ヒーメロス通信


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「叫ぶ母」柏木勇一、『へにあすま』42号2012年4月15日発行より

2012年06月02日 | 同人雑誌評

「叫ぶ母」柏木勇一、『へにあすま』42号2912年4月15日発行より

「叫ぶ母」柏木勇一
 小林稔

 プラトンによって提出された「自己への配慮」という主題が帝政ローマ期
のセネカによって人生全般における生き方を問われるようになった。フーコ
ーによると、「自己への配慮」とは自己や他人、世界に対する態度をもつこ
とであり、世界から「自己」へ視線を向け変えることであり、自己を浄化し、
変容させることであるという。具体的には「移動と回帰」に要約される。ま
ず「自己への立ち返り」を機に、現在の主体を引き離し上昇させ、俯瞰的な
視線を獲得し、私たちの世界(自分がいた世界)を見つめ、自己を俯瞰する
ことで世界における主体の自由を得ようとするのものである。(詳しくは私
の「自己への配慮と詩人像(三)」を参照。ブログのカテゴリーから引き出
すことができます。)
私が柏木勇一氏の「叫ぶ母」を批評するにあたって「自己への配慮」という
概念を引き合いに出したのは、この作品に見られる筆者の、俯瞰的と近視眼
的の両方からの視点が感じられたからである。作品の紹介を始めよう。

  母を施設に連れて行った
  吹雪の朝
  フロントガラスに吹きつける雪
  ワイパーで消され
  流れ落ちないで塊になる
  扇型にせばまる視界
           「叫ぶ母」第一連

 ある日の一時期を捉えた描写である。悪天候の中で母の介護をする筆者
が浮かび上がる。

   木立の間を過ぎた瞬間
   横殴りに襲う雪 先がかすむ 先が見えない
   後部座席の窓を雪の結晶が覆う
   まだらな光と冷気 身をよじる母の気配
   はあー ほおー はあー ほおー へー
   叫ぶ母
             「同」第二連

 筆者を取り囲む厳しい状況。運転する筆者自身にさえ迫る厳しい自然
と生命を危うくする母親の叫び声。その声を言葉で伝えることによって、
読み手の脳裡に深く刻まれていく。

   最後は
   と言って施設長はパソコン画面から目を離し
   個と個の闘いです
   視線を完全に合わせないで語る
   プロに任せなさい
   視線は画面に戻る
             「同」第三連

 「個」と「個」の闘いとは何か。一つの生命体がもう一つの生命体と
向き合うこと、例えば、かろうじて命を保っている生命体(母親)と、
いつかは死ぬが当分は生きる可能性のある生命体(筆者)との関わりの
ことを言っているのだろうか。「闘い」というのは平穏時での絆の結い
目が、いままさに断ち切られようとするからなのだろうか。

   身体から身がはがれ
   肉体から肉がそがれ
   体が物に化す
   物体になる母
   母という
   個
             「同」第四連

 
肉体と精神を持たされた私たちの身体は、死を目前としたとき、かた
一方の肉体が滅ぶときを死のときと呼んでいる。「身体から身がはがれ」
とは文字通り「体」が残ること。体つまり「肉体」から肉がそがれたと
き、やはり「体」が残る。しかしこのときの「体」は「物」である。私
たちは物質である体と、精神である心を持っている。生前において「配
慮すべき自己とは何か」を考えるため、想像裡に自分の肉体を解剖学的
に解体して考え、この世での生の価値を判断し行動する、セネカと同時
代の後期ストア派のマルクス・アウレリウスがいた。死に近づくことは
物になることである。先に俯瞰的視線と近視眼的視線といったが、この
詩では俯瞰的=普遍的といったほうがよいかもしれない。母親と自分と
いう個別の問題から、世の摂理を冷静に見ようとする筆者の視点が第四
連からうかがえるのである。

   おだやかな冬の日もあった
   雪の結晶がいつまでも手のひらに残り
   滴となって消えていくまで見つめた日があった
   雪が融けると
   この静かな森の道では
   土の塊が 砂粒の個になって崖を転がり落ちて
             「同」最終第五連

 最終部では平穏な日々を回想している。行く手を阻んでいた雪は、か
つては親しい存在であった。雪が消えその下の土くれが崖をころがって
いく。「砂粒の個になって」という表現に、筆者は私たち人間の滅びの
瞬間を見ている。だれにでもやがて訪れる介護と死の問題を読み手に強
烈に突きつけてくる作品である。ひるがえって、詩人は、この世の生を
いかに生きるべきかを、詩作という過程を通して考え、実践し、言語化
しなければならないだろう。



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