日記

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仏陀の智について・如実智と如量智のあり方

2023年03月30日 | ブログ
元来、煩悩障と、所知障、つまり、無明の習気をも断じてある仏陀は、離戯論のみをご覧になられてあります(戯論寂滅)。

要は、空性の現量了解となります。

この際における世俗のありようは、もちろん縁起的あり方としてそのままなのではあるが、ただ、仏陀の如実智としては、空性の面のみが智に映えられてあるのであります。

まさに虚空のような空性のみしか仏智には映えておられないのであり、この時、世俗のありよう、世俗の顕現の一切は仏陀においては完全に消滅しています。

この悟りによる仏智の空性の認識状態における世俗の顕現の一切の消滅してあるありようを、私たちが勘違いして、世俗も空性であるから悟りだとするのが、煩悩即菩提とか、生死即涅槃という誤った概念となってしまっているのであります。

そもそもこの言葉自体が間違っているのであります。誤解を生む以前に、一切使わないようにした方が良いでしょう。

確かに仏陀の如実智には、世俗は映えてこないとしても、だからといって、世俗は世俗のまま、迷い苦しむ凡夫のありようも、それは縁起的な因果のあり方で、もちろんそのままなのであります。

業を浄化して、無明とその習気を断じない限り、凡夫はそのまま何も変わらずに迷い苦しみ続けていくのであります。

それでは、仏陀はどのようにして世俗のありよう、迷い苦しむ凡夫のありようをご覧になられるのか、ご覧になられなければ、もちろん、世俗の衆生を救済、方便のしようがないのであります。

では、どうご覧になられるのか、それは、仏陀のもう一つの智としての如量智にてご覧になられるのであります。

その如量智においても、仏陀には、我々のように汚れる世俗の顕現はもちろん生じてこないのですが、凡夫に顕れてある汚れた顕現の顕れを、凡夫の知のありようをご覧になられることで、「ああ、そういう顕現になってしまっているのね」としてお知りになられるのであります。

要は、凡夫の汚れた知、無明とその習気による知を介して、世俗のありようをご覧になるのであります。

例えると、どう見ても、その空間には、透明で何もないのに、凡夫の知の鏡には、うじゃうじゃと世俗の顕現が一面にびっしりと写っているという感じです。しかし、その凡夫の知の鏡の後ろにも前にも、ただの透明な空間だけが広がっているという感じです。

つまり、仏陀には、何も顕現してこない、ただの空性の広がりがあるだけで、仏智には当然に何も世俗の顕れは顕れてこないのだが、凡夫の汚れた知には、世俗の顕れがありありと顕れてあるので、それを見て、「ああ、凡夫には、そう見えているのだ」ということで、慈悲の面から対機説法、善巧方便をめぐらされることになるのであります。

もちろん、もともとはご自身も悟る前には汚れた知による汚れた顕現があったのでありますから、その仕組みについては十分にご存知なわけであります。私もそのように見えていたよ。ああ、懐かしいなという感じです。

ですから、凡夫の知に映えてある世俗の顕現のありようから、それをお知りになられるということなのであります。

仏陀は「ご覧にならないという仕方でご覧になる」と言われる所以なのであります。

「極楽浄土と自然の浄土について」3・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・10

2023年03月28日 | ブログ
「極楽浄土と自然の浄土について」3

では、更に「極楽浄土」と、「自然の浄土」あるいは「一如宝海」との歴然とした差異とは何であるのかということでありますが、突き詰めれば、端的には、「業論」の枠内にあるのか、「業論」の枠外となるのか、ということになります。

浄土真宗教学と通仏教との徹底的な乖離は、最終的にこの点に集約されるところになるのであります。

そのため、浄土真宗における往生先は、悟りへと向けて、業を浄らかに調えていくための他宗派において重視される見仏と授記のための往生・引導とは全く異なった先としての「自然の浄土」あるいは「一如宝海」となるのであります。

そして、成仏へと至る理論ももちろん全く異なることになります。

その全ての根拠は、当然に阿弥陀如来の「本願(力の真実功徳)」となります。

その本願に与るための信心決定・信心獲得は、他宗派における成仏のための業の完全な浄化、煩悩障・所知障の断滅に当然に匹敵するものとなるため、並大抵のことでは難しく、大乗の至極とは宣べるものの、その分、難儀至極であることは言うまでもないのであります。

どちらにしても、他力浄土門にしても、自力聖道門にしても、あるいは、その折衷融合門にしても、ある一定までは、仏教の基本的な帰依、信心、発心、懺悔、勧善懲悪(七仏通誡偈)、智慧と功徳の二資糧集積(戒・定・慧、聞・思・修)は必要であると考えます。

では、どの段階から他力浄土門へと入って良いのか、となりますが、基本的には親鸞聖人が取り組まれた自力聖道行までは学修と実際の修行を進めるべきであるというのが拙見解であります。ただ、具体的にとなると少し難しいのですが、、まあ、それは足跡の残る文献から、ある程度推測することは可能でしょう。

いずれにしても、西本願寺・本願寺派さんが、自力聖道行の必要性を説くことは、通仏教的には何ら問題はないのですが、教学的には大きな矛盾を抱えてしまうことになるため、その根本から見直して、折衷融合門として調えることが必要になるということであります。

ましてや、領解文だけでは、それは難しいということです。

ご門主さまが中心となり、本気で折衷融合門として教義を調えるということであるならば、勧学寮、宗門教学会議、総局、監正局、総合研究所、そして、碩学の勧学、司教、大学の真宗学、仏教学の教授陣、寺院僧侶・門徒信徒代表者たちとの侃々諤々の議論を十二分に経てから、正式な手続きを経て、宗会の議決によって、新しい教義として発布することが望ましいことになるでしょう。

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「極楽浄土と自然の浄土について」2

お念仏で極楽浄土へ行くものだと思っていました、との方が、門徒さんでも意外に多い。

それは教学的には間違いになりますが、ただ、方便的に用いる場合はあるでしょう。

昨日にも述べたように、極楽浄土は、自力聖道門の行者の往生先の一つであり、往生の目的は、阿弥陀如来との見仏、授記になります。

しかし、通仏教的には如来の報身仏との見仏、授記は、菩薩の第八地以上の境地が必要となります。

第八地に至っていない行者でも極楽浄土に往生できるかどうかは、ある程度の功徳行を前提として、阿弥陀如来の本願力を頂くことにより可となる可能性はあると言えますが、それより極楽浄土でも阿弥陀如来の化身化土上に赴ける可能性の方が極めて高く、そちらで仏道修行を進めることになり、更に境地を上げることで、やがて報身仏との見仏、授記に段階として至れると考える方が妥当であると思われるのであります。

このことは、以前にも述べてあります。

また、極楽浄土にも、その広大な中には娑婆と同様に六道もあると考えておかないといけないでしょう。要は、極楽浄土にも地獄はあるということです。

娑婆との違いとしては、見仏と授記が可能となる如来の在世と、阿弥陀如来の本願力が娑婆よりも強くはたらいてある世界であるため、仏縁に与れる、阿弥陀如来の(応身を含めた)教化に与れる可能性は極めて高く、また、報土における多くの菩薩や聖者方による導きも期待できるため、仏道のスピードは娑婆よりも早く進めることができるであろうとは思われるのであります。

ですから、極楽浄土は、浄土門の宗派はもちろんながら、日本でも、天台、臨済、昔の曹洞と、あと、チベット仏教や中国仏教、台湾仏教、韓国仏教でも、在家の葬送における引導先として、最も多いのであります。

しかし、いずれにしても無条件に往生できるものではなく、一定の要件、善根、功徳が必要となるのであります。

葬送の儀軌によりそれをある程度カバーすることにはなりますが、故人の集積してある功徳が足りない場合には、遺族、縁故者によって、功徳を補助する追善供養がやはり欠かせないものになると考えておかないといけないでしょう。

話を戻して、浄土真宗における葬送先、往生先は、上記のような極楽浄土ではないということであります。

目指すべき葬送先、往生先は、阿弥陀如来の法性法身のある「自然の浄土」、「一如宝海」となるのであります。

この点をしっかりと理解していないと、自力聖道門との相違がどこにあるのかが分からなくなってしまうおそれがあるため、非常に注意が必要となるのであります。

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「極楽浄土と自然の浄土について」

「自然の浄土」とは、「一如宝海」とほぼ同意になると思われるのだが、もちろん、阿弥陀如来の報身報土である「極楽浄土」を示すものではない。

極楽浄土は、正確には、阿弥陀如来の方便法身の浄土と言えるところになる。

では、一如宝海は、阿弥陀如来の法性法身の浄土であるのか、となれば、限りなく近いのだが、厳密にはイコールではない。
この「厳密にはイコールではない」が実は極めて重要なのである。

また、娑婆世界は、浄土か穢土かとなれば、阿弥陀如来の方便法身、真実功徳円満の「名号」が届いてある世界として、極楽浄土と同じく、阿弥陀如来の方便法身の浄土と考えることになるのである。

もちろん、教義的には、娑婆世界から極楽浄土を経由するまでもなく、自然の浄土、一如宝海への往生が求められるところであり、そのためには、信心獲得、信心決定が一大事となるのだが、親鸞聖人の二種法身論、二種回向論を正確に理解していないと、自然の浄土への往生の理解は、かなり難しいものとなります。

つまり、まだ、あそこを極楽浄土としていたのであれば、経由地への往生として、自力的な要素をある程度、敢行推奨するのも、正直なところ百歩譲って認められる余地があったのではあります。拙的には。

しかし、「自然の浄土」と表記してしまった以上は、もはや後半は蛇足どころか、完全に教義的にはアウトとなってしまったのであります。

まあ、これはあくまでも教学論としての投稿ですので、どれのどこがとはもちろん申しませんが、、

また、かなり前の拙論にても述べたように、極楽浄土は、自力聖道行者においても往生先の一つであり、自力他力の両方が混ざってある行者においても往生先の一つとなるが、絶対他力行者の往生先とはやはり違うことになるのであります。

阿弥陀経にあるように基本的に善根少ない者は、極楽浄土に往生できません。

つまり、一定の功徳行が前提であり、それはもちろん自力聖道行となるのであります。

ゆえに、極楽浄土への往生を説くのであれば、道徳、善行、功徳行を勧めても全くもって何ら矛盾はないのであり、また、通仏教的な悟りへと向けた見仏と授記に向けて、ごくごくそれは当たり前のことになります。

問題は、自然の浄土、一如宝海への往生についてであります。

こちらへの往生を説くのであれば、残念ながら絶対他力へと向けて、一切の自力的な要素は微塵も認められる余地はなくなるのであり、もちろん、見仏、授記も必要にはならないため、他浄土への往生も不必要となります。

自然の浄土、一如宝海への往生へと向けて説かれたのが、親鸞聖人の教えの要諦であり、もちろん難儀至極ではあるものの、教義的にはこちらを優位優先して説き示して、教化していくことを目指さなければならないのであります。

ですから、あれを草稿した者は、明らかに「自然の浄土」とは何かを全く理解していないと言えるということでも問題なのであります。

あれは何かはもちろん言いませんし、これはあくまでも教学論としてのことになりますので、ご寛恕下さい。

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親鸞聖人の特殊と言える二種法身、二種回向の理論的根拠は、大智度論にあることを先に述べていますが、最後に釈摩訶衍論の性徳円満海と親鸞聖人の一如宝海論の比較検討について扱っていた中で、西本願寺さんの新領解文についての見解を聞かれたことから、しばらくそちらのことが主になってしまっていました。

大乗起信論は本覚思想を扱い、その派生としての釈摩訶衍論は、大智度論と同様に龍樹造と仮託されたものではありましたが、親鸞聖人は全く重きを置かれませんでした。もちろん、天台自体が釈論を教学から外したため、当然となります。

問題は、一如宝海は阿弥陀如来の法身であるのか、それ以外のものであるのか、というところであります。

特に一如宝海は、衆生が二種法身を得る、つまり、成仏するところとなります。

その成仏の根拠はもちろん阿弥陀如来の法身のはたらき、いわゆる本願のはたらきとなるのですが、このように考えると、一如宝海への往生にて阿弥陀如来の法身と自分の法身、他のたくさんの衆生の法身も共にあるような、いわゆる混在した状態となります。そこから還相として各自の方便法身のありようが示現することにもなるのですが、果たしてそのような事態が可能かどうかを考えなければならないということになります。

一如宝海論の理論的根拠は大智度論に見出だせるのは確実ではありますが、もう少し突き詰めなければならないと考えています。

本覚思想ならば、当然に大乗起信論、釈摩訶衍論からすぐに見出だせたであろうと思うのですが、そうではないため、複雑さが増すのであります。

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釈摩訶衍論の不二摩訶衍・性徳円満海、金剛三昧経の仏菩提薩般若海、親鸞聖人の一如宝海。

これら海論における焦点は、この「海」の性質が、もしも、悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提であるとするのであれば、そこから迷い苦しむ衆生が生じるということはありえないものとなります。

迷い→悟りへの過程はあっても、悟り→迷いへの過程はありえないもので、「海」を悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提として、全てがそこを元に生じるものだとするならば、悟りから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じるということになってしまいます。これはありえないことです。

ですから、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、仏の法身の世界であると考えるならば、そこから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じることはもちろんないのであります。

それよりも、仏の色身、報身、応身、または方便法身など、仏の智慧と慈悲のはたらきを有するものであるならば生じることになります。まさか迷い苦しむ衆生がそこから生じる余地など微塵もないのであります。

もちろん、仏も衆生も、もとの生じる根源は同じところからにはなります。宇宙誕生のビッグバンのように、この世に物質、現象を生み出した大元のようなものです。

特に物質、現象を生み出す根源は、中立、無記なものとして展開していくものとなります。ただ、ビッグバンも無から発生したものではなく、その前の因縁もあるため、ビッグバンがその根源とは言い得ないのではありますが。まあ、無始なるところからということなのであります。

いずれにしても、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、想定されてあるのは、仏の法身であり、その無始なる根源というものではないと考えるのであります。

では、一体、仏性とか、如来蔵とか、阿摩羅識とかは何であるのかということが本覚思想においても問題となるのですが、これは、仏にも衆生にも有してある、つまり、有情なる者、有情だった者(仏)であれば皆、有している「知る力」の根源のことで、いわゆる密教でいうところの「心の光明」のこととなります。これは、もちろん中立、無記な力であります。

そして、有情は皆、悟るための知る力である、この心の光明を有してはいるものの、その知る力を正しく育てて悟りへと至れるかどうかは、いずれにしてもそれぞれの業次第になるということなのであります。

仏性、如来蔵、阿摩羅識とは、この「心の光明」のことなのであります。

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釈摩訶衍論における不二摩訶衍の説明で出てくる「因縁無」は、般若経、大智度論や宝性論、涅槃経などに出てくる悟り、解脱、涅槃、第一義諦は「因縁無」と説かれてあることと同じ事態を示すのではないかと思われるかもしれません。

実は相当前の拙論では、一切が空ならば、各個物は実体としてあるわけではないため、そもそも各個物がいったい何であるのかなど、元から分かりようがなく、つまり、どうやっても分別して区切りようもないし、示しようもない、当然に、因、縁、果も実体としてあるわけでないため、何が因、何が縁、何が果さえも示しようがないため、「因縁無」であると言えるとしていたわけです。

要は、空=勝義諦、縁起=世俗諦という図式の理解においては、確かに勝義諦では「因縁無」として、般若経、大智度論、宝性論や涅槃経のように説明されるわけですが、真なるところは、空と縁起は切り離せるものではなく、表裏一体、相即関係、不一不異であって、「空=勝義諦、縁起=世俗諦」という単純な図式での理解は間違いとなるのであります。

このことを明らかとして、正したのがツォンカパ大師であります。

また、覚者による認識のありようからは、「因縁無」として表現できることがあるとしても、私たち凡夫において、そうではないということになります。このあたりのことも覚者における離戯論の議論から、両者の認識のあり方の相違を理解することが必要となるのであります。

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では、大乗起信論における「水と波の喩え」における「風」は何の喩えとなるのか?

「風」を衆生と解釈する場合もありますが、風はあくまでも波を起こす原因となるものであり、それが無明、虚妄分別、煩悩障、所知障で、その風による波の状態にあるのが、衆生であって、もう少し詳しく述べるのであれば、その衆生の心のありようを表すものと考えると分かりやすくなります。

風が止み、波が収まれば、それで元々の真如、第一義諦、法身、般若そのままの揺らぎのない水の状態になるということであり、皆、衆生は元々、悟りの状態にある、悟りの状態を有しているものとして、大乗起信論は本覚思想として位置付けられるものとなるのであります。

しかし、そんな風が吹いたぐらいで、つまり、無明や虚妄分別によって簡単に揺らぎ惑わされるものが、真如、第一義諦、法身、般若なわけがないのであります。

それよりも拙見解のように認識する知のありようの問題と考える方がまだ理解ができるのではないだろうかと思うのであります。

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もちろん、釈論の性徳円満海論が、一切衆生の自利利他功徳の円満するところ、全てのものたちの法性法身と方便法身の円満具足するところと捉えられるならば、まさに親鸞聖人の一如宝海論と同意として考えられなくはないのですが、釈論の意図がそうであれば、不二摩訶衍を再考することで、性徳円満海の意図するところをより明確にできるのかもしれません。

それには、大乗起信論周辺における真如の議論を見直すことが必要となります。

その真如の議論の中で、最も気になるのが、やはり「水と波の喩え」です。

これは大乗起信論周辺域において、「水」=「真如」、「波」=「衆生」という理解がオーソドックスなものとなります。

そして、「水」は、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如と解されるところとなりますが、以前の拙考の「大乗起信論における二分依他性」の中で、『風が立ち、波が起こると、底が見えなくなるありようが、虚妄分別による汚れた知のありようを示し、風が止み、波も止めば、底が見えるようになるありようが、真如による浄らかなる知のありようを示すということであります。もちろん、波が起ころうが起こるまいが、水は水として何ら元々汚れもなく、浄らかなる本体として、真理を知る真如そのままの知があるとするのであり、それを如来蔵と言うわけなのであります。』としていますが、本来の「水と波の喩え」は、拙解説とは少し違ったもので、波が静まろうが、そうでなくても、「本体」の「水」は「水」である、つまり、「真如」であるとするのであります。(本覚思想)

しかし、これなら、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如から「波」としての迷い苦しむ衆生が生じていることになり、そんなことがあるはずがないのであります。

つまり、大乗起信論周辺におけるオーソドックスな「水」=「真如」、「波」=「衆生」という本覚思想的な理解からでは、一如宝海、性徳円満海も、そこから仏の方便法身、法性法身だけではなく、迷い苦しむ衆生も生じることになってしまうという、おかしなことになるのであります。

そういった意味でも、まず、大乗起信論周辺域における「真如」とは両者ともに性質が異なるものと考えることができますが、もしも、当然に大乗起信論周辺域の議論から発展した性徳円満海は、迷い苦しむ衆生もそこから生じるものと考えるとすれば、そこで両者の違いは明確になるわけです。

このあたりを精査し直す必要性があるのであります。

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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の性徳円満海と同じだと主張される方の論拠は、一念多念文意における「一実真如の妙理、円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまうなり。」と、自利利他功徳の円満を表すもので、釈論の性徳円満海、その名称そのままで、功徳性の円満、法性、方便の二種法身そのもののはたらきの根源とするものと考えられるということである。

なるほど、確かに字義通りに捉えるならば、まさにそのようになるとは思われます。

ただ、それはあくまでも仏の智慧と慈悲の根源としてであって、釈論の不二摩訶衍としての性徳円満海とはやや性質を異にするのではないだろうかというのが、拙見解となります。

問題は、親鸞聖人が、「宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。」として、仏(阿弥陀如来)の根源どころか、衆生がさわりなく成仏して二種法身を得れるはたらきのあるところ(衆生の自利利他功徳が円満するところでもある)と示しているのであります。

この点で、やはり、釈論の性徳円満海とは根本的に違うと考えるのであります。

もしかすると一如宝海論のヒントは、釈論の性徳円満海にあったのかもしれませんが、、

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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の不二摩訶衍としての性徳円満海論と同じであるという意見を頂いた。

要は、一如宝海と性徳円満海、それらは方便法身を生じさせる基としての法性法身と捉えるのか、それとも、法性法身と方便法身の両方を生じさせる基と捉えるか、そういう議論となります。

ただ、性徳円満海の海は、仏だけではなく、一切全てを生み出す根源的な意味合いで用いられていると思われる節が釈論の雰囲気としてはあるのですよね。つまり、仏の法性法身ではないということです。

いずれにしても、親鸞聖人の場合は、阿弥陀如来(の法性法身)一尊を絶対視するため(あとの諸仏諸仏説も方便法身としての従果降因的な扱いとなる)、この点で既に一如宝海と性徳円満海は同じではないと拙的には思うのであります。

