大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書19章1~16節

2020-03-15 16:36:15 | ヨハネによる福音書

2020年3月15日 大阪東教会主日礼拝説教 「まことの王」吉浦玲子

【聖書箇所 ヨハネによる福音書19章1~16節】

 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の衣をまとわせ、 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。 ピラトはまた出て来て、言った。「聞くがよい。私はあの男をあなたがたのところに引き出そう。そうすれば、私が彼に何の罪も見いだせない訳が分かるだろう。」 イエスは茨の冠をかぶり、紫の衣を着て、出て来られた。ピラトは、「見よ、この人だ」と言った。 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたがたが引き取って、十字架につけるがよい。私はこの男に罪を見いだせない。」 ユダヤ人たちは答えた。「私たちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」

 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、 再び官邸に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。 そこで、ピラトは言った。「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか。」 イエスはお答えになった。「神から与えられているのでなければ、私に対して何の権限もないはずだ。だから、私をあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」 それで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」

 ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。 それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに、「見よ、あなたがたの王だ」と言うと、 彼らは叫んだ。「連れて行け。連れて行け。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたがたの王を私が十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「私たちには、皇帝のほかに王はありません」と言った。 そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを人々に引き渡した。

【説教】

<十字架につけろ>

 早朝、鶏が鳴くころに、ローマから派遣された総督ピラトのもとに連れられてきた主イエスは、ピラトとのやり取りの後、犯罪者として捕らえられました。ユダヤ人である主イエスをローマの総督が裁くのはローマへの反逆の意志を持っている場合であると考えられるときです。実際のところ、総督であるピラト自身は、主イエスにはそのような罪を見いだせませんでしたが、ユダヤ人の権力者に強引に押される形となりました。

 「そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた」とあります。この鞭打ちについては、御受難の聖書箇所を読む都度に何回かご説明したことがありますが、肉をえぐり取るような鋭利な突起がついたローマ式の鞭による鞭打ちで、とても残酷なものです。場合によっては鞭打ちだけで死んでしまう人もあったようです。主イエスはそのような残酷な鞭打ちをお受けになりました。そしてそののち、茨の冠を被せられ、紫の着物を着せられ、「ユダヤ人の王、万歳」といって、平手で打たれたりされました。肉体的な苦痛と共に、侮辱をも受けられました。

 ピラトは、そのような無力なみじめな主イエスには何の力もなく、ユダヤの権力者にとっても恐れるような存在ではないことを示し、主イエスの死刑を回避しようとしたようです。

「見よ、この男だ」

 ピラトは、残酷な鞭に打たれ、またその後も暴力を振るわれ肉体的にぼろぼろになった姿のイエス・キリストを指し示します。「この人を見よ(エッケ・ホモ)」という題で絵画にもよく描かれている場面です。偽物の冠を被せられ茨のとげで頭から血を流し、紫の服をつけられた、この上なくみじめな道化のようなその姿を見たら、ユダヤ人たちも溜飲を下げ、気が済むかもしれないとピラトは思ったのでしょう。しかし、ユダヤ人たちはピラトの意に反して、主イエスに対して「十字架につけろ」と叫ぶのです。

時代を越えて、また国を越えて、権力者の横暴というものはあります。権力者が、自分の意に沿わないものを抹殺するということは往々にしてあります。それが直接に自分の権力を脅かしたからという理由ではなくても、意に沿わないというだけで抹殺されることも往々にしてあります。

 ですが、ここで、主イエスに対して「十字架につけろ」と叫んだ人々は、主イエスから権力者としての面子をつぶされたことへの憎しみや腹立ちや嫉妬だけで叫んでいるのではないのです。彼らは主イエスが三位一体の神その人であることを知りませんでしたが、しかし、そこになんらかの神の力を感じてはいたのです。だから「十字架につけろ」と叫んだのです。

神の力を前にしたとき、人間は謙遜に畏れ敬うかというとそうではないのです。人間は神という存在をほんとうのところは抹殺したいのです。それが罪の本質なのです。なぜなら人間は自分が自分の神でありたいからです。自分が自分の中心であって、自分の意のままに生きたいからです。そのように自分を神としたい者にとって、神の力を帯びたものが現れるということは許しがたいことなのです。

 そもそもクリスマスの出来事を思い起こしてもそれは分かることです。主イエスが受肉され、この世に降誕されたとき、それを知った人々は必ずしも喜びはしなかったのです。マタイによる福音書によれば、東方からやってきた占星術の学者から「ユダヤの王」となる赤ん坊がお生まれになったと聞かされた当時のユダヤの王ヘロデを始め、エルサレムの人々の心には不安が宿りました。それは単に新しい王によって自分の既得権益が犯されるという現実的な不安のみならず、まことの王、それも占星術の星によって示されるようなどこか人間を越えたような存在としての王は許しがたかったという思いがあったからです。その結果、ヘロデ王は、主イエスが生まれたとされる時期から逆算して、主イエスの出生地であるベツレヘムの二歳以下の子供を殺すという暴挙に及びました。

