大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ルカによる福音書3章21~22節

2018-01-08 19:59:09 | ルカによる福音書

2018年1月7日 主日礼拝説教 「あなたはわたしの愛する子」吉浦玲子

<ヨハネの洗礼>

 昨日1/6は、公に現れる日と書いて、公現日でありました。教派によっては顕現日という言い方もします。英語でエピファニーといいます。ローマ・カトリックやプロテスタントと言った西方教会では、異邦人へ救い主が現れた日として、占星術の博士たちの来訪の日をエピファニーとして祝っています。それに対してロシア正教会と言った東方教会では主イエスの洗礼をもってエピファニーとしています。起源としてこちらが古いように思われます。いずれにせよ、イエスさまが公にお現れになった日がエピファニーなのです。

 私たちは西方教会に属するものではありますが、今日は、公現日を受けて、主イエスの洗礼の箇所を共に読んでいきたいと思います。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」とあります。これは洗礼者ヨハネによる洗礼の場面です。洗礼者ヨハネは、主イエスに先だってイスラエルに現れ、その道を先備えしました。イザヤ書40章で「主のために、道を備え/わたしたちの神のために、荒れ野に広い道を通せ」と預言されていた預言者といえます。その洗礼者ヨハネはイスラエルの母なる川ヨルダン川で洗礼を授けていました。洗礼ということは当時のパレスチナ地方の宗教的儀式としてまったくないことではなかったようです。そのようななかで、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼の特徴というのはどのようなものかと一言で言いますと、「悔い改めの洗礼」でした。今日の教会では「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けますが、その洗礼と当時のヨハネの洗礼は意味が違います。今日の教会の洗礼は、罪からの救いと聖霊が与えられる洗礼です。しかし、洗礼者ヨハネの洗礼は、まだ主イエスによる罪の赦しのための十字架の業がなされる前でしたから、人々が自分の罪を自覚して神の方を向くための洗礼でした。

 今日の聖書箇所の前のところには、そのヨハネの宣教の様子が記されています。ヨハネは来るべきメシアがお越しになったら、人間の罪が裁かれることを語りました。洗礼者ヨハネは先ほども申し上げましたようにイザヤ書に預言されている力ある預言者でありましたから、人々はその力ある言葉に心を打たれました。ヨハネは罪とその裁きを厳しく語ったのです。「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と語っていたのです。人間は普通、厳しく語られるとあまり聞きたくはないものです。でも、ヨハネの言葉には力がありました、その厳しい言葉を聞いて人々は心打たれ、「では、わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞いたのです。当時の人々はイスラエルを救ってくれる救い主メシアを待っていました。メシアはまた裁き主でもあります。人々は悪いローマを裁いてほしかったのです。ローマだけではなく、不公平な政治、経済、自分を苦しめる環境を生み出している人々を裁いてほしかったのです。それらを裁いてくれるメシアを待っていました。しかし、ヨハネはそんな人々に自分自身を振り返りなさいと語りかけたのだと言えます。自分自身を神の前に置いたとき、自分は正しいといえるのか?そう問いました。来るべきメシアはローマではなく、あなたがたを裁くのだとヨハネは激しく語ったのです。ですからメシアがお越しになる前に、悔い改めて備えなさいとヨハネは勧めました。ヨハネはそれを聞いて心打たれた人々に具体的な生活上の指示を与えると共に洗礼を授けたのです。

<主イエスはなぜ洗礼をお受けになったのか>

 その洗礼を主イエスは洗礼者ヨハネからお受けになりました。今日の聖書箇所を読むと、他に人々と全く変わりない様子で主イエスは洗礼をお受けになったようです。他の福音書を読みますと、洗礼者ヨハネが、主イエスには罪がないことを見抜き、むしろ<自分の方が主イエスから洗礼を受けるべき者なのだから、主イエスに洗礼をお受けにならないように>と止めるという場面もあります。本日お読みしましたルカによる福音書ではそういう場面はありません。主イエスが、他の人々交じり、他の人々となんら変わらないご様子で洗礼をお受けになったことが強調されているのでしょう。しかし、これは不思議なことだと思われませんか。神の御子であり、罪のないお方が、なぜ罪の悔い改めのための洗礼をお受けになる必要があったのでしょうか?やはり、実際は、主イエスご自身にも罪があり、ご自分の罪を悔い改めようとなさったのでしょうか?もちろんそれは違います。

神の御子である主イエスが、人間である洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった意味の一つは、主イエスご自身が罪びとである人間と同じ者として謙遜になられたということです。へりくだられたということです。主イエスは罪なきお方でありながら、罪人であるわたしたち人間を上からご覧になって、導かれたのではありません。罪人と共に歩まれたのです。罪人が浸かった水に共に浸かり、罪人とともに食事をし、罪人と語り、罪人とともに歩かれ、罪人を癒し、罪人のために涙を流されました。最後には二人の罪人と並んで、十字架にかかられました。この洗礼ののち、主イエスは福音の宣教を開始されます。宣教の開始のその前に、罪人と共に、洗礼を受けられたということは大きな意味を持ちます。

