大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ルカによる福音書23章44~56節

2019-09-08 13:35:59 | ルカによる福音書

2019年4月14日 大阪東教会主日礼拝説教 扉は開かれた吉浦玲子

<ゆだねること>

 十字架の上の主イエスの言葉から聞いています。今日は最後の七つ目の言葉です。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と主イエスは十字架の上で叫ばれました。主イエスは神に等しい方であり、父なる神の御子であるお方でした。ルカによる福音書ではその降誕の時、天使と天の大軍の大いなる賛美がなさました。しかし、十字架に主イエスがつけられているとき、天使と天の大軍が来ることはありませんでした。もちろん、けっして主イエスは無力であられたわけではありません。神と等しいお方が、その神の力を最後の最後には発揮することがおできにならなかったわけではありません。ただ、主イエスはすべてを父なる神におゆだねになりました。父なる神は天使も天の大軍もその御子の十字架のときには遣わされませんでした。それが父なる神の御心でした。そして主イエスはその父なる神にすべてをおゆだねされたのです。

 わたしたちの人生ということを考えます時、往々にして神にゆだねざるを得ない局面があります。人間の努力や意思ではどうにもならない局面があります。高度一万メートルで航行している飛行機の機体にトラブルが起きたとき乗客にはどうしようもありません。実際、仕事でアメリカに行ったとき、気流の状態がひどく悪く何千メートルも乱降下する飛行機の機内にいたことがありますがそういうときはもうどうしようもないのです。私たちは不可抗力のトラブルや事故に巻き込まれた時、あるいは病が重篤な場合、神にゆだねるしかりません。わたしたちは自分でどうにもできなくなったとき、神にゆだねざるを得ません。力尽き倒れたときわたしたちは神にすべてをゆだねざるを得ません。それは人間的な感覚でとらえますと、ある意味、敗北でもあります。

 しかし主イエスはそのようなわたしたちとは異なります。十字架の上で敗北をなさったわけではありません。主イエスは天の大軍を呼び寄せることも、自ら十字架から降りることもおできになったでしょう。しかし、主イエスは、ご自身の意思として、父なる神にご自身をゆだねられました。肉体が滅び、やがて陰府にまで下ることになる、それを父なる神の御心としてお受けになりました。フィリピの信徒への手紙2章6節にこのような言葉があります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。まさに主イエスはその死に至るまで、十字架の上でへりくだり、従順であれました。徹底して神にゆだねられました。この主イエスの父なる神への従順は見習いたいと願うものであります。たとえば自分が死の床にあるとき、主イエスのように「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈れたらどんなにいいでしょうか。もちろん、そう祈れるかどうかはそのときにならないとわからないことです。しかし、多くの場合、なかなか難しいことであるとも思います。

 さきほど申し上げましたように、人間にはもう自分ではどうしようもない局面があります。神にゆだねざるを得ないときがあります。しかし、そのどうしようもないときに、もちろん、神よ、ゆだねますと自分を差し出したら良いのですが、しかし、実際のところは、それまでの人生においてどれだけ自分が神にゆだねて生きて来たかということがそのとき問われます。いよいよもうだめだというとき、自分を神の前に投げ出すとき、もしそれまでの人生においても、神にゆだねた生き方をしていたらならば、そこに平安があります。心から自分を神にゆだねる時、それは敗北ではなく、むしろ勝利であり平安なのです。もちろん恐れや不安はゼロではないでしょう。しかし、それまでの人生において神に従い、神に従順に生きてきたとき、いよいよというとき、自然に神に身を任せることができるようになります。

 良く「自分を神に明け渡す」と言われます。自分が自分の人生の主人公で、自分中心に生きていくありかたから、自分の人生の真ん中に神に入ってきていただく生き方が「神に明け渡す」生き方です。自分の心を部屋に例えると、たくさんの自分の好みの家具や雑貨が所せましと置かれている状態が最初の自分です。それらのモノの管理は自分がやっています。そしてどんどんと好みのモノは増えていくのです。そこには神が入るスペースがありません。自分の好みの家具や雑貨の間の狭いところで神は窮屈にしておられます。神は本当はもっと豊かに働き恵みを与えたいと願っておられますが、私が神の働きをとどめている状態です。しかし、神と共に生きていくとき、祈りと御言葉の生活をしていくとき、どんどんと心の中のモノを捨てていくことができるようになります。神の働きの邪魔になるモノを捨てることができるようになります。そして神様が自分の部屋の真ん中にゆったりといてくださるように整えていくことができるようになります。そうやってどんどんと自分の心の部屋のスペースを神に明け渡していくのです。そうやって神が自分の心の中心におられるようになったら、これまで自分の好み、自分のやり方でやってきたことが、だんだんと神様が喜ばれるモノに変わっていきます。神様が主体的に私たちの心の部屋を整えてくださるようになります。これは一生かかって変えていただくものです。一生かかって私たちは、神に自分を明け渡していきます。そして一生かかって私たちは神に自分をゆだねる者とされます。

