ヒーメロス通信


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『自己への配慮』と詩人像・(八)「パイドロスにおけるエロス論」前編その三

2012年05月27日 | 連載エセー「自己への配慮と詩人像」からの
長期連載エセー『「自己への配慮」と詩人像』(八)
「パイドロスにおけるエロース論・前編」その三
  小林稔季刊個人誌「ヒーメロス」16号2010年12月10日発行 


原子論との相違
 
天才とも称すべきプラトンであっても、その哲学、『パイドロス 』やその他の対
話篇で示された哲学的教説が、一人の思索からのみ生み出されたものではなく、
「 ギリシアの思想的伝統の基盤の上に形成されたもの」であり「ピュタゴラス派と
総称される人たちの間に根強く育成された世界観、これと関係のふかいオルフェウス
教と呼ばれる宗教の教義、パルメニデスを祖とするエレア学派の明快な体系、イオニ
アの地方最も古く源を発した自然哲学のあるもの、あるいはまた違った意味において、
へラクレトス学派のいわゆ万物流転の思想、等々が、前面に浮かび上がるであろう」、
と藤沢氏は「プラトン『パイドロス 』註解」で述べている。すでにこの論考で取り上
げたが、プラトンと同時代の原子論こ対置させることによってプラトン哲学の真髄を
摘出してみよう。
 西洋における近代自然科学の伝統というべき源流を、藤沢氏は『世界観と哲学の基本
問題』で分析している。それによると、古代ギリシアの思想展開の起点をヘシオドスの
『神統記』と『仕事と日々』に置く。ヘシオドスにとっては季節は人間の仕事と生き方
を律する「掟」であった。つまり自然のサイクルを観察し仕事を自然の秩序に合わせな
ければならないと考えていたという。宇宙と自然の生成を神々の系譜とし、自然現象は
神々の仕業として歌われたのであった。へシオドス以後、宇宙の成立や仕組みは「自然
の探求」と呼ばれ引き継がれていく。自然は「所与」ではなく「発見」されるものにな
り、経験と思考を参照し修正する方向に向けられる。先述したように、井筒氏は『神秘
哲学』でギリシア哲学の「二つの霊魂観」を分析し、オルフェウス・ピュタゴラス教団
の密儀宗教的要素をもつ方向とは別の論理的形而上学に終結する自然神秘主義(自然哲
学)を指摘した。タレスと同じミレトス派のアクシメネスの断片から知られるのは、
「大宇宙としての自然万有と、小宇宙としての人間とが、ともに〈プシュケー〉という
同じ原理によって支配されているということを表明している 」ということであり、
「初期の自然哲学者たちのすべてに共通する考えであった 」し、「自然哲学者たちに
とって、自然万有の根源は水や空気であると同時にプシュケーでもあり、物質と生命・
魂は未分離一体」であり、〈神的なもの〉とみなされた」と藤沢氏は指摘する。
このような自然観が「自然の探求」を進めるにつれて、ピュタゴラス派の「数」の概念
が取り入れられ、パルメニデスやゼノンといったエレア派によって、「思惟されるもの」
(実在)と「感覚されるもの」(現象)に分けられ、「ものの無限分割の可能性・不可
能性という問題に論争されるようになって」いったと藤沢氏は指摘する。この無限分割
可能性・不可能性をさらに追求したのが原子論である。
 原子論の自然観とはどのようなものかを考えてみよう。現実の物体をそれ以上分割で
きないところまで分割すると、原子に到達すると考えた。原子論の創始者はレウキッポ
スとデモクリトスといわれている。彼らは、自然万有における実在の最小の単位は原子
であり、原子を分け隔てる空虚のみであると考えた。原子は大きさや形状はさまざまだ
が、感覚的性質である、色、匂い、味、温かさや冷たさはないと考え、価値的性質であ
る、「よい」「わるい」ももたず、現実の経験は原子の集合の仕方によって現われる仮
象(見かけのもの)に過ぎないと考えた。とうぜんプシュケーも原子で構成されたもの
と考えるので、原子という「物」に還元されたことになると藤沢氏は指摘する。この原
子論が後の近代自然科学に決定的に成果をあげることになるが、その有効性と説得力は
何に由来するのか。「 われわれの感覚機構も、自然言語も、基本的には「物」を中心
として事態をとらえるようにできている 」こと、「ある事象や事物を、それを構成す
る要素へと分解し分析して、それらの要素の性格にもとづいて理解しようとする」こと
は「深く人間の本性の中に根をもっている 」ことを挙げるが、「物」の局面のみを保
証する有効性であって、知覚的性質や価値的性質、生命と魂と心などが排除されている
ので、抽象的な見方に過ぎないであろうという。同時代のプラトンが対峙しなければな
らなかった事柄である。
 プラトンは構成要素である微小物体によって説明するが、実在としての「原子」を
想定せず、「物」は第一次的な原因(根拠)ではなく第二次的な「補助原因(根拠)」
であり、プシュケーこそが第一次的な原因(根拠)であると考える。藤沢氏の解説によ
ると、プシュケーは知性的原理に助けられ「意味」と「価値」にもとづく秩序をつくり
だすものであるとプラトンは考えていたという。つまり、わたしたちは万有を意味と価
値を示すものとして知覚し経験するということであろう。その意味と価値の説明原理
なるものが「イデア」と考えられている。すべての事物はイデアによって意味と価値を
与えられ、そのつど〈場〉に映し出されて現われるとプラトンは考えたのだという。つ
まり、原子論的な「物」の考え方は「補助原因 」として取り込み、実体としての「物」
を捨て、「意味」と「価値」と「プシュケー」(生命・魂〉を根底に据える自然観であ
ったと藤沢氏は説明する。このように見ると、プラトンのプシュケーを中心とした哲学
が、どのような歴史的背景に生まれたかが少しは明白になったといえよう。