そしてもうひとつ大事なことは、洗礼をお受けになることが主イエスご自身の意志ではなく、父なる神の意志であったということです。洗礼を受けられた主イエスに、聖霊が鳩のように降ってきました。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた、とあります。ここで主イエスは、ご自分が洗礼をお受けになったことが御心に沿ったものであることを確認されました。そしてまたこれから新たな宣教活動を始めることについて、それが、父なる神の御心である確信を得られたのです。神の御子として、父なる神と深い交わりをこれまでも主イエスはお持ちになっていたことでしょう。福音書は公の宣教活動を開始される前の主イエスのご様子は記述していません。唯一、ルカによる福音書2章では少年時代のエルサレムの祭りのときの主イエスのご様子が記されています。すでにナザレへの帰路についていた両親とはぐれて神殿にとどまっておられた主イエスが、主イエスを探してエルサレムに戻ってきた両親に対して「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」と主イエスは語っておられます。神殿は父なる神の家であり、その家に自分がいるのは当然だとおっしゃったのです。その記述からも主イエスは幼いころから神の御子であるという御自覚のもとにあられたことがわかります。しかし、その父なる神その主イエスであっても、なお、父なる神の御心を確認されながら歩んでいかれたのです。洗礼は、ことにこれからの新しい働きの開始の出来事でもありました。新しい働きのための、神からの新しい認証、新しい召しを確認なさったのです。主イエスの宣教の開始には「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声がぜひとも必要だったのです。

御子ですら、ご自身の歩みの上に、父なる神の御心を問いながら、確認しながら歩まれたのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いて新しい一歩を踏み出されたのです。ましてわたしたちは、いっそう、その一歩一歩を御心を問いながら歩んでいく必要があります。

昨年末、一年を振り返りながら自分自身が反省したことは、やはりまだまだ御心を徹底的に問う、伺うという姿勢が足りなかったと思いました。「神の心に適う者」ではなかったと思います。イエスさまだから御心に適うのであって、普通の人間が神の心に適うには到底、無理なのではないか、そう考えられますでしょうか。たしかにそうともいえます。御子と罪人の人間とはもちろん違います。しかし違うからこそ、到底、神の心を適うことのできないものであるからこそ、いっそう、御心を問いながら歩むという歩みが必要なのではないでしょうか。

ところで、詩編2編7節には「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ」という言葉があります。これは主イエスを指したものであると言われます。そしてこの言葉は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉と対応していると考えらえます。詩編2編はきたるべきメシアの即位を現したものです。ですからそれと対応している「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉は、主イエスに対するメシアへの即位の認証の言葉であるといえます。父なる神からメシアとしての任命を受け、主イエスはそのメシアとしての働きをいよいよはじめられたのです。

<宣教の力の聖霊>

そしてもう一つ大事なことは、「聖霊」が鳩のように降ってきたということです。聖霊は神の力であります。福音を宣べ伝えるには、聖霊、神の力が必要なのです。聖霊という言葉には聖なる風というニュアンスもあります。神の清い風に満たされた時、力が与えられます。主イエスがこれから宣教を始めるのに必要な力が与えられたということです。

聖なる風は宣教の力です。この風はやがてペンテコステの日に、弟子たちに与えられた風でもあります。ペンテコステの日、弟子たちにも聖霊が下り、そこから教会は宣教を開始したのです。さらに使徒言行録には弟子たちが聖霊に満たされたことが記されています。 その聖霊の力によって、教会は成長しました。世界中に教会ができました。そのひとつがこの大阪東教会です。主イエスの洗礼の日に降った聖霊が、この大阪東教会にも降りました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉はこの大阪東教会にも与えられました。教会はこの世のどの組織、共同体とも異なります。それはキリストの体であるということだからにほかなりませんが、聖霊の風が吹いているということでも他の組織、共同体とは異なるのです。逆に聖霊の風の働きが人間の思いによって阻害されてしまうとき、それは教会ではなくなります。

そしてまた、私たち一人一人にもこの聖なる風は吹きました。それが洗礼の日です。その日、私たちにも聖霊が降ったのです。私たちにも宣教の力が与えらえました。しかし、洗礼の日だけではありません。私たちの生涯にわたり、聖霊に満たされ、力を与えられ歩みます。

宣教は、単にキリスト教や教会の宣伝をするということではありません。まずなにより愛の力です。神を愛し、隣人を愛するという、愛の力こそが宣教の力です。私たちが日々に与えらえている隣人との愛の関係を持つということが宣教です。そして私たちをキリストの愛で満たすのが聖霊です。

洗礼者ヨハネは、来るべきメシアは、斧のように罪人を切り倒し火に投げ入れる方だと宣べ伝えました。しかし、実際に来られたのは、罪人を切り倒し火に投げ入れる方ではありませんでした。御自身が、鞭打たれ、肉を切られ、倒され、十字架におかかりになりました。神の裁きをお受けになる方でした。罪なき方が、父なる神の怒りの裁きをお受けになりました。御自身が切り倒され火に投げいれられたといえます。それがメシアの愛でした。罪人と共に水につかり洗礼を受けられた方は、聖霊に満たされ大いなる力を得て、人々と共に生きられました。痛みを負われました。苦しまれました。御自身の罪のために苦しまれたのではありません。私たち人間のために苦しまれました。それが愛であり、福音の宣教でした。それは神の御子だからできたことでしょうか?

わたしたちにもできるのです。もちろんメシアであるキリストとまったくいっしょにはできません。しかし、聖霊の力で、私たちは少しずつ、キリストに似た者とされていきます。わたしたちの内にはすでに聖霊が与えられています。その力でみたしていただきましょう。そのとき私たちはまことに神と隣人を愛することができます。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を私たちも聞きます。


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