大阪東教会礼拝説教ブログ

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2017年4月30日主日礼拝説教 ローマの信徒への手紙1章1~17節

2017-05-10 14:42:51 | ローマの信徒への手紙

説教「福音を恥としない」

<書簡とは>

 この朝は、少し長い箇所をお読みいただきました。今日から「ローマの信徒への手紙」・・・「ローマ書」という言い方も良くしますが・・・この「ローマの信徒への手紙」の連続講解説教を主の日の礼拝で行います。新約聖書には多くの手紙、書簡と呼ばれる文書が含まれています。福音書がイエス様の行いや言葉をおさめた書物であるのに対して、手紙は、初代の教会のリーダーたちが書き残した神学文書であると言えます。新約聖書の成り立ちからいうと多くの手紙の方が、福音書より先に書かれたと言われています。リーダーたちの手紙は当時の多くの教会で読まれ、信仰の道筋を表すもの、教会を打ち建てて行く基礎とされました。その手紙がやがて新約聖書の中に正典としておさめられたのです。

 手紙は、手紙ですから差出人があり、送られた先があります。送られた先は、ほとんどの場合、教会でありました。ローマの信徒への手紙であればローマにあった教会に送られたわけです。しかし、手紙は送られた先の教会だけでなく、複数の教会で回覧され、信仰の基盤となるものとして読まれたようです。その手紙の内容は、当然ながら、差出人とされる人物ごとに異なりますし、その書かれた時代背景や直接の宛先となった教会の状況などによって異なります。

その中で、今日からお読みします「ローマの信徒への手紙」は、ある意味、手紙中の手紙と言いますか、もっとも端的にキリスト教の信仰を言い表した書物であるとして、特に多くの人々から大事にされてきた手紙です。信仰が混迷している時代、多くの信仰者がこのローマの信徒への手紙に立ち帰って、そこから新しい力を得たと言われる書物です。神学者に多大な神学的気づきを与えた書物とも言われます。ルターもそうですし、カルヴァンもそうでした。そしてまた20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトもまたその最初の著書は「ローマ書」でした。

 もっとも、ルターだカルヴァンだバルトだと言うと、とても大仰で、なんだか難しいような印象を持たれるかもしれません。実際、書簡は物語として読める福音書とは少し勝手が違います。しかし、それぞれの書簡には神学的な深い考察だけでなく、差出人とされている伝道者の息吹や、当時の教会の置かれていた状況も垣間見ることができます。神の御子キリストがガリラヤでお始めになった宣教の業が、イスラエルから異邦の地へ広がりながら、人間である伝道者と、人間の集まりである当時の教会がどのように苦闘をしていたか、そういうことを読み取ることができます。さまざまな困難の中にあって、右往左往しながら、しかしなおそこに神の言葉を響かせようとした人々のすがたを見ることができます。そしてなにより、書簡を読むとき、人間が書いて、そしてまた編集をした文書でありながら、まぎれもなくそこに働いている聖霊の力、神の力をわたしたちは感じることができます。書簡を通じて、その時代の教会に、また、人々に働かれた神の業を私たちは見て行くことができます。

 そのような書簡、ローマの信徒への手紙の冒頭は、まず差出人である伝道者パウロの自己紹介から始まっています。この手紙はコリントで書かれたと考えられています。パウロはすでにローマにもキリストを信じる人々がいることを知って喜んだのです。そしてその人々と交わりを持ちたいと願っていました。その願いのゆえにこの手紙は書かれました。パウロの、新約聖書の中にある他の教会宛書簡は、パウロ自身が創設や牧会に関わった教会に宛てて記されていますが、このローマの信徒への手紙は、パウロ自身がこれまで関わっていなかった教会、まだ見ぬ信仰共同体に宛てられたものです。ですから、手紙の全体の内容も、いってみれば自己紹介的なところがあります。自分自身のこと、そしてまた自分の神学的な考え方の基本を紹介している内容となっています。パウロはいつかローマに行って伝道をしたかったのです、その思いもあり、ローマに向かうに先立ち、ローマの人々に挨拶をおくった手紙であると言えます。

<キリストの僕(しもべ)>

 この書簡は「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と始まります。パウロの書簡にはキリスト・イエスという表現が良く出てきます。イエス・キリストとどう違うのか?もちろん違わないのです。しかし、より<キリスト>、つまり<救い主>ということを強調したいために、キリストという呼称を先に置いてキリスト・イエスと記しているのでしょう。そしてその僕であるということもパウロは良く記します。僕という言葉はその語源は奴隷ということです。わたしはキリストの奴隷なんだ、パウロは心からそう思っていたのです。通常、奴隷と言うと自分の意に反してこき使われ酷い目にあわされる自由を奪われた人間というイメージがあります。実際、パウロはキリストに捕えられていた、と言えるでしょう。