<さまざまな罪>

 しかし、また一方で私たちは思います。私たちは、聖書に出てくるいわゆる悪役的な人々に比べたら、全然悪くないと。罪の本質が神を憎むこと、神を十字架につけることだと言われても、私たちは実際のところ、誰かを殺そうなどとは通常思いません。ヘロデ王のようなことはしませんし、今日の聖書箇所のユダヤ人たちのように「十字架につけろ」というような、誰かを死刑にまで陥れるようなこともしません。

 さらには囚人にとげのある茨の冠を被せたり、紫の着物を着せて侮辱したりもしません。侮辱した挙句、平手打ちをしたりもしません。「この人を見よ」という題の絵画を見ても、私たちはさらし者にされている主イエスに同情はしても、「十字架につけろ」などとは言わないように思います。

 ところで、今、季節は三月で、卒業やら入学試験やらの時期です。今年は卒業式などが新型コロナ肺炎の影響を受けているようですが、この時期に思い出すことがあります。私は長崎県の佐世保というところの田舎の高校を出て福岡の大学に進学しました。大阪の方からしたらピンと来られないかもしれませんが、佐世保に比べたら福岡の中心である博多は大都会でした。当時、田舎から出てきた大学生にとって都会の生活というのは目新しく感じました。そしてまたその都会の大学生活も新鮮でした。私は福岡から、高校時代仲の良かった田舎の友達に大学での生活を興奮気味に手紙に書いて送りました。その友達は、家庭の事情で大学進学をあきらめて地元に就職したのです。今思うと、私はかなり無神経だったと思います。その友達は成績も良かったのです。十分に大学に進学できる学力はありました。しかし、進学しなかったのです。でも、高校時代、彼女は進学できないことをそれほど悔やんでいるようにも見えませんでした。ごく当たり前のように、彼女は就職したのです。なので、私も無神経に、大学生活のあれこれや都会での毎日を楽し気に、さらに言えば自慢げに書いて送ったのです。友達からは普通に返事がきました。彼女の就職した先のこと、生活のことが普通に淡々と書いてありました。その文面からわたしの手紙に気を悪くした感じはしませんでした。でも一言「大学の話を聞くと羨ましく感じる」と書いてありました。新しい生活に浮かれてて、無神経な私は、その時は、その一言をさらっと読んでいました。でもずいぶんたってから、とても悪いことをしたなあと感じました。とても残酷なことを彼女にしたなあと、気づきました。現代のように、ネットが発達していない時代、都会と田舎の差は、昔はもっと大きかったのです。思い返すと、彼女の手紙には職場での辛いことも書かれていました。まだ働いていない私にはその辛さは分からずスルーしていました。そんな私の都会での楽し気な無神経な言葉は彼女には辛かったと思います。悪気はなかった、ではすまされない残酷なことを私はしたことにあとから気づきました。

 そもそも、罪ということの本質を考えるとき、そこには自己中心というものがあります。境遇の違う人のことをどうしても理解することができず結果的に冷たいこと、さらには残酷なことをしてしまうかもしれません。場合によって差別的なことを無意識にしている、そういうこともあるかもしれません。大事な人を知らぬうちに傷つけているかもしれません。親しい人の間でも、家族の中でも、そういうことは起こりうることです。

 聖書の中の悪役的な人々の姿はとりたてて残酷で非道のようですが、私たちが自己中心に生きていくとき、聖書の中の人々と私たちの罪の質はまったく同質なのです。

<恐れのゆえ>

 ところで、今日の聖書箇所には不思議な箇所があります。ピラトは基本的にはこのイエスという男をローマに反逆する力もない無力な人間だとみなしています。そしてまた、その男を訴えているユダヤ人たちを心の底では見下していました。ローマに支配された愚かな劣った民族であると考えていました。一方でユダヤ人たちもピラトを見下していました。自分たちイスラエルこそ神に選ばれた民であって、異邦人であるピラトを馬鹿にしていました。ここに出てくる人間はそれぞれに相手を見下していたのです。

 しかし、見下しているユダヤ人であって、それも同胞から訴えられて、ぼろぼろにされ、みじめな姿をされている主イエスに関して「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ」たとあります。ユダヤ人たちが主イエスは自分を「神の子と自称した」と言ったことに対して恐れたのです。異邦人であるピラトにとっても「神の子」という言葉は神聖な響きをもつもののようです。神的な存在として受け取られるようです。しかも、「ますます恐れ」た、ということから、もともと、ピラトには恐れがあったのです。

