大阪東教会礼拝説教ブログ

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ペトロの手紙Ⅰ第1章10~12節

2021-07-18 16:37:34 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年7月18日日大阪東教会主日礼拝説教「この時代に生きることの恵み」吉浦玲子 

<昔からの願い> 

 私たちは、かつて誰かが思い描いた時代を生きている、ということを時々言われます。レオナル・ド・ダヴィンチは1490年に羽ばたく形式の飛行機のデザインを描いています。人間が空を飛ぶ、そのことは長い間、人々が思い描いて、技術が人間のそんな思いに追いついて来て、1903年ライト兄弟によって初の有人飛行が実現しました。うちの子供は平成元年に生まれましたが、その子供が小学生の頃、母である私の子供のころに、パソコンもゲーム機も携帯電話もなかったと聞いてたいへん驚いて、「お母さんの子供のころは戦争だったのか」と言われたことがありました。子供にしてみれば、自分にとって当たり前にあるものがない世界というのは、とてつもなく遠い時代のように見えたのでしょう。パソコンもゲーム機も携帯電話も誰かがイメージした原型があって、その原型通りではないかもしれませんが、やがてこの世界に現れてきたものです。 

 「この救いについて、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。」救いについて、すでに調べていた人たちがいたと、ペトロは語ります。救い、つまりイエス・キリストの到来について、昔から待ち望んでいた人がいたとペトロは語ります。預言者の定義にはいろいろありますが、旧約聖書に記されているキリスト預言を辿りますと、その待ち望んでいた期間は、古い時代から考えますと、1000年以上も前といえます。飛行機や携帯電話などよりもずっと長い期間にわたってたといえます。 

 本日、お読みました旧約聖書のアモス書の預言をした預言者アモスは、主イエスの到来の800年ほど前に、来るべきイスラエルの裁きと救いを預言しました。預言ですから、神からの言葉を預かったのです。自分で勝手に考えたり想像したのではありません。「その日には/わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し/その破れを修復し、廃墟を復興して/昔の日のように建て直す」とアモスは神の言葉を語ります。これはやがてアッシリアやバビロンに倒されるイスラエルという国の復興の預言であると同時に、神の民全体、人類すべての救いの預言でもあります。イスラエルにとどまらない救い、神の祝福の回復が語られています。しかし、アモスもアモスの時代の人々も、イスラエルの回復、まして世界全体の回復もその肉眼の目では見なかったのです。レオナル・ド・ダヴィンチが人間が空を飛ぶ姿を生涯見ることがなかったように、アモスは世界の回復を見ることはありませんでした。アモスだけではありません。イザヤ、エレミヤ、多くの預言者が救いの到来を語り、それを自分の目で見ることはできませんでした。 

<人間は救いを望んだか> 

 そしてそもそもその救いは、人間自身が望んだものではありませんでした。空を飛ぶことは人間が望みました。離れた場所の人と話ができるようになりたいということも人間が願ったことです。しかし、神の救いは、人間が望んだものではありませんでした。望んでいなかったと言い切ることは正確ではないかもしれません。この地上で悩み苦しんでいた人々は、その悩み苦しみから救われることを望んでいたと言えます。私自身、教会に来る前、救いという言葉ではありませんでしたが、自分は何かを必要としている、何かに飢えている、そういう感覚を持っていたと思います。その漠然とした何かが神からの救いであったことに気づいたのは教会に来てからでした。神からの救いについて、ことに特別に神から選ばれた民であるイスラエルの人々にとって、切実な問題であったと思います。しかし、旧約の時代から主イエスが到来なさった時代まで、神の救いの現実は、人々が望んでいた救いとは違ったのです。預言者たちの言葉を正確に理解する人々はいなかったのです。ペトロ自身、そうであったと言えます。使徒言行録を読みますと復活のイエス・キリストと出会ったのちも、主イエスによる救いはイスラエルという国家の救いであると認識していたようです。 

 そもそも旧約聖書の預言者たちの言葉は、その時代の人々にほとんど受け入れられなかったのです。神に背いていたら神の裁きを受ける、そう預言者たちは語りました。その言葉も受け入れられませんでした。アモスの言葉もそうでした。アモスの時代、そもそもアモスが活躍した北イスラエルはむしろ経済的には栄えていたのです。ですからこのままでは国が亡びるという警告の言葉は人々に聞かれませんでした。北イスラエルが滅んで100年後、エレミヤが南ユダ王国に聞きを伝えましたが、エレミヤの預言も人々には聞かれませんでした。まして裁き、具体的には国の崩壊とその先にある、神の救いのご計画については、理解されませんでした。国が滅んだあと、あるいは他国に支配されている時、イスラエルの復興を人々は願いました。しかし、預言者たちが語った神の救いの本当のところは理解されませんでした。 

 でも、理解されなかったとしても当然であるようにも思います。空を飛びたいという思いは、レオナル・ド・ダヴィンチだけが持った思いではありません。空を飛ぶ鳥を見て、空を飛ぶことに憧れるというのは、多くの人間が持ちうる思いです。しかし、神による救いという考えは人間の中からは出てこない事柄なのです。滅んだ国が復興してほしい、不幸な身の上を幸せにしてほしいという願いは誰でも持ちますが、神の救いというのは普通には出てこないのです。聖書における神の救い、すなわち罪からの救いという意味での救いは人間が普通に考えて出て来る思いではないのです。人間は、自分がそもそも救いを必要な人間だとは思わないのです。それこそが罪の根源なのですが、自分が救われなければいけないということが分からないから、救いの話を聞いても分からないのです。 