もちろん、性徳円満海のイメージの典拠とされる金剛三昧経の「仏菩提薩般若海」、これは明らかに仏の悟りの根源としての般若、つまり、智慧としての法性法身そのものが想定されるものではあります。

もしくは徳の円満として、功徳性法身、つまり、方便法身とも捉えられなくもないのですが、智慧より功徳が先行重視されることは難しいので、この線も無いかなとは思うのですよね。

不二摩訶衍とは何かということとダイレクトに繋がるのですが、イメージ的には、宇宙のビッグバン諸元的なものでしょうか。
万物の根源的な。

ただ、いずれにしても不二摩訶衍について釈論の説明で出てくる「因縁無」がかなり引っかかるのですよね。

縁起するものに例外が無い、つまり、縁起以外によるものは無いというのが空の思想でもありますから、ビッグバンもやはり因縁によるものなので、そのイメージも違うのかとは思いますが。。

まあ、本当に龍樹が著したものであるならば、「因縁無」(逆説的な意味での説明であったとしても)とはここで書かないと思われますので、釈論の龍樹真作の線はやはり薄いと思われるのではあります。

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では、次に、親鸞聖人の一如宝海論は、大智度論のどこに見出すことができるのかというと、般若経系においてもよく出てくる表現とも重なりますが、それぞれ異なってある個々の雨水は、やがて川に集まり、海に入って一つに溶け込む、そのようなありようのことからヒントを得られた可能性が高くあります。

雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)というわけです。

巻92
「菩提名諸法實相,是諸佛所得究竟實相,無有變異。一切法入菩提中,皆寂滅相;如一切水入大海,同為一味」

巻67
「若菩薩於一切法不分別是法、是非法,悉皆是法;如大海水,百川萬流,皆合一味。爾時修般若波羅蜜具足」

巻32
「如水性下流故會歸於海,合為一味;諸法亦如是,一切總相、別相皆歸法性,同為一相,是名法性」

巻35「諸法如,入法性中無有別異;如火各各不同,而滅相無異。譬如眾川萬流,各各異色異味,入於大海,同為一味一名;如是愚癡、智慧,入於般若波羅蜜中,皆同一味、無有差別」

巻59
「至般若波羅蜜中,皆一相無有差別。譬如閻浮提阿那婆達多池,四大河流,一大河有五百小川歸之,俱入大海,則失其本名,合為一味,無有別異。又如樹木,枝葉華果,眾色別異,蔭則無別。」

まだ他にも同様の表現が数か所散見されますが、雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)として、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことによって、法性と方便の二種法身を得れて成仏することになると想定されてあるのであります。

しかし、大智度論では、親鸞聖人の想定されてあるように、ただ、阿弥陀如来の法性法身、自然の浄土へと溶け込むことで悟りへと至れる、成仏できる、二種法身を得れるとするのかとなれば、そうではないのであります。

特に重要となる諸法実相、法性、実際と衆生は異なるのか、異ならないのかという議論では、明確に一ではないとしているのであります。

もちろん、さりとて、二でもないし、一でないのでもなく、二でないのでもないとして四句分別という立場を取り、「畢竟寂滅 無戯論相」としています。

このあたりは中論の内容、仏の認識論と我々凡夫の認識論の違いが、当然に意識されているのであります。

また、大智度論では、自力修行、六波羅蜜等も否定されるものではなく、初発心の菩薩の立場についても、それなりの修養を終えてあるかなり境地の高い菩薩が想定されています。

この初発心は、よく誤解される仏道修行者が最初に発心する発菩提心の意ではなく、菩薩階梯の十地の内の第八地、不動地におけるいよいよ衆生を救わんとしての大慈悲心の発願とするのが、やはり基本的な立場となるのであります。

このように両者の立場には大きな違いがあるわけですが、親鸞聖人は、悟り、成仏は、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことにより達成されるとして、そのための信心獲得のみにおいて全て事足りるとされたのであります。

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親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。

ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。

釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。

ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。

親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。

親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。

その謎がやっと解けた感じであります。

それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。

大智度論巻第九

「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」

この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。

ここになります。

「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」

様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。

そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。

それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。

そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。

「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」

要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。

その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。

まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。

下記の初発意を信心として、ということです。

「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」

こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。

また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。

初発心の菩薩にです。

この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。



「極楽浄土と自然の浄土について」2・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・9

2023年03月28日 | ブログ
「極楽浄土と自然の浄土について」2

お念仏で極楽浄土へ行くものだと思っていました、との方が、門徒さんでも意外に多い。

それは教学的には間違いになりますが、ただ、方便的に用いる場合はあるでしょう。

昨日にも述べたように、極楽浄土は、自力聖道門の行者の往生先の一つであり、往生の目的は、阿弥陀如来との見仏、授記になります。

しかし、通仏教的には如来の報身仏との見仏、授記は、菩薩の第八地以上の境地が必要となります。

第八地に至っていない行者でも極楽浄土に往生できるかどうかは、ある程度の功徳行を前提として、阿弥陀如来の本願力を頂くことにより可となる可能性はあると言えますが、それより極楽浄土でも阿弥陀如来の化身化土上に赴ける可能性の方が極めて高く、そちらで仏道修行を進めることになり、更に境地を上げることで、やがて報身仏との見仏、授記に段階として至れると考える方が妥当であると思われるのであります。

このことは、以前にも述べてあります。

また、極楽浄土にも、その広大な中には娑婆と同様に六道もあると考えておかないといけないでしょう。要は、極楽浄土にも地獄はあるということです。

娑婆との違いとしては、見仏と授記が可能となる如来の在世と、阿弥陀如来の本願力が娑婆よりも強くはたらいてある世界であるため、仏縁に与れる、阿弥陀如来の(応身を含めた)教化に与れる可能性は極めて高く、また、報土における多くの菩薩や聖者方による導きも期待できるため、仏道のスピードは娑婆よりも早く進めることができるであろうとは思われるのであります。

ですから、極楽浄土は、浄土門の宗派はもちろんながら、日本でも、天台、臨済、昔の曹洞と、あと、チベット仏教や中国仏教、台湾仏教、韓国仏教でも、在家の葬送における引導先として、最も多いのであります。

しかし、いずれにしても無条件に往生できるものではなく、一定の要件、善根、功徳が必要となるのであります。

葬送の儀軌によりそれをある程度カバーすることにはなりますが、故人の集積してある功徳が足りない場合には、遺族、縁故者によって、功徳を補助する追善供養がやはり欠かせないものになると考えておかないといけないでしょう。

話を戻して、浄土真宗における葬送先、往生先は、上記のような極楽浄土ではないということであります。

目指すべき葬送先、往生先は、阿弥陀如来の法性法身のある「自然の浄土」、「一如宝海」となるのであります。

この点をしっかりと理解していないと、自力聖道門との相違がどこにあるのかが分からなくなってしまうおそれがあるため、非常に注意が必要となるのであります。

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「極楽浄土と自然の浄土について」

「自然の浄土」とは、「一如宝海」とほぼ同意になると思われるのだが、もちろん、阿弥陀如来の報身報土である「極楽浄土」を示すものではない。

極楽浄土は、正確には、阿弥陀如来の方便法身の浄土と言えるところになる。

では、一如宝海は、阿弥陀如来の法性法身の浄土であるのか、となれば、限りなく近いのだが、厳密にはイコールではない。
この「厳密にはイコールではない」が実は極めて重要なのである。

また、娑婆世界は、浄土か穢土かとなれば、阿弥陀如来の方便法身、真実功徳円満の「名号」が届いてある世界として、極楽浄土と同じく、阿弥陀如来の方便法身の浄土と考えることになるのである。

もちろん、教義的には、娑婆世界から極楽浄土を経由するまでもなく、自然の浄土、一如宝海への往生が求められるところであり、そのためには、信心獲得、信心決定が一大事となるのだが、親鸞聖人の二種法身論、二種回向論を正確に理解していないと、自然の浄土への往生の理解は、かなり難しいものとなります。

つまり、まだ、あそこを極楽浄土としていたのであれば、経由地への往生として、自力的な要素をある程度、敢行推奨するのも、正直なところ百歩譲って認められる余地があったのではあります。拙的には。

しかし、「自然の浄土」と表記してしまった以上は、もはや後半は蛇足どころか、完全に教義的にはアウトとなってしまったのであります。

まあ、これはあくまでも教学論としての投稿ですので、どれのどこがとはもちろん申しませんが、、

また、かなり前の拙論にても述べたように、極楽浄土は、自力聖道行者においても往生先の一つであり、自力他力の両方が混ざってある行者においても往生先の一つとなるが、絶対他力行者の往生先とはやはり違うことになるのであります。

阿弥陀経にあるように基本的に善根少ない者は、極楽浄土に往生できません。

つまり、一定の功徳行が前提であり、それはもちろん自力聖道行となるのであります。

ゆえに、極楽浄土への往生を説くのであれば、道徳、善行、功徳行を勧めても全くもって何ら矛盾はないのであり、また、通仏教的な悟りへと向けた見仏と授記に向けて、ごくごくそれは当たり前のことになります。

問題は、自然の浄土、一如宝海への往生についてであります。

こちらへの往生を説くのであれば、残念ながら絶対他力へと向けて、一切の自力的な要素は微塵も認められる余地はなくなるのであり、もちろん、見仏、授記も必要にはならないため、他浄土への往生も不必要となります。

自然の浄土、一如宝海への往生へと向けて説かれたのが、親鸞聖人の教えの要諦であり、もちろん難儀至極ではあるものの、教義的にはこちらを優位優先して説き示して、教化していくことを目指さなければならないのであります。

ですから、あれを草稿した者は、明らかに「自然の浄土」とは何かを全く理解していないと言えるということでも問題なのであります。

あれは何かはもちろん言いませんし、これはあくまでも教学論としてのことになりますので、ご寛恕下さい。

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親鸞聖人の特殊と言える二種法身、二種回向の理論的根拠は、大智度論にあることを先に述べていますが、最後に釈摩訶衍論の性徳円満海と親鸞聖人の一如宝海論の比較検討について扱っていた中で、西本願寺さんの新領解文についての見解を聞かれたことから、しばらくそちらのことが主になってしまっていました。

大乗起信論は本覚思想を扱い、その派生としての釈摩訶衍論は、大智度論と同様に龍樹造と仮託されたものではありましたが、親鸞聖人は全く重きを置かれませんでした。もちろん、天台自体が釈論を教学から外したため、当然となります。

問題は、一如宝海は阿弥陀如来の法身であるのか、それ以外のものであるのか、というところであります。

特に一如宝海は、衆生が二種法身を得る、つまり、成仏するところとなります。

その成仏の根拠はもちろん阿弥陀如来の法身のはたらき、いわゆる本願のはたらきとなるのですが、このように考えると、一如宝海への往生にて阿弥陀如来の法身と自分の法身、他のたくさんの衆生の法身も共にあるような、いわゆる混在した状態となります。そこから還相として各自の方便法身のありようが示現することにもなるのですが、果たしてそのような事態が可能かどうかを考えなければならないということになります。

一如宝海論の理論的根拠は大智度論に見出だせるのは確実ではありますが、もう少し突き詰めなければならないと考えています。

本覚思想ならば、当然に大乗起信論、釈摩訶衍論からすぐに見出だせたであろうと思うのですが、そうではないため、複雑さが増すのであります。

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釈摩訶衍論の不二摩訶衍・性徳円満海、金剛三昧経の仏菩提薩般若海、親鸞聖人の一如宝海。

これら海論における焦点は、この「海」の性質が、もしも、悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提であるとするのであれば、そこから迷い苦しむ衆生が生じるということはありえないものとなります。

迷い→悟りへの過程はあっても、悟り→迷いへの過程はありえないもので、「海」を悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提として、全てがそこを元に生じるものだとするならば、悟りから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じるということになってしまいます。これはありえないことです。

ですから、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、仏の法身の世界であると考えるならば、そこから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じることはもちろんないのであります。

それよりも、仏の色身、報身、応身、または方便法身など、仏の智慧と慈悲のはたらきを有するものであるならば生じることになります。まさか迷い苦しむ衆生がそこから生じる余地など微塵もないのであります。

もちろん、仏も衆生も、もとの生じる根源は同じところからにはなります。宇宙誕生のビッグバンのように、この世に物質、現象を生み出した大元のようなものです。

特に物質、現象を生み出す根源は、中立、無記なものとして展開していくものとなります。ただ、ビッグバンも無から発生したものではなく、その前の因縁もあるため、ビッグバンがその根源とは言い得ないのではありますが。まあ、無始なるところからということなのであります。

いずれにしても、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、想定されてあるのは、仏の法身であり、その無始なる根源というものではないと考えるのであります。

では、一体、仏性とか、如来蔵とか、阿摩羅識とかは何であるのかということが本覚思想においても問題となるのですが、これは、仏にも衆生にも有してある、つまり、有情なる者、有情だった者(仏)であれば皆、有している「知る力」の根源のことで、いわゆる密教でいうところの「心の光明」のこととなります。これは、もちろん中立、無記な力であります。

そして、有情は皆、悟るための知る力である、この心の光明を有してはいるものの、その知る力を正しく育てて悟りへと至れるかどうかは、いずれにしてもそれぞれの業次第になるということなのであります。

仏性、如来蔵、阿摩羅識とは、この「心の光明」のことなのであります。

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釈摩訶衍論における不二摩訶衍の説明で出てくる「因縁無」は、般若経、大智度論や宝性論、涅槃経などに出てくる悟り、解脱、涅槃、第一義諦は「因縁無」と説かれてあることと同じ事態を示すのではないかと思われるかもしれません。

実は相当前の拙論では、一切が空ならば、各個物は実体としてあるわけではないため、そもそも各個物がいったい何であるのかなど、元から分かりようがなく、つまり、どうやっても分別して区切りようもないし、示しようもない、当然に、因、縁、果も実体としてあるわけでないため、何が因、何が縁、何が果さえも示しようがないため、「因縁無」であると言えるとしていたわけです。

要は、空=勝義諦、縁起=世俗諦という図式の理解においては、確かに勝義諦では「因縁無」として、般若経、大智度論、宝性論や涅槃経のように説明されるわけですが、真なるところは、空と縁起は切り離せるものではなく、表裏一体、相即関係、不一不異であって、「空=勝義諦、縁起=世俗諦」という単純な図式での理解は間違いとなるのであります。

このことを明らかとして、正したのがツォンカパ大師であります。

また、覚者による認識のありようからは、「因縁無」として表現できることがあるとしても、私たち凡夫において、そうではないということになります。このあたりのことも覚者における離戯論の議論から、両者の認識のあり方の相違を理解することが必要となるのであります。

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では、大乗起信論における「水と波の喩え」における「風」は何の喩えとなるのか?

「風」を衆生と解釈する場合もありますが、風はあくまでも波を起こす原因となるものであり、それが無明、虚妄分別、煩悩障、所知障で、その風による波の状態にあるのが、衆生であって、もう少し詳しく述べるのであれば、その衆生の心のありようを表すものと考えると分かりやすくなります。

風が止み、波が収まれば、それで元々の真如、第一義諦、法身、般若そのままの揺らぎのない水の状態になるということであり、皆、衆生は元々、悟りの状態にある、悟りの状態を有しているものとして、大乗起信論は本覚思想として位置付けられるものとなるのであります。

しかし、そんな風が吹いたぐらいで、つまり、無明や虚妄分別によって簡単に揺らぎ惑わされるものが、真如、第一義諦、法身、般若なわけがないのであります。

それよりも拙見解のように認識する知のありようの問題と考える方がまだ理解ができるのではないだろうかと思うのであります。

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もちろん、釈論の性徳円満海論が、一切衆生の自利利他功徳の円満するところ、全てのものたちの法性法身と方便法身の円満具足するところと捉えられるならば、まさに親鸞聖人の一如宝海論と同意として考えられなくはないのですが、釈論の意図がそうであれば、不二摩訶衍を再考することで、性徳円満海の意図するところをより明確にできるのかもしれません。

それには、大乗起信論周辺における真如の議論を見直すことが必要となります。

その真如の議論の中で、最も気になるのが、やはり「水と波の喩え」です。

これは大乗起信論周辺域において、「水」=「真如」、「波」=「衆生」という理解がオーソドックスなものとなります。

そして、「水」は、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如と解されるところとなりますが、以前の拙考の「大乗起信論における二分依他性」の中で、『風が立ち、波が起こると、底が見えなくなるありようが、虚妄分別による汚れた知のありようを示し、風が止み、波も止めば、底が見えるようになるありようが、真如による浄らかなる知のありようを示すということであります。もちろん、波が起ころうが起こるまいが、水は水として何ら元々汚れもなく、浄らかなる本体として、真理を知る真如そのままの知があるとするのであり、それを如来蔵と言うわけなのであります。』としていますが、本来の「水と波の喩え」は、拙解説とは少し違ったもので、波が静まろうが、そうでなくても、「本体」の「水」は「水」である、つまり、「真如」であるとするのであります。(本覚思想)

しかし、これなら、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如から「波」としての迷い苦しむ衆生が生じていることになり、そんなことがあるはずがないのであります。

つまり、大乗起信論周辺におけるオーソドックスな「水」=「真如」、「波」=「衆生」という本覚思想的な理解からでは、一如宝海、性徳円満海も、そこから仏の方便法身、法性法身だけではなく、迷い苦しむ衆生も生じることになってしまうという、おかしなことになるのであります。

そういった意味でも、まず、大乗起信論周辺域における「真如」とは両者ともに性質が異なるものと考えることができますが、もしも、当然に大乗起信論周辺域の議論から発展した性徳円満海は、迷い苦しむ衆生もそこから生じるものと考えるとすれば、そこで両者の違いは明確になるわけです。

このあたりを精査し直す必要性があるのであります。

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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の性徳円満海と同じだと主張される方の論拠は、一念多念文意における「一実真如の妙理、円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまうなり。」と、自利利他功徳の円満を表すもので、釈論の性徳円満海、その名称そのままで、功徳性の円満、法性、方便の二種法身そのもののはたらきの根源とするものと考えられるということである。

なるほど、確かに字義通りに捉えるならば、まさにそのようになるとは思われます。

ただ、それはあくまでも仏の智慧と慈悲の根源としてであって、釈論の不二摩訶衍としての性徳円満海とはやや性質を異にするのではないだろうかというのが、拙見解となります。

問題は、親鸞聖人が、「宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。」として、仏(阿弥陀如来)の根源どころか、衆生がさわりなく成仏して二種法身を得れるはたらきのあるところ(衆生の自利利他功徳が円満するところでもある)と示しているのであります。

この点で、やはり、釈論の性徳円満海とは根本的に違うと考えるのであります。

もしかすると一如宝海論のヒントは、釈論の性徳円満海にあったのかもしれませんが、、

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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の不二摩訶衍としての性徳円満海論と同じであるという意見を頂いた。

要は、一如宝海と性徳円満海、それらは方便法身を生じさせる基としての法性法身と捉えるのか、それとも、法性法身と方便法身の両方を生じさせる基と捉えるか、そういう議論となります。

ただ、性徳円満海の海は、仏だけではなく、一切全てを生み出す根源的な意味合いで用いられていると思われる節が釈論の雰囲気としてはあるのですよね。つまり、仏の法性法身ではないということです。

いずれにしても、親鸞聖人の場合は、阿弥陀如来(の法性法身)一尊を絶対視するため(あとの諸仏諸仏説も方便法身としての従果降因的な扱いとなる)、この点で既に一如宝海と性徳円満海は同じではないと拙的には思うのであります。

もちろん、性徳円満海のイメージの典拠とされる金剛三昧経の「仏菩提薩般若海」、これは明らかに仏の悟りの根源としての般若、つまり、智慧としての法性法身そのものが想定されるものではあります。

もしくは徳の円満として、功徳性法身、つまり、方便法身とも捉えられなくもないのですが、智慧より功徳が先行重視されることは難しいので、この線も無いかなとは思うのですよね。

不二摩訶衍とは何かということとダイレクトに繋がるのですが、イメージ的には、宇宙のビッグバン諸元的なものでしょうか。
万物の根源的な。

ただ、いずれにしても不二摩訶衍について釈論の説明で出てくる「因縁無」がかなり引っかかるのですよね。

縁起するものに例外が無い、つまり、縁起以外によるものは無いというのが空の思想でもありますから、ビッグバンもやはり因縁によるものなので、そのイメージも違うのかとは思いますが。。

まあ、本当に龍樹が著したものであるならば、「因縁無」(逆説的な意味での説明であったとしても)とはここで書かないと思われますので、釈論の龍樹真作の線はやはり薄いと思われるのではあります。

・・

では、次に、親鸞聖人の一如宝海論は、大智度論のどこに見出すことができるのかというと、般若経系においてもよく出てくる表現とも重なりますが、それぞれ異なってある個々の雨水は、やがて川に集まり、海に入って一つに溶け込む、そのようなありようのことからヒントを得られた可能性が高くあります。

雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)というわけです。

巻92
「菩提名諸法實相,是諸佛所得究竟實相,無有變異。一切法入菩提中,皆寂滅相;如一切水入大海,同為一味」

巻67
「若菩薩於一切法不分別是法、是非法,悉皆是法;如大海水,百川萬流,皆合一味。爾時修般若波羅蜜具足」

巻32
「如水性下流故會歸於海,合為一味;諸法亦如是,一切總相、別相皆歸法性,同為一相,是名法性」

巻35「諸法如,入法性中無有別異;如火各各不同,而滅相無異。譬如眾川萬流,各各異色異味,入於大海,同為一味一名;如是愚癡、智慧,入於般若波羅蜜中,皆同一味、無有差別」

巻59
「至般若波羅蜜中,皆一相無有差別。譬如閻浮提阿那婆達多池,四大河流,一大河有五百小川歸之,俱入大海,則失其本名,合為一味,無有別異。又如樹木,枝葉華果,眾色別異,蔭則無別。」

まだ他にも同様の表現が数か所散見されますが、雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)として、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことによって、法性と方便の二種法身を得れて成仏することになると想定されてあるのであります。

しかし、大智度論では、親鸞聖人の想定されてあるように、ただ、阿弥陀如来の法性法身、自然の浄土へと溶け込むことで悟りへと至れる、成仏できる、二種法身を得れるとするのかとなれば、そうではないのであります。

特に重要となる諸法実相、法性、実際と衆生は異なるのか、異ならないのかという議論では、明確に一ではないとしているのであります。

もちろん、さりとて、二でもないし、一でないのでもなく、二でないのでもないとして四句分別という立場を取り、「畢竟寂滅 無戯論相」としています。

このあたりは中論の内容、仏の認識論と我々凡夫の認識論の違いが、当然に意識されているのであります。

また、大智度論では、自力修行、六波羅蜜等も否定されるものではなく、初発心の菩薩の立場についても、それなりの修養を終えてあるかなり境地の高い菩薩が想定されています。

この初発心は、よく誤解される仏道修行者が最初に発心する発菩提心の意ではなく、菩薩階梯の十地の内の第八地、不動地におけるいよいよ衆生を救わんとしての大慈悲心の発願とするのが、やはり基本的な立場となるのであります。

このように両者の立場には大きな違いがあるわけですが、親鸞聖人は、悟り、成仏は、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことにより達成されるとして、そのための信心獲得のみにおいて全て事足りるとされたのであります。

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親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。

ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。

釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。

ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。

親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。

親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。

その謎がやっと解けた感じであります。

それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。

大智度論巻第九

「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」

この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。

ここになります。

「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」

様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。

そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。

それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。

そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。

「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」

要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。

その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。

まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。

下記の初発意を信心として、ということです。

「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」

こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。

また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。

初発心の菩薩にです。

この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。



浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・2

2023年03月27日 | ブログ
浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・2

浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会より声明1が出されました。

https://www.facebook.com/profile.php?id=100091286410899

「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」に対する声明(一)
 このたび御正忌報恩講におけるご門主さまの「ご消息」のなかで、「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下「新しい領解文」)が発布された。従来の「領解文」(大谷派では「改悔文」)は、真宗法義の模範的領解を言語化したものとして、本願寺派、大谷派において、ながらく門信徒の指針となってきたが、時代の変化に応じて平易な言葉を用いた現代版の領解文として、新しく発布されたものである。
 しかし、これについては勧学寮から『本願寺新報』二月一日号において、長文で難解な解説が掲載され、『中外日報』二月十日号には、「真宗教義に沿った解釈を基礎に持たないと誤解が生じる可能性があるため、解説を熟読してほしい」との見解が掲載された。この「新しい領解文」は、五年後(二〇二八年)に全寺院での一〇〇%の唱和を目指すものとして、すでに全国各地の僧侶や門信徒に強くはたらきかけがなされ、布教使にもこれに基づき学びを深めるように指示がなされている。また、すでに本願寺及び宗派関連施設での法話は「新しい領解文」を元にするようにと指示がなされている。そのような指示がなされる以上、一々の文言については、決して誤った法義理解に結びつかないよう最大限の配慮が不可欠である。にもかかわらず、発布直後に勧学寮から長文かつ難解な解説文が出され、誤解を危惧する見解まで紙面に掲載されていること自体、異常である。これは「新しい領解文」が領解文としての意味をなさないことを示している。
 発布された「新しい領解文」は、全般を通して、宗意安心を大きく誤まるものとして懸念されるが、とりわけ『中外日報』掲載の勧学寮の見解において「特に議論した」とあった第一段の以下の箇所については、最も深刻な危惧を抱かざるをえない。
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
 これは「煩悩即菩提・生死即涅槃」という言葉を不二円融の理をもって解釈し、「そのまま救う」という本願の救済の起こされた理由としているように読める。しかし端的に言って、如来の本願は、煩悩と菩提が「本来一つゆえ」に起こされたのではない。私たちはすでに、宗祖親鸞聖人の「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」というお言葉のなかに、本願救済の理由をいただいているではないか。「仏願の生起」すなわち本願の起こされた理由は、煩悩具足の私にこそある。無始よりこのかた出離の縁なき凡夫のために、本願は成就しているのであり、これよりほかに本願救済の理由はない。したがって、領解の表出としては、
煩悩具足 出離の縁なき わが身ゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
という趣旨の文脈とならねばならない。従来の「領解文」において「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」とあり、まず第一に、自力心の否定を出言してきた所以である。しかし「新しい領解文」では、仏願の生起として、無始よりこのかた出離の縁なきわが身という機実(私の真実のありさま)をおさえるべき箇所に、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」という文言が置かれている。何一つ善をなしえない煩悩具足の凡夫という機実をおさえず、煩悩と菩提が「本来一つ」であることを理由句として「そのまま」の救いを理解することは、法義の領解を大きく誤り、きわめて安易な現実肯定論に陥るおそれがある。歴史的に検証され批判されてきたものであるが、その現実肯定論とは、世俗のありさまをすべて肯定する思想であり、戦争・差別・暴力などの人間の愚かな営みを否定できないだけではなく、むしろ正当化する根拠とさえなる。それはまた、人間の意思と努力を無意味なものとし、信心も念仏も、仏法を聴聞することさえも不要とする思想に繋がる。煩悩と菩提が「本来一つ」であれば、救われる必要すらないからである。
 このように、第一段の当該箇所は、宗祖の示されたご法義に対する重大な誤解を招くものと言わざるをえない。勧学寮の解説文では、当該箇所について「阿弥陀如来の立場から」の説示であり、「さとりの智慧から衆生救済のはたらきが導き出される」と語られているが、そもそも「領解文」が自身の領解の表明であるかぎり、衆生の立場からの文言でなければ意味を持たない。仮にそれが仏のさとりの立場からは言えたとしても、領解の混乱を生ずることは明らかである。「新しい領解文」はそもそも領解文としての意義を失っているが、特にこの一段により、すでに全国の寺院・門信徒の間に大きな混乱を招いており、勧学寮の解説文は、その混乱に拍車をかけるものとなっている。
 以上、このたび制定された「新しい領解文」について、我々は、宗意安心の上で重大な誤解を生ずる危惧を抱かざるをえない。よって、この文言を領解文として出言することはできない。そして何より、宗祖のご法義に重大な誤解を招きかねない文言が、ご門主さまの名のもとに発布される「ご消息」として掲げ続けられることを、座視することはできない。
 平易な言葉を用いた現代版「領解文」を示そうとされた意図は理解できるが、発布された文言によって、かえって全国的な混乱を生じている。したがって、宗祖親鸞聖人のご法義に照らして、速やかに取り下げるべきである。そして、ご門主さまを中心として、すべての門信徒が安心して出言できる文言をあらためて作成し、真の現代版「領解文」として制定すべきである。
 なお、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。
                          合掌
二〇二三年 三月二五日
   浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会
           代表 深川 宣暢(勧学)
              森田 眞円(勧学)
              普賢 保之(勧学)
              宇野 惠教(勧学)
              内藤 昭文(司教)
              安藤 光慈(司教)
              楠  淳證(司教)
              東光 爾英(司教)
              殿内  恒(司教)
              武田  晋(司教)
              藤丸  要(司教)
              能仁 正顕(司教)
              松尾 宣昭(司教)
              福井 智行(司教)  
              井上 善幸(司教)
              藤田 祥道(司教)
              武田 一真(司教)
              井上 見淳(司教)
                    他数名

・・

本覚思想一点集中にはやや驚いた、、

しかし、二段、三段でもいかようにも疑義は問える。

本覚思想一点集中は、やはり日本仏教、仏教全体への誤解に向けた配慮であるとも言える。

新しい領解文は、仏教全体への大問題として取り組むべきというメッセージなのだと思う。

戦争、差別へと繋がりかねない思想背景があることを指摘されたのは、誠に有り難いことであり、優生思想へも陥りかねない危険性があるのは言うまでもないのであります。

更に言えば、この新しい領解文のもっと裏にある思想背景をも考えねばならないと思うのであります。

陰謀論とかなり笑われてはいるでしょうが。

・・

先ほどにコメントさせて頂きましたが、ご指摘のとおり、今回の教義教学変容は優生思想へと繋がりかねない危険性も孕んであるのであります。戦争、差別に向かうことになるかもしれないということです。

もちろん、陰謀論と笑われるでしょうが、警鐘しておかねばならないのであります。

「大事なことは、(優性思想の)兆しを、端緒を見る力、読む力ですね。もしかしたら今の世界は、何十年後かに『あの時が始まりだった』ということかもわからないのです。この兆しを読む力は、現代の人々にも問われている責任ではないかと思います」(藤井克徳さん)

優生思想と向き合う 戦時ドイツと現代の日本(1) 繰り返される命の選別
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/404/

・・

「極楽浄土と自然の浄土について」

「自然の浄土」とは、「一如宝海」とほぼ同意になると思われるのだが、もちろん、阿弥陀如来の報身報土である「極楽浄土」を示すものではない。

極楽浄土は、正確には、阿弥陀如来の方便法身の浄土と言えるところになる。

では、一如宝海は、阿弥陀如来の法性法身の浄土であるのか、となれば、限りなく近いのだが、厳密にはイコールではない。
この「厳密にはイコールではない」が実は極めて重要なのである。

また、娑婆世界は、浄土か穢土かとなれば、阿弥陀如来の方便法身、真実功徳円満の「名号」が届いてある世界として、極楽浄土と同じく、阿弥陀如来の方便法身の浄土と考えることになるのである。

もちろん、教義的には、娑婆世界から極楽浄土を経由するまでもなく、自然の浄土、一如宝海への往生が求められるところであり、そのためには、信心獲得、信心決定が一大事となるのだが、親鸞聖人の二種法身論、二種回向論を正確に理解していないと、自然の浄土への往生の理解は、かなり難しいものとなります。

つまり、まだ、あそこを極楽浄土としていたのであれば、経由地への往生として、自力的な要素をある程度、敢行推奨するのも、正直なところ百歩譲って認められる余地があったのではあります。拙的には。

しかし、「自然の浄土」と表記してしまった以上は、もはや後半は蛇足どころか、完全に教義的にはアウトとなってしまったのであります。

まあ、これはあくまでも教学論としての投稿ですので、どれのどこがとはもちろん申しませんが、、

また、かなり前の拙論にても述べたように、極楽浄土は、自力聖道行者においても往生先の一つであり、自力他力の両方が混ざってある行者においても往生先の一つとなるが、絶対他力行者の往生先とはやはり違うことになるのであります。

阿弥陀経にあるように基本的に善根少ない者は、極楽浄土に往生できません。

つまり、一定の功徳行が前提であり、それはもちろん自力聖道行となるのであります。

ゆえに、極楽浄土への往生を説くのであれば、道徳、善行、功徳行を勧めても全くもって何ら矛盾はないのであり、また、通仏教的な悟りへと向けた見仏と授記に向けて、ごくごくそれは当たり前のことになります。

問題は、自然の浄土、一如宝海への往生についてであります。

こちらへの往生を説くのであれば、残念ながら絶対他力へと向けて、一切の自力的な要素は微塵も認められる余地はなくなるのであり、もちろん、見仏、授記も必要にはならないため、他浄土への往生も不必要となります。

自然の浄土、一如宝海への往生へと向けて説かれたのが、親鸞聖人の教えの要諦であり、もちろん難儀至極ではあるものの、教義的にはこちらを優位優先して説き示して、教化していくことを目指さなければならないのであります。

ですから、あれを草稿した者は、明らかに「自然の浄土」とは何かを全く理解していないと言えるということでも問題なのであります。

あれは何かはもちろん言いませんし、これはあくまでも教学論としてのことになりますので、ご寛恕下さい。

・・

浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・1

まず、何が問題であるのかを知るために・・

新しい「領解文」を考える会・岡本法治先生より

一人ひとりの領解(教えの理解)を改めて問うための阿弥陀さんからの有り難いご仏縁として、西本願寺の皆さんはもとより、これまで浄土真宗にご縁のなかった方、他宗の方、一般の方にもこの問題を広く考えて頂けるように問題提起して、議論に参加して頂ければ有り難いとのことでした。

非公開グループですが、参加は自由になりますので、お気軽にご参加下さいませ。

新しい「領解文」を考える会
https://www.facebook.com/groups/754460852681528/?ref=share

・・以下、拙メモより・・

雑行雑修、雑善を敢行奨励するのが、なぜダメなのかがわかりませんと頂いた、、

確かに新しい領解文にあるような普通の世間一般に奨励されるような道徳規範的なことは、別に否定されるわけではありません。

ただ、それはあくまでも個人的な思想信条における、個人的なこととして行うべきことで、それを寺院、僧侶、宗門として行うことは明確に教義に反するということです。

絶対他力の絶対信心は、生半可なことでは不可能なものです。雑行雑修、雑善に励む余地など本来は微塵もないのであります。
ましてや、寺院、僧侶、宗門としてならば尚更となります。

もちろん、個人として行う、世間的な道徳、社会的な活動、奉仕ボランティア活動、慈善事業、寄付事業等は、否定されるものではありません。まあ、普通であれば敢行奨励されてしかるべきとなります。

しかし、それとは全く別次元として、教義的なあり方を考えないと、なし崩し的にこれを認めていけば、一気に教義、宗門の崩壊を招くことになると懸念されるのであります。

今回の件では、本来であればはたらいたであろう是正力が、全く機能しなかったのは、一つは勧学寮や監正局、宗会による是正措置が効かなかったことが大きいと思われるのであります。

要は、教義、宗門が死に体になったということです。

なぜ、このような事態を招いたのか。深く考える必要があるのです。

・・

では、宗門自体の社会活動や慈善事業、寄付事業はどうなるのでしょうか、となります。

本来は教義的に余計なことであり、それは宗門外に位置付けて行うべきでしょう。

それを総局に紐づけて行っていること自体が、もともと教義に反しているのであります。

更に、教義に反することに余計な予算を使い、無駄にし、財政を圧迫しているということになってしまっているということです。

特に、本来は教義、宗門の理論的中枢となる宗門のシンクタンク、総合研究所を潰すという暴挙に出るなど、まず考えられないことであります。

それなら、重点プロジェクト推進室、二特別部門、社会部を宗門外の別法人化した組織に移して、予算を見直せば、すっきりとするでしょうし、対外的にも非常に見栄えしたあり方になります。

いずれにしても、死に体となった教義、宗門を立て直すには、勧学寮、監正局、宗門教学会議、宗会が、その中心的な役割を果たさなければならないでしょう。

・・

拙生は、新しい領解文について、従来通りに、本覚思想の問題と、雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足したこの二点を問題視しています。

他には、「知識帰命の異安心」(阿弥陀如来ではなく教師先生への帰依)なども問題視されていますが、新しい領解文を考える会による「新しい領解文についてのお尋ね」には、内容への疑義だけでも、ナント17項目も理由と共に挙げられています。詳しくは、グループへご参加下さい。

また、草稿した者による誤った仏教理解、誤った教学理解も、その背景として、その者の思想が反映されてあるものとほぼ確実に推定されています。

更には、当初は領解文として発布されないようにしかるべき集まりのしかるべき方々により(当然にできないぐらいに誰が見てもマズイ内容)勧告されていたにもかかわらずに、強引に領解文として発布されたことも明らかとされており、そこまで強引に進められた背景も含めて、この問題は考える必要があると思うのであります。

特に、本来は教義、教学的に通常なら考えられない雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足した点には、何らかの意図が含まれてあると考えられ、その意図からこの問題の本質を見極めて、対処していくことも必要になると思われるのであります。

新しい領解文への見解を聞かれたことから始まった関わりですが、浄土真宗教学、親鸞聖人の思想の考究にもなるため、引き続き意見交換をしていければと思います。

・・

新領解文問題は、西本願寺さん内で早くの収束を願っていますが、門主さんの立場が外部からはよくわからないため、安易には言えないところがあります。

ただ、言えるのは、西本願寺、本願寺派の皆さんにとって門主さんは大切な存在ということ。

今回の新領解文問題も、その批判、または、撤回、修正を求めるのは、つまり、消息を発布した門主さんへの批判になるため、声を上げにくい、憚られてしまう現状があるのは確かであります。

しかし、この新領解文の問題は、浄土真宗教学、親鸞教学上における問題(特に雑修雑行、雑善、自力の敢行と捉えられる点)があることと、本覚思想に関する誤謬を宣揚してしまっている点で、撤回、修正しない限り、いつまでもくすぶり続けることになり、恥を晒し続けるということになります。

宗会では、この問題を軽く見て、留保案を否決したようですが、かえってこれから門主さんの傷になってしまっていくことが分からなかったのか、それが残念でならないのであります。

門主さんを大切に思うならば、留保案を通すべきだったでしょう。

宗会で議論に上がらなくなってしまったら、残された道は、門主さん自らで、なるべく早くの撤回、修正をするしかないということになります。しかし、門主さんにその意思がおありでも、そんなことは総局も今さらさせないでしょうし、総力を上げて止めるのは必定でしょう。

しかし、本当に門主さんを守りたい、尊重する心があるなら、どうすれば一番、門主さんに傷がつかずに収束が図れるか、それはもう総局が、今回の経緯の責任があったことを認めて、混乱を招いたことを謝罪し、総辞任して、新領解文を撤回するということでしか無理なように思えるのである。

まあ、完全部外者による無責任、勝手な意見ですが、門主さんを大切になさっていることがわかりましたので、門主さんには傷がつかないように守りたいと私も思うのであります。

・・

拙生が問題視しているのは、新領解文の「本覚思想」と、草稿された方の間違った仏教理解、特に「空と縁起・中観思想」の間違った解釈。

この間違った解釈から、やがて極端な一元論、もしくは二元論のいずれかへと陥りかねず、それが差別思想、もしくは全体思想へと向かっていく危険さが常に孕んでいるのであります。

ですから、差別、戦争に加担した歴史への反省を門主さんに宣言をさせておきながら、その内実では、差別、戦争へと繋がりかねない危険な思想を、ましてや宗門教義へと入れ込もうとしている・・

まさに獅子身中の虫なのである。

この間違った中観理解からは、第二、第三のオウムがいつ生まれてもおかしくないのである。ですから、誰だって、全く関係がないとは言えないのであります。

・・

「新しい領解文」を考える―組織と教学の陥穽
https://www.youtube.com/live/Jat7j8OMrIU?feature=share

この「新しい領解文」は多くの反響を呼んでおり、その中には批判的な意見も少なくありません。これが門主個人の領解なら何ら問題はないはずですが、本願寺派は組織をあげてこの文章の唱和を推進しようとしており、そこにはどこか全体主義的な空気も見え隠れします。

一体、この「新しい領解文」の問題点とはなにか。宗学(真宗教学)、宗教社会学、教団法規、宗教哲学の分野から本願寺派内の識者を招き、ディスカッションを行います。視聴者からのチャットによる意見や質問を歓迎します。感情的な批判を離れ、建設的な議論ができればと思っております。

・・

浄土真宗本願寺派・西本願寺さんが発布された新しい領解文についての見解について幾人かより聞かれましたので・・

まずは、その新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息[龍谷門主釋専如]令和五年一月十六日
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_001985.html

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで

救い取られる 自然の浄土

仏恩報謝の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者 となり

少しずつ 執われの心を 離れます

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず

穏やかな顔と 優しい言葉

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます』

・・

浄土真宗の要諦は、何よりも阿弥陀如来の往相還相の二種回向による法性方便の二種法身の獲得を目指しての阿弥陀如来の本願への絶対他力、絶対信心。

その絶対信心を得ること、信心決定が、極楽浄土への往生、正定聚に至るために求められるところとなります。

この信心決定、信心獲得は、帰依や報謝とは全くの別モノ、別次元であり、衆生に対しては、この信心決定、信心獲得に対してどうあるべきか、どう臨むべきかが教義的に重要となるため、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべきものとなります。

「自然の浄土」への往生、その浄土は、衆生が二種法身を獲得するための(阿弥陀如来の本願の利益としての)はたらきを有する阿弥陀如来の法性法身そのもの、一如宝海とされるわけであります。