 
翼もてるエロース

かの世で見た数々の真実在の中で〈美〉のみが最も鮮明に姿を現すのは、視覚こそが
知覚の中で一番鋭いものであるからで、「もっとも強く恋ごころをひくという、この
さだめを分けあたえられた」(『パイドロス』250E)とソクラテスは説明する。

〈美〉をさながらにうつした神々しいばかりの顔だちや、肉体の姿などを目にするとき
は、まず、おののきが彼を貫き、あのときの畏怖の情の幾分かがよみがえって彼を襲う。
ついで、その姿に目をそそぎながら、身は神の前に在るかのように、怖れ慎しむ。……
(中略)……ところで、その姿を見つめているうちに、あたかも悪寒の後に起こるよう
な一つの反作用がやってきて、異常な汗と熱とが彼をとらえる。それは彼が美の流れを
ー―翼にうるおいをあたえる美の流れをーー眼を通して受け入れたために、熱くなった
からにほかならない。そしてこの熱によって、翼が生え出てくるべきところがとかされ
る。(『パイドロス』251B)

ひとが〈美〉の流れを瞳孔に受け入れたとき、すなわち少年の肉体を眼にしたときのこ
ころの動揺をこれ以上すぐれてポエジーにとらえた表現を私は知らない。右の引用の後、
それはしばらく続くが、それは読む者のかつての恋の経験を甦生しながら、魂はまさに
翼を再生する。「 歯が生えはじめたばかりのときのむずがゆさ」とプラトンは喩える。
「 この地上において美の名で呼ばれるものをみても、この世界からかの世界なる〈美〉
の本体へとむかって、すみやかに運ばれることはない」堕落した魂の持主は、快楽に
身をゆだね怖れも恥じもないと記述されているのであるが、プラトン的エロースは彼ら
の持つ肉体への欲望を否定せず、むしろ共有していると考えるべきであろう。その相違
とは、かの世に羽搏く魂の持ち主の肉への欲望が必然のきっかけであるのに対して、欲
望を限りなく追いかける魂の持主は欲望の充足を目的とすることであろう。

 そこで、この魂が、少年にそなわる美をまのあたりに見つめながら、そこから流れて
くる粒子をー―このように粒子(メレー)の流れ(ロエー)の放射(ヒーエナイ)であ
るがゆえに、それは『愛の情念』(ヒーメロス)と呼ばれるのであるがー―この愛の情
念を受け入れて、うるおいをあたえられ、熱くなるときは、魂はそのもだえから救われ
て、よろこびにみたされることになる。(『パイドロス』251C)