<神の時間> 

 ところで、私が洗礼を受けてすぐのころ、よく分からなかったのは、なぜキリストは長い時間ののちにこの世界に来られたのかということでした。なぜダビデの時代ではなかったのか?北イスラエルが滅ぶ前ではなかったのか?南ユダ王国が滅びてバビロン捕囚となる前ではなかったのか?たしかに人間は救われなければならない存在であることを多くの人々は知らなかった。でももっと早く救いは来ても良かったのではないか?そう考えたりもしました。キリストが来られる前、多くの人々が罪の闇のなかで地上の人生を終えました。なぜもっと早く来て多くの人々を救ってくださらなかったのか?しかし、それもまた神の時間の中に定められていたことなのでしょう。人間は神の時を知ることができません。 

 しかし、一方で人間にとって長い長い時間の流れの中で、預言者たちを通して、神が救いの計画をあらかじめ伝えてくださっていた、12節に「それらのことが、自分たちのためでなく」とありますように、預言者たちの時代のことではない救いを伝えてくださっていたのは、神の救いへの強い意志の現れであったといえます。神は一方的に救いを人間にお与えになることを決め、そしてそれを預言という形で人間に約束してくださっていたのです。その約束の意味が分かるのは、主イエスの弟子たち、ペトロたちに聖霊が注がれるペンテコステの時まで待たねばいけなかったのですが、その約束にこそ、神の揺るぎない人間への思いがありました。預言者たちは、その救いを見たかった、しかし、彼らは見ることができなかった。でも、彼らはやがて来る救い、キリストを神によって知らされ、当時の国の人々には理解されなくても、希望を持ってその地上での命を終えたと思います。預言は預言を信じる者にとって、今や近い将来起こることではなくても、人間に希望を与えるものです。 

<キリストの霊が語ったこと> 

 旧約聖書の預言者たちの時代、当然、まだイエス・キリストは、肉体をもってこの世界には来られていませんでした。ですから、11節に「キリストの霊」と書かれているのは不思議に思われるかもしれません。しかし、キリストは世の初めの時から父なる神と共にこの世界におられました。父なる神と共にこの世界を創造されたのです。そして肉体をもってこの世界に来られる前も、霊として預言者たちに働きかけていました。来るべきご自身の受難、栄光について、キリストご自身がお知らせにならなければ、それは到底、人間には理解できないことです。 

 新約の時代に生きる私たちにとって、キリストの受肉、降誕、十字架、復活ということはすでに知らされていることです。しかし、ペンテコステ以前の人々にとって、それは信じ難いことでした。イスラエルを救う救い主の到来を待ち望んでいましたが、その救い主が苦難をお受けになるということは到底信じがたいことでした。神のもとから来られる方が、そして神そのもののお方が、苦難に遭うということはキリストの霊によらなければ理解できないことなのです。イザヤ書で有名な主イエスの苦難を預言した53章で「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」と預言者は語っています。キリストの霊によって知らされた預言者自身、到底、信じられないことが起こった、それがキリストの苦難です。 

 しかし、現代に生きる私たちもまた、知識としてはキリストの苦難を知っていても、本当にそれが自分の救いのためであること、キリストが私のために苦難を受けられたことを知ることは聖霊によらなければ不可能です。知識として十字架を知ることと、わたしのためにキリストが十字架にかかってくださったことを知るのは全く異なることです。神であるお方が、私のために苦しまれた、そのことを聖霊によって知る時、私たちは神から与えられた恵みの大きさを知ります。 

 いま、私たちに与えられている恵みは、3000年に渡って預言者たちが待ち望んでいた恵みであり、「天使たちも見て確かめたい」と願ったほどの恵みでした。そう考えますと、私たちに与えられている恵みの大きさが分かります。 

 私たちの時代は、飛行機を始め高速で移動できる交通手段を持ち、裕福な国においては、人々は豊かで便利にな生活が行えています。しかし同時に、それで人間が幸せになれるわけではないということも多くの人々は知っています。豊かなモノに囲まれても、孤独な人、心を病んだ人々がたくさんいます。そして一方で、コロナの禍に象徴されるように、どこまでいっても、人間の知恵や技術でコントロールできないことがらがあります。どこまで行っても、混沌として不安に満ちたこの世界です。しかし、キリストを信じる時、私たちは別のことが見えてきます。私たちはすでに救われているということです。預言者たちが、そして天使たちまでも見たいと願っていた救いを私たちは既に得ているということです。その恵みの内に生きているということです。そしてまだ神の約束は続いています。この世界全体を救いを完成させてくださる終わりの時があるということです。キリストがふたたびお越しになる、その希望を私たちは持っています。預言者たちにかつて語られた神の約束は今も続いています。希望の約束です。私たちは、今この時の恵みを感謝し、さらに未来に向かって希望を持って歩みます。 

 

 



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