ヒーメロス通信


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「肉、それも食肉について」木野良介、季刊詩誌『舟』147号2012年5月15日発行より

2012年05月29日 | 同人雑誌評

「肉、それも食肉について」木野良介、季刊詩誌『舟』147号2012年5月十五日発行

                                    小林稔

  肉、それも食肉についての始まりは
  その当時 状況は如何ばかりであったろうか
              「肉、それも食肉について」冒頭二行
 
このように書き出された冒頭、「その当時」とはいつのことか。一行目から
肉(食肉)が生命をはじめた最初のころと類推される。

  まず、骨を隠すように肉を身に付けはじめたはずである
  わたしのからだには
  しだいにその表面に脂がうっすらと付いてくる
                       「同」三行目から五行目
 人間の肉体がどのように作られていくかを科学的に知っている私たちには容
易に理解される。しかしこのような個体を自分とする「私」とは何なのかを問
わなければならない。

  分厚くなり、周囲の空気を追い出しながら やがて表面は固く半透明になる
  内部は、いまや液体のように
  それが蛹と呼ばれるか、脱皮と呼ばれることになるのか
  外からの様子は変わらない いまのところ
  ある深度までは皮膚を透かして内部が見えるが、
  その先は窺い知れない
                       「同」六行目から十一行目
 
「蛹」や「脱皮」は成長のプロセスを示す言葉だ。現在の「私」の肉体の状況が
起こるまでのプロセスを解剖学的に描写している。しかし次の行からは精神の領
域、ある意味で精神を賦与された肉体である私たちの夢見る空想の領域に入り込
んでいく。

  食肉とは つまり、そのあらゆる肉としての
  夢を食ってしまうことである                     
                       「同」十二行目から十三行目
 
 これは「精神を流れる想念」から導き出された一種の定義と解されよう。
「食肉」という言葉は一般的には食用とする肉であるが、筆者はここでは「肉を
喰らうこと」という意味で使っているようだ。

  夢が薄い境界線の向う側で肥大していくことだ
  境界線から先は死者の世界が広がっている
                       「同」十四行目から十五行目
 
 あらゆる肉として食われた夢が、死者の世界の閾である境界線の向うで肥大し
ているという。夢を食いながら死者の世界でそれを肥大化させるという。

  わたしにとって、わたしは
  骨を内包し 夜毎肉に触れる円筒状の通路である
                       「同」十六行目から十七行目
 
 二つ目の定義である。「わたしにとって」という語句は不必要ではないだろう
か。「わたしは」ということによって、「人間は」という定義、すなわち真理を
見い出したのであるから。この詩にはじめて触れたとき、ローマ帝国の皇帝にし
て哲人であったマルクス・アウレリウスを私は思い浮かべた。彼の著書『自省録』
に記されているところだが、ミシェル・フーコによると、マルクスが提起する表
象の吟味と実践を三つに分類している。一、対象を時間において分解する訓練。
二、対象を構成要素に分解する訓練。三、価値を低下させる縮減という主題。こ
の詩では「二」が適用されていると思う。(詳しくは、私のエセー『「自己への
配慮と詩人像」(四)』を参照。このブログのカテゴリーの中から取り出すこと
ができる。)ソクラテス=プラトン以前から流布されていた「自己への配慮」
という概念をプラトンは哲学的主題として探求したが、ローマ期(紀元一、二世
紀)には「生存への美学」へと発展し、以後キリスト教に歪曲して取り入れられ
たのである。中世の神学やデカルトのころから、本来あった哲学の霊性を棄て、認
識を重んじるようになった。それにつれて「自己への配慮」が姿を消していった
のだが、十九世紀のニーチェ、ヘーゲル、ボードレールらによって「生存の美学」
が顧みられたのである。それまで「自己」というものを否定的に見ていた考えが
さらに否定される。
 フーコーはカントやボードレールに見られる「モデルニテ」を説き、自ら倫理
不在の現代にあって、古代ギリシアに降りていき、「主体と真理」からその系譜
を読み解いていったのである。話は大分それてしまったがこの詩に見られる、
「自己の肉体の解体」を通して、価値を判断し、生き方を求めていく過程に私は
興味を惹かれたのである。この一編の詩で、この詩人の詩的行為を決めつけるこ
とはできない。「生存の美学」は、生涯を通しての耐えざる訓練(生涯を通して
の)を必要するものである。
 詩学と「生存の美学」がいかに結びつけられるべきかは、「自己への配慮」を
基軸とした詩人の体験、と全く無関係な現代の詩人たち、世界の事象から自分と
距離を保ち、言葉だけを操作している現代の詩人たち、彼らを礼賛する人たちと
共存しなければならない中で、これからの課題であろう。

  骨は夢を見る 骨の夢は
  骨が、かつて人々の占いに用いられた昔から続いていて
  目に見えないあらゆる境界線をすべて含んでいる
                    「同」最終部十発行目から二十行目




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