大阪東教会礼拝説教ブログ

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ヨハネによる福音書 3章16~36節

2018-06-11 17:56:16 | ヨハネによる福音書

2018年6月3日 大阪東教会主日礼拝説教 天から与えられるもの」吉浦玲子

 

<誰でも慰めが必要>

 どんなに強い人でも、いえ、むしろ強ければ強い程、ほんとうは慰めを必要としていると思います。本人はそう思っていなくても、本人は慰めや癒しなんて必要ないと感じていても、実際のところは必要なのです。精神的にタフであればある程、多くの痛みや困難に耐えて生きていきます。しかし、耐えているようであっても、やはり痛みや困難は確実に心や魂に傷をつけるのです。大丈夫だ平気だと思って生きていても、ほんとうは心の奥に無数の傷がある。ガラスのグラスがきらきらと光っている、でもふと取り上げて光にさらしてみると、たくさんの小さな傷が入っている、そのように人間には生きていけばいくほど、傷や痛みを経験します。そしてそれらは癒され、慰められねばならないのです。ガラスのグラスの無数の傷はやがてグラス全体を粉々にしてしまうのです。

 

 よく言われますのは、肉親を天に送った後、さまざまにその葬りやらいろいろな手続きに忙殺されて悲しむ暇もなく時を過ごし、ようやくひと段落したときに精神的にがっくりきてしまうことがあるということです。本当は嘆き悲しみたい気持ちを押し殺して、さまざまな葬りのために必要なことをやっていく、それはある意味では、別離の直後のその人の心を支える効果もあると言います。しかし、やはりその心には悲しみや痛みがあるのです。さまざまな葬りのためのあれこれが済んでしまった時、はじめて心の痛みと向き合うということがあります。

 

 そのように、本人が意識するとしないとに関わらず、悲しみやらさまざまな思いを抱えた人間にとって今日の聖書箇所は慰めのある言葉です。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは聖書の中で<福音書中の福音書>と言われる箇所です。金色の言葉とも言われる箇所です。クリスマスの時に良く読まれる聖書箇所でもあります。聖書やキリスト教のことをあまり知らない人でも、この言葉を聞く時、神の愛や、神に遣わされた独り子に関して、その恵みの深さや喜びといったものをある程度感じ取ることができるのではないでしょうか?独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る、この言葉に、なぐさめをかんじられるのではないでしょうか?この世は、はかなく虚しいことに満ちています。大帝国も滅び、人間も死にます。そのような世界にあって、「滅びない」という言葉は輝いています。そして、精一杯生きてきた、たくさんの悲しみやら痛みやらを抱えて来た、もうこれ以上は勘弁してほしい、そんな人々に、神は「滅びないためにはこれこれをしなさい」というように、なにか要求をなさるわけではないのです。ただ、神はこの世を愛して、独り子を与えてくださった、そう聖書は語ります。

 

<なぜキリストが来られたか?>

 しかしまた一方で、クリスマスの出来事で、多くのこの世の人がほんとうのところは理解できないのは、なぜ世を愛された神とイエス・キリストの降誕が結びつくのかということです。もちろんなんとなく漠然とは感じられるかもしれません。主イエスは、多くの人の病を癒し悪霊を追い出し救われました。お腹をすかせた人々を魚とパンで満腹にさせられました。有能な医者で社会活動家で、その言動がいかにも愛に満ちてやさしかった、そこに主イエスの偉大さを見、イエスの愛を見るのかもしれません。やさしいやさしい愛に満ち満ちたイエス様、そのイエス様を遣わされたというところに神の愛を見るのでしょうか?クリスマスのきらきらした輝かしくもやさしい愛の物語として私たちはキリストの到来を聞くのでしょうか?