 前回取り上げた『饗宴』において、「自分の半身を捜し求める人々は恋している人々
である 」というアリストファネスがエロース論で語った説をディオティマの話の中で考
察され、「 死すべきものは肉体でもそのほか何でも、不死にあずかろうとする」ことが
ソクラテスとディオティマの対話で明らかにされたが、『パイドロス』では私たちの経
験を甦生させるような記述がなされている。確かにディオティマの語ることは、理性的
であるが、私たちの恋の経験なくしてはほんとうに理解されるものではないであろう。
自分の半身を求めるとはよきものを永遠に自分のものにしようと恋もとめる行為以外で
はありえず、永遠に求める行為であるならば、死すべきものは人間であろうと他の生き
物であろうと永遠不死という出産を目指すことは必定である。一人の人間は生まれてか
ら死ぬまで同一の人と思われているが、ほんとうは肉体的にも精神的にも生成と消滅を
絶えずくり返している。私たちの知識においても同一不変ではありえない。同じものと
して永遠に残すのではなく(それは神々のみに可能である)、「古くなり去り行くもの
が、かつての自分と同じような別の新しいものを後に残していくという仕方」(『饗宴』
208B)であり、人が恋することに多大な熱情を注ぐのは不死のためであるとディオティ
マは語るのであった。
 しかしながら恋のまさにただなかにいる人にそのような理性を持ちえるはずはないで
あろう。なぜなら狂える人であるからである。『パイドロス 』では恋する人の心痛を克
明に描写し、その苦悩をキリスト教における自己放棄や仏教思想の中庸において回避する
のではなく、ソクラテス(プラトン)は魂の本性を究明し活用する。つまり『善』のイ
デアへの道はわれわれの魂に宿る『悪』を見据えることでしか成立しないことを教える
のである。正気と節制を失った者として批判すべきであるというリュシアスの批判は、
プラトンにとっては、恋する相手を自分のものにするための策略としか考えられず、通
俗的道徳の隷属以外の何ものでもなかった。藤沢氏が「『パイドロス』解説」(プラト
ン全集5)で述べるように「正気と節制を一概にたたえ、狂気と恋を一概に非難すると
いうことは人間的次元においてのみ正当であるにすぎない。狂気や恋には、神的と呼ば
れるにふさわしい種類のものもあることを、われわれは知らなければならぬ」のである。
それは『パイドロス』のもう一つの主題であるという弁論術批判と通じるものがある。口
火を切ったリュシアスの論文を弁論術への反論とするには、ソクラテスによって語られ
る二番目のミュートスはあまりにも壮大なイデア論を構成していることから、二つの主
題に分かれた作品とかつて私は思ったが、いまやその弁論術批判は私たちが常識と呼ん
でいるものへの批判であったと考えられるのである。

魂が相手からひきはなされ、うるおいが涸渇するときには、翼の生え出る口も、すべて
からからに渇いてふさがり、魂の芽ばえを閉じこめてしまう。すると、この翼の芽は、
情念といっしょに完全に内部に閉じこめられてしまうので、あたかも高鳴る脈搏のように
跳びはね、それぞれ自分の出口を刺戟する。そのために、魂は、くまなくつつきまわられ
て、荒れ狂い、もだえ苦しむが、しかし一方、記憶にまざまざと残る美しい人の面影は、
この魂によろこびをあたえる。こうしてよろこびと苦しみとがまじり合うために、魂は、
味わったこともない不思議な感情にいたく惑乱し、なすすべを知らずに狂いまわり、そし
て狂気にさいなまれて、夜は眠ることができず、昼は昼で、一ところにじっとしているこ
とができず、ただせつない憧れにかられて、美しさをもっているその人を見ることができ
るほうへ、走って行く。で、その姿を目にとらえ、愛の情念(ヒーメロス)に身をうるおす
や、魂は、それまですっかりふさがっていた部分を解きひらき、生気をとりもどして刺戟
と苦悶から救われ、他方さらに、このくらべるものとてもない甘い快楽を、その瞬間に味
わうのである。(『パイドロス』251D~252)