この一如宝海への往生により、阿弥陀如来の救いに与ることができ、法性方便の二種法身を獲得して成仏が完成するとされるのであります。

そして、信心決定、信心獲得、それは、ただ、念仏するだけで可能となるような簡単なものではなく、当然に聖道門(自力行)における菩薩階梯の十地の第八地に相当するほどに難しく、厳しいものであり、とても易行道と呼べるものではなく、本来は難儀至極なるものであります。(別時意趣)

また、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべき中で、後半における、生きる者となり~、執着を離れて〜、感謝して~、貪瞋痴に流されず〜、和顔愛語に〜、分かち合い~、つとめます~、などは、自力的(自分自身による努力的)要素に絡む印象を与えかねず、ある意味、蛇足と言えるのではないだろうかと思われます。

最後の「つとめ」るべき内容は何か、それは絶対他力、阿弥陀如来の本願への絶対信心の獲得であるとして、それをより明確にした方が曖昧さを排除できたのではないだろうかというのが拙見解であります。(前半の「南無阿弥陀仏~仏恩報謝のお念仏」だけの方が良かったのではないだろうかと思われます。)

最後に、もう一つ特筆しておくべきことは、本覚思想的要素が鮮明になっていること。

「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」

親鸞思想が、本覚思想・如来蔵思想的な問題を抱えてあるということについては、下記の拙見解をご参考頂けましたらと存じます。

「曇鸞以降における浄土論の最大の誤謬(般若中観思想の誤った用法による)」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/2b03bb2aab7cfaec260de8d5382ab206

・・

追記・2023.2.26

ご消息解説 勧学寮

このたび、ご門主より発布されましたご消息は、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)と題していますが、平易さを重視し、唱和することを目的としたために、その肝要を現代版に直したものであることをご理解ください。

ところでこの文は、三段に分けて受け止めることができます。まず第一段は、「南無阿弥陀仏」のおこころです。そのおこころをありがとう、といただき、おまかせする[信心]。そして救われていく「浄土」。それに「報謝の念仏」について述べています。第二段では、そのみ教えを私たちにお示しくださった宗祖親鸞聖人、また、お伝えくださった歴代宗主の恩徳について感謝を表しています。第三段では念仏者の日々に生活する態度を示し、聞法を勧める構成になっています。

どのようなご文も同じですが、いかに味わって拝読するか、その味わい方が肝心です。いま、このご文を、二、三行ずつに分けてその肝要を窺ってまいりましょう。

第一段 お念仏のこころに

南無阿弥陀仏

はじめに、六字の名号が掲げられます。この名号は単に名前ではありません。阿弥陀如来の顕現したおすがたを示すものです。

親鸞聖人が名号といわれるとき、多くの場合、上に本願の語が冠せられます。「本願名号正定業」などです。他に「誓願の名号」とか「誓いの名号」などの例もみられます。これらは、名号が本願であり誓願されたそのこころを表しているという意味です。本願とは、阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったとき、一切の苦しみ悩む衆生を一人のこさず救いとろうと誓われたものです。この願いが成就して阿弥陀仏となられ、そして名号となって私をよんでくださっているのです。ですから続いて

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

とあります。「そのまま救う」が阿弥陀如来の願いですので、短い消息文の中に二度にわたって述べられます。親鸞聖人はこの六字の名号を

しかれば、「南無」の言は帰命なり(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(註釈版聖典170ページ)

として、阿弥陀仏が名号となって煩悩に覆われる私の上に届き「まかせよ、わが名を称えよ」とよびかけてくださるすがたと味わわれたのです。また、この名号はよび声ではありますが、阿弥陀仏の功徳のすべてを与えたいという慈悲のすがたでもあるのです。しかも、信ずることも、念仏することも如来よりいただくものと味わわれます。

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ここで問題は、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の受け止め方です。私たち凡夫の立場からすれば、異様な内容と映ります。しかし、阿弥陀如来の立場からするならば違って受け止めることができるのです。仏教では、迷いの世界とさとりの世界の両方を説きます。いま、私の煩悩と仏のさとりは本来一つ、と言われるのは、さとりの世界の風光を示すものです。

阿弥陀如来には絶対的な真実無相の立場と、人間を救う仏として具体的なかたちをあらわす二面性があります。それが智慧と慈悲の阿弥陀仏と言われる所以です。智慧とはさとりを指しますので、その智慧の眼で眺めた時には「煩悩と菩提は一つ」と見ることができます。このさとりの智慧から衆生救済の慈悲が導き出されるのですから「ゆえ」が付加されているのでしょう。

要するに阿弥陀如来のさとりの智慧から「この私をよんでくださる慈悲」が出されたという意味です。この弥陀のよび声に私が呼応して「ありがとうございます」といただくのです。「そのまま救う」とよびかけてくださるのですから、素直に「この身このまま、おまかせします」と、ただただおまかせするのみを「いただく」と言っているのです。ですから

ありがとう といただいて

と続きます。

阿弥陀如来の必ず救うという慈悲のこころをそのまま受け入れて、この身をおまかせする。ここを「信心をいただく」と表現し、ここに他力の救いが成立します。本願を憶念して、自力のこころを離れていく、それ以外に煩悩具足の私が迷いの世界から抜け出る道はありません。

この愚身をまかす このままで
救い取られる自然の浄土

すでに述べたように、救われるということは、如来のよび声を聞き、おまかせするということです。ですから、如来の側からすれば「そのままの救い」であり、私の側から言えば「このまま救われる」ということになります。

ここを「愚身をまかす」とあえて「愚身」と書いて「み」と読むように指示されています。私という愚かな身ながら[このまま救われる]ことを表そうとされているのです。そうすれば、私の命が終かったその時にお浄土に往生させていただき、この私を仏にしてくださいます。

その往生させていただく世界が「救い取られる 自然の浄土」、いわゆる極楽浄土です。浄土が自然の語によってさとりの世界であることを表そうとしています。「自然虚無之身無極之体」という経典のことばにも、自然がさとりを意味していることが窺えます。

仏恩報謝の お念仏

阿弥陀如来の私をよんでくださるよび声が届いた瞬間からお浄土に寄せていただくまでのこの世での生活、それが「ありがとうございます」という感謝の念仏生活以外にはありません。「仏恩報謝のお念仏」と表現される所以です。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出ます。決して救いの因として役立たせるためではありません。阿弥陀如来のご恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものです。仏になるべき身に育てあげていただいたご恩に対する報恩の念仏です。

第二段

師の徳を讃える
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

ところで、愚身の私が往生させていただく手段は、すべて阿弥陀さまの方で完成されていますので、これを「他力」といいます。この「他力の法門」を数あるお釈迦さまの教えの中から見出してくださり、この私に至るまでお伝えくださったのは「ひとえに宗祖親鸞聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の 尊いお導きに よるもの」と言えましょう。親鸞聖人ましまさずば、と思うとき本当にお念仏に遇いえた喜びが湧きあがってきます。そして法灯を伝承された歴代宗主のお導きに感謝しなければなりません。

第三段

念仏者の生活

み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます

「そのままの救い」とか「摂取不捨の救い」とはいっても、どんな悪事をしてもいいということではありません。「薬あればとて、毒をこのむべからず」という誡めもあります。ですから、他力の教えをいただき感謝の念仏を称える人たちの生き方はどのようなものといえるでしょうか、それを考えねばなりません。消息文では「み教えを依りどころに生きる者」と示されています。

今生が終わった後の行き先が定まれば、その後の生活は当然ながら異なってくるものです。努力しなくとも「少しずつ 執われの心」が離れていきましょう。「執われ」とは「この世の財産や地位、名誉等々」に執われることで、当然ながら、そこには「生きる」ことも含まれます。要するに、死んだ後まで相続できないものへの執着です。

私たちは、この執着心からなかなか離れることができないものです。しかし、それが阿弥陀如来のみ光に照らされて、死後に至るまで相続できないものとわかれば、少しずつ心に変化が生じてくるものです。そこを聖人は

仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし(註釈版聖典739ページ)

と示してくださいます。

ここの「誓いを聞き始めしより」の文が大切です。煩悩成就の凡夫ですが、如来の誓願を知ったならばという意味でしょう。そうすれば、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが少しずつ遠のいていくものだと示してくださっているのです。

生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず

執われの心が薄れてくれば「生かされていることに 感謝」ができます。私たちは多くのご縁によって生かされています。常に自分を中心において、さまざまなご縁を眺めていますが、ご縁が先にあっての私だということがわかります。生かされて生きているのです。そのように思うとき、煩悩的欲求に無批判に従うことはできません。

また、貪・瞋・痴の三毒の煩悩は死ぬまで無くなりませんが、親鸞聖人がお示しくださったように「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ」てくるに違いありません。これらを「むさぼり いかりに 流されず」と言い表しているのです。くれぐれもそのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活ができるという意味ですのでご注意ください。

穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い

「和顔愛語」は法蔵菩薩修行の徳目の一つです。阿弥陀如来はいつも私たちによりそい、私の喜び悲しみを共にしてくださる仏さまです。

善導大師は、阿弥陀仏と念仏の衆生との関係を親縁で示してくださいます。親しい間柄という意味です。阿弥陀さまと私が親しい間柄ということをこころに思い浮かべるとき、自然にこころ穏やかになり、顔や言葉にあらわれるものです。私の優しい態度や言葉は、広く他におよび、曇鸞大師が念仏者を「四海のうちみな兄弟とするなり」(註釈版聖典310ページ)と言われるような輪が広がっていきます。すなわち、「穏やかな顔と 優しい言葉」また「喜びも 悲しみも 分かち合」う生活が送れることになるのです。

日々に 精一杯 つとめます

念仏申して生きることは、生きる意義がはっきりするということです。『仏説無量寿経』には

愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず(註釈版聖典70ページ)

とあります。どこから来て、どこへ帰っていくのか知らない私です。そのような私に生きる方向を指し示してくださるのがお念仏です。

そのお念仏による仏恩報謝の生活では、このように素睛らしい心安らぐ日常が送れるということです。

そのために、私たちはとにかく「阿弥陀如来のよび声に呼応」しなければなりません。この呼応することが「ご信心をいただく」という意味でもあります。まず私たちが聞法にはげみ、そして少しでも如来のお心にかなう生き方を目指し、「日々に 精一杯 つとめ」なければならないでしょう。それを奨励した言葉であることを肝に銘じなければなりません。

今回発布された消息文を以上のような味わいで唱和くださいますことをここに念じます。

『本願寺新報』2023年(令和5年)2月1日 3ページ


「極楽浄土と自然の浄土について」・親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・8

2023年03月27日 | ブログ
「極楽浄土と自然の浄土について」

「自然の浄土」とは、「一如宝海」とほぼ同意になると思われるのだが、もちろん、阿弥陀如来の報身報土である「極楽浄土」を示すものではない。

極楽浄土は、正確には、阿弥陀如来の方便法身の浄土と言えるところになる。

では、一如宝海は、阿弥陀如来の法性法身の浄土であるのか、となれば、限りなく近いのだが、厳密にはイコールではない。
この「厳密にはイコールではない」が実は極めて重要なのである。

また、娑婆世界は、浄土か穢土かとなれば、阿弥陀如来の方便法身、真実功徳円満の「名号」が届いてある世界として、極楽浄土と同じく、阿弥陀如来の方便法身の浄土と考えることになるのである。

もちろん、教義的には、娑婆世界から極楽浄土を経由するまでもなく、自然の浄土、一如宝海への往生が求められるところであり、そのためには、信心獲得、信心決定が一大事となるのだが、親鸞聖人の二種法身論、二種回向論を正確に理解していないと、自然の浄土への往生の理解は、かなり難しいものとなります。

つまり、まだ、あそこを極楽浄土としていたのであれば、経由地への往生として、自力的な要素をある程度、敢行推奨するのも、正直なところ百歩譲って認められる余地があったのではあります。拙的には。

しかし、「自然の浄土」と表記してしまった以上は、もはや後半は蛇足どころか、完全に教義的にはアウトとなってしまったのであります。

まあ、これはあくまでも教学論としての投稿ですので、どれのどこがとはもちろん申しませんが、、

また、かなり前の拙論にても述べたように、極楽浄土は、自力聖道行者においても往生先の一つであり、自力他力の両方が混ざってある行者においても往生先の一つとなるが、絶対他力行者の往生先とはやはり違うことになるのであります。

阿弥陀経にあるように基本的に善根少ない者は、極楽浄土に往生できません。

つまり、一定の功徳行が前提であり、それはもちろん自力聖道行となるのであります。

ゆえに、極楽浄土への往生を説くのであれば、道徳、善行、功徳行を勧めても全くもって何ら矛盾はないのであり、また、通仏教的な悟りへと向けた見仏と授記に向けて、ごくごくそれは当たり前のことになります。

問題は、自然の浄土、一如宝海への往生についてであります。

こちらへの往生を説くのであれば、残念ながら絶対他力へと向けて、一切の自力的な要素は微塵も認められる余地はなくなるのであり、もちろん、見仏、授記も必要にはならないため、他浄土への往生も不必要となります。

自然の浄土、一如宝海への往生へと向けて説かれたのが、親鸞聖人の教えの要諦であり、もちろん難儀至極ではあるものの、教義的にはこちらを優位優先して説き示して、教化していくことを目指さなければならないのであります。

ですから、あれを草稿した者は、明らかに「自然の浄土」とは何かを全く理解していないと言えるということでも問題なのであります。

あれは何かはもちろん言いませんし、これはあくまでも教学論としてのことになりますので、ご寛恕下さい。

・・

親鸞聖人の特殊と言える二種法身、二種回向の理論的根拠は、大智度論にあることを先に述べていますが、最後に釈摩訶衍論の性徳円満海と親鸞聖人の一如宝海論の比較検討について扱っていた中で、西本願寺さんの新領解文についての見解を聞かれたことから、しばらくそちらのことが主になってしまっていました。

大乗起信論は本覚思想を扱い、その派生としての釈摩訶衍論は、大智度論と同様に龍樹造と仮託されたものではありましたが、親鸞聖人は全く重きを置かれませんでした。もちろん、天台自体が釈論を教学から外したため、当然となります。

問題は、一如宝海は阿弥陀如来の法身であるのか、それ以外のものであるのか、というところであります。

特に一如宝海は、衆生が二種法身を得る、つまり、成仏するところとなります。

その成仏の根拠はもちろん阿弥陀如来の法身のはたらき、いわゆる本願のはたらきとなるのですが、このように考えると、一如宝海への往生にて阿弥陀如来の法身と自分の法身、他のたくさんの衆生の法身も共にあるような、いわゆる混在した状態となります。そこから還相として各自の方便法身のありようが示現することにもなるのですが、果たしてそのような事態が可能かどうかを考えなければならないということになります。

一如宝海論の理論的根拠は大智度論に見出だせるのは確実ではありますが、もう少し突き詰めなければならないと考えています。

本覚思想ならば、当然に大乗起信論、釈摩訶衍論からすぐに見出だせたであろうと思うのですが、そうではないため、複雑さが増すのであります。

・・

釈摩訶衍論の不二摩訶衍・性徳円満海、金剛三昧経の仏菩提薩般若海、親鸞聖人の一如宝海。

これら海論における焦点は、この「海」の性質が、もしも、悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提であるとするのであれば、そこから迷い苦しむ衆生が生じるということはありえないものとなります。

迷い→悟りへの過程はあっても、悟り→迷いへの過程はありえないもので、「海」を悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提として、全てがそこを元に生じるものだとするならば、悟りから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じるということになってしまいます。これはありえないことです。

ですから、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、仏の法身の世界であると考えるならば、そこから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じることはもちろんないのであります。

それよりも、仏の色身、報身、応身、または方便法身など、仏の智慧と慈悲のはたらきを有するものであるならば生じることになります。まさか迷い苦しむ衆生がそこから生じる余地など微塵もないのであります。

もちろん、仏も衆生も、もとの生じる根源は同じところからにはなります。宇宙誕生のビッグバンのように、この世に物質、現象を生み出した大元のようなものです。

特に物質、現象を生み出す根源は、中立、無記なものとして展開していくものとなります。ただ、ビッグバンも無から発生したものではなく、その前の因縁もあるため、ビッグバンがその根源とは言い得ないのではありますが。まあ、無始なるところからということなのであります。

いずれにしても、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、想定されてあるのは、仏の法身であり、その無始なる根源というものではないと考えるのであります。

では、一体、仏性とか、如来蔵とか、阿摩羅識とかは何であるのかということが本覚思想においても問題となるのですが、これは、仏にも衆生にも有してある、つまり、有情なる者、有情だった者(仏)であれば皆、有している「知る力」の根源のことで、いわゆる密教でいうところの「心の光明」のこととなります。これは、もちろん中立、無記な力であります。

そして、有情は皆、悟るための知る力である、この心の光明を有してはいるものの、その知る力を正しく育てて悟りへと至れるかどうかは、いずれにしてもそれぞれの業次第になるということなのであります。

仏性、如来蔵、阿摩羅識とは、この「心の光明」のことなのであります。

・・

釈摩訶衍論における不二摩訶衍の説明で出てくる「因縁無」は、般若経、大智度論や宝性論、涅槃経などに出てくる悟り、解脱、涅槃、第一義諦は「因縁無」と説かれてあることと同じ事態を示すのではないかと思われるかもしれません。

実は相当前の拙論では、一切が空ならば、各個物は実体としてあるわけではないため、そもそも各個物がいったい何であるのかなど、元から分かりようがなく、つまり、どうやっても分別して区切りようもないし、示しようもない、当然に、因、縁、果も実体としてあるわけでないため、何が因、何が縁、何が果さえも示しようがないため、「因縁無」であると言えるとしていたわけです。

要は、空=勝義諦、縁起=世俗諦という図式の理解においては、確かに勝義諦では「因縁無」として、般若経、大智度論、宝性論や涅槃経のように説明されるわけですが、真なるところは、空と縁起は切り離せるものではなく、表裏一体、相即関係、不一不異であって、「空=勝義諦、縁起=世俗諦」という単純な図式での理解は間違いとなるのであります。

このことを明らかとして、正したのがツォンカパ大師であります。

また、覚者による認識のありようからは、「因縁無」として表現できることがあるとしても、私たち凡夫において、そうではないということになります。このあたりのことも覚者における離戯論の議論から、両者の認識のあり方の相違を理解することが必要となるのであります。

・・

では、大乗起信論における「水と波の喩え」における「風」は何の喩えとなるのか?

