高橋次夫「灌仏会の日に」
詩誌『晨』第五号2012年6月15日発行
小林 稔
詩の方法論は人によって異なる。ひとつの方法論だけで詩の深さを測ることは他を切り捨てることになる。ここに紹介するのは、詩人の老境を越えてなお保たれる新鮮な感動を言葉が伝えている詩である。老境といったが、私が言いたいのは実際の年齢ではなく、詩人が一刻も早くたどり着くべき意識の境地のことであり、そこからひるがえって物事を見つめるとき、その視線に命の息吹きを感じ取ることができると思うのである。
人々の影が
群れて行き交う
昼下り
両つのてのひらを
幹に押し当て
そっと
顔を寄せる
老いた農夫の 黒々と
錆びついた拳のように
節くれだった木肌の
分厚い ぶつぶつの皮が
今にも
剥がれ落ちるばかりだ
「灌仏会の日に」冒頭からの13行
詩人は一本の樹と向かい合い、恋人でも扱うように手に触れ、顔をつける。かなりの年月を経た樹であることに感銘を受けているようだ。「老いた農夫の黒々と錆びついた拳」に喩える剥がれかかる樹皮。老いたもの(ここでは樹だが)だけが獲得している美に私たちが触れるとき何かしら心の安らぎを感じさせてくれる。若さの美が単一性にあるとすれば、老いの美は重層的かつ簡素さにあるのだ。
根元のあたりには
深く 黒ずんだ澱を沈めて
洞の口を開けている
その底には
どれだけの
日と月が埋められているのか
ぶつぶつの黒皮は 死者のように
黙りこくったまま
何にも応えない そのとき
「同」14行目から22行目
詩人は根元に視線を落とすと、そこでも年月と闘い年月に耐えている樹のしたたかさが詩人の目を奪う。「死者のように」とは次の表現への展開のために用意された技法である。
てのひらを通して 幹の芯奥から
まるで陽だまりのような
温もりを返してきたのだ 思わず
てのひらで擦りながら
幹の行方を見上げると
そこには
宙天を覆って
積乱雲のように
万朶のさくらが湧き上がっているのだ
「同」23行目から31行目
「陽だまりのような温もり」が幹の奥深くから、てのひらに届いたときの詩人の驚き。伸びる幹の行方を目で追うと、さくらが空いちめんを覆いつくしているではないか。花びらをつけたその無数の枝々が詩人を圧倒したのだ。自らの身体を媒体にして確かめつつ、言葉をつむいで描いた樹の様態が、一気によみがえるいのちの情景へと導く見事な描写である。さくらの樹の不思議さを釈迦の誕生日に重ね合わせ、永遠と思わせる美のはかなさをも感じさせるこの詩の前で、私はしばらく立ち止まってしまった。
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