「プラトン的イデアリズムは厳然たる体験の事実であって、けっしてたんに一つの思想的
立場ではなかった。だからこそ、彼自らも力説するように、それは全人間的方向転換を必
要とするのである。自ら親しくこの絶対的方向転換を経験することなくしては、プラトン
を学ぶ真の意義はない」と井筒俊彦氏は『神秘哲学』第二部第二章の序で語っている。ま
たプラトンにとっての「教育」とは、「 人間の意識を可能的な感性界から不可視的な叡
知界に向って強制的に転換させ、一歩一歩と個別的生成流動の相対界からこれを引き離し、
ついに存在性の濃度窮まるところ、突如として顕現する絶対超越的普遍者の光まばゆい秘
境にまで嚮導することを至高の目標とする人間形成の向上道であり、全人的転換の方法で
あった 」(同上)と井筒氏は力説する。教育とは知識を外部からたんに注入するのでは
なく、飛翔しようとする魂を助け「 善のイデア」に導くことなのである。『国家』のミュ
ートスとして描かれた有名な「洞窟の比喩 」には、「善のイデア」までの上昇と、再び
洞窟(地上世界)へ全人類的救済に向けて下降しなければならない理想の国家建設する哲
人政治家の存在が説かれている。しかし『パイドロス』ではイデアのイデアたる「善のイ
デア」に向かうための、「美のイデア」に導くエロース論を、いわばイニシアシオンとし
て、『饗宴』で語られたイデア論をより具体的に示したものであると考えることができる。
 
 魂の三部分説

 かつて私たちの魂(プシュケー)がヘスティアを除く十一のオリュンポス神につき従い
天球の内側を行進していたというミュートスは先に紹介した。それぞれの魂は二頭の馬が
引く馬車を操る馭者の姿で現さ
れていた。二頭のうちの右側の馬は姿も美しく節度と慎しみをそなえた馬であるが、もう
一方の馬は姿は醜く放縦と高慢の性格を持つ馬であった。神々の行進から脱落し翼を失い
地上に墜ちわれわれの肉体に宿った魂なので地上においても翼はないがそのかたちは維持
されている。さて、馭者が恋心をそそる容姿を目にして、熱い感覚を魂の全体におしひろ
げ、うずくような欲望の針を満身に感じたとしよう。馭者のいうことをよくきくほうの馬
は、このときもいつもと同じように、慎しみの念におさえられて、自分が恋人にとびかか
って行くのを制御する。けれども、もう一方の馬は、もはや馭者の突き棒も鞭もかえりみ
ればこそ、跳びはねてはしゃにむにつき進み、仲間の馬と馭者とにありとあらゆる苦労を
かけながら、愛人のところに行って、愛欲の歓びの話をもちかけるようにと彼らに強要す
る。馭者とよい馬とは、はじめのうちこそ、道にはずれたひどいことを強いられたのに憤
然として、これに抵抗するけれども、しかし最後には、苦しい状態が際限なくつづくと、
譲歩して要求されたことをするのに同意し、引かれるがままに前に進む。そしてそのまぢ
かまで来たとき、いまや彼らは、愛する人の光りかがやく容姿を目にする。(『パイドロ
ス』254B)