 ピラトにとっては、主イエスはユダヤ人の同胞から陥れられた哀れな人間に過ぎないと感じられる反面、今日の聖書箇所の前の部分での主イエスとの会話から、どこか不思議なものをも感じ取っていたのです。ですから「お前はどこから来たのか」と主イエスにピラトは問います。それは単純に出身地を聞いているのではなく、あなたは神的な存在なのか?あなたの由来は一体何なのか?と問うているのです。それに対して、主イエスは何もお答えになりませんでした。主イエスが神の子、さらには神その人であることは、言葉で説明しても理解されないものだからです。聖霊によって、信仰によらなければ、主イエスがどこから来たお方であるかというのは分からないからです。

 主イエスがご自身のことをはっきりと語られませんでしたが、「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」とおっしゃいます。この言葉によってピラトは、政治犯でもない主イエスを、ユダヤ人たちがローマの権力を利用して殺そうとしていることをはっきりと悟ります。ピラトは主イエスがどなたであるかはっきりとは分かりませんでしたが、漠然と恐れとして感じたのです。ローマの権力によって殺してよい相手ではないことを感じたのです。これは不思議なことです。ピラトは宗教的な人間ではありませんでした。にもかかわらず、主イエスに対して恐れを感じたのです。殺してはいけない存在だと感じたのです。一方で、自分たちは宗教的な人間であると思っているユダヤ人たちは、むしろ主イエスに対して恐れを覚えていませんでした。恐れもなく、「十字架につけろ」というのです。これは今日においても起こることです。自分は神を信じている、クリスチャンだという人が、ほんとうのところは主イエスを恐れていない、軽んじているということがあるのです。

<ほんとうの王>

 しかし、事態は、ピラトの思惑とは異なる方向に流れていきます。主イエスを釈放しようと努めたピラトに対して「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」とユダヤ人は抵抗します。本来、ユダヤ人が忌み嫌っているはずのローマの皇帝をあげて反論をするのです。「あなたは皇帝の友ではない」という言葉はまさに皇帝の臣下であるピラトにとっては弱いところを突かれる言葉でした。

 そして主イエスは最終的な裁判の場へと引き出されます。それは正午のことだったと記されています。これはまさに過越祭の準備の時でした。ヨハネによる福音書では、他の福音書に比べて、明確に、主イエスが過越の犠牲の小羊であることが強調されています。まさに過越の祭りが始まるとき、かつて出エジプトの時代、イスラエルの民のために子羊が犠牲になった、そのことを覚える祭りのそのとき、主イエスに死刑の宣告がなされるのです。主イエスは人々の解放のために、救いのために、犠牲の小羊としてこれから血を流されるのです。

ピラトは「見よ、あなたたちの王だ」と言います。ここにはピラトの腹立たしい気持ちが反映されています。ぼろぼろのみじめな姿をしている男を敢えて、「あなたたちの王だ」といって、ユダヤ人たちへのせめてもの侮蔑の気持ちを表しているのです。それに対して、ユダヤ人たちは、いっそう憎しみに火が点きます。「殺せ、殺せ。十字架につけろ」と叫ぶのです。そして「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」とまで言うのです。

彼らの目の前には、神のもとから来られた、まことの王がおられました。まことの王を前にして、彼らはローマ皇帝こそがわたしたちの王だと言ってのけました。本来は、ユダヤ人にとって憎むべきローマの皇帝よりも、まことの王である主イエスを憎んだのです。

しかし「殺せ、殺せ。十字架につけろ」と叫んだ人々は知りませんでした。みじめなさらし者にされた主イエスが、ほかでもない自分たちのためにこれから死んでくださることを。神を憎み、まことの王を見ようとしない自分たちのためにこそ、神であるお方、まことの王が死んでくださることを。本来はローマ皇帝とは比べ物にならない王であられる、この世界のすべてに対して権威を持っておられる王が、「殺せ、殺せ。十字架につけろ」と叫ぶ者たちの救いのために死んでくださるのです。

私たちもかつて叫んだのです。神を神ともせず、自分中心に生きて来た私たちは「殺せ、殺せ。十字架につけろ」とかつてたしかに叫んだのです。その私たちのために、犠牲の小羊として主イエスは引き渡されました。それは私たちの救いが実現するためでした。神を神ともしなかった私たちが、まことに罪から解放され、まことに神と共に平和に歩む日々がここから始まりました。まことの王がわたしたちのもとに来られたのです。しかし、十字架の言葉は、そして罪を露わにする言葉は、絶望の言葉ではありません。まことの希望の言葉です。まことの王が私たちのために犠牲の小羊となってくださった。そこから私たちの新しい日々が始まるからです。



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