大阪東教会礼拝説教ブログ

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ペトロの手紙Ⅰ第3章1~10節

2021-09-05 18:48:07 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年9月月5日日大阪東教会主日礼拝説教「命の恵みを受け継ぐ」吉浦玲子 

 「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」とペトロは語っています。ペトロは、前の章で、この世の権威、権力者に従うこと、召使、つまり奴隷に対して主人に従うことを促しています。この世の力ある者に従いなさいと言っているのです。その流れの中で、今日の箇所では、妻にとって、当時は絶対的な権力者であった夫に従うようにと勧めています。 

 ペトロの時代、女性の地位は今と比べものにならないほど低かった、低いというより、人間としてカウントされていなかったと言えます。 今日の聖書箇所を読んで、雇用均等世代である私は、正直、すっきりとは受け取れないところがあります。男女平等が一応は叫ばれていて、家族制度も旧憲法下の家長をいただくあり方とは異なっています。一方的に妻に夫に従えということには同意しかねるのです。しかしここは、先ほど申し上げましたように、当時の社会のあり方を基盤にして語られています。主イエスがイスラエルを植民地としていたローマを倒すレジスタンス運動を起こされなかったように、ペトロも皇帝にたてついたり、奴隷に対して自由を得るために蜂起せよとは語りませんでした。そして妻たちに対しても、男女同権を主張するようには語りませんでした。 

 私たちは今ある社会の中で、その権力の構造の中で、生きていきます。理不尽なこと、納得できないことが多々あります。しかし、主イエスを信じる者は、たしかにこの世界で生きながら、実際のところ、すでに別の世界で生きています。すでにイエス・キリストのゆえに、私たちは天に本籍をいただき、天につながれて生きています。いま私たちが生きている家庭、社会、会社、国家はかりそめのものであると考えます。私たちはこの世に生きながら、すでに別のところ、すなわち神の国の住人です。しかし、だからこそ、今、神によって生かされているこの世においても、私たちは誠実に生きていくことが求められます。 

 逆に言えば、神への誠実は、今現実の目の前にある自分が仕えるべき人や社会や組織への誠実な態度によって現されます。妻たちにペトロは言います。夫がキリストを信じない者であっても夫に従えと。それは前の章で異教徒の間で立派に生活しなさいと言われていることと同じです。私たちのこの世における誠実な態度が、相手を神へと導くことになるというのです。そしてその誠実さというのは真面目さとか、杓子定規な律法的な正しさではなく、神への誠実さそのものに基づくものです。神への誠実のゆえに目の前に人に対しても出来事に対しても誠実にならざるを得ないのです。神に従う者はその日々においても誠実に生きるのです。理不尽な相手に対しても、あまり面白くない仕事であっても、神が与えられたゆえに、誠実に向き合うのです。 

 「神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」とペトロは語ります。純真な生活というのは混じりけなく真実に神を畏れる生活ということです。学生の頃、家庭教師のアルバイトをしていた先の家のお母さんが、ある宗教に入っておられました。かなり熱心でした。お子さんと勉強が終わって食事をいただくときも、熱心にお母さんは宗教の話をなさっていました。お手洗いをお借りするとお手洗いにもその宗教のパンフレットが置かれていました。それほど熱心なのに、お父さんやお子さんたちはまったくその宗教に興味をもっておられませんでした。家族同士でも、それぞれの信仰には口を挟まないという感じではありましたが、熱心なお母さんに対して、他の家族はひややかであったともいます。しかし、お母さん自身は熱心に伝道はなさっていたのです。今考えますと、親切で気さくなお母さんで学生だった当時の私にはありがたかったですけれど、トイレにまでパンフレットがぶら下げてあるのは、家族としてはちょっとうんざりだったかもしれません。その信仰はキリスト教ではありませんでしたが、そのお母さんにしてみたら、ご自分では信じている神を畏れる生活をしていたつもりかもしれません。しかし、ペトロがここで勧めている「純真な生活」とはトイレに伝道用のパンフレットをつりさげたりするような熱心さではありません。聞かれてもいないのに、たびたび聖書の話をすることでもありません。日々に、神を畏れる姿勢がその人から見えるということです。家ではほとんどキリスト教や聖書の話はしないけれど、礼拝はきちんと守っている、これみよがしに聖書を開いたり祈ったりはしないけれど、なんとなく日々、御言葉を読み祈っているようだ、そのような感じはおのずと伝わっていくのです。 