 パウロはそもそも大知識人でありました。ファリサイ派の学者であり、ユダヤ人の指導者階級にあった人です。そして最初はキリスト教徒を迫害する立場にありました。しかし、復活のキリストと出会い、劇的な回心をしたことは使徒言行録にも記されています。もともと大知識人で、人々から一目も二目もおかれていたパウロが、今度は迫害される側の人間になったのです。パウロはそれまでの自分が誇っていたさまざまなこと、学問も家柄も立場も皆捨てて、まさにキリストの奴隷となったのです。

 しかしそれはパウロにとっては苦しみではありませんでした。生けるキリストと出会い、使命を与えられた、「神の福音のために選びだされ、召された」そのことはパウロにとってこの上ない喜びであったのです。神に選びだされ召されたそのことの喜びのゆえに、パウロはその他のすべてのことを捨てたのです。他のことはどうでもよくなったのです。自由すら捨てたのです。まさに奴隷となったのです。その日々のすべてをキリストの福音のために捧げる、そのことこそがパウロの喜びでした。

 しかし、パウロの宣教の業はけっして楽なものではありませんでした。コリントの信徒への手紙Ⅱ11:24には「ユダヤ人から40に一つ足りない鞭をうけたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともあります。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、嘘の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともあります。」とすさまじい苦労が記されてあります。これを読むならば、どこに喜びがあったのか、もう苦行のような毎日ではないかと感じます。パウロの言うようにパウロが本当にキリストの僕、奴隷であるならば、キリストはどれほどパウロを酷い目にあわせておられるのかと思ってしまいます。

<多く赦された人>

 しかしなお、パウロには喜びがあった、それは苦行をするような、あるいは自虐的な喜びではなく、本当の平安をともなった喜びだったのです。自分自身の存在の根源がキリストによって救われている、それをパウロは知っていたからです。ファリサイ派として、聖書を学び、律法を徹底的に遵守していた。たいへんな努力家でもあったと考えられるパウロです。とてつもなくまじめで熱心な人だったのです。その熱心さゆえに、人々を裁き、キリスト教徒を迫害していたパウロは、キリストと出会って、自分の罪を知りました。その罪は単にキリスト教徒を迫害したとか、律法を守れない人を裁いたと言ったことではなく、自分の存在そのものにある罪の本性に気づいたということでしょう。そして、律法の遵守では自分は救われないことを知りました。ただ、キリストの十字架の血潮によってのみ自分が救われたことを知りました。パウロは自分のことを罪人のかしらだと言っています。新共同訳聖書では「罪人の中で最もたる者です。」と記されています。讃美歌の249番に「われつみびとのかしらなれども 主はわがために命を捨てて つきぬいのちをあたえたまえり」という歌がありますが、まさにこの讃美歌の思いをパウロは持っていたのです。つみびとの頭である自分のために、命を捨ててくださったキリスト、そのキリストの裂かれた肉、流された血を思う時、パウロはこの世での労苦はさしたるものではなくなったのです。

 ルカによる福音書7章47節に罪深い女が主イエスの足に接吻し香油を塗る場面があります。この女は一説には娼婦であったと言われます。周囲の人々はこの罪深い女にご自分を触れさせている主イエスを怪訝に思います。しかし主イエスはおっしゃいます。「この人が多く罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」、、、、<赦されることの少ない者は、愛することも少ない>しかし、主イエスの足に香油を塗った女は多くを赦された、それだけ罪が大きかったのです。この女は自分が多く赦されたことを知っていたのです。しかし、多く赦されたから多く愛することができるようになったのです。パウロもまたそうでした。自分は罪人の頭だ、そんな自分すらも赦された、その赦されたことの大きさのゆえに、多く愛したのです。愛ゆえに、宣教に励んだのです。長老教会の牧師たちに大きな影響を与えた神学者に熊野義孝先生がおられます。三年前、准允を受けた時、皆様方からお祝いで熊野先生の神学書をいただいたのですが、その熊野先生の言葉に、「伝道とは愛の業である」という言葉があります。単に教会を大きくするため、あるいは財政を安定化するために伝道をするのではない、そうではなくて、人々をキリストの救いへと導くという愛のゆえに教会は伝道を行うのだと熊野先生はおっしゃっていました。そしてそれはパウロの姿とも重なるのです。