「風」を衆生と解釈する場合もありますが、風はあくまでも波を起こす原因となるものであり、それが無明、虚妄分別、煩悩障、所知障で、その風による波の状態にあるのが、衆生であって、もう少し詳しく述べるのであれば、その衆生の心のありようを表すものと考えると分かりやすくなります。

風が止み、波が収まれば、それで元々の真如、第一義諦、法身、般若そのままの揺らぎのない水の状態になるということであり、皆、衆生は元々、悟りの状態にある、悟りの状態を有しているものとして、大乗起信論は本覚思想として位置付けられるものとなるのであります。

しかし、そんな風が吹いたぐらいで、つまり、無明や虚妄分別によって簡単に揺らぎ惑わされるものが、真如、第一義諦、法身、般若なわけがないのであります。

それよりも拙見解のように認識する知のありようの問題と考える方がまだ理解ができるのではないだろうかと思うのであります。

・・

もちろん、釈論の性徳円満海論が、一切衆生の自利利他功徳の円満するところ、全てのものたちの法性法身と方便法身の円満具足するところと捉えられるならば、まさに親鸞聖人の一如宝海論と同意として考えられなくはないのですが、釈論の意図がそうであれば、不二摩訶衍を再考することで、性徳円満海の意図するところをより明確にできるのかもしれません。

それには、大乗起信論周辺における真如の議論を見直すことが必要となります。

その真如の議論の中で、最も気になるのが、やはり「水と波の喩え」です。

これは大乗起信論周辺域において、「水」=「真如」、「波」=「衆生」という理解がオーソドックスなものとなります。

そして、「水」は、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如と解されるところとなりますが、以前の拙考の「大乗起信論における二分依他性」の中で、『風が立ち、波が起こると、底が見えなくなるありようが、虚妄分別による汚れた知のありようを示し、風が止み、波も止めば、底が見えるようになるありようが、真如による浄らかなる知のありようを示すということであります。もちろん、波が起ころうが起こるまいが、水は水として何ら元々汚れもなく、浄らかなる本体として、真理を知る真如そのままの知があるとするのであり、それを如来蔵と言うわけなのであります。』としていますが、本来の「水と波の喩え」は、拙解説とは少し違ったもので、波が静まろうが、そうでなくても、「本体」の「水」は「水」である、つまり、「真如」であるとするのであります。(本覚思想)

しかし、これなら、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如から「波」としての迷い苦しむ衆生が生じていることになり、そんなことがあるはずがないのであります。

つまり、大乗起信論周辺におけるオーソドックスな「水」=「真如」、「波」=「衆生」という本覚思想的な理解からでは、一如宝海、性徳円満海も、そこから仏の方便法身、法性法身だけではなく、迷い苦しむ衆生も生じることになってしまうという、おかしなことになるのであります。

そういった意味でも、まず、大乗起信論周辺域における「真如」とは両者ともに性質が異なるものと考えることができますが、もしも、当然に大乗起信論周辺域の議論から発展した性徳円満海は、迷い苦しむ衆生もそこから生じるものと考えるとすれば、そこで両者の違いは明確になるわけです。

このあたりを精査し直す必要性があるのであります。

・・

親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の性徳円満海と同じだと主張される方の論拠は、一念多念文意における「一実真如の妙理、円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまうなり。」と、自利利他功徳の円満を表すもので、釈論の性徳円満海、その名称そのままで、功徳性の円満、法性、方便の二種法身そのもののはたらきの根源とするものと考えられるということである。

なるほど、確かに字義通りに捉えるならば、まさにそのようになるとは思われます。

ただ、それはあくまでも仏の智慧と慈悲の根源としてであって、釈論の不二摩訶衍としての性徳円満海とはやや性質を異にするのではないだろうかというのが、拙見解となります。

問題は、親鸞聖人が、「宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。」として、仏(阿弥陀如来)の根源どころか、衆生がさわりなく成仏して二種法身を得れるはたらきのあるところ(衆生の自利利他功徳が円満するところでもある)と示しているのであります。

この点で、やはり、釈論の性徳円満海とは根本的に違うと考えるのであります。

もしかすると一如宝海論のヒントは、釈論の性徳円満海にあったのかもしれませんが、、

・・

親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の不二摩訶衍としての性徳円満海論と同じであるという意見を頂いた。

要は、一如宝海と性徳円満海、それらは方便法身を生じさせる基としての法性法身と捉えるのか、それとも、法性法身と方便法身の両方を生じさせる基と捉えるか、そういう議論となります。

ただ、性徳円満海の海は、仏だけではなく、一切全てを生み出す根源的な意味合いで用いられていると思われる節が釈論の雰囲気としてはあるのですよね。つまり、仏の法性法身ではないということです。

いずれにしても、親鸞聖人の場合は、阿弥陀如来(の法性法身)一尊を絶対視するため(あとの諸仏諸仏説も方便法身としての従果降因的な扱いとなる)、この点で既に一如宝海と性徳円満海は同じではないと拙的には思うのであります。

もちろん、性徳円満海のイメージの典拠とされる金剛三昧経の「仏菩提薩般若海」、これは明らかに仏の悟りの根源としての般若、つまり、智慧としての法性法身そのものが想定されるものではあります。

もしくは徳の円満として、功徳性法身、つまり、方便法身とも捉えられなくもないのですが、智慧より功徳が先行重視されることは難しいので、この線も無いかなとは思うのですよね。

不二摩訶衍とは何かということとダイレクトに繋がるのですが、イメージ的には、宇宙のビッグバン諸元的なものでしょうか。
万物の根源的な。

ただ、いずれにしても不二摩訶衍について釈論の説明で出てくる「因縁無」がかなり引っかかるのですよね。

縁起するものに例外が無い、つまり、縁起以外によるものは無いというのが空の思想でもありますから、ビッグバンもやはり因縁によるものなので、そのイメージも違うのかとは思いますが。。

まあ、本当に龍樹が著したものであるならば、「因縁無」(逆説的な意味での説明であったとしても)とはここで書かないと思われますので、釈論の龍樹真作の線はやはり薄いと思われるのではあります。

・・

では、次に、親鸞聖人の一如宝海論は、大智度論のどこに見出すことができるのかというと、般若経系においてもよく出てくる表現とも重なりますが、それぞれ異なってある個々の雨水は、やがて川に集まり、海に入って一つに溶け込む、そのようなありようのことからヒントを得られた可能性が高くあります。

雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)というわけです。

巻92
「菩提名諸法實相,是諸佛所得究竟實相,無有變異。一切法入菩提中,皆寂滅相;如一切水入大海,同為一味」

巻67
「若菩薩於一切法不分別是法、是非法,悉皆是法;如大海水,百川萬流,皆合一味。爾時修般若波羅蜜具足」

巻32
「如水性下流故會歸於海,合為一味;諸法亦如是,一切總相、別相皆歸法性,同為一相,是名法性」

巻35「諸法如,入法性中無有別異;如火各各不同,而滅相無異。譬如眾川萬流,各各異色異味,入於大海,同為一味一名;如是愚癡、智慧,入於般若波羅蜜中,皆同一味、無有差別」

巻59
「至般若波羅蜜中,皆一相無有差別。譬如閻浮提阿那婆達多池,四大河流,一大河有五百小川歸之,俱入大海,則失其本名,合為一味,無有別異。又如樹木,枝葉華果,眾色別異,蔭則無別。」

まだ他にも同様の表現が数か所散見されますが、雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)として、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことによって、法性と方便の二種法身を得れて成仏することになると想定されてあるのであります。

しかし、大智度論では、親鸞聖人の想定されてあるように、ただ、阿弥陀如来の法性法身、自然の浄土へと溶け込むことで悟りへと至れる、成仏できる、二種法身を得れるとするのかとなれば、そうではないのであります。

特に重要となる諸法実相、法性、実際と衆生は異なるのか、異ならないのかという議論では、明確に一ではないとしているのであります。

もちろん、さりとて、二でもないし、一でないのでもなく、二でないのでもないとして四句分別という立場を取り、「畢竟寂滅 無戯論相」としています。

このあたりは中論の内容、仏の認識論と我々凡夫の認識論の違いが、当然に意識されているのであります。

また、大智度論では、自力修行、六波羅蜜等も否定されるものではなく、初発心の菩薩の立場についても、それなりの修養を終えてあるかなり境地の高い菩薩が想定されています。

この初発心は、よく誤解される仏道修行者が最初に発心する発菩提心の意ではなく、菩薩階梯の十地の内の第八地、不動地におけるいよいよ衆生を救わんとしての大慈悲心の発願とするのが、やはり基本的な立場となるのであります。

このように両者の立場には大きな違いがあるわけですが、親鸞聖人は、悟り、成仏は、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことにより達成されるとして、そのための信心獲得のみにおいて全て事足りるとされたのであります。

・・

親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。

ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。

釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。

ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。

親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。

親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。

その謎がやっと解けた感じであります。

それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。

大智度論巻第九

「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」

この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。

ここになります。

「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」

様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。

そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。

それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。

そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。

「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」

要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。

その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。

まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。

下記の初発意を信心として、ということです。

「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」

こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。

また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。

初発心の菩薩にです。

この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。



親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・7

2023年03月17日 | ブログ
親鸞聖人の特殊と言える二種法身、二種回向の理論的根拠は、大智度論にあることを先に述べていますが、最後に釈摩訶衍論の性徳円満海と親鸞聖人の一如宝海論の比較検討について扱っていた中で、西本願寺さんの新領解文についての見解を聞かれたことから、しばらくそちらのことが主になってしまっていました。

大乗起信論は本覚思想を扱い、その派生としての釈摩訶衍論は、大智度論と同様に龍樹造と仮託されたものではありましたが、親鸞聖人は全く重きを置かれませんでした。もちろん、天台自体が釈論を教学から外したため、当然となります。

問題は、一如宝海は阿弥陀如来の法身であるのか、それ以外のものであるのか、というところであります。

特に一如宝海は、衆生が二種法身を得る、つまり、成仏するところとなります。

その成仏の根拠はもちろん阿弥陀如来の法身のはたらき、いわゆる本願のはたらきとなるのですが、このように考えると、一如宝海への往生にて阿弥陀如来の法身と自分の法身、他のたくさんの衆生の法身も共にあるような、いわゆる混在した状態となります。そこから還相として各自の方便法身のありようが示現することにもなるのですが、果たしてそのような事態が可能かどうかを考えなければならないということになります。

一如宝海論の理論的根拠は大智度論に見出だせるのは確実ではありますが、もう少し突き詰めなければならないと考えています。

本覚思想ならば、当然に大乗起信論、釈摩訶衍論からすぐに見出だせたであろうと思うのですが、そうではないため、複雑さが増すのであります。

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釈摩訶衍論の不二摩訶衍・性徳円満海、金剛三昧経の仏菩提薩般若海、親鸞聖人の一如宝海。

これら海論における焦点は、この「海」の性質が、もしも、悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提であるとするのであれば、そこから迷い苦しむ衆生が生じるということはありえないものとなります。

迷い→悟りへの過程はあっても、悟り→迷いへの過程はありえないもので、「海」を悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提として、全てがそこを元に生じるものだとするならば、悟りから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じるということになってしまいます。これはありえないことです。

ですから、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、仏の法身の世界であると考えるならば、そこから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じることはもちろんないのであります。

それよりも、仏の色身、報身、応身、または方便法身など、仏の智慧と慈悲のはたらきを有するものであるならば生じることになります。まさか迷い苦しむ衆生がそこから生じる余地など微塵もないのであります。

もちろん、仏も衆生も、もとの生じる根源は同じところからにはなります。宇宙誕生のビッグバンのように、この世に物質、現象を生み出した大元のようなものです。

特に物質、現象を生み出す根源は、中立、無記なものとして展開していくものとなります。ただ、ビッグバンも無から発生したものではなく、その前の因縁もあるため、ビッグバンがその根源とは言い得ないのではありますが。まあ、無始なるところからということなのであります。

いずれにしても、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、想定されてあるのは、仏の法身であり、その無始なる根源というものではないと考えるのであります。

では、一体、仏性とか、如来蔵とか、阿摩羅識とかは何であるのかということが本覚思想においても問題となるのですが、これは、仏にも衆生にも有してある、つまり、有情なる者、有情だった者(仏)であれば皆、有している「知る力」の根源のことで、いわゆる密教でいうところの「心の光明」のこととなります。これは、もちろん中立、無記な力であります。

そして、有情は皆、悟るための知る力である、この心の光明を有してはいるものの、その知る力を正しく育てて悟りへと至れるかどうかは、いずれにしてもそれぞれの業次第になるということなのであります。

仏性、如来蔵、阿摩羅識とは、この「心の光明」のことなのであります。

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釈摩訶衍論における不二摩訶衍の説明で出てくる「因縁無」は、般若経、大智度論や宝性論、涅槃経などに出てくる悟り、解脱、涅槃、第一義諦は「因縁無」と説かれてあることと同じ事態を示すのではないかと思われるかもしれません。

実は相当前の拙論では、一切が空ならば、各個物は実体としてあるわけではないため、そもそも各個物がいったい何であるのかなど、元から分かりようがなく、つまり、どうやっても分別して区切りようもないし、示しようもない、当然に、因、縁、果も実体としてあるわけでないため、何が因、何が縁、何が果さえも示しようがないため、「因縁無」であると言えるとしていたわけです。

要は、空=勝義諦、縁起=世俗諦という図式の理解においては、確かに勝義諦では「因縁無」として、般若経、大智度論、宝性論や涅槃経のように説明されるわけですが、真なるところは、空と縁起は切り離せるものではなく、表裏一体、相即関係、不一不異であって、「空=勝義諦、縁起=世俗諦」という単純な図式での理解は間違いとなるのであります。

このことを明らかとして、正したのがツォンカパ大師であります。

また、覚者による認識のありようからは、「因縁無」として表現できることがあるとしても、私たち凡夫において、そうではないということになります。このあたりのことも覚者における離戯論の議論から、両者の認識のあり方の相違を理解することが必要となるのであります。

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では、大乗起信論における「水と波の喩え」における「風」は何の喩えとなるのか?

「風」を衆生と解釈する場合もありますが、風はあくまでも波を起こす原因となるものであり、それが無明、虚妄分別、煩悩障、所知障で、その風による波の状態にあるのが、衆生であって、もう少し詳しく述べるのであれば、その衆生の心のありようを表すものと考えると分かりやすくなります。

風が止み、波が収まれば、それで元々の真如、第一義諦、法身、般若そのままの揺らぎのない水の状態になるということであり、皆、衆生は元々、悟りの状態にある、悟りの状態を有しているものとして、大乗起信論は本覚思想として位置付けられるものとなるのであります。

しかし、そんな風が吹いたぐらいで、つまり、無明や虚妄分別によって簡単に揺らぎ惑わされるものが、真如、第一義諦、法身、般若なわけがないのであります。

それよりも拙見解のように認識する知のありようの問題と考える方がまだ理解ができるのではないだろうかと思うのであります。

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もちろん、釈論の性徳円満海論が、一切衆生の自利利他功徳の円満するところ、全てのものたちの法性法身と方便法身の円満具足するところと捉えられるならば、まさに親鸞聖人の一如宝海論と同意として考えられなくはないのですが、釈論の意図がそうであれば、不二摩訶衍を再考することで、性徳円満海の意図するところをより明確にできるのかもしれません。

それには、大乗起信論周辺における真如の議論を見直すことが必要となります。

その真如の議論の中で、最も気になるのが、やはり「水と波の喩え」です。

これは大乗起信論周辺域において、「水」=「真如」、「波」=「衆生」という理解がオーソドックスなものとなります。

そして、「水」は、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如と解されるところとなりますが、以前の拙考の「大乗起信論における二分依他性」の中で、『風が立ち、波が起こると、底が見えなくなるありようが、虚妄分別による汚れた知のありようを示し、風が止み、波も止めば、底が見えるようになるありようが、真如による浄らかなる知のありようを示すということであります。もちろん、波が起ころうが起こるまいが、水は水として何ら元々汚れもなく、浄らかなる本体として、真理を知る真如そのままの知があるとするのであり、それを如来蔵と言うわけなのであります。』としていますが、本来の「水と波の喩え」は、拙解説とは少し違ったもので、波が静まろうが、そうでなくても、「本体」の「水」は「水」である、つまり、「真如」であるとするのであります。(本覚思想)

しかし、これなら、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如から「波」としての迷い苦しむ衆生が生じていることになり、そんなことがあるはずがないのであります。

つまり、大乗起信論周辺におけるオーソドックスな「水」=「真如」、「波」=「衆生」という本覚思想的な理解からでは、一如宝海、性徳円満海も、そこから仏の方便法身、法性法身だけではなく、迷い苦しむ衆生も生じることになってしまうという、おかしなことになるのであります。

そういった意味でも、まず、大乗起信論周辺域における「真如」とは両者ともに性質が異なるものと考えることができますが、もしも、当然に大乗起信論周辺域の議論から発展した性徳円満海は、迷い苦しむ衆生もそこから生じるものと考えるとすれば、そこで両者の違いは明確になるわけです。

このあたりを精査し直す必要性があるのであります。

・・

親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の性徳円満海と同じだと主張される方の論拠は、一念多念文意における「一実真如の妙理、円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまうなり。」と、自利利他功徳の円満を表すもので、釈論の性徳円満海、その名称そのままで、功徳性の円満、法性、方便の二種法身そのもののはたらきの根源とするものと考えられるということである。

なるほど、確かに字義通りに捉えるならば、まさにそのようになるとは思われます。

ただ、それはあくまでも仏の智慧と慈悲の根源としてであって、釈論の不二摩訶衍としての性徳円満海とはやや性質を異にするのではないだろうかというのが、拙見解となります。

問題は、親鸞聖人が、「宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。」として、仏(阿弥陀如来)の根源どころか、衆生がさわりなく成仏して二種法身を得れるはたらきのあるところ(衆生の自利利他功徳が円満するところでもある)と示しているのであります。

この点で、やはり、釈論の性徳円満海とは根本的に違うと考えるのであります。

もしかすると一如宝海論のヒントは、釈論の性徳円満海にあったのかもしれませんが、、

・・

親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の不二摩訶衍としての性徳円満海論と同じであるという意見を頂いた。

要は、一如宝海と性徳円満海、それらは方便法身を生じさせる基としての法性法身と捉えるのか、それとも、法性法身と方便法身の両方を生じさせる基と捉えるか、そういう議論となります。

ただ、性徳円満海の海は、仏だけではなく、一切全てを生み出す根源的な意味合いで用いられていると思われる節が釈論の雰囲気としてはあるのですよね。つまり、仏の法性法身ではないということです。

いずれにしても、親鸞聖人の場合は、阿弥陀如来(の法性法身)一尊を絶対視するため(あとの諸仏諸仏説も方便法身としての従果降因的な扱いとなる)、この点で既に一如宝海と性徳円満海は同じではないと拙的には思うのであります。

もちろん、性徳円満海のイメージの典拠とされる金剛三昧経の「仏菩提薩般若海」、これは明らかに仏の悟りの根源としての般若、つまり、智慧としての法性法身そのものが想定されるものではあります。

もしくは徳の円満として、功徳性法身、つまり、方便法身とも捉えられなくもないのですが、智慧より功徳が先行重視されることは難しいので、この線も無いかなとは思うのですよね。

不二摩訶衍とは何かということとダイレクトに繋がるのですが、イメージ的には、宇宙のビッグバン諸元的なものでしょうか。
万物の根源的な。

ただ、いずれにしても不二摩訶衍について釈論の説明で出てくる「因縁無」がかなり引っかかるのですよね。

縁起するものに例外が無い、つまり、縁起以外によるものは無いというのが空の思想でもありますから、ビッグバンもやはり因縁によるものなので、そのイメージも違うのかとは思いますが。。

まあ、本当に龍樹が著したものであるならば、「因縁無」(逆説的な意味での説明であったとしても)とはここで書かないと思われますので、釈論の龍樹真作の線はやはり薄いと思われるのではあります。

・・

では、次に、親鸞聖人の一如宝海論は、大智度論のどこに見出すことができるのかというと、般若経系においてもよく出てくる表現とも重なりますが、それぞれ異なってある個々の雨水は、やがて川に集まり、海に入って一つに溶け込む、そのようなありようのことからヒントを得られた可能性が高くあります。

雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)というわけです。

巻92
「菩提名諸法實相,是諸佛所得究竟實相,無有變異。一切法入菩提中,皆寂滅相;如一切水入大海,同為一味」

巻67
「若菩薩於一切法不分別是法、是非法,悉皆是法;如大海水,百川萬流,皆合一味。爾時修般若波羅蜜具足」

巻32
「如水性下流故會歸於海,合為一味;諸法亦如是,一切總相、別相皆歸法性,同為一相,是名法性」

巻35「諸法如,入法性中無有別異;如火各各不同,而滅相無異。譬如眾川萬流,各各異色異味,入於大海,同為一味一名;如是愚癡、智慧,入於般若波羅蜜中,皆同一味、無有差別」

巻59
「至般若波羅蜜中,皆一相無有差別。譬如閻浮提阿那婆達多池,四大河流,一大河有五百小川歸之,俱入大海,則失其本名,合為一味,無有別異。又如樹木,枝葉華果,眾色別異,蔭則無別。」

まだ他にも同様の表現が数か所散見されますが、雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)として、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことによって、法性と方便の二種法身を得れて成仏することになると想定されてあるのであります。

しかし、大智度論では、親鸞聖人の想定されてあるように、ただ、阿弥陀如来の法性法身、自然の浄土へと溶け込むことで悟りへと至れる、成仏できる、二種法身を得れるとするのかとなれば、そうではないのであります。

特に重要となる諸法実相、法性、実際と衆生は異なるのか、異ならないのかという議論では、明確に一ではないとしているのであります。

もちろん、さりとて、二でもないし、一でないのでもなく、二でないのでもないとして四句分別という立場を取り、「畢竟寂滅 無戯論相」としています。

このあたりは中論の内容、仏の認識論と我々凡夫の認識論の違いが、当然に意識されているのであります。

また、大智度論では、自力修行、六波羅蜜等も否定されるものではなく、初発心の菩薩の立場についても、それなりの修養を終えてあるかなり境地の高い菩薩が想定されています。

この初発心は、よく誤解される仏道修行者が最初に発心する発菩提心の意ではなく、菩薩階梯の十地の内の第八地、不動地におけるいよいよ衆生を救わんとしての大慈悲心の発願とするのが、やはり基本的な立場となるのであります。

このように両者の立場には大きな違いがあるわけですが、親鸞聖人は、悟り、成仏は、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことにより達成されるとして、そのための信心獲得のみにおいて全て事足りるとされたのであります。

・・

親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。

ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。

釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。

ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。

親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。

親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。

その謎がやっと解けた感じであります。

それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。

大智度論巻第九

「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」

この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。

ここになります。

「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」

様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。

そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。

それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。

そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。

「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」

要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。

その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。

まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。

下記の初発意を信心として、ということです。

「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」

こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。

また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。

初発心の菩薩にです。

この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。



西田幾多郎哲学・鈴木大拙哲学・アドヴァイタ哲学についての警鐘

2023年03月15日 | ブログ
久しぶりにアドヴァイタのお話を出しましたが、コメントで「日本の思想家、哲学家の方が、西洋哲学は二元論だ(本当にそうかはおいておいて)と批判しがちで、そのながれで一如という世界観を用いることがあるように思います」と頂いていた同様の流れの系統が、鈴木大拙、西田幾多郎などの哲学・思想への礼賛傾向でもあります。

両者の著書の本は、それぞれ結構それなりに読み込みましたが、正直、つまるところはアドヴァイタの親類みたいなもので、結局は神秘主義的であり、一見、フレーズ等から凄いと思わせるのではありますが、もちろん私見ではあるものの、ためになるような中身はやはり全く無いのですよね・・

仏教的には、禅=鈴木大拙というのは、かなりマズイのですが、西洋ではその方が受け入れられているのが現実なのですよね・・

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西田哲学、京都学派は戦争に協力(させられた)しました・・鈴木大拙もしかりです。

結局は、西田哲学も鈴木哲学も仏教を破壊しただけではなく、全体主義、思考停止への擁護として戦争へ向けた思想として利用されてしまったわけです。

何のためにもならないだけでなく、戦争へ向けた思想としてまた亡霊のごとく出てくる可能性があり、注意しなければならないのであります。

日本で、アドヴァイタや西田幾多郎哲学、鈴木大拙哲学が、世間でまた目立って顔を出し始めてくると、戦争へ向けた思想が蔓延り出すと考えておかないといけないでしょう・・

今回のことは、戦争、差別へと向かう思想が、まさか仏教の宗派の教義中枢にまで侵食し、それを唱和強制させるところまできたのか・・という危機感が必要なのであります。

この危機感を持っておられる方が、まだ宗派内に実際にいらっしゃることが分かったのは救いではありますが・・

・・

新しい領解文を考える会のグループへと、はじめて投稿させて頂きましたが、新しい領解文を草稿されたとする方の思想は、空や縁起と仏教用語を間違って解釈しているのは明らかながら、少し著書の内容を先日に見せて頂きましたが、アドヴァイタ系の思想の影響が相当にあるのが顕著に見られました。

非二元、不二一元、ヒンドゥー起源ですが、仏教では極端論として当然に釈尊により否定されています。

中観として後に龍樹大師以降、議論がより深まって参ります。

では、いまだに仏教でもこのように非二元や不二一元が、なぜ盛んに出てくるのか?