 ペトロは「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。」と語ります。ここをさらっと読みますと、良い妻は、派手な格好をせず、柔和でしとやかであれと言われているようです。実際、教会によっては、女性が派手な格好をすることをたしなめるところがあります。赤い口紅をつけていたら先輩の女性に叱られたと聞いたことがあります。実際のところは、服装のあり方は、地域や年代、教会の雰囲気によるところが大きいと思いますが。ただもちろんここでペトロがいいたいのは、礼拝におけるドレスコードの話ではなく、内面が大事だということです。口紅の色や髪型の問題ではなく、女性は内面によって装えというのです。とはいえ、ここで語られる「柔和でしとやか」という言葉は、性別や年代によって受け取り方が異なるかもしれませんが、現代では女性を古い固定概念で縛る言葉と受け取られるかもしれません。特にしとやかと訳されている言葉には違和感を持たれるかもしれません。クリスチャンの妻はしとやかでなければならないのか。しかしこの「しとやか」と新共同訳で訳されている言葉の元となっているギリシャ語は、「静かな霊」(quiet spirit)という意味のギリシャ語です。つまりここは「柔和で静かな霊」を内面的に持てということです。柔和で静かな霊とは、言ってみれば、キリストの霊です。前回もお話ししたように、主イエスは十字架におかかりになるときも、権力者たちに従われました。最後まで柔和で静かなお方でした。「メシアだったらそこから降りて見ろ」と侮辱する人々に対して十字架の上で静かにしておられました。妻たちもそのようであれ、とペトロは語っているのです。キリストを内にもって歩めということです。上品そうに口数少なくしていれば良いということではありません。キリストを内に持ち、キリストに倣って歩むのです。 

 ところで、妻に対して、髪の飾りや服装の言及があるのは、女性が、どうしてもおしゃれにかまけがちだから敢えてペトロは言っているのでしょうか。そういう側面もあるかもしれません。しかしまた同時に、女性は本人の意思に関係なく、どうしても外面を求められる存在であることとも関係すると思います。特に聖書の時代、女性の内面など問題とされていなかったともいえます。夫から見て、満足のできる外面、つまり容姿や服装、態度を求められ、内面的なことは求められなかった存在であったといえます。その女性たちに、内面が大事だと述べているのです。当時、その内面など問題とされなかった女性たちの内面を神は深く顧み、支えてくださっているということです。女性も、一人の人間として神の前に立つのだということが語られています。そしてそれは旧約聖書の時代から変わらぬことなのだと、アブラハムの妻のサラをとりあげて語っているのです。 

 そして最初に申し上げましたように、2章から、ペトロは、当時弱い立場にあった人々へ語っているのですが、これは、現代に生きる私たちすべてに言えることです。夫であれ妻であれ、庶民であれ、権力者であれ、皆、キリストを内に持ち、キリストに倣って歩むのです。 

 そしてまた、夫たちに対してもペトロは語ります。夫たちへの言葉は短いですが、むしろ妻たちに対してより、厳しい言葉が語られます。「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを受け継ぐ者として尊敬しなさい」と語っています。当時、妻に対して絶対的な権力を持っていた夫に対して、妻は弱い存在だとわきまえて一緒に生活をしなさい、尊敬しなさいと語っています。弱い者に対して力で抑え込むなと言うのです。いやむしろ我が家は妻の方が強いというところもあるかもしれませんが、大事なことは「命の恵みを共に受け継ぐ者」だということです。神の前にあって、キリストのゆえに、力が強かろうが弱かろうが、共に命の恵みを受け継ぐ者同士なのだというのです。キリストの十字架のゆえに、罪に死ぬのではなく、命に生きる存在同士とされたのです。これは弱い人だから大事にしましょうという力ある者が上から目線でいうこととは異なるのです。薄っぺらなヒューマニズムで弱い人を助けましょうということとは根本的に異なるのです。キリストの十字架の前に共に立つ者として尊敬をするということです。 

 さらにペトロは語ります。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」権力者も庶民も、主人も奴隷も、夫も妻も、どのような職業の人も、多くの人と共にある人も孤独な人も、愛し合い、憐れみ深く謙虚に生きなさいというのです。これは当たり前の人間のあり方のようです。しかし、実際のところ、キリストなしではなしえないことです。信仰者同士だって気の合わない人はいます。意見が対立する人はいます。まして悪を為す人、侮辱する人に対して、私たちは祝福を祈ることは本来できません。キリストが十字架の上で、ご自分を侮辱する人々のために祈られた。そのことのゆえに私たちは祈ります。いや実際は祈ることは難しいのです。キリストのようには到底祈れません。今日の聖書箇所の最後のところはさらっと読むととても美しい言葉ですけれど、たいへん厳しことが語られているのです。厳しいことですが、悪を為す人、侮辱する人々の祝福を祈るのは我慢して、修行のように祈るのではないのです。私たちがすでに祝福を受け継ぐために召されているから祈るのです。私たちはすでにありあまるほどの神からの恵みをいただいています。さらに神の子として神の財産を相続する者でもあります。その豊かさと希望を与えられているゆえに、他者の祝福を祈るのです。自らの祝福を信じているゆえに他者の祝福を祈ることができるのです。何より私たちはキリストをいただいています。そしてまたキリストのものとされています。すでにキリストという貴い宝を私たちは得ています。その宝ゆえに私たちは他者の祝福を祈ります。 

 

 



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