大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ペトロの手紙Ⅰ第2章6~10節

2021-08-15 16:57:27 | ペトロの手紙Ⅰ

2021年8月月15日日大阪東教会主日礼拝説教「かけがえのないもの」吉浦玲子 

<石> 

 西日本を中心に全国的に大変な量の雨が降り続いています。とんでもない積算降水量で、関西を含め、今後も、災害の危険性が高く、予断を許しません。私の出身地は昨日、特別警報の対象地域になっていました。実際、子供のころ、水害にあった記憶があります。もともと雨は多かった地域ですが、ここ数年の豪雨は子供のころの水害とはまた全然スケールが違うと感じます。地球全体の環境の変化のせいなのか、雨が降り続くと、昔には感じなかったような不安を感じます。それに加えて、終息の気配が見えない新型コロナ感染症もガンマ株が猛威を振るっているというニュースもあれば、ラムダ株が国内で発見されたというニュースもあり、不安が募ります。不安が募りますが、しかしなお、私たちは神に期待をします。キリスト教2000年の歴史の中で、むしろ危機的な状況のなかで、信仰者は神に期待をしてきました。ローマ帝国が崩壊する末期に生きたアウグスティヌスも、ペストの危機の中に生きたルターも、神への期待に生きました。そしてその期待が裏切られることのないことを伝えて来ました、今、御一緒に読んでいますペトロの手紙もまた、クリスチャンの少ない、どちらかというと小さな貧しい地方に住み、迫害に晒されていた少数者だったクリスチャンに送られたものです。現実的には明日の不安に怯えながら生きていた人々に希望と励ましの言葉をペトロは語ったのです。 

 実際、聖書は希望を語ります。ですから繰り返し説教でも希望を語ります。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」これは旧約聖書のイザヤ書から引用された言葉です。私たちは、現実の社会の中で多くの失望を経験します。小さな子供ですら失望を経験します。家族や会社や友人や社会に失望し、自分自身にも失望します。しかし、聖書は語るのです。「シオンに置かれたかなめ石を信じる者はけっして失望しない」と。シオンはもともとはエルサレムにある丘の名前ですが、エルサレム自体を指す言葉して使われます。そのシオンに、貴いかなめ石を置くというのです。ここで言われているかなめ石と7節に出て来る隅の親石は、建築用語的には、異なるものですが、いずれにしても建築物の重要な石といえます。それはキリストご自身を指します。竹森満佐一牧師の語られていることのなかに出て来たのですが、ある神学者が、キリストを例える例が聖書には96出て来るそうです。主イエスご自身が、私は真理である、とか、命のパンであるとおっしゃっているわけで、そのほかにも道や羊飼いという言葉もあるわけですが、ここでは石に例えられています。しかもこの石は7節によると捨てられた石だと言うのです。7節は詩編118編から引用されていますが、「家を建てる者」が捨てた石だというのです。この世の家を建てるには不要な石として捨てられたのがキリストなのだと語るのです。 

 石と言えば、ここ数カ月、庭の手入れのご奉仕を多くの方がしてくださっています。ドクダミなどの雑草の勢いがたいへんで、抜いても抜いても、かなり根の深いところから開墾しても生えてくるそうです。そのような雑草の対応と合わせて、多くの瓦礫がでてくるのもたいへんなことのようです。何回かお話ししたことですが、1945年3月の大阪空襲で旧会堂は全壊しました。おそらくその時焼け落ちた会堂のものと思われる瓦礫が今でも掘っても掘っても出てきます。 

 神の建てられた会堂が破壊され、瓦礫になりました。先人の献身の証しである建物が跡形もなくなくなりました。残ったのは焼け焦げて崩れた石、まさに捨てるしかない石になりました。その焼け焦げた瓦礫を見る時、まさに捨てられた石であるキリストを思います。神の教会を破壊する人間は、キリストをもこのように捨てたのだと思います。アメリカが悪いとか、日本が悪いということではなく、すべての人間はキリストを捨てたのです。しかし神はそのキリストを捨てられたままにはなさいませんでした。復活させられたのです。復活を信じる者は、その捨てられた石が隅の親石となったとことを知っています。 

<本当の希望> 

 この尊いかなめ石であるキリスト、家を建てる者が捨てた隅の親石を信じる者は失望することはないとペトロは語るのです。パウロもローマの信徒への手紙で「希望は欺くことがない(5:5)」と語ります。ローマ書のここは口語訳聖書では「希望は失望で終わらない」と訳されていたところです。「なぜならわたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」と続きます。私たちは自分たちに注がれている神の愛を聖霊によって知らされる。だから希望は私たちを欺くことがないのです。失望で終わらないのです。 