あるがまま、それでいい、そのまんま、まるっと、流しなさい、考えなさんな、、など、相当に根強いわけなのですが、要は、信者を思考停止に陥らせるための思想として、狙いはもちろん思考停止させることによるお金の吸い上げです。

マインドコントロールしやすい思想ということなのです。余計なことは考えさせないようにする。ただ、いいなりになりなさいと。

この思想影響を相当に受けていると感じたのであります。

極めて危険な思想であり、その思想が反映されてあるのが、新しい領解文の問題の本質であるということです。

ですから、浄土真宗教学、教義だけの問題ではなく、日本仏教全体の問題であると考えています。

しかし、なぜ日本の仏教、僧侶は、アドヴァイタ系に流れやすいのか・・

一つは、やはり、空と縁起の二諦への理解の誤解が根強いのと天台本覚思想の影響を受けているというのもありますが、一番の理由は、中観、唯識のみならず、仏教認識論・論理学をほとんど何も学んでいないということにも、その原因があるのでしょう・・

まずチベット仏教では考えられないのでもあります・・

顕教の「般若学」 「中観学」 「論理学」 「倶舎」 「律」の五部論の基礎もさることながら、その前提として、「ドゥータ(存在論) 」 「タクリク(入門的論理学) 」 「ローリク(認識論) 」を徹底して学ぶことから始めるからです。

認識論、論理学は、正しく経典、論書を理解するためには、必ず欠かせないということなのであります。

チベットの僧侶たちが中庭で手を叩いて繰り返し問答している様子をご覧になったことがあれば分かるかとは思うのですが、教えの理解へと向けて昼夜問わずにとにかく議論を行うのであります。

要は、離戯論へと向けて、徹底した戯論を重視するツォンカパ大師以来のゲルク派の伝統とも言えるでしょう。

そんな議論も全く経ないままに、なんだか耳障りのよいようなだけのフレーズに騙されて、そのまま浅薄な理解で、それを発信してしまう・・当然にためになるような中身は全く無いのですよね・・その一例と言えるのではないでしょうか、、

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浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・1

まず、何が問題であるのかを知るために・・

新しい「領解文」を考える会・岡本法治先生より

一人ひとりの領解(教えの理解)を改めて問うための阿弥陀さんからの有り難いご仏縁として、西本願寺の皆さんはもとより、これまで浄土真宗にご縁のなかった方、他宗の方、一般の方にもこの問題を広く考えて頂けるように問題提起して、議論に参加して頂ければ有り難いとのことでした。

非公開グループですが、参加は自由になりますので、お気軽にご参加下さいませ。

新しい「領解文」を考える会
https://www.facebook.com/groups/754460852681528/?ref=share

・・以下、拙メモより・・

雑行雑修、雑善を敢行奨励するのが、なぜダメなのかがわかりませんと頂いた、、

確かに新しい領解文にあるような普通の世間一般に奨励されるような道徳規範的なことは、別に否定されるわけではありません。

ただ、それはあくまでも個人的な思想信条における、個人的なこととして行うべきことで、それを寺院、僧侶、宗門として行うことは明確に教義に反するということです。

絶対他力の絶対信心は、生半可なことでは不可能なものです。雑行雑修、雑善に励む余地など本来は微塵もないのであります。
ましてや、寺院、僧侶、宗門としてならば尚更となります。

もちろん、個人として行う、世間的な道徳、社会的な活動、奉仕ボランティア活動、慈善事業、寄付事業等は、否定されるものではありません。まあ、普通であれば敢行奨励されてしかるべきとなります。

しかし、それとは全く別次元として、教義的なあり方を考えないと、なし崩し的にこれを認めていけば、一気に教義、宗門の崩壊を招くことになると懸念されるのであります。

今回の件では、本来であればはたらいたであろう是正力が、全く機能しなかったのは、一つは勧学寮や監正局、宗会による是正措置が効かなかったことが大きいと思われるのであります。

要は、教義、宗門が死に体になったということです。

なぜ、このような事態を招いたのか。深く考える必要があるのです。

・・

では、宗門自体の社会活動や慈善事業、寄付事業はどうなるのでしょうか、となります。

本来は教義的に余計なことであり、それは宗門外に位置付けて行うべきでしょう。

それを総局に紐づけて行っていること自体が、もともと教義に反しているのであります。

更に、教義に反することに余計な予算を使い、無駄にし、財政を圧迫しているということになってしまっているということです。

特に、本来は教義、宗門の理論的中枢となる宗門のシンクタンク、総合研究所を潰すという暴挙に出るなど、まず考えられないことであります。

それなら、重点プロジェクト推進室、二特別部門、社会部を宗門外の別法人化した組織に移して、予算を見直せば、すっきりとするでしょうし、対外的にも非常に見栄えしたあり方になります。

いずれにしても、死に体となった教義、宗門を立て直すには、勧学寮、監正局、宗門教学会議、宗会が、その中心的な役割を果たさなければならないでしょう。

・・

拙生は、新しい領解文について、従来通りに、本覚思想の問題と、雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足したこの二点を問題視しています。

他には、「知識帰命の異安心」(阿弥陀如来ではなく教師先生への帰依)なども問題視されていますが、新しい領解文を考える会による「新しい領解文についてのお尋ね」には、内容への疑義だけでも、ナント17項目も理由と共に挙げられています。詳しくは、グループへご参加下さい。

また、草稿した者による誤った仏教理解、誤った教学理解も、その背景として、その者の思想が反映されてあるものとほぼ確実に推定されています。

更には、当初は領解文として発布されないようにしかるべき集まりのしかるべき方々により(当然にできないぐらいに誰が見てもマズイ内容)勧告されていたにもかかわらずに、強引に領解文として発布されたことも明らかとされており、そこまで強引に進められた背景も含めて、この問題は考える必要があると思うのであります。

特に、本来は教義、教学的に通常なら考えられない雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足した点には、何らかの意図が含まれてあると考えられ、その意図からこの問題の本質を見極めて、対処していくことも必要になると思われるのであります。

新しい領解文への見解を聞かれたことから始まった関わりですが、浄土真宗教学、親鸞聖人の思想の考究にもなるため、引き続き意見交換をしていければと思います。

・・

新領解文問題は、西本願寺さん内で早くの収束を願っていますが、門主さんの立場が外部からはよくわからないため、安易には言えないところがあります。

ただ、言えるのは、西本願寺、本願寺派の皆さんにとって門主さんは大切な存在ということ。

今回の新領解文問題も、その批判、または、撤回、修正を求めるのは、つまり、消息を発布した門主さんへの批判になるため、声を上げにくい、憚られてしまう現状があるのは確かであります。

しかし、この新領解文の問題は、浄土真宗教学、親鸞教学上における問題(特に雑修雑行、雑善、自力の敢行と捉えられる点)があることと、本覚思想に関する誤謬を宣揚してしまっている点で、撤回、修正しない限り、いつまでもくすぶり続けることになり、恥を晒し続けるということになります。

宗会では、この問題を軽く見て、留保案を否決したようですが、かえってこれから門主さんの傷になってしまっていくことが分からなかったのか、それが残念でならないのであります。

門主さんを大切に思うならば、留保案を通すべきだったでしょう。

宗会で議論に上がらなくなってしまったら、残された道は、門主さん自らで、なるべく早くの撤回、修正をするしかないということになります。しかし、門主さんにその意思がおありでも、そんなことは総局も今さらさせないでしょうし、総力を上げて止めるのは必定でしょう。

しかし、本当に門主さんを守りたい、尊重する心があるなら、どうすれば一番、門主さんに傷がつかずに収束が図れるか、それはもう総局が、今回の経緯の責任があったことを認めて、混乱を招いたことを謝罪し、総辞任して、新領解文を撤回するということでしか無理なように思えるのである。

まあ、完全部外者による無責任、勝手な意見ですが、門主さんを大切になさっていることがわかりましたので、門主さんには傷がつかないように守りたいと私も思うのであります。

・・

拙生が問題視しているのは、新領解文の「本覚思想」と、草稿された方の間違った仏教理解、特に「空と縁起・中観思想」の間違った解釈。

この間違った解釈から、やがて極端な一元論、もしくは二元論のいずれかへと陥りかねず、それが差別思想、もしくは全体思想へと向かっていく危険さが常に孕んでいるのであります。

ですから、差別、戦争に加担した歴史への反省を門主さんに宣言をさせておきながら、その内実では、差別、戦争へと繋がりかねない危険な思想を、ましてや宗門教義へと入れ込もうとしている・・

まさに獅子身中の虫なのである。

この間違った中観理解からは、第二、第三のオウムがいつ生まれてもおかしくないのである。ですから、誰だって、全く関係がないとは言えないのであります。

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「新しい領解文」を考える―組織と教学の陥穽
https://www.youtube.com/live/Jat7j8OMrIU?feature=share

この「新しい領解文」は多くの反響を呼んでおり、その中には批判的な意見も少なくありません。これが門主個人の領解なら何ら問題はないはずですが、本願寺派は組織をあげてこの文章の唱和を推進しようとしており、そこにはどこか全体主義的な空気も見え隠れします。

一体、この「新しい領解文」の問題点とはなにか。宗学(真宗教学)、宗教社会学、教団法規、宗教哲学の分野から本願寺派内の識者を招き、ディスカッションを行います。視聴者からのチャットによる意見や質問を歓迎します。感情的な批判を離れ、建設的な議論ができればと思っております。

・・

浄土真宗本願寺派・西本願寺さんが発布された新しい領解文についての見解について幾人かより聞かれましたので・・

まずは、その新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息[龍谷門主釋専如]令和五年一月十六日
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_001985.html

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで

救い取られる 自然の浄土

仏恩報謝の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者 となり

少しずつ 執われの心を 離れます

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず

穏やかな顔と 優しい言葉

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます』

・・

浄土真宗の要諦は、何よりも阿弥陀如来の往相還相の二種回向による法性方便の二種法身の獲得を目指しての阿弥陀如来の本願への絶対他力、絶対信心。

その絶対信心を得ること、信心決定が、極楽浄土への往生、正定聚に至るために求められるところとなります。

この信心決定、信心獲得は、帰依や報謝とは全くの別モノ、別次元であり、衆生に対しては、この信心決定、信心獲得に対してどうあるべきか、どう臨むべきかが教義的に重要となるため、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべきものとなります。

「自然の浄土」への往生、その浄土は、衆生が二種法身を獲得するための(阿弥陀如来の本願の利益としての)はたらきを有する阿弥陀如来の法性法身そのもの、一如宝海とされるわけであります。

この一如宝海への往生により、阿弥陀如来の救いに与ることができ、法性方便の二種法身を獲得して成仏が完成するとされるのであります。

そして、信心決定、信心獲得、それは、ただ、念仏するだけで可能となるような簡単なものではなく、当然に聖道門(自力行)における菩薩階梯の十地の第八地に相当するほどに難しく、厳しいものであり、とても易行道と呼べるものではなく、本来は難儀至極なるものであります。(別時意趣)

また、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべき中で、後半における、生きる者となり~、執着を離れて〜、感謝して~、貪瞋痴に流されず〜、和顔愛語に〜、分かち合い~、つとめます~、などは、自力的(自分自身による努力的)要素に絡む印象を与えかねず、ある意味、蛇足と言えるのではないだろうかと思われます。

最後の「つとめ」るべき内容は何か、それは絶対他力、阿弥陀如来の本願への絶対信心の獲得であるとして、それをより明確にした方が曖昧さを排除できたのではないだろうかというのが拙見解であります。(前半の「南無阿弥陀仏~仏恩報謝のお念仏」だけの方が良かったのではないだろうかと思われます。)

最後に、もう一つ特筆しておくべきことは、本覚思想的要素が鮮明になっていること。

「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」

親鸞思想が、本覚思想・如来蔵思想的な問題を抱えてあるということについては、下記の拙見解をご参考頂けましたらと存じます。

「曇鸞以降における浄土論の最大の誤謬(般若中観思想の誤った用法による)」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/2b03bb2aab7cfaec260de8d5382ab206

・・

追記・2023.2.26

ご消息解説 勧学寮

このたび、ご門主より発布されましたご消息は、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)と題していますが、平易さを重視し、唱和することを目的としたために、その肝要を現代版に直したものであることをご理解ください。

ところでこの文は、三段に分けて受け止めることができます。まず第一段は、「南無阿弥陀仏」のおこころです。そのおこころをありがとう、といただき、おまかせする[信心]。そして救われていく「浄土」。それに「報謝の念仏」について述べています。第二段では、そのみ教えを私たちにお示しくださった宗祖親鸞聖人、また、お伝えくださった歴代宗主の恩徳について感謝を表しています。第三段では念仏者の日々に生活する態度を示し、聞法を勧める構成になっています。

どのようなご文も同じですが、いかに味わって拝読するか、その味わい方が肝心です。いま、このご文を、二、三行ずつに分けてその肝要を窺ってまいりましょう。

第一段 お念仏のこころに

南無阿弥陀仏

はじめに、六字の名号が掲げられます。この名号は単に名前ではありません。阿弥陀如来の顕現したおすがたを示すものです。

親鸞聖人が名号といわれるとき、多くの場合、上に本願の語が冠せられます。「本願名号正定業」などです。他に「誓願の名号」とか「誓いの名号」などの例もみられます。これらは、名号が本願であり誓願されたそのこころを表しているという意味です。本願とは、阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったとき、一切の苦しみ悩む衆生を一人のこさず救いとろうと誓われたものです。この願いが成就して阿弥陀仏となられ、そして名号となって私をよんでくださっているのです。ですから続いて

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

とあります。「そのまま救う」が阿弥陀如来の願いですので、短い消息文の中に二度にわたって述べられます。親鸞聖人はこの六字の名号を

しかれば、「南無」の言は帰命なり(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(註釈版聖典170ページ)

として、阿弥陀仏が名号となって煩悩に覆われる私の上に届き「まかせよ、わが名を称えよ」とよびかけてくださるすがたと味わわれたのです。また、この名号はよび声ではありますが、阿弥陀仏の功徳のすべてを与えたいという慈悲のすがたでもあるのです。しかも、信ずることも、念仏することも如来よりいただくものと味わわれます。

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ここで問題は、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の受け止め方です。私たち凡夫の立場からすれば、異様な内容と映ります。しかし、阿弥陀如来の立場からするならば違って受け止めることができるのです。仏教では、迷いの世界とさとりの世界の両方を説きます。いま、私の煩悩と仏のさとりは本来一つ、と言われるのは、さとりの世界の風光を示すものです。

阿弥陀如来には絶対的な真実無相の立場と、人間を救う仏として具体的なかたちをあらわす二面性があります。それが智慧と慈悲の阿弥陀仏と言われる所以です。智慧とはさとりを指しますので、その智慧の眼で眺めた時には「煩悩と菩提は一つ」と見ることができます。このさとりの智慧から衆生救済の慈悲が導き出されるのですから「ゆえ」が付加されているのでしょう。

要するに阿弥陀如来のさとりの智慧から「この私をよんでくださる慈悲」が出されたという意味です。この弥陀のよび声に私が呼応して「ありがとうございます」といただくのです。「そのまま救う」とよびかけてくださるのですから、素直に「この身このまま、おまかせします」と、ただただおまかせするのみを「いただく」と言っているのです。ですから

ありがとう といただいて

と続きます。

阿弥陀如来の必ず救うという慈悲のこころをそのまま受け入れて、この身をおまかせする。ここを「信心をいただく」と表現し、ここに他力の救いが成立します。本願を憶念して、自力のこころを離れていく、それ以外に煩悩具足の私が迷いの世界から抜け出る道はありません。

この愚身をまかす このままで
救い取られる自然の浄土

すでに述べたように、救われるということは、如来のよび声を聞き、おまかせするということです。ですから、如来の側からすれば「そのままの救い」であり、私の側から言えば「このまま救われる」ということになります。

ここを「愚身をまかす」とあえて「愚身」と書いて「み」と読むように指示されています。私という愚かな身ながら[このまま救われる]ことを表そうとされているのです。そうすれば、私の命が終かったその時にお浄土に往生させていただき、この私を仏にしてくださいます。

その往生させていただく世界が「救い取られる 自然の浄土」、いわゆる極楽浄土です。浄土が自然の語によってさとりの世界であることを表そうとしています。「自然虚無之身無極之体」という経典のことばにも、自然がさとりを意味していることが窺えます。

仏恩報謝の お念仏

阿弥陀如来の私をよんでくださるよび声が届いた瞬間からお浄土に寄せていただくまでのこの世での生活、それが「ありがとうございます」という感謝の念仏生活以外にはありません。「仏恩報謝のお念仏」と表現される所以です。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出ます。決して救いの因として役立たせるためではありません。阿弥陀如来のご恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものです。仏になるべき身に育てあげていただいたご恩に対する報恩の念仏です。

第二段

師の徳を讃える
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

ところで、愚身の私が往生させていただく手段は、すべて阿弥陀さまの方で完成されていますので、これを「他力」といいます。この「他力の法門」を数あるお釈迦さまの教えの中から見出してくださり、この私に至るまでお伝えくださったのは「ひとえに宗祖親鸞聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の 尊いお導きに よるもの」と言えましょう。親鸞聖人ましまさずば、と思うとき本当にお念仏に遇いえた喜びが湧きあがってきます。そして法灯を伝承された歴代宗主のお導きに感謝しなければなりません。

第三段

念仏者の生活

み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます

「そのままの救い」とか「摂取不捨の救い」とはいっても、どんな悪事をしてもいいということではありません。「薬あればとて、毒をこのむべからず」という誡めもあります。ですから、他力の教えをいただき感謝の念仏を称える人たちの生き方はどのようなものといえるでしょうか、それを考えねばなりません。消息文では「み教えを依りどころに生きる者」と示されています。

今生が終わった後の行き先が定まれば、その後の生活は当然ながら異なってくるものです。努力しなくとも「少しずつ 執われの心」が離れていきましょう。「執われ」とは「この世の財産や地位、名誉等々」に執われることで、当然ながら、そこには「生きる」ことも含まれます。要するに、死んだ後まで相続できないものへの執着です。

私たちは、この執着心からなかなか離れることができないものです。しかし、それが阿弥陀如来のみ光に照らされて、死後に至るまで相続できないものとわかれば、少しずつ心に変化が生じてくるものです。そこを聖人は

仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし(註釈版聖典739ページ)

と示してくださいます。

ここの「誓いを聞き始めしより」の文が大切です。煩悩成就の凡夫ですが、如来の誓願を知ったならばという意味でしょう。そうすれば、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが少しずつ遠のいていくものだと示してくださっているのです。

生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず

執われの心が薄れてくれば「生かされていることに 感謝」ができます。私たちは多くのご縁によって生かされています。常に自分を中心において、さまざまなご縁を眺めていますが、ご縁が先にあっての私だということがわかります。生かされて生きているのです。そのように思うとき、煩悩的欲求に無批判に従うことはできません。

また、貪・瞋・痴の三毒の煩悩は死ぬまで無くなりませんが、親鸞聖人がお示しくださったように「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ」てくるに違いありません。これらを「むさぼり いかりに 流されず」と言い表しているのです。くれぐれもそのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活ができるという意味ですのでご注意ください。

穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い

「和顔愛語」は法蔵菩薩修行の徳目の一つです。阿弥陀如来はいつも私たちによりそい、私の喜び悲しみを共にしてくださる仏さまです。

善導大師は、阿弥陀仏と念仏の衆生との関係を親縁で示してくださいます。親しい間柄という意味です。阿弥陀さまと私が親しい間柄ということをこころに思い浮かべるとき、自然にこころ穏やかになり、顔や言葉にあらわれるものです。私の優しい態度や言葉は、広く他におよび、曇鸞大師が念仏者を「四海のうちみな兄弟とするなり」(註釈版聖典310ページ)と言われるような輪が広がっていきます。すなわち、「穏やかな顔と 優しい言葉」また「喜びも 悲しみも 分かち合」う生活が送れることになるのです。

日々に 精一杯 つとめます

念仏申して生きることは、生きる意義がはっきりするということです。『仏説無量寿経』には

愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず(註釈版聖典70ページ)

とあります。どこから来て、どこへ帰っていくのか知らない私です。そのような私に生きる方向を指し示してくださるのがお念仏です。

そのお念仏による仏恩報謝の生活では、このように素睛らしい心安らぐ日常が送れるということです。

そのために、私たちはとにかく「阿弥陀如来のよび声に呼応」しなければなりません。この呼応することが「ご信心をいただく」という意味でもあります。まず私たちが聞法にはげみ、そして少しでも如来のお心にかなう生き方を目指し、「日々に 精一杯 つとめ」なければならないでしょう。それを奨励した言葉であることを肝に銘じなければなりません。

今回発布された消息文を以上のような味わいで唱和くださいますことをここに念じます。

『本願寺新報』2023年(令和5年)2月1日 3ページ


アドヴァイタ・非二元・不二一元について

2023年03月15日 | ブログ
新しい領解文を考える会のグループへと、はじめて投稿させて頂きましたが、新しい領解文を草稿されたとする方の思想は、空や縁起と仏教用語を間違って解釈しているのは明らかながら、少し著書の内容を先日に見せて頂きましたが、アドヴァイタ系の思想の影響が相当にあるのが顕著に見られました。

非二元、不二一元、ヒンドゥー起源ですが、仏教では極端論として当然に釈尊により否定されています。

中観として後に龍樹大師以降、議論がより深まって参ります。

では、いまだに仏教でもこのように非二元や不二一元が、なぜ盛んに出てくるのか?