 罪人の頭であった自分すら赦された、赦されただけではない、特別に召されて、その働きを与えられた、そこにパウロの喜びの源泉がありました。そしてつきあげるような愛がありました。これはパウロという特別な大伝道者だからそうなのだということではありません。これは、ここにいる皆がそうなのです。皆が罪赦された。そしてその罪は、神の前で、誰の罪が一番重くて、誰の罪が軽いなどということはありません。みな、等しく、いってみれば罪人の頭なのです。そしてみな、キリストによって、多く赦されたのです。多く赦された者はまた多く愛する者とされるのです。

 その愛は、かならずしも、直接的に福音を伝える伝道だけで現わされるものではありません。ひとりひとりがそれぞれの置かれた場で、それぞれに神から与えられた役割を、なしていくことによって愛していくのです。一人一人が愛するために神に特別に選びだされ、召されて、愛の使徒とされているのです。多く赦され、多く愛する者として特別に召されているのです。

<福音を恥としない>

 そして私たちの愛の根拠である「赦されたこと」それこそが福音です。福音とは、良き知らせです。喜ばしい音、美しい響きをもった言葉です。愛の言葉です。キリストの十字架の死と復活によって示された愛です。それが福音です。

 パウロは語ります。「わたしは福音を恥としない。」この言葉は強い言葉です。またあれっと違和感も持たされる言葉です。教会の中では普通に「福音」という言葉を語ります。教会の外でも良いもののたとえとして福音という言葉が使われます。なのになぜあえてパウロは「福音を恥としない」というのでしょうか。それはパウロの時代、福音は恥ずかしいものであったからです。パウロ自身の多くの同胞にとって、十字架で罪人としてみじめに死んだイエスを救い主だなどということはばかげたことでしたし、そもそもパウロ自身もそうだったのですが、主イエスを救い主だの神の御子だのということは神への冒涜だとすら考えられることでした。多くのユダヤ人にとって福音を信じることは恥であり、罪ですらあったのです。一方で、パウロがその宣教に置いて重心を置いていたユダヤ人以外の異邦人への伝道において、異邦人からもまた福音は恥ずかしいものと捉えられていました。パウロが伝道をした町々の多く、そしてこれから向かおうとしているローマは都会であり、知的な人々がたくさんいたのです。その知的な人々に「死者がよみがえった」とか「復活」などということを語っても鼻先で笑われ相手にされないことが多かったのです。使徒言行録17章にはアテネで伝道して復活の話をしていたパウロが、あざ笑われて「その話はいずれまた」と、体よく行って見れば<スルー>されてしまうそんな場面が記されています。

 しかし、あざ笑われてもなおパウロは福音を恥としませんでした。福音こそが人間を根源から救って変えるものだからです。福音は確かに良い知らせなのですが、それは自分自身の罪を知っている人にとって良い知らせなのです。自分自身が罪人であると思えない人には十字架も復活も馬鹿げたものにすぎません。罪人であることを知らない人にとっては、福音よりももっと宗教的な香りのする崇高な話の方が良いかもしれません。あるいは人間イエスの語られた話を人生訓としてさらっと聞く方が心地よいかもしれません。

 そしてそれは今日においてもそうです。「わたしは福音を恥としない。」この言葉を私たちは本当にそのままパウロのようにいうことができるでしょうか?キリスト者が福音を恥としているようなことが本当にないと言えるでしょうか?教会が福音を少し目につかないところに置いておいて、それ以外の活動を世間に見せるようなことをしていないでしょうか?教会の敷居を低くする、この世に受け入れられやすくする、そのこと自体はもちろん悪いことではありません。しかし、この世に迎合して、この世的になって、なんとなく福音を端っこに置いておく、そういうことがまったくないとは限らないと思われます。ほかならぬキリスト者が、また教会が、福音を恥とする、それが現実として起こるのです。

 それは福音が神の力そのものであるということを忘れてしまうからです。福音は、ただの紙の上に書かれた宗教論や神学ではないのです。心の不安を軽くするちょっとした気休めではないのです。現実にキリストと共に生きていくその日々にあって、福音こそが力なのです。神の力は信じる者の現実を変える力です。リアルな力なのです。この世界の現実を変えていく力です。その力はいまもたしかに私たちに及んでいます。


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