚めた 時計を見ると 五時だった ふたたび眠りの中にもぐり
込む またバスがくる これは現実ですか 夢ですかと 乗り合わせた天才ピアニス
トの青年に聞く サヴァン症候群の彼は 現実ですと 力強く答え 二〇一四年の八
月一日は金曜日であることを教えてくれる 私は安心して 背もたれに寄りかかる
「同」第三連全部
ここは叙述体の散文で書かれている。現実と夢が混合していることがわかる。夢の中でもバスが走っている。「走る」ことに強迫観念を感じさせる。ピアニストの逸話は夢である。これは筆者の日常であって、不安定な経験的世界の出来事であろう。これまでの三つ連では形式を変え、読み手に意外性をもたらせる工夫がなされている。筆者の心の変動を伝えるための必然的工夫である。唐突なイメージを表出し読み手を驚かせる技法は詩の大切な要素である。世界に広がりと深みを与えるからである。しかし、そういったテクニックだけを際立たせる詩をよく見かけるが、他の表現との遠いつながりを感じさせないと失敗に終わる危険がある。ここでは夢の不可解性をよく現わしていると思われる。
瓦礫にはさまれた河を
少年が
朗らかに 歌いながら 泳いでいく
ここはどこなの
ナイロビだ
濁った水の澄む地
大きな蛇が
首を 持ち上げて
河をすすんでいく 半双の夏
明るい陽射しに 顔を向けて
まぶたに 光をあてていると
前にもこんなことがあった気がしてくる
「同」第四連全部
この部分の十六行(空白四行)をまとめて第四連としたい。この詩人の原初的風景とでも呼びたくなる突然の光景である。夢というより、白昼夢に近い。詩人にとっては非常にリアルな、日常より実在感を感じさせる描写である。「瓦礫」という言葉に昨年の大震災を感じてしまうが、このような文明から離れたアフリカ的世界では、破壊と創造のエネルギーが満ちあふれている場所である。人間は自然と共生して生きている。「濁った水の澄む地」という表現は暗示的である。詩の題名にもなった「半双の夏」とは、自分があくせく生きている文明の地の夏と、想像理にある反文明の地の夏の、互いに対となった存在の関係を表す言葉のように思ったが、筆者の思いとは異なっているかもしれない。この連を持ってくることによって、詩はさらに広がりを見せる。
孤独だけど 寂しくない 心の内側も陽にさらして せいせいと生きていく 点々と
置かれたひらたい石を 飛び越えて 広い場所に出る 風が吹いてきた もう どこ
にもいかなくていい 帰らなくてもいい ここから振り返ると 今までいた土地はな
んだか奇妙に見える
「同」第五連の前半
ここは三連と同様に散文で書かれている。現在の筆者の心のありようが窺えるところである。どこへも行かず、どこへも帰らないという決意。詩人は知っているのだ、ここ、この自分のいる場所でこそ詩が生まれるということを。詩人は自分を突き放し、遠方から自己を見つめようとする。視線は絶えず詩人の生きる日常の世界に据えられる。自己変革を試みているのだ。「ここから振り返ると 今までいた土地はなんだか奇妙に見える」のがその顕れであろう。
干し上がった溜め息のような
齧りかけの嫉妬のような
そんなもの忘れてしまいなさい
「同」最終連
「孤独だけど 寂しくない」。孤独な者だけがつかみえる詩。筆者はあくまでポジティブに生きようとする。絶望や苦悩などという文学的テーマと絶縁し、新しい詩の世界を生きようとする。詩人はどのような生存の方法を見つけ生きるのだろうか。夢とも現実ともつかない不確実な日常生活において生きる証を実感するには、詩(言葉)をつかみみ取るしかない。絶えず幻影と戦わなければならない。詩作と主体の関わりを強く感じさせる詩であった。
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