日記

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往生院金堂跡・ご歴代尊位並びに中世戦乱犠牲者御供養

2024年01月30日 | ブログ
朝から往生院金堂跡へ、ご供養に赴いた。

五輪塔の破片と思わしき石群を住職にも確認してもらい、加工の跡、断片等から間違いなく五輪塔の一部であるとして、幾つかを現在の歴代供養塔のところにお祀りして、今後供養していくことになった。

一帯を掘れば、おそらくもっと断片も出てくるであろうが、大阪府史跡指定地、埋蔵文化財包蔵地であることから、勝手に掘ることは当然にできない。(地権者には、露出してある瓦、石等は資料として提供を頂ける許可を頂いている。)

やはり、この五輪塔は、安助上人をはじめとした歴代尊位の供養塔であった可能性が高く、このことを(中興五代目・浄興和尚から)教えて頂いたのだと思われるのである。そして、このあたりは、金堂裏における墓域として、中世戦乱犠牲者方の埋葬、供養もされてあった場所だと考えられるのである。

前回のように体調が悪くなること無く、懇ろにご供養をさせて頂きました。ご供養を終えて、拙生の気持ちもどこか清々しく晴れやかになりました。また動画でもまとめて報告したいと思います。


閑院宮家の創設と美作後南朝の小倉宮家廃絶とは密接な繋がりがある

2024年01月30日 | ブログ
先ほどのポストの湛如上人の室が、閑院宮直仁親王の長女・始宮であるが、この閑院宮家の創設には、実は、美作後南朝の小倉宮家廃絶とも密接な繋がりがあるのである。

徳川幕府は、慶安事件、承応事件、明暦の大火を受けて、後南朝勢力の恐ろしさを目の当たりにしたことから、綱吉の代にての改易の嵐にて津山藩森家を筆頭として南朝勢力を徹底的に追い落とすと共に、いよいよ小倉宮家を廃絶させ、代わりに親幕府であった東山天皇の流れとなる閑院宮家を創って、没収した小倉宮家の財産をそのまま新しい宮家に充てたとされています。

閑院宮家は、言わば幕府直属の宮家なのであり、以後、朝幕関係の緩衝を担うことになるのである。

そのため、幕府により閑院宮家から天皇となった光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇は、当然に親幕府よりであったわけです。結局のところ、維新派による孝明天皇毒殺の理由もそのためであったわけであります。

閑院宮家は、以後、明治、大正と現在の天皇家へと直結することになるのである。

尚、小倉宮家の無念、いかばかりか・・となるのである。


西本願寺・本願寺派16世・湛如上人の一説ご自害の裏について

2024年01月30日 | ブログ
西本願寺・本願寺派16世・湛如上人の一説ご自害の裏についても、拙生は額面どおりには捉えていない。

理由としては、皇家から降嫁(閑院宮直仁親王の長女・始宮)を受けているわけであり、その相手方である湛如上人を自害に追い込むことはあり得ないと思うのである。

皇家に対する不敬にもなるわけで、門跡寺院でもあったのだから、尚、おかしいと思うのである。

また、病気平癒を室が神祇祈願したためという理由だけで、日渓法霖和上・能化(勧学)が、室にではなく、門主に自害を勧めたというのもやや行き過ぎ感が否めない。

日渓法霖和上・能化は、室を責めたが、その室の代わりに責めを負って、病気が重いこともあり、自らで自害したというのが本当のところではないだろうか。

湛如上人に異安心があったとはやはり思われないのである。

能化は室を責めたものの、門主がその責めを被り自害してしまった、この事態を招くことになった能化も自らを責め自害した…

このように思うのであります。

しかし、次に門主となった弟が相当に素行悪く、幕府が無理矢理に引退させて、歴代門主からも外し、連枝に交代させている。

何らかの真相が更に色々とあるのではないだろうかとも思うのである。


往生院・御開山・安助上人以降、江戸期までの歴代尊位の供養について

2024年01月29日 | ブログ
明日に往生院金堂跡へ供養に赴くにあたって、慎重を期すために、お出ましになられた第五代とされる浄興さんについて資料等を改めて調べてみるが、もちろん、どこにもそのお名前は見当たらない。