 

 もちろんそうではないのです。

 

 神はその独り子を殺すために、端的に言えば、人間に殺させるためにこの世に与えられました。自分の子を殺されることが分かりながら差し出す親は通常はいません。しかし神はお与えになった。それが神の愛だった、そうヨハネは記すのです。今日の聖書箇所の少し前に、先週お読みしたところですが、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と主イエスは語っておられました。毒蛇にかまれた人々が助かるようにモーセによって青銅の蛇を干し竿につけられ高く掲げられたように、主イエスもまた十字架に高くあげられる、そのことのゆえに人間は永遠の命を得るとおっしゃっていました。

 

 神はまさに青銅の蛇のように御子を十字架に高く上げられるために、この世に独り子を与えられました。本来は神の裁きによって裁かれねばならない人間が、私たちが、裁かれることなく救われるために、神はその独り子を裁かれました。

 

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」この言葉は美しい言葉ですが、その愛はキリストの肉を裂き血を流すことによって示されたのです。キリストの命と引き換えに与えられた愛です。キリストの命、神の御子の命によって与えられた愛です。ですから、その愛は死を越えるのです。

 

 私たちの人生におけるどのような試練も困難も悲惨も超えるのです。想像を絶するような過酷な体験をした人にもキリストの十字架から注がれる愛は届くのです。その愛はただの上っ面の慰めではないのです。キリストの命と引き換えの永遠の命なのです。死を越える、死を打ち砕く命がほとばしる愛なのです。

 

<闇にとどまる人>

 

 その愛に対して、私たちは、ただ顔を向けて受け取れば良いのです。私自身が、ある時期、信仰に懐疑的になった時期がありました。クリスチャンになっても何も変わらない、いやむしろ状況は悪くなっていくようにすら思えたのです。なにより自分自身がいやになってしまった。明日は今日の続きであって、毎日同じような日々が続くように思えました。そんなとき、牧師から言われました。「吉浦さんは明日も今日と同じと思っているでしょう?」そういうことを牧師には言ったことはなかったのです。でも牧師は「明日は今日と同じ」と思っている私の心を知っていました。そして言いました。「吉浦さん、そんなことないですよ。神様のくださるプレゼントはそんなちっちゃなものじゃない。必ず驚くようなプレゼントが与えられる。だから明日に期待して良いのですよ」と。神様のプレゼントというとなにか幼稚な言い方のようにも聞こえるかもしれません。それにそもそも神様の最大のプレゼントはイエス・キリストであったわけです。しかしそのイエス・キリストを与えられ、それを信じた者にはさらに豊かなプレゼント、祝福があるのだとその牧師はおっしゃったのです。イエス・キリストを信じる者には永遠の命が与えられその一日一日に恵みがあります。

 

 しかし、一方でその神様からのプレゼントを受け取らない人がいます。さきほど申し上げた青銅の蛇でいえば、荒れ野で毒蛇にかまれて倒れているのに、掲げられた青銅の蛇を見上げようとしない人々、そのような人々は蛇の毒がまわってやがて死ぬのです。十字架に上げられたキリストを信じない人々もまた闇の中にあり、やがて命を失います。「信じない者は既に裁かれている」ということは、滅びへの道を歩んでいるということです。

 

 逆に言いますと、私たちは伝道をしますが、それは光の方へ来ませんか?という勧めなのです。神の光の方へ、滅びではなく永遠の命のほうに顔を向けませんか、歩み始めませんかという勧めです。<信じないと地獄に落ちますよ>という脅しの言葉で伝道をするのではありません。少しここは言い方が、難しいところですが、とにかく、私たちはマイナスのことを言って人を導くのではありません。ただ「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」と伝えるのです。あなたが抱えている痛みも傷も、自分では気づいていない痛みも傷も、十字架の独り子を見さえすれば癒されるのだと伝えるのです。それほどの愛があるのです。その愛を受け取るか受け取らないか、神様のプレゼントを受け取るか受け取らないかはその人の決断にかかっているということなのです。しかし、その決断には命がかかっているのです。

 

<天から来られた方>

 

