ヒーメロス通信


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野木京子「紙の扉」、瀬崎祐「洗骨」詩誌『風都市』25号

2013年02月20日 | 同人雑誌評

 

同人雑誌評

小林稔

 

 野木京子『紙の扉』、瀬崎祐『洗骨』詩誌「風都市」第25号より

 

とうぜん詩を書く者にはいくつかの詩法の相違がみられるが、ポエジーという概念から考えれば、相反する詩法であっても問題を提示するものであるといえる。例えば、私のように、「詩」という啓示に促され、生き方さえ変えてしまい、常識的な世界から意識的に離脱し言語の世界を突き進んでいくタイプの詩人がいる一方で、常識的世界を遵守するなかで、そこに潜む非現実を注視し、言語的に深みを追い求める詩人もいる。いずれにせよ詩(ポエジー)というものはこの世界とは別次元から由来するものであり、私たちの生きる空間に到来するものであるという実感においては共通しているように思う。また、それらは言語との関連から考えられるべきことであるという点でも共通している。上に挙げた二者の後者、つまり日常的世界、常識や慣習に縛られた世界にしっかり根を下ろして生きる詩人でこそ見えてくる詩の世界を展開する領域では、同じようにして生きる圧倒的多数の読み手には、「詩」の入り口が見えやすく理解を得られやすいのは確かである。

 「詩は一詩人の生の場における経験、日常的経験世界に、亀裂のように訪れるものである」というのは私の持論である。言い方を変えれば、表層的世界の裏側には深層的意識の世界があり、そうした意識が表層世界に現われるとき、この世界の秩序を乱すものとして私たちに意識されるということでもある。どちらの世界においても究極的には言葉によって捉えるしかないのである。後者の詩人たちは、秩序の亀裂の裏側に別の世界を暗示する表現を見つけ詩を獲得しようとしているように私には思える。

 瀬崎祐個人誌『風都市』25号が送られてきた。瀬崎氏の二編の詩とゲストとして招かれた野木京子氏の二編の詩が掲載されている。まず野木氏の『紙の扉』から見てみよう。

 

 それなりの長さの旅を終えつつあり

 残された扉を通り抜けていく

 それはきっと紙の束でできた厚い扉で

 扉にはゼラチン状の人の心が滲んで

 紙という繊維の 些細な岐かれ道にまで浸透している

                (冒頭から5行目まで)

  旅を終えた地点で通り抜ける、紙の束でできた扉という設定。「人の心が滲んで」という表現から、書物を読み終えた後の書き手の想いや、それを読むため何度も人から人に渡った古書を思い起こさせる。紙を媒体とする読書から醸し出される一種の味わいであろう。

 

 繊維の道はどこを進んでも行き止まりなので

 どこに行くこともできなかった

 それでもくまなく進むことはできた その紙の扉の中を

 風が冷たい空を渡る音がきこえていた

 山の腐葉土の匂いがしていた

 隠れたままのけものたちが

 この繊維のなかで鼻をあげて

 星雲が渦を巻く瞳を

 聞いていた

                   「9行目から17行目まで」

 

 「人の心」が滲んでいる「紙の扉の岐かれ道」に意識を辿り表現を進めている。紙の源泉を探っていくと山の木々に行き着き山林に棲息する獣たち、宇宙を取り込む獣たちの瞳が浮かび上がる。人生の途上で出逢う紙の扉=書物の扉には書く者、読む者の多くの想いが浸透している。そこから開けてくる日常生活とは別の世界が言葉によって織られていく。そこに詩を探りあてようとしていると思うが、そのことは、この現実世界に何をもたらすのか、どのような意義があるのか私は知らない。

 

 次に瀬崎祐氏の「洗骨」を読み進めていこう。

 

 いつくしんで泥のなかにうめておいた

 今宵に千回の夜をへてほりおこす

 空では月が雲にかくされている

 にぶい光がもののかたちをあわくしている

 みえないところでとけだしていくのをまっていたのだ

                   「1連一行目から5行目まで」

 

 「いつくしんで」「うめておいた」ものが何かは書かれていない。淡い光のなかで「とけだしていくのをまっていたのだ」とある。2連から類推するに、それは骨であることがわかる。ひらがなを多用することで周囲のうすぼんやりとした情景が神秘的な雰囲気を醸し出しているといえよう。

 

 待つものと待たれるものが

 あわくからみあっていたのだろう

                   「第一連最終2行」

 

 骨には

 まだいくらかのものがこびりついている

 かざりすぎていたものがあっけなくうしなわれて

 すてきれなかったものだけがこびりついている

 ほそくよじれた神経繊維がとちゅうでとぎれながらも

 まだなにかをつたえようとしている

                   「第二連冒頭6行」

 

 

 ここでも「骨」と「神経繊維」以外はすべてひらがなで表現されている。「すてきれなかったものだけ」が残る骨が何かを動かそうとしているのは「みれんでしかない」と指に伝えさせようとする。作者はそのように表現したかったのだ。

 

 つめたい水をふかいところからくみあげる

 あらう心がつめたければ水もつめたい

 そのなかに指をしずめて熱をうしなわせる

 ふれるものへのおもいがしびれてうしなわれていく

 とけだした時間がすきとおっていく

 わたしはみている

 こびりついているものをただみている

                   「第三連冒頭7行」

 

 「骨」や「指」は作者自身の肉体であろう。普段は考えずに日常世界を送る作者の意識が今宵、自分の、意識とは対になった身体を空想しているように思える。私たちは意識においてものの存在を確認している。意識が去った後の肉体は物質でしかないだろう。それは個体の死を意味する。上記した「第三連冒頭7行」は、この詩の中でも表現の上手さが際立っている。第四連以降は二行、一行、二行と一行空白を置いて書かれているが、やや散漫であり、説明的で物足りなさが残る。

 

 あらわれはじめた白さを月がてらしている

 

 すべてのあたたかさをぬぐいとられて

 これからはじまる時間がある

                   「最終行3行」

 

 「あらわれる」という表現には、「洗う」と「現われる」の二語が縁語になっている。詩の虚構はたんなる絵空事ではなく、「真実」を描き出す手法である。そういう見方をすれば「洗骨」は成功した詩であるといえよう。そうであればこそ、「虚構」は詩人の現実に何かを与えずにはいない。詩人の実存意識に変革をもたらし、意識の深層から呼びかけてくる声=コトバに耳を傾けなければならない。「これからはじまる時間」とあるが、ほんとうのエクリチュールはそこから始まるのだろう。



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