 馭者が愛する人の姿を見たとき「記憶は〈美〉の本体へとたちかえり」とある。その記
憶とはかの世で神々につき従い真実在を記憶に他ならない。ある人に心惹かれたとき、ど
こかで逢ったことのあるような懐かしさを感じる心の動きをとらえたものであろう。「そ
れ(愛する人 )が《節制》とともにきよらかな台座の上に絶っているのを、ふたたびま
のあたりに見る」と表現されている。右の引用から知られるように、肉体的な欲望を主張
する暴れ馬の牽引を活用しながら、もう一方の節度あるよい馬に導かれ、難儀しながらも
馬車を愛する人の前に進み出したのであり、放縦と節度はともに高め合っている。神のよ
うに光り輝く愛する人を見たとき、馭者は「畏怖に打たれて、仰向きに倒れ 」たので、
「二頭の馬は尻もちをついてしまう」。ひきさがって、一方のよい馬は「 はじらいと驚き
のために、魂を汗でくまなく濡らし 」、もう一頭の暴れ馬は「怒りを破裂させ罵言をあ
びせかけ」て、馭者が愛する人の近くに行かせようとしても二頭の馬は気が進まないのだが、
強要しては馭者もろともふたたび倒れてしまうのであった。神の魂であるなら馬の操縦を
いとも容易に駆け抜けるのだが、地上に墜ち人間に宿った魂には馬を操ることは困難なこと
なのである。幾度となくくり返され、暴れ馬もさすがにおとなしくなり、「 へりくだった
心になって、馭者の思慮ぶかいはからいに従うようになり、美しい人を見ると、おそろし
さのあまり、たえ入らんばかりになる」。魂を、馭者(主体)とよい馬(節制と慎しみ)
と暴れ馬(放縦と高慢 )の三つの部分に分け、馭者である主体がいかに思慮を獲得して
いくかという魂の遍歴をミュートス(物語、神話)において描き出したものであろう。
 藤沢令夫氏が「プラトン『パイドロス』註解 」で指摘するように、『国家』の第四巻
でソクラテスが語る魂の三部分説に馭者と良い馬と暴れ馬の形姿は合致するものである。
つまり、「 魂の中の〈理知的な部分〉」は馭者、「魂の中の非理知的な〈欲望的な部分〉」と
「両者の間にあって知的部分をたすけるところの、激情を司る部分」は、それぞれ悪い馬
(暴れ馬)とよい馬に相当している。さらに『国家』第九巻では、欲望を広義に解釈して
三つの部分にもそれぞれに固有の欲望があることを説く。知的部分(理知的部分)は真理
を知ること、激情的部分は権力、勝利、名声を得ること、欲望的部分は飲食や性欲、金銭
や利益をえることを対象とする。それぞれを、「学びを愛する部分」、「名声を愛する部分 」、
「金銭や利得を愛する部分」とソクラテスは呼んだ。プラトンは、ソクラテスに国家の持
っている性格を、われわれ一人ひとりの個人の性格に当てはめて論じさせているが、一人
の人間が有する魂の三つの部分とも論じている。
『パイドロス』では後者であり、欲望的な部分と劇場的な部分を上手に操る理知的な部分
をして天球の高みへと魂が飛翔することを可能にするのである。
 藤原氏は右に挙げた著者で、「 人間の主要な欲求として、知識欲と名誉欲ともろもろ
の肉体的欲望をあげるのは、ギリシア人の間に古くから行なわれていて、すでにピュタ
ゴラスが、有名な祭礼の譬喩に托して、人間の性格のタイプを三つの傾向にしたがって
分類したと伝えられる 」とし、「同一個人の魂の三区分の考え方もまた、ピュタゴラス
派オリジンのものであるという説が、かなり古くから有力である」と述べられている。
また、「その(三区分) 根本は、ロゴス的な部分と非ロゴス的な部分への二分にあり、
その二分を霊肉の葛藤や心身の対立という別の言葉で呼んだとしても、事柄自体には変わ
りはないであろう」という。このような三部分説で重要なことは「生き方としての愛知や
節制の問題」であり、「ロゴス的なものをもって、非ロゴス的なものにいかに対応するか
ということにある」。「神的なものに通じる知性の活動を感性の混濁から純化する」と
いう『パイドン』の考え方を基にして、知性の純化にとって「非ロゴス的な感性の力を積
極的に利用しなければならないという事実に注意が向けられている」と指摘する。つま
り、二つの引き合う力、一方は知性、もう一方は肉体的欲望があり、正反対の方向に引っ
張り合う。ここに「知的活動と感性的活動との関係について、純化の基本概念にさらに
協調の観念が加わっている」ことを認めなければならないと藤沢氏はいう。
「われわれの非合理な感情や暗い欲情」を知性の働きと並べて「神的な魂の機能の一部
として認めてよいか」ということはプラトンにとって躊躇しなければならなかったと藤
沢氏は指摘する。『パイドロス』ではこのような感情や欲情(肉欲や激情)は魂が地上
の肉体に墜ちて宿る前に二頭立ての馬車のミュートスであったが、『ティマイオス』で
は、「魂の神的部分」と「魂の可死的部分」に分けられた後者と位置づけられるように
なる。宇宙の創造主である神によってつくられたものではなく、「神の不死なる原質」
が可死的な肉体に包まれることによってはじめて、そこから必然的に生じるものとされ
る」(藤沢氏)のである。
 
 

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