安助上人以降、江戸期までにおける寺史上にお名前のある方の位牌は、新しくして祀られあるのが四柱。

安助上人、東福寺開山の円爾禅師(臨済宗往生院の整備来山)、夢窓疎石の弟子、黙庵禅師、そして、熊王丸こと正寛法師である。

あとはこれも新しいものになるが、歴代を供養するための笠塔婆供養塔、宝篋印塔、五輪塔、どこを調べてもお名前はない。念のために江戸期の無縫塔、位牌も調べたが、もちろんない。

ただ、先代は、正寛法師を中興第四世としている。ならば、その次の方となるのかもしれない。とにかく、正寛法師のあとの方になるとみてよいのだろう。

とすれば、室町時代、1450年〜ぐらいか。となれば、畠山家内紛、応仁の乱における若江城の戦いが、1477年。

その先年、1476年4月27日、往生院城に隣接してある客坊城が落城し、往生院城もこの時に落城、もちろん、往生院も戦火に焼かれたのである。

この際に亡くなった住職が、浄興さんとみてよいのだろう。

焼け焦げた瓦、土壁、土塀の状況からみても、往生院金堂も徹底的に破壊されて、焼かれたのだろう…

以後、現在の往生院の地に逃れた本尊さん方と共に借りの粗末な本堂にて、かろうじて体裁を保つことになったと考えられる。

かつての金堂にあった説相箱は、1515年に古神感寺へとわたった。門葉により寄付されたとあるため、浄土真宗の門徒により神感寺へとわたったことがわかる。

つまり、逃れたあとの往生院は、住職はおらず、村の門徒によって少なくとも江戸時代まで管理されてあったことがこれでわかるのである。

もしかしたら、第五世の浄興さんは、浄土真宗の僧侶であったのかもしれない。


南北朝時代以降、不可解な歴史のエアポケットには、間違いなく美作後南朝が至るところに絡んである

2024年01月28日 | ブログ
ちなみに、「承応の変」で捕まった戸次一党の詮議においては、紀州藩(徳川頼宣)、尾張藩(徳川光友)、岡山藩(池田光政)、鳥取藩(池田光仲)と共謀して謀反を企てていたとして、特に池田光政を筆頭としての幕府転覆計画であったと暴露されているものの、証拠も不十分で、結局は徳川頼宣の蟄居継続以外、目立ったお咎めはなしとなっています。

もちろん、この背後に美作後南朝朝廷の存在があることは容易に想像できるわけであります。池田光政が筆頭と挙げられたのも、何も偶然ではなく、池田光政が楠木家(正行)の子孫として、南朝方全体に認識されていたからであります。

悲願の後南朝・高仁天皇の再即位(一回目の即位はもちろん歴史上から抹殺されている)へと向けた明らかな動きが、慶安の変、承応の変、明暦の大火であったわけです。

このように色々とその痕跡はありながらにも、美作後南朝は、今の正史のどこにも登場はせずに、ずっと抹消されてあるわけです。

南北朝時代以降、不可解な歴史のエアポケットには、間違いなく美作後南朝が至るところに絡んであると思っておいた方が良いでしょう。

また、南北朝の争いは、いまだにその影響が日本において続いており、明治維新、戊辰戦争も、そして、戦後の民主党による政権交代にまで実は絡んであると見ているのが、拙見解であります。

もちろん、美作後南朝小倉宮家は良懐親王の代にて断絶してしまっていますが、その傍流となる氏族として流王家等の存在があるわけです。まだ、無念の歴史も終わっていないのであります・・


「慶安事件」・「承応事件」・「明暦の大火」と美作後南朝について

2024年01月28日 | ブログ
由比正雪の乱後の残党による反乱蜂起が、「明暦の大火」であると述べたわけですが、もともとの未遂に終わった由比正雪の乱である「慶安事件」は、ただ浪人たちの不満による蜂起の未遂と、日本史で習うのが、まあ、普通なわけである。

「明暦の大火」の歴史の謎について・由井正雪の残党たちによる反乱蜂起説
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/b09e1540fe4492e3fa8e23fb92eda29f

しかし、由比正雪が橘姓を名乗り、楠木正辰創始の南木流軍学者で、南朝正統主張論者であったことまで習うことは、まずありません。

そのため、背景を考えずに、ただ江戸に地方から集まった浪人の不平不満に応えて決起しただけと認識されてしまうのであります。

しかし、実はそうではなく、美作後南朝の高仁天皇を天皇とすべくの動きであり、30万もの兵を率いて上洛した家光により、高仁天皇が強制廃位、女帝の明正天皇(徳川秀忠の娘・和子の子)が即位することになりますが、高仁天皇の父、尊純親王は美作には戻らず、京都に留まって、1643年、青蓮院の法主となって、更に天台座主に就いていました。