 さきほど、空襲の話をしましたが、今日は76年前、天皇によるいわゆる玉音放送、つまり終戦の詔勅(しょうちょく)を天皇が国民に発表した日です。戦後の高度経済成長期に生まれ育った私には、戦争というのは子供のころから遠い昔のことのように思っていたのですが、今、考えますと、私が生まれたのは戦後20年もたっていない時でした。若い方はそうではないかもしれませんが、ある程度長く生きた人間には、20年と言う歳月は、もちろんけっして短くはありませんが、人生全体から考えると、とてつもなく長くはないとも言えます。つまり、それほど長い歳月を経ず、少なくとも子供の目には、戦争の傷跡は見えないくらいには日本は復興していたと言えます。高度経済成長期は、去年より今年、今年より来年と物質的に豊かになっていっていた実感がありました。当時、田舎のまずしい家庭でしたが、それでも、家の中に、少しずつ電化製品が増えていったことを覚えています。戦後25年目の1970年に開催された大阪万博には、当時、大阪に叔父がいた関係で、九州から大阪に来た記憶があります。太陽の塔が希望の象徴のように建っているのを見上げた記憶があります。それから半世紀が過ぎ、バブルがはじけ、多くの自然災害に見舞われ、長い沈滞した状況から抜け出せない日本の地に今も太陽の塔は建っています。その太陽の塔は、先週まではコロナによる非常事態宣言の告知のために赤くライトアップされていたようです。希望の象徴のはずであった太陽の塔が、50年後、感染症の拡大を警告するために不気味にライトアップされている、76年前、焼け野原であった日本は、たいへんなスピードで復興しました。しかし、21世紀の今日、感染症や自然災害に怯え、現実に明日の生活もままならない人々が多くある世界です。その現実だけを見る時、私たちは希望を見ることはできません。もちろん貧しさゆえの悲劇はありますから、物質的に豊かになっていくことも、大事なことです。しかし、モノやお金だけではない、そのことを日本において私たちはずいぶん前から心の底で気づきながら、ではほんとうの幸せや希望とは何かということがぼんやりとしているのです。でも聖書は語るのです。本当の希望を。希望はキリスト以外にはないということを。 

<恥を受けない> 

 しかしこういうことを言っても、結局宗教に頼るのかと、世の人々は言うかもしれません。宗教に頼るのは弱い人間のすることだと。実は6節の「失望で終わらない」という言葉は「恥をかかない」「面目を失わない」というニュアンスを持つ言葉でもあります。文語訳聖書では「辱められじ」と訳されているところです。私たちは普段の生活の中で不安を持つかもしれません。こんなことをして人からどう思われるのかと。特に日本の社会では世間体を気にする傾向があります。同調圧力があります。さらに宗教に関しても寛容なようで、実は厳しい側面を持っています。その社会の中で、宗教に頼るなんて恥ずかしいことだと人は考えているのではないかとか思うかもしれません。しかし聖書は、キリストという石を信じる時、私たちは恥をかくことはないのだというのです。 

 しかし、実際のところ、キリストは恥をかかれました。身ぐるみはがされ、十字架にかけられ、人々の嘲笑の的になられたのです。神であるお方が人間から恥ずかしい存在として面目を失われました。家を建てる者にとって役に立たない恥ずかしい石として捨てられました。現実社会の中で人間のニーズにはそぐわないものとして捨てられたのです。主イエスの時代で言えば、ローマ帝国を倒し、イスラエルの困窮を救うためには役に立たないとして捨てられたのです。主イエスは信じる者にはかけがえのない者が、「つまずきの石/妨げの石」だったのです。 

 今、私たちは聖霊によって、キリストという石が尊い石であることを知っています。恥ずかしいどころか、本当に人間を生かす石であることを知っています。信徒のころから、私は死に近いクリスチャンを何人も身近で見てきました。肉体の死ということを前にしても、キリストという石は、その人を揺るがせることのない、希望を失わせることのない石であることを繰り返し覚えさせられてきました。それは死を恐れない堂々たる姿というわけではなく、むしろ苦しみの中でも神に委ね切った姿でした。そこに根本的な平安がありました。 

 しかしまた、この世を生きる時、私たちは、現実ではいろいろなものにつまずきます。教会の中でもつまずきます。教会の人間関係、牧師にもつまずきます。人間である以上、ある意味、つまずきは避けられないことです。神をしっかり見上げていればつまずかない、神に信頼しなさい、人間を見ず神を見ろ、そういうことは分かっていても、人間はつまずきます。つまずいて、そして結果的に恥を受けるのです。 

 ペトロ自身、つまずきました。いくたびもつまずきました。主イエスを信じきれなくてつまずいたのです。復活のキリストと出会ったのちですら、福音を信じきれずつまずくことがありました。「つまずきの石」という言葉は、引用しているペトロ自身が胸に堪える言葉であったでしょう。 

 しかしつまずく都度、ペトロは聞いたのです。神の言葉を聞きました。「あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。」 

 私たちはすでに神の民とされているのです。私たちがつまずいたときも、神ご自身が憐れんでくださり、「わたしの民」「わたしの子よ」呼んでくださるのです。その声を聞きとめるのです。そして神の手に自らをゆだねて、新しく立ち上がります。私たちはつまずきますが、神によって、立ち上がらせていただく者です。尊い石があります。私たちがよろめいても、変わることなく、私たちを支えてくださる石があります。その石に支えられて私たちは立ちます。「わたしの民よ」「わたしの子よ」という言葉を、繰り返し、聞きます。 



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