 今週と来週は少し長い箇所、聖書をお読みいただきますが、今週の聖書箇所の22節からは洗礼者ヨハネの話がふたたび出てまいります。ここにも深い言葉があります。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」そもそもヨハネによる福音書ではイエス様の最初の弟子であるペトロたちももともとヨハネの弟子だったと記されています。洗礼者ヨハネの弟子であった人々がイエスのもとに移って来て、さらにはそれまではヨハネのもとに押し掛けていた人々の流れもすっかりイエスの方に移ってしまったというのです。「時代の寵児」という言い方が昔はありましたが、最近はしません。ある時代にある人がたいへんもてはやされたけれど、やがて別の人に注目が移り、もともともてはやされた人の人気や影響力が衰えていく、そういうことは現代でもあります。最近は人の関心が移るスピードがあまりに速くて、「時代の寵児」が生まれる前に人の関心が別のところに移ってしまうようなところがあるかと思います。2000年前、ヨルダン川の洗礼者ヨハネのもとに多くの人々が押し掛けていた、そのヨハネが洗礼を授けて証しした主イエスという人の方が人気が出て、人々はそっちへ行ってしまった、それは現代でもある先ほど申し上げた人気の移り変わりの話のようでもあります。しかしここでヨハネは深い言葉を語ります。自分自身を花婿の介添え人に例え、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶとヨハネは語ります。神と人間の祝福された様子は結婚式で良く現わされます。キリストは花婿で私たちは花嫁である、と。ヨハネはその花婿の傍らに立つ介添え人である、と。イスラエルの結婚式では介添え人は花婿の傍らで式全体を支えます。介添え人は主役ではありません。しかし重要な役割です。花婿と花嫁の喜びのために奉仕をするのです。

 

 このヨハネの言葉は、単なる謙遜の言葉ではありません。後進に道を譲るといった鷹揚な態度でもありません。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」あの方は栄え、わたしは隠退してのんびりするというのではありません。私は衰えねばならないと言っているのです。これは厳しい言葉です。普通「わたしが衰えたから、あの人が栄えた」とは言えます。でも、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」とは言えません。

 

 ところで、「神に栄光を帰す」という言葉があります。この言葉は詩編などの旧約聖書にも出てくる言葉です。私たちは、この言葉を言う時、ほんとうに「神に栄光がありますように」と思っています。しかし、本来は、神にのみ栄光があるのですから、お返しするというのは変な言い方ではあります。でもこの言葉を思う時、本来の持ち主にお返ししますと言わざるを得ないほどに、私たちは普段、栄光を自分の内に握りしめているとも言えます。ヨハネが、「あの方は栄え、私は衰えねばならない」というとき、それはすなわちキリストのみに栄光があると言っています。神に栄光はあるが、私にも少しはある、ということではなく、ただ神にのみ栄光がある、そしてまたキリストのみが栄え、他は衰える、ということなのです。そしてそれはいやいやながら、キリストに栄えを譲ったというのではなく、花婿の介添え人が大いに喜ぶように、喜んで自分は衰えるのだといっているのです。そこに神と人間の本来の姿があり、キリストを迎える人間のあり方があるといえます。

 

 そのような関係が築けるのは、そもそも、キリストがどこから来られたのかということをはっきりとわきまえているからでもあります。ヨハネがキリストがただの人間であると思っていたのだったら、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」とは言えなかったと思います。少なくとも喜んでは思えなかったでしょう。

 

 しかし、「天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」とあります。31節以降については誰が語った言葉かということで、学者の間でも論争のあるところです。主イエスご自身の言葉であるとか、ヨハネの言葉の続きであるとか、意見があります。しかし、ヨハネ自身が、キリストは天から来られた方であることは十分理解していたことは間違いありません。

 

 この地上には暗闇が満ちています。混沌が満ちています。しかし、天から来られた方は光をもたらされました。まことの救いをもたらされました。大いなる賜物が与えられました。それはキリストへと顔を向ける時、気づきます。顔を向けなければ気づきません。救いにも慰めにも気づきません。いえ、キリストを見上げなければ自分自身の本当の痛みや傷にも気がつくことはできません。キリストへと顔を向け、顔を向け続けながら歩んでいきましょう。私たちはなかなか自分自身の栄光を手放せない者ですが、なお、天から来られたキリストは御自分をを見上げる者に、ご自身のご栄光の光の中から、大いなる喜びを与えてくださいます。

 

 

 

 

 


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