実は、由比正雪が計画したのは、この尊純親王と通じて、高仁天皇を再度天皇に推したてるためのものであったと考えられるのであります。

そのため、家光死後をみて、すぐに決起するのですが、この由比正雪による「慶安事件」は、仲間に幕府へ通報されたことにより失敗、正雪は駿府にて自害するのであります。

しかし、同様の計画であった戸次庄右衛門による「承応事件」が、翌年に起きることになります。これも事前に発覚して失敗となります。不思議であるのが、「慶安事件」が前年にありながら、その関連について全く歴史において触れられていないことであります。

この二件の事件は、我が子、高仁天皇のために尊純親王が計画したものであったと考えられ、その背景には、松平忠輝、徳川頼宣ら、南朝支援者の影もちらついていたわけであります。特に幕府から首謀者と疑われた徳川頼宣は十年間にもわたり江戸城で蟄居となります。松平忠輝は長らく配流状態に留まったまま、綱吉の代まで生きることになります。

由比正雪は、初代紀州藩主・徳川頼宣と共に、楠木正行の遺児と一説にある池田教正(若江三人衆・やがて信長に従い京都御馬揃えにも参加)の子孫となる備前藩(岡山)の池田光政とも親交が深く、もちろん、その隣りにあった美作の津山藩・森家、そして、後南朝植月御所とも繋がっていたわけであります。

その後、尊純親王は、1653年に再び天台座主になるも、同年亡くなります。

しかし、この計画はまだ生きており、それが1657年の「明暦の大火」に繋がると考えられるのであります。

もちろん、計画の裏の首謀者であった尊純親王はもはやおらず、ただ、江戸を焼き尽くすだけのことで終わってしまったと考えられるのであります。

老中・阿部忠秋の屋敷からの出火を本妙寺からと偽装することになったのは、実は阿部家が南朝方で、わざとこの出火を行ったとも考えられるわけであります。

実際に、阿部忠秋は、江戸に多くあった、特に家光による改易によって溢れてあった南朝方浪人に対して、寛大なる理解を示しており、追放せずに仕事を別に与えるなどの対策の中心となっているのであります。

何よりも承応事件に関与した戸次庄右衛門の軍学の師、山本勘助の孫の山本兵部は、阿部忠秋の家臣であり、この事件と共に自害しています。

同じく計画に加わっていた石橋源右衛門も自害していますが、山本兵部と同じく南木流軍学者であったと考えられており、もちろん南朝方であったと言えるのであります。

阿部忠秋は、出火の偽装先の本妙寺に対して対価といえるものを毎年贈り、それが、なんと明治時代まで続くことになるのであります。

このことからも、「明暦の大火」を主導したのは、やはり阿部家であったのではないかと疑わしいことになるわけであります。

この二つの事件と、特に「明暦の大火」を受けて、その後に将軍となる徳川綱吉は、後南朝勢力の恐ろしさを知ったことから、後南朝断滅策を強行的に進めるようになったのだと考えられるのであります。


織田信長と本願寺、本能寺の変と南北朝の関係について

2024年01月27日 | ブログ
少し前の考察から、私のところも南北朝時代、または室町時代に南朝方の武将が僧侶となって入寺されて、浄土真宗に改宗した寺院です、と複数の方から教えて頂いていた。

やはりそんな寺院は、考察での推測どおりに案外多いのかもしれない。

楠木家は、楠木正勝が本願寺派4世の善如から学びを受けているのは有名な話であり、本願寺派8世の蓮如の参謀であった浄賢は正勝の孫であったとも言われている。やはり、南朝勢力は生き残る術として、本願寺、浄土真宗に入り込むようになっていたとも言えるのである。

河内において、楠木家の子孫が次々と浄土真宗の僧侶となって入寺したり、開山となったり、中興となったりしたのは、南朝の生き残りの一つの策であったのだろうとして考察したのが先の拙説だったが、河内以外でも多いとなれば、そういう向きが全国的にもあったのだろうと思われるのである。