<罪を砕く叫び>

 ところで、今日の聖書箇所は少し前に一緒にお読みしましたマルコによる福音書においてイエス様が亡くなられる場面と内容的に重なっています。全地が暗くなり、イエス様が叫ばれて息を引き取られ、そしてまた神殿の幕が裂けたというところは似ています。しかし、中心となる、イエス様の言葉が違います。以前お読みしましたように、マルコによる福音書ではイエス様は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。しかし今日の聖書箇所では、主イエスが叫ばれたのは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でした。言葉についてはマルコによる福音書を一緒にお読みしたときお話ししましたのでここでは触れませんが、しかしよく読みますと主イエスの言葉の違い以外にも、少し違うのです。たとえば全地が暗くなることも、マルコによる福音書では「全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されていますが、今日の聖書箇所では、「全地は暗くなり、それは三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」と「太陽は光を失っていた」という言葉がさらに重ねられています。これはいずれもアモス書で預言されている裁きの日の成就ですが、ルカによる福音書の方がさらに闇が深く描かれています。ある説教者は、「太陽が光を失っていた」というのはキリストを十字架につけた人間の罪の深さのゆえに神がそのみずからの光を人間に注ぐことをおやめになった状態であると語っておられました。創世記において「光あれ」とおっしゃった神が、光を人間に注がなくなった状態です。それは罪なきキリストを十字架につける人間の罪のあまりのひどさのゆえに、神が人間からその御顔を背けられている状態であるとも言えます。

 神が御顔をそむけられる、あるいは神が沈黙をなさる、それは神が冷酷で残酷だからではありません。人間の悲惨から目をそむけ、放っておかれているわけではないのです。あまりにも人間の罪が深いゆえに神は人間から見るとその光を隠され、御顔を隠されるのです。十字架の時は、まさに神の御子を、神と等しいお方を、人間が十字架につけるという、人間の罪が極まった時でありました。そのとき、太陽は光を失ったのです。神は御顔を隠されました。

 そしてまた、神殿の垂れ幕が裂けました。これはマルコによる福音書では主イエスが息を引き取られたときに裂けたと記されていましたが、本日の聖書箇所では主イエスが息を引き取らられる前に裂けたと記されています。これは福音書間で事実が矛盾して記述されているというより、それぞれの福音書を記した人々が、それぞれに聖霊によって語られたことを信仰的にとらえて記したことによる違いといえます。ルカによる福音書においては垂れ幕は主イエスの死の前に裂けました。ある方は、これは神殿の破壊、すなわち、人が神を礼拝することができなくなったことを意味するとおっしゃいました。人間の罪が極まり、太陽が光を失い、神が御顔を背けられた、そして人間と神をつなぐ礼拝をおこなうための神殿が壊れたのです。神と人間の間をつなぐものが破壊されたのです。人間の罪のゆえに破壊されたのです。神と人間の間が断絶したのです。神を礼拝することができなくなってしまったのです。

 しかし、その人間の罪のゆえの闇の中、神殿が崩壊して、神と人間をつなぐものがなくなったそのとき主イエスは叫ばれるのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。父なる神が人間から顔を背け、恵みの光を注がず、礼拝を捧げられることも拒まれている、そのとき主イエスは叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。これは御子からの父なる神への呼びかけでした。主イエスはここで父なる神を信頼し、すべてをゆだねられ、平安に死へと向かわれただけではありません。人間の罪の闇が極まるなかでなお父に呼びかけられたのです。沈黙される父へとなお御子はご自身を捧げるということを伝えられたのです。ご自身を罪の贖いの捧げものとして捧げることを叫ばれたのです。どうぞ父よ、お受け取りください。犠牲の小羊であるこの私の霊を、わたしのすべてをお受け取りください。そしてこの罪の闇を打ち破ってください。ふたたび人間があなたを礼拝することができるように、あなたの御顔を見上げることができるようにしてください。そのような新しい時代を開いてくださいという叫びが「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でした。

 その主イエスの叫びが闇を切り裂き、新しい扉を開きました。もちろんそれが明らかになるのは復活の朝です。しかし、その叫びを聞いた人々はその朝を前にして、なにごとかを悟ったのです。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美したとあります。百人隊長はまさに主イエスを十字架につけたローマ側の人間でした。十字架にかかった罪人を見たのは初めてではなかったでしょう。多くの罪人を見てきたと考えられます。だからこそ、わかったのです。主イエスは他の罪人とまったく違うお方であることを。百人隊長は主イエスの叫びを聞いて、なにごとかを感じ取ったのです。そこに偉大なことが起こったことを感じ取ったのです。主イエスの十字架が神の出来事であったことを悟ったのです。それも恐ろしいことではなく、神の恵みの出来事であることを悟ったのです。ですから神を賛美したのです。とてつもない神の業がそこにあったこと、新しい扉が開かれたことをを悟ったのです。また見物人たちは「胸を打ちながら帰って行った」とあります。主イエスをののしっていた人々もまた、なにごとかを感じて帰って行ったのです。

 主イエスの十字架は人間の罪の闇が極まったところに立ちました。本来なら神が御顔を背け、人間との交わりを断絶するそのときに、主イエスの叫びによって新しい扉が開かれました。私たちは普段自分が闇の中にいるとは思いません。いえむしろ現代は光にあふれています。偽りの光にあふれています。偽りの光に慣れて、闇を知らない私たちの内側で闇はいっそう深まっているでしょう。しかしそこにも主イエスの叫びが届くのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。罪深い闇の中にいる私たちを救い出す叫びです。闇を破り神の恵みの光を私たちに注いでくださるための叫びです。



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