あるがまま、それでいい、そのまんま、まるっと、流しなさい、考えなさんな、、など、相当に根強いわけなのですが、要は、信者を思考停止に陥らせるための思想として、狙いはもちろん思考停止させることによるお金の吸い上げです。

マインドコントロールしやすい思想ということなのです。余計なことは考えさせないようにする。ただ、いいなりになりなさいと。

この思想影響を相当に受けていると感じたのであります。

極めて危険な思想であり、その思想が反映されてあるのが、新しい領解文の問題の本質であるということです。

ですから、浄土真宗教学、教義だけの問題ではなく、日本仏教全体の問題であると考えています。

しかし、なぜ日本の仏教、僧侶は、アドヴァイタ系に流れやすいのか・・

一つは、やはり、空と縁起の二諦への理解の誤解が根強いのと天台本覚思想の影響を受けているというのもありますが、一番の理由は、中観、唯識のみならず、仏教認識論・論理学をほとんど何も学んでいないということにも、その原因があるのでしょう・・

まずチベット仏教では考えられないのでもあります・・

顕教の「般若学」 「中観学」 「論理学」 「倶舎」 「律」の五部論の基礎もさることながら、その前提として、「ドゥータ(存在論) 」 「タクリク(入門的論理学) 」 「ローリク(認識論) 」を徹底して学ぶことから始めるからです。

認識論、論理学は、正しく経典、論書を理解するためには、必ず欠かせないということなのであります。

チベットの僧侶たちが中庭で手を叩いて繰り返し問答している様子をご覧になったことがあれば分かるかとは思うのですが、教えの理解へと向けて昼夜問わずにとにかく議論を行うのであります。

要は、離戯論へと向けて、徹底した戯論を重視するツォンカパ大師以来のゲルク派の伝統とも言えるでしょう。

そんな議論も全く経ないままに、なんだか耳障りのよいようなだけのフレーズに騙されて、そのまま浅薄な理解で、それを発信してしまう・・当然にためになるような中身は全く無いのですよね・・その一例と言えるのではないでしょうか、、

・・

浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・1

まず、何が問題であるのかを知るために・・

新しい「領解文」を考える会・岡本法治先生より

一人ひとりの領解(教えの理解)を改めて問うための阿弥陀さんからの有り難いご仏縁として、西本願寺の皆さんはもとより、これまで浄土真宗にご縁のなかった方、他宗の方、一般の方にもこの問題を広く考えて頂けるように問題提起して、議論に参加して頂ければ有り難いとのことでした。

非公開グループですが、参加は自由になりますので、お気軽にご参加下さいませ。

新しい「領解文」を考える会
https://www.facebook.com/groups/754460852681528/?ref=share

・・以下、拙メモより・・

雑行雑修、雑善を敢行奨励するのが、なぜダメなのかがわかりませんと頂いた、、

確かに新しい領解文にあるような普通の世間一般に奨励されるような道徳規範的なことは、別に否定されるわけではありません。

ただ、それはあくまでも個人的な思想信条における、個人的なこととして行うべきことで、それを寺院、僧侶、宗門として行うことは明確に教義に反するということです。

絶対他力の絶対信心は、生半可なことでは不可能なものです。雑行雑修、雑善に励む余地など本来は微塵もないのであります。
ましてや、寺院、僧侶、宗門としてならば尚更となります。

もちろん、個人として行う、世間的な道徳、社会的な活動、奉仕ボランティア活動、慈善事業、寄付事業等は、否定されるものではありません。まあ、普通であれば敢行奨励されてしかるべきとなります。

しかし、それとは全く別次元として、教義的なあり方を考えないと、なし崩し的にこれを認めていけば、一気に教義、宗門の崩壊を招くことになると懸念されるのであります。

今回の件では、本来であればはたらいたであろう是正力が、全く機能しなかったのは、一つは勧学寮や監正局、宗会による是正措置が効かなかったことが大きいと思われるのであります。

要は、教義、宗門が死に体になったということです。

なぜ、このような事態を招いたのか。深く考える必要があるのです。

・・

では、宗門自体の社会活動や慈善事業、寄付事業はどうなるのでしょうか、となります。

本来は教義的に余計なことであり、それは宗門外に位置付けて行うべきでしょう。

それを総局に紐づけて行っていること自体が、もともと教義に反しているのであります。

更に、教義に反することに余計な予算を使い、無駄にし、財政を圧迫しているということになってしまっているということです。

特に、本来は教義、宗門の理論的中枢となる宗門のシンクタンク、総合研究所を潰すという暴挙に出るなど、まず考えられないことであります。

それなら、重点プロジェクト推進室、二特別部門、社会部を宗門外の別法人化した組織に移して、予算を見直せば、すっきりとするでしょうし、対外的にも非常に見栄えしたあり方になります。

いずれにしても、死に体となった教義、宗門を立て直すには、勧学寮、監正局、宗門教学会議、宗会が、その中心的な役割を果たさなければならないでしょう。

・・

拙生は、新しい領解文について、従来通りに、本覚思想の問題と、雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足したこの二点を問題視しています。

他には、「知識帰命の異安心」(阿弥陀如来ではなく教師先生への帰依)なども問題視されていますが、新しい領解文を考える会による「新しい領解文についてのお尋ね」には、内容への疑義だけでも、ナント17項目も理由と共に挙げられています。詳しくは、グループへご参加下さい。

また、草稿した者による誤った仏教理解、誤った教学理解も、その背景として、その者の思想が反映されてあるものとほぼ確実に推定されています。

更には、当初は領解文として発布されないようにしかるべき集まりのしかるべき方々により(当然にできないぐらいに誰が見てもマズイ内容)勧告されていたにもかかわらずに、強引に領解文として発布されたことも明らかとされており、そこまで強引に進められた背景も含めて、この問題は考える必要があると思うのであります。

特に、本来は教義、教学的に通常なら考えられない雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足した点には、何らかの意図が含まれてあると考えられ、その意図からこの問題の本質を見極めて、対処していくことも必要になると思われるのであります。

新しい領解文への見解を聞かれたことから始まった関わりですが、浄土真宗教学、親鸞聖人の思想の考究にもなるため、引き続き意見交換をしていければと思います。

・・

新領解文問題は、西本願寺さん内で早くの収束を願っていますが、門主さんの立場が外部からはよくわからないため、安易には言えないところがあります。

ただ、言えるのは、西本願寺、本願寺派の皆さんにとって門主さんは大切な存在ということ。

今回の新領解文問題も、その批判、または、撤回、修正を求めるのは、つまり、消息を発布した門主さんへの批判になるため、声を上げにくい、憚られてしまう現状があるのは確かであります。

しかし、この新領解文の問題は、浄土真宗教学、親鸞教学上における問題(特に雑修雑行、雑善、自力の敢行と捉えられる点)があることと、本覚思想に関する誤謬を宣揚してしまっている点で、撤回、修正しない限り、いつまでもくすぶり続けることになり、恥を晒し続けるということになります。

宗会では、この問題を軽く見て、留保案を否決したようですが、かえってこれから門主さんの傷になってしまっていくことが分からなかったのか、それが残念でならないのであります。

門主さんを大切に思うならば、留保案を通すべきだったでしょう。

宗会で議論に上がらなくなってしまったら、残された道は、門主さん自らで、なるべく早くの撤回、修正をするしかないということになります。しかし、門主さんにその意思がおありでも、そんなことは総局も今さらさせないでしょうし、総力を上げて止めるのは必定でしょう。

しかし、本当に門主さんを守りたい、尊重する心があるなら、どうすれば一番、門主さんに傷がつかずに収束が図れるか、それはもう総局が、今回の経緯の責任があったことを認めて、混乱を招いたことを謝罪し、総辞任して、新領解文を撤回するということでしか無理なように思えるのである。

まあ、完全部外者による無責任、勝手な意見ですが、門主さんを大切になさっていることがわかりましたので、門主さんには傷がつかないように守りたいと私も思うのであります。

・・

拙生が問題視しているのは、新領解文の「本覚思想」と、草稿された方の間違った仏教理解、特に「空と縁起・中観思想」の間違った解釈。

この間違った解釈から、やがて極端な一元論、もしくは二元論のいずれかへと陥りかねず、それが差別思想、もしくは全体思想へと向かっていく危険さが常に孕んでいるのであります。

ですから、差別、戦争に加担した歴史への反省を門主さんに宣言をさせておきながら、その内実では、差別、戦争へと繋がりかねない危険な思想を、ましてや宗門教義へと入れ込もうとしている・・

まさに獅子身中の虫なのである。

この間違った中観理解からは、第二、第三のオウムがいつ生まれてもおかしくないのである。ですから、誰だって、全く関係がないとは言えないのであります。

・・

「新しい領解文」を考える―組織と教学の陥穽
https://www.youtube.com/live/Jat7j8OMrIU?feature=share

この「新しい領解文」は多くの反響を呼んでおり、その中には批判的な意見も少なくありません。これが門主個人の領解なら何ら問題はないはずですが、本願寺派は組織をあげてこの文章の唱和を推進しようとしており、そこにはどこか全体主義的な空気も見え隠れします。

一体、この「新しい領解文」の問題点とはなにか。宗学(真宗教学)、宗教社会学、教団法規、宗教哲学の分野から本願寺派内の識者を招き、ディスカッションを行います。視聴者からのチャットによる意見や質問を歓迎します。感情的な批判を離れ、建設的な議論ができればと思っております。

・・

浄土真宗本願寺派・西本願寺さんが発布された新しい領解文についての見解について幾人かより聞かれましたので・・

まずは、その新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息[龍谷門主釋専如]令和五年一月十六日
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_001985.html

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで

救い取られる 自然の浄土

仏恩報謝の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者 となり

少しずつ 執われの心を 離れます

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず

穏やかな顔と 優しい言葉

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます』

・・

浄土真宗の要諦は、何よりも阿弥陀如来の往相還相の二種回向による法性方便の二種法身の獲得を目指しての阿弥陀如来の本願への絶対他力、絶対信心。

その絶対信心を得ること、信心決定が、極楽浄土への往生、正定聚に至るために求められるところとなります。

この信心決定、信心獲得は、帰依や報謝とは全くの別モノ、別次元であり、衆生に対しては、この信心決定、信心獲得に対してどうあるべきか、どう臨むべきかが教義的に重要となるため、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべきものとなります。

「自然の浄土」への往生、その浄土は、衆生が二種法身を獲得するための(阿弥陀如来の本願の利益としての)はたらきを有する阿弥陀如来の法性法身そのもの、一如宝海とされるわけであります。

この一如宝海への往生により、阿弥陀如来の救いに与ることができ、法性方便の二種法身を獲得して成仏が完成するとされるのであります。

そして、信心決定、信心獲得、それは、ただ、念仏するだけで可能となるような簡単なものではなく、当然に聖道門(自力行)における菩薩階梯の十地の第八地に相当するほどに難しく、厳しいものであり、とても易行道と呼べるものではなく、本来は難儀至極なるものであります。(別時意趣)

また、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべき中で、後半における、生きる者となり~、執着を離れて〜、感謝して~、貪瞋痴に流されず〜、和顔愛語に〜、分かち合い~、つとめます~、などは、自力的(自分自身による努力的)要素に絡む印象を与えかねず、ある意味、蛇足と言えるのではないだろうかと思われます。

最後の「つとめ」るべき内容は何か、それは絶対他力、阿弥陀如来の本願への絶対信心の獲得であるとして、それをより明確にした方が曖昧さを排除できたのではないだろうかというのが拙見解であります。(前半の「南無阿弥陀仏~仏恩報謝のお念仏」だけの方が良かったのではないだろうかと思われます。)

最後に、もう一つ特筆しておくべきことは、本覚思想的要素が鮮明になっていること。

「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」

親鸞思想が、本覚思想・如来蔵思想的な問題を抱えてあるということについては、下記の拙見解をご参考頂けましたらと存じます。

「曇鸞以降における浄土論の最大の誤謬(般若中観思想の誤った用法による)」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/2b03bb2aab7cfaec260de8d5382ab206

・・

追記・2023.2.26

ご消息解説 勧学寮

このたび、ご門主より発布されましたご消息は、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)と題していますが、平易さを重視し、唱和することを目的としたために、その肝要を現代版に直したものであることをご理解ください。

ところでこの文は、三段に分けて受け止めることができます。まず第一段は、「南無阿弥陀仏」のおこころです。そのおこころをありがとう、といただき、おまかせする[信心]。そして救われていく「浄土」。それに「報謝の念仏」について述べています。第二段では、そのみ教えを私たちにお示しくださった宗祖親鸞聖人、また、お伝えくださった歴代宗主の恩徳について感謝を表しています。第三段では念仏者の日々に生活する態度を示し、聞法を勧める構成になっています。

どのようなご文も同じですが、いかに味わって拝読するか、その味わい方が肝心です。いま、このご文を、二、三行ずつに分けてその肝要を窺ってまいりましょう。

第一段 お念仏のこころに

南無阿弥陀仏

はじめに、六字の名号が掲げられます。この名号は単に名前ではありません。阿弥陀如来の顕現したおすがたを示すものです。

親鸞聖人が名号といわれるとき、多くの場合、上に本願の語が冠せられます。「本願名号正定業」などです。他に「誓願の名号」とか「誓いの名号」などの例もみられます。これらは、名号が本願であり誓願されたそのこころを表しているという意味です。本願とは、阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったとき、一切の苦しみ悩む衆生を一人のこさず救いとろうと誓われたものです。この願いが成就して阿弥陀仏となられ、そして名号となって私をよんでくださっているのです。ですから続いて

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

とあります。「そのまま救う」が阿弥陀如来の願いですので、短い消息文の中に二度にわたって述べられます。親鸞聖人はこの六字の名号を

しかれば、「南無」の言は帰命なり(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(註釈版聖典170ページ)

として、阿弥陀仏が名号となって煩悩に覆われる私の上に届き「まかせよ、わが名を称えよ」とよびかけてくださるすがたと味わわれたのです。また、この名号はよび声ではありますが、阿弥陀仏の功徳のすべてを与えたいという慈悲のすがたでもあるのです。しかも、信ずることも、念仏することも如来よりいただくものと味わわれます。

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ここで問題は、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の受け止め方です。私たち凡夫の立場からすれば、異様な内容と映ります。しかし、阿弥陀如来の立場からするならば違って受け止めることができるのです。仏教では、迷いの世界とさとりの世界の両方を説きます。いま、私の煩悩と仏のさとりは本来一つ、と言われるのは、さとりの世界の風光を示すものです。

阿弥陀如来には絶対的な真実無相の立場と、人間を救う仏として具体的なかたちをあらわす二面性があります。それが智慧と慈悲の阿弥陀仏と言われる所以です。智慧とはさとりを指しますので、その智慧の眼で眺めた時には「煩悩と菩提は一つ」と見ることができます。このさとりの智慧から衆生救済の慈悲が導き出されるのですから「ゆえ」が付加されているのでしょう。

要するに阿弥陀如来のさとりの智慧から「この私をよんでくださる慈悲」が出されたという意味です。この弥陀のよび声に私が呼応して「ありがとうございます」といただくのです。「そのまま救う」とよびかけてくださるのですから、素直に「この身このまま、おまかせします」と、ただただおまかせするのみを「いただく」と言っているのです。ですから

ありがとう といただいて

と続きます。

阿弥陀如来の必ず救うという慈悲のこころをそのまま受け入れて、この身をおまかせする。ここを「信心をいただく」と表現し、ここに他力の救いが成立します。本願を憶念して、自力のこころを離れていく、それ以外に煩悩具足の私が迷いの世界から抜け出る道はありません。

この愚身をまかす このままで
救い取られる自然の浄土

すでに述べたように、救われるということは、如来のよび声を聞き、おまかせするということです。ですから、如来の側からすれば「そのままの救い」であり、私の側から言えば「このまま救われる」ということになります。

ここを「愚身をまかす」とあえて「愚身」と書いて「み」と読むように指示されています。私という愚かな身ながら[このまま救われる]ことを表そうとされているのです。そうすれば、私の命が終かったその時にお浄土に往生させていただき、この私を仏にしてくださいます。

その往生させていただく世界が「救い取られる 自然の浄土」、いわゆる極楽浄土です。浄土が自然の語によってさとりの世界であることを表そうとしています。「自然虚無之身無極之体」という経典のことばにも、自然がさとりを意味していることが窺えます。

仏恩報謝の お念仏

阿弥陀如来の私をよんでくださるよび声が届いた瞬間からお浄土に寄せていただくまでのこの世での生活、それが「ありがとうございます」という感謝の念仏生活以外にはありません。「仏恩報謝のお念仏」と表現される所以です。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出ます。決して救いの因として役立たせるためではありません。阿弥陀如来のご恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものです。仏になるべき身に育てあげていただいたご恩に対する報恩の念仏です。

第二段

師の徳を讃える
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

ところで、愚身の私が往生させていただく手段は、すべて阿弥陀さまの方で完成されていますので、これを「他力」といいます。この「他力の法門」を数あるお釈迦さまの教えの中から見出してくださり、この私に至るまでお伝えくださったのは「ひとえに宗祖親鸞聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の 尊いお導きに よるもの」と言えましょう。親鸞聖人ましまさずば、と思うとき本当にお念仏に遇いえた喜びが湧きあがってきます。そして法灯を伝承された歴代宗主のお導きに感謝しなければなりません。

第三段

念仏者の生活

み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます

「そのままの救い」とか「摂取不捨の救い」とはいっても、どんな悪事をしてもいいということではありません。「薬あればとて、毒をこのむべからず」という誡めもあります。ですから、他力の教えをいただき感謝の念仏を称える人たちの生き方はどのようなものといえるでしょうか、それを考えねばなりません。消息文では「み教えを依りどころに生きる者」と示されています。

今生が終わった後の行き先が定まれば、その後の生活は当然ながら異なってくるものです。努力しなくとも「少しずつ 執われの心」が離れていきましょう。「執われ」とは「この世の財産や地位、名誉等々」に執われることで、当然ながら、そこには「生きる」ことも含まれます。要するに、死んだ後まで相続できないものへの執着です。