しかし、拙生が引っかかるのは、織田信長との関係である。

織田信長が、南朝勢力を利用することで足利政権の後を担おうとしたのは以前の考察の通りで、結局、北朝方の頭領格然となっていた明智光秀に討たれることになったのが、「本能寺の変」となるわけです。

背後には南北朝の争いが続いていたということになるのですが、もしも、信長が真に南朝方で、本願寺が南朝勢力であったとすれば、信長の天下統一に協力する側に回っていた可能性もあったはずである。

このことについては、本願寺派10世の証如、特に信長と激しく戦った11世の顕如の頃の経過をよく見ておく必要があると考えています。

つまり、顕如の頃の信長は、足利義昭を奉じて上洛しており、当然に見た目は完全に「北朝」支援者というわけなのである。

となれば、本願寺が南朝方であるとしたら、徹底的に抗戦して当然なことであったと言えるわけであります。

義昭追放後、信長は天下統一へと向けて、より一層に南朝勢力を頼りとすることに偏っていくわけですが、だからといってそれまで徹底抗戦にあった本願寺も、いまさらということになってしまっていたと考えられるのであります。

そして、いよいよ天皇の地位さえも信長により左右されかねなくなりつつある中、本気で南朝天皇擁立もあり得る(信長による二条新御所建立)としての危機感から、義昭の一番の臣下であって、北朝方の頭領格となっていた光秀が動くことになった(北朝方公家、あるいは正親町天皇自身により動かされた)のが「本能寺の変」というわけであります。

「本能寺の変」の際、二条御所もその攻撃対象となったのは、織田信忠が陣屋を放棄して、二条御所へ真っ先に移動して籠もったということもありますが、実は、通説での正親町天皇の嫡男・誠仁親王がそこにいたのではなく、美作後南朝の尊道親王がいたために、もしかすると安土や尾張へと逃げれたはずなのに、信忠がわざわざ(本能寺にも向かわずに)御所へと移動したのではないかとも考えられるわけであります。(以前の考察では、後醍醐帝の後胤との説のある織田信弌が、その標的の一人であったとも考えています。)

もしも、二条御所にいたのが本当に誠仁親王であったのであれば、光秀が、次期天皇候補を通説のように「歩かせて逃亡させる」ようなことはありえないわけであり、やはり、後南朝の尊道親王だったために、「歩いて逃げさせるぐらいで十分」と考えたとしてもおかしくないわけです。

ちなみに、誠仁親王は、本能寺の変後に、吉田兼和を勅使として、京都の治安維持に努めるようにと光秀のもとへと向かわせており、それに応えて、光秀は上洛して、朝廷や寺院へと安土城にあった大量の銀を献上しているのである。信長が、一応は正親町天皇、誠仁親王の庇護者であったわけですから、その信長を討った光秀を朝敵、逆賊としてもおかしくないはずなのに、なんとも不可解なことなのである・・誠仁親王自身、もしかしたら殺されており、ほうほうの体で逃げたとされているわけですから、おかしなことなのであります。

その誠仁親王の当時における状況、そして、しばらくしての死についても、かなりの謎が色々とあり、拙見解としては、信長は、既に誠仁親王の代わりとして、美作後南朝の尊道親王を次の天皇への画策があったことが、誠仁親王に関する様々な謎の裏にあるのではないかと考えるわけでもあります。

もちろん、このように信長が、本当に南朝方天皇擁立に動く向きはあったのかも疑問となるわけですが、当時、美作に後南朝小倉宮家があることは、備前の大名の宇喜多直家信長と同盟、離反、帰順、家臣には、楠木正虎の子・橘玄正のちの楢村玄正がいる)や足利義昭に側で最も仕えていた公家・家臣であった日野有尚(その長男・豊岡与右衛門の娘・吉子は小倉宮家に嫁いでいる)から聞いていたのは確かでもあり、十分にそれも考えることができるわけです。

また、織田信長に仕えた楠木正虎は、楠木正成→正儀→正秀→大饗正盛→大饗隆成→大饗正虎となり、織田信長の力もあって、楠木姓へと戻すことが許されており、美作後南朝の小倉宮家のことも楠木家の縁を通じて、既知であった可能性は十分に高いのである。実際に、上記のように正虎の子・玄正が、宇喜多直家の家臣として美作にいたのでもある。

いずれにしても、このあたりのことは更に突き詰めていければと思っています。

・・

南北朝時代・楠木家の子孫が河内の浄土真宗寺院の僧侶となった者が多いのは何故か
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/1efd6186095a58c4acee5b4133a80789


「新しい領解文」問題に対しての浄土真宗他派の反応について

2024年01月27日 | ブログ
浄土真宗は、特に近年のお東の大谷家お家騒動によることも新しいが、多くの分派がある。

前に往生院関連年表でも示してあるとおりにいくつもの分派がある。
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html

しかし、不思議なのは、今回の西本願寺・本願寺派の「新しい領解文」問題に対して、明らかな異安心、異端になるにもかかわらず、お西の連枝方(親戚筋)もそうだが、他派の門主、門首、山主からの批判、忠告、諌言などの声が全く聞こえてこない。
関心がないわけではないだろうが、不気味なほどである。

他派不干渉の原則でもあるのだろうか?親鸞聖人の御教えが破壊されている、汚されてあるわけだから、黙ってられるわけもないとは思うのだが…

まあ、元々は、特に江戸期となるが、本願寺派が純粋性を保つ強固な教学的強さがあり、本流を守る立場であった(一説では、教学のトップが、異安心の門主に自害を勧め、それに応じた門主が自害したほどである)とも言えるため、他派にしてみれば、向こうさんもいよいよ崩れたか、ぐらいなのかもしれないが、、

裏返せば、今回の騒動で本願寺派を見限った寺院、僧侶、門徒を受け入れるようなことも、他派、門主、門首、連枝方にも、積極的にその気はほとんどないのかもしれないが…

機会があれば話を聞いてみたい気がする。


往生院金堂跡には、1/30に供養へと赴く予定

2024年01月26日 | ブログ
往生院金堂跡には、1/30に供養へと赴く予定。この前のことから正直なところ恐怖心が強い。呼吸が浅くなり、意識も朦朧となり、あんなに恐ろしい目にあったのは、初めてのことだった。

今まで霊感とか憑依とか、まあ、あまり自分には関係ないだろうとばかり思っていたが、マジかよ、という感じである。

室町後期以降、元の地での再興がなされなかった理由もなんとなくわかる気がした。おそらく多くの戦乱横死者がそのままに眠ったままでもあるのだろう。

そういえば、少し下ったところからも、南北朝時代、四条縄手の合戦における戦死者の遺骨や武具が大量に出土している。現在の霊光院さんのところであり、その経緯や慰霊碑が建てられている。

http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage948.htm

ならば、本陣であった往生院も相当なものであったと想像できる。そのような場所を調査名目ながらにも無雑作に歩いたのは本当に迂闊であった。

とにかく供養致さねばならない。



往生院金堂跡に平安時代、往生院を創建された安助上人のお墓、供養塔を探しに行ったら・・
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/118a73063b477ff691b8dd0e3c2161f7

往生院金堂跡・探索動画
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/9b73be2fa57da353a091962cd9179728

往生院金堂跡・歴代住職の墓域への供養と共に今後の向き合い方について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/bbe94a4dbbfda260a5058037a153e67a




世俗の幸福を得ることが仏教の目的ではない

2024年01月25日 | ブログ
世俗の幸福を得ることが仏教の目的ではない。仏教の目的は、出世間、勝義における悟り、涅槃を得ることであり、更に大乗仏教では衆生済度に資せるようになることである。浄土真宗も阿弥陀如来の往還相二種回向を当然に同じように捉えるわけである。

しかし、新興宗教では、おおよそ、世俗的な幸福を得るためとして、その信仰、帰依、信心、勤めを勧める立場が多いが、仏教では逆に世俗的な幸福には真なる安らぎはないとして、出世間(解脱)の道を勧めるのである。

もしも、本願寺代表役員、安永雄彦執行長が、世俗的な幸福を得るための目的として、教義を引いてきて使ってしまっていたとするならば、仏教的にも、浄土真宗的にも間違ったものであり、それこそ監正局に訴えられてしかるべきものとなるであろう。

西本願寺・本願寺派は、かつて、異端として、小池龍之介氏を破門し、あれだけ厳しく排斥したにもかかわらず、言ってみれば、それよりもっと酷い異端と言えるものをこのまま放置するのであれば、いよいよもう崩壊も近いと言えるだろう、、

https://www.facebook.com/groups/4239983176033867/permalink/7342004089165078/