私たちは、この執着心からなかなか離れることができないものです。しかし、それが阿弥陀如来のみ光に照らされて、死後に至るまで相続できないものとわかれば、少しずつ心に変化が生じてくるものです。そこを聖人は

仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし(註釈版聖典739ページ)

と示してくださいます。

ここの「誓いを聞き始めしより」の文が大切です。煩悩成就の凡夫ですが、如来の誓願を知ったならばという意味でしょう。そうすれば、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが少しずつ遠のいていくものだと示してくださっているのです。

生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず

執われの心が薄れてくれば「生かされていることに 感謝」ができます。私たちは多くのご縁によって生かされています。常に自分を中心において、さまざまなご縁を眺めていますが、ご縁が先にあっての私だということがわかります。生かされて生きているのです。そのように思うとき、煩悩的欲求に無批判に従うことはできません。

また、貪・瞋・痴の三毒の煩悩は死ぬまで無くなりませんが、親鸞聖人がお示しくださったように「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ」てくるに違いありません。これらを「むさぼり いかりに 流されず」と言い表しているのです。くれぐれもそのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活ができるという意味ですのでご注意ください。

穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い

「和顔愛語」は法蔵菩薩修行の徳目の一つです。阿弥陀如来はいつも私たちによりそい、私の喜び悲しみを共にしてくださる仏さまです。

善導大師は、阿弥陀仏と念仏の衆生との関係を親縁で示してくださいます。親しい間柄という意味です。阿弥陀さまと私が親しい間柄ということをこころに思い浮かべるとき、自然にこころ穏やかになり、顔や言葉にあらわれるものです。私の優しい態度や言葉は、広く他におよび、曇鸞大師が念仏者を「四海のうちみな兄弟とするなり」(註釈版聖典310ページ)と言われるような輪が広がっていきます。すなわち、「穏やかな顔と 優しい言葉」また「喜びも 悲しみも 分かち合」う生活が送れることになるのです。

日々に 精一杯 つとめます

念仏申して生きることは、生きる意義がはっきりするということです。『仏説無量寿経』には

愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず(註釈版聖典70ページ)

とあります。どこから来て、どこへ帰っていくのか知らない私です。そのような私に生きる方向を指し示してくださるのがお念仏です。

そのお念仏による仏恩報謝の生活では、このように素睛らしい心安らぐ日常が送れるということです。

そのために、私たちはとにかく「阿弥陀如来のよび声に呼応」しなければなりません。この呼応することが「ご信心をいただく」という意味でもあります。まず私たちが聞法にはげみ、そして少しでも如来のお心にかなう生き方を目指し、「日々に 精一杯 つとめ」なければならないでしょう。それを奨励した言葉であることを肝に銘じなければなりません。

今回発布された消息文を以上のような味わいで唱和くださいますことをここに念じます。

『本願寺新報』2023年(令和5年)2月1日 3ページ


浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・1

2023年03月12日 | ブログ
浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・1

まず、何が問題であるのかを知るために・・

新しい「領解文」を考える会・岡本法治先生より

一人ひとりの領解(教えの理解)を改めて問うための阿弥陀さんからの有り難いご仏縁として、西本願寺の皆さんはもとより、これまで浄土真宗にご縁のなかった方、他宗の方、一般の方にもこの問題を広く考えて頂けるように問題提起して、議論に参加して頂ければ有り難いとのことでした。

非公開グループですが、参加は自由になりますので、お気軽にご参加下さいませ。

新しい「領解文」を考える会
https://www.facebook.com/groups/754460852681528/?ref=share

・・以下、拙メモより・・

雑行雑修、雑善を敢行奨励するのが、なぜダメなのかがわかりませんと頂いた、、

確かに新しい領解文にあるような普通の世間一般に奨励されるような道徳規範的なことは、別に否定されるわけではありません。

ただ、それはあくまでも個人的な思想信条における、個人的なこととして行うべきことで、それを寺院、僧侶、宗門として行うことは明確に教義に反するということです。

絶対他力の絶対信心は、生半可なことでは不可能なものです。雑行雑修、雑善に励む余地など本来は微塵もないのであります。
ましてや、寺院、僧侶、宗門としてならば尚更となります。

もちろん、個人として行う、世間的な道徳、社会的な活動、奉仕ボランティア活動、慈善事業、寄付事業等は、否定されるものではありません。まあ、普通であれば敢行奨励されてしかるべきとなります。

しかし、それとは全く別次元として、教義的なあり方を考えないと、なし崩し的にこれを認めていけば、一気に教義、宗門の崩壊を招くことになると懸念されるのであります。

今回の件では、本来であればはたらいたであろう是正力が、全く機能しなかったのは、一つは勧学寮や監正局、宗会による是正措置が効かなかったことが大きいと思われるのであります。

要は、教義、宗門が死に体になったということです。

なぜ、このような事態を招いたのか。深く考える必要があるのです。

・・

では、宗門自体の社会活動や慈善事業、寄付事業はどうなるのでしょうか、となります。

本来は教義的に余計なことであり、それは宗門外に位置付けて行うべきでしょう。

それを総局に紐づけて行っていること自体が、もともと教義に反しているのであります。

更に、教義に反することに余計な予算を使い、無駄にし、財政を圧迫しているということになってしまっているということです。

特に、本来は教義、宗門の理論的中枢となる宗門のシンクタンク、総合研究所を潰すという暴挙に出るなど、まず考えられないことであります。

それなら、重点プロジェクト推進室、二特別部門、社会部を宗門外の別法人化した組織に移して、予算を見直せば、すっきりとするでしょうし、対外的にも非常に見栄えしたあり方になります。

いずれにしても、死に体となった教義、宗門を立て直すには、勧学寮、監正局、宗門教学会議、宗会が、その中心的な役割を果たさなければならないでしょう。

・・

拙生は、新しい領解文について、従来通りに、本覚思想の問題と、雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足したこの二点を問題視しています。

他には、「知識帰命の異安心」(阿弥陀如来ではなく教師先生への帰依)なども問題視されていますが、新しい領解文を考える会による「新しい領解文についてのお尋ね」には、内容への疑義だけでも、ナント17項目も理由と共に挙げられています。詳しくは、グループへご参加下さい。

また、草稿した者による誤った仏教理解、誤った教学理解も、その背景として、その者の思想が反映されてあるものとほぼ確実に推定されています。

更には、当初は領解文として発布されないようにしかるべき集まりのしかるべき方々により(当然にできないぐらいに誰が見てもマズイ内容)勧告されていたにもかかわらずに、強引に領解文として発布されたことも明らかとされており、そこまで強引に進められた背景も含めて、この問題は考える必要があると思うのであります。

特に、本来は教義、教学的に通常なら考えられない雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足した点には、何らかの意図が含まれてあると考えられ、その意図からこの問題の本質を見極めて、対処していくことも必要になると思われるのであります。

新しい領解文への見解を聞かれたことから始まった関わりですが、浄土真宗教学、親鸞聖人の思想の考究にもなるため、引き続き意見交換をしていければと思います。

・・

新領解文問題は、西本願寺さん内で早くの収束を願っていますが、門主さんの立場が外部からはよくわからないため、安易には言えないところがあります。

ただ、言えるのは、西本願寺、本願寺派の皆さんにとって門主さんは大切な存在ということ。

今回の新領解文問題も、その批判、または、撤回、修正を求めるのは、つまり、消息を発布した門主さんへの批判になるため、声を上げにくい、憚られてしまう現状があるのは確かであります。

しかし、この新領解文の問題は、浄土真宗教学、親鸞教学上における問題(特に雑修雑行、雑善、自力の敢行と捉えられる点)があることと、本覚思想に関する誤謬を宣揚してしまっている点で、撤回、修正しない限り、いつまでもくすぶり続けることになり、恥を晒し続けるということになります。

宗会では、この問題を軽く見て、留保案を否決したようですが、かえってこれから門主さんの傷になってしまっていくことが分からなかったのか、それが残念でならないのであります。

門主さんを大切に思うならば、留保案を通すべきだったでしょう。

宗会で議論に上がらなくなってしまったら、残された道は、門主さん自らで、なるべく早くの撤回、修正をするしかないということになります。しかし、門主さんにその意思がおありでも、そんなことは総局も今さらさせないでしょうし、総力を上げて止めるのは必定でしょう。

しかし、本当に門主さんを守りたい、尊重する心があるなら、どうすれば一番、門主さんに傷がつかずに収束が図れるか、それはもう総局が、今回の経緯の責任があったことを認めて、混乱を招いたことを謝罪し、総辞任して、新領解文を撤回するということでしか無理なように思えるのである。

まあ、完全部外者による無責任、勝手な意見ですが、門主さんを大切になさっていることがわかりましたので、門主さんには傷がつかないように守りたいと私も思うのであります。

・・

拙生が問題視しているのは、新領解文の「本覚思想」と、草稿された方の間違った仏教理解、特に「空と縁起・中観思想」の間違った解釈。

この間違った解釈から、やがて極端な一元論、もしくは二元論のいずれかへと陥りかねず、それが差別思想、もしくは全体思想へと向かっていく危険さが常に孕んでいるのであります。

ですから、差別、戦争に加担した歴史への反省を門主さんに宣言をさせておきながら、その内実では、差別、戦争へと繋がりかねない危険な思想を、ましてや宗門教義へと入れ込もうとしている・・

まさに獅子身中の虫なのである。

この間違った中観理解からは、第二、第三のオウムがいつ生まれてもおかしくないのである。ですから、誰だって、全く関係がないとは言えないのであります。

・・

「新しい領解文」を考える―組織と教学の陥穽
https://www.youtube.com/live/Jat7j8OMrIU?feature=share

この「新しい領解文」は多くの反響を呼んでおり、その中には批判的な意見も少なくありません。これが門主個人の領解なら何ら問題はないはずですが、本願寺派は組織をあげてこの文章の唱和を推進しようとしており、そこにはどこか全体主義的な空気も見え隠れします。

一体、この「新しい領解文」の問題点とはなにか。宗学(真宗教学)、宗教社会学、教団法規、宗教哲学の分野から本願寺派内の識者を招き、ディスカッションを行います。視聴者からのチャットによる意見や質問を歓迎します。感情的な批判を離れ、建設的な議論ができればと思っております。

・・

浄土真宗本願寺派・西本願寺さんが発布された新しい領解文についての見解について幾人かより聞かれましたので・・

まずは、その新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息[龍谷門主釋専如]令和五年一月十六日
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_001985.html

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで

救い取られる 自然の浄土

仏恩報謝の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者 となり

少しずつ 執われの心を 離れます

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず

穏やかな顔と 優しい言葉

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます』

・・

浄土真宗の要諦は、何よりも阿弥陀如来の往相還相の二種回向による法性方便の二種法身の獲得を目指しての阿弥陀如来の本願への絶対他力、絶対信心。

その絶対信心を得ること、信心決定が、極楽浄土への往生、正定聚に至るために求められるところとなります。

この信心決定、信心獲得は、帰依や報謝とは全くの別モノ、別次元であり、衆生に対しては、この信心決定、信心獲得に対してどうあるべきか、どう臨むべきかが教義的に重要となるため、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべきものとなります。

「自然の浄土」への往生、その浄土は、衆生が二種法身を獲得するための(阿弥陀如来の本願の利益としての)はたらきを有する阿弥陀如来の法性法身そのもの、一如宝海とされるわけであります。

この一如宝海への往生により、阿弥陀如来の救いに与ることができ、法性方便の二種法身を獲得して成仏が完成するとされるのであります。

そして、信心決定、信心獲得、それは、ただ、念仏するだけで可能となるような簡単なものではなく、当然に聖道門(自力行)における菩薩階梯の十地の第八地に相当するほどに難しく、厳しいものであり、とても易行道と呼べるものではなく、本来は難儀至極なるものであります。(別時意趣)

また、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべき中で、後半における、生きる者となり~、執着を離れて〜、感謝して~、貪瞋痴に流されず〜、和顔愛語に〜、分かち合い~、つとめます~、などは、自力的(自分自身による努力的)要素に絡む印象を与えかねず、ある意味、蛇足と言えるのではないだろうかと思われます。

最後の「つとめ」るべき内容は何か、それは絶対他力、阿弥陀如来の本願への絶対信心の獲得であるとして、それをより明確にした方が曖昧さを排除できたのではないだろうかというのが拙見解であります。(前半の「南無阿弥陀仏~仏恩報謝のお念仏」だけの方が良かったのではないだろうかと思われます。)

最後に、もう一つ特筆しておくべきことは、本覚思想的要素が鮮明になっていること。

「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」

親鸞思想が、本覚思想・如来蔵思想的な問題を抱えてあるということについては、下記の拙見解をご参考頂けましたらと存じます。

「曇鸞以降における浄土論の最大の誤謬(般若中観思想の誤った用法による)」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/2b03bb2aab7cfaec260de8d5382ab206

・・

追記・2023.2.26

ご消息解説 勧学寮

このたび、ご門主より発布されましたご消息は、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)と題していますが、平易さを重視し、唱和することを目的としたために、その肝要を現代版に直したものであることをご理解ください。

ところでこの文は、三段に分けて受け止めることができます。まず第一段は、「南無阿弥陀仏」のおこころです。そのおこころをありがとう、といただき、おまかせする[信心]。そして救われていく「浄土」。それに「報謝の念仏」について述べています。第二段では、そのみ教えを私たちにお示しくださった宗祖親鸞聖人、また、お伝えくださった歴代宗主の恩徳について感謝を表しています。第三段では念仏者の日々に生活する態度を示し、聞法を勧める構成になっています。

どのようなご文も同じですが、いかに味わって拝読するか、その味わい方が肝心です。いま、このご文を、二、三行ずつに分けてその肝要を窺ってまいりましょう。

第一段 お念仏のこころに

南無阿弥陀仏

はじめに、六字の名号が掲げられます。この名号は単に名前ではありません。阿弥陀如来の顕現したおすがたを示すものです。

親鸞聖人が名号といわれるとき、多くの場合、上に本願の語が冠せられます。「本願名号正定業」などです。他に「誓願の名号」とか「誓いの名号」などの例もみられます。これらは、名号が本願であり誓願されたそのこころを表しているという意味です。本願とは、阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったとき、一切の苦しみ悩む衆生を一人のこさず救いとろうと誓われたものです。この願いが成就して阿弥陀仏となられ、そして名号となって私をよんでくださっているのです。ですから続いて

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

とあります。「そのまま救う」が阿弥陀如来の願いですので、短い消息文の中に二度にわたって述べられます。親鸞聖人はこの六字の名号を

しかれば、「南無」の言は帰命なり(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(註釈版聖典170ページ)

として、阿弥陀仏が名号となって煩悩に覆われる私の上に届き「まかせよ、わが名を称えよ」とよびかけてくださるすがたと味わわれたのです。また、この名号はよび声ではありますが、阿弥陀仏の功徳のすべてを与えたいという慈悲のすがたでもあるのです。しかも、信ずることも、念仏することも如来よりいただくものと味わわれます。

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ここで問題は、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の受け止め方です。私たち凡夫の立場からすれば、異様な内容と映ります。しかし、阿弥陀如来の立場からするならば違って受け止めることができるのです。仏教では、迷いの世界とさとりの世界の両方を説きます。いま、私の煩悩と仏のさとりは本来一つ、と言われるのは、さとりの世界の風光を示すものです。

阿弥陀如来には絶対的な真実無相の立場と、人間を救う仏として具体的なかたちをあらわす二面性があります。それが智慧と慈悲の阿弥陀仏と言われる所以です。智慧とはさとりを指しますので、その智慧の眼で眺めた時には「煩悩と菩提は一つ」と見ることができます。このさとりの智慧から衆生救済の慈悲が導き出されるのですから「ゆえ」が付加されているのでしょう。

要するに阿弥陀如来のさとりの智慧から「この私をよんでくださる慈悲」が出されたという意味です。この弥陀のよび声に私が呼応して「ありがとうございます」といただくのです。「そのまま救う」とよびかけてくださるのですから、素直に「この身このまま、おまかせします」と、ただただおまかせするのみを「いただく」と言っているのです。ですから

ありがとう といただいて

と続きます。

阿弥陀如来の必ず救うという慈悲のこころをそのまま受け入れて、この身をおまかせする。ここを「信心をいただく」と表現し、ここに他力の救いが成立します。本願を憶念して、自力のこころを離れていく、それ以外に煩悩具足の私が迷いの世界から抜け出る道はありません。

この愚身をまかす このままで
救い取られる自然の浄土

すでに述べたように、救われるということは、如来のよび声を聞き、おまかせするということです。ですから、如来の側からすれば「そのままの救い」であり、私の側から言えば「このまま救われる」ということになります。

ここを「愚身をまかす」とあえて「愚身」と書いて「み」と読むように指示されています。私という愚かな身ながら[このまま救われる]ことを表そうとされているのです。そうすれば、私の命が終かったその時にお浄土に往生させていただき、この私を仏にしてくださいます。

その往生させていただく世界が「救い取られる 自然の浄土」、いわゆる極楽浄土です。浄土が自然の語によってさとりの世界であることを表そうとしています。「自然虚無之身無極之体」という経典のことばにも、自然がさとりを意味していることが窺えます。

仏恩報謝の お念仏

阿弥陀如来の私をよんでくださるよび声が届いた瞬間からお浄土に寄せていただくまでのこの世での生活、それが「ありがとうございます」という感謝の念仏生活以外にはありません。「仏恩報謝のお念仏」と表現される所以です。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出ます。決して救いの因として役立たせるためではありません。阿弥陀如来のご恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものです。仏になるべき身に育てあげていただいたご恩に対する報恩の念仏です。

第二段

師の徳を讃える
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

ところで、愚身の私が往生させていただく手段は、すべて阿弥陀さまの方で完成されていますので、これを「他力」といいます。この「他力の法門」を数あるお釈迦さまの教えの中から見出してくださり、この私に至るまでお伝えくださったのは「ひとえに宗祖親鸞聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の 尊いお導きに よるもの」と言えましょう。親鸞聖人ましまさずば、と思うとき本当にお念仏に遇いえた喜びが湧きあがってきます。そして法灯を伝承された歴代宗主のお導きに感謝しなければなりません。

第三段

念仏者の生活

み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます

「そのままの救い」とか「摂取不捨の救い」とはいっても、どんな悪事をしてもいいということではありません。「薬あればとて、毒をこのむべからず」という誡めもあります。ですから、他力の教えをいただき感謝の念仏を称える人たちの生き方はどのようなものといえるでしょうか、それを考えねばなりません。消息文では「み教えを依りどころに生きる者」と示されています。

今生が終わった後の行き先が定まれば、その後の生活は当然ながら異なってくるものです。努力しなくとも「少しずつ 執われの心」が離れていきましょう。「執われ」とは「この世の財産や地位、名誉等々」に執われることで、当然ながら、そこには「生きる」ことも含まれます。要するに、死んだ後まで相続できないものへの執着です。

私たちは、この執着心からなかなか離れることができないものです。しかし、それが阿弥陀如来のみ光に照らされて、死後に至るまで相続できないものとわかれば、少しずつ心に変化が生じてくるものです。そこを聖人は

仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし(註釈版聖典739ページ)

と示してくださいます。

ここの「誓いを聞き始めしより」の文が大切です。煩悩成就の凡夫ですが、如来の誓願を知ったならばという意味でしょう。そうすれば、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが少しずつ遠のいていくものだと示してくださっているのです。

生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず

執われの心が薄れてくれば「生かされていることに 感謝」ができます。私たちは多くのご縁によって生かされています。常に自分を中心において、さまざまなご縁を眺めていますが、ご縁が先にあっての私だということがわかります。生かされて生きているのです。そのように思うとき、煩悩的欲求に無批判に従うことはできません。

また、貪・瞋・痴の三毒の煩悩は死ぬまで無くなりませんが、親鸞聖人がお示しくださったように「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ」てくるに違いありません。これらを「むさぼり いかりに 流されず」と言い表しているのです。くれぐれもそのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活ができるという意味ですのでご注意ください。

穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い

「和顔愛語」は法蔵菩薩修行の徳目の一つです。阿弥陀如来はいつも私たちによりそい、私の喜び悲しみを共にしてくださる仏さまです。

善導大師は、阿弥陀仏と念仏の衆生との関係を親縁で示してくださいます。親しい間柄という意味です。阿弥陀さまと私が親しい間柄ということをこころに思い浮かべるとき、自然にこころ穏やかになり、顔や言葉にあらわれるものです。私の優しい態度や言葉は、広く他におよび、曇鸞大師が念仏者を「四海のうちみな兄弟とするなり」(註釈版聖典310ページ)と言われるような輪が広がっていきます。すなわち、「穏やかな顔と 優しい言葉」また「喜びも 悲しみも 分かち合」う生活が送れることになるのです。

日々に 精一杯 つとめます

念仏申して生きることは、生きる意義がはっきりするということです。『仏説無量寿経』には

愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず(註釈版聖典70ページ)

とあります。どこから来て、どこへ帰っていくのか知らない私です。そのような私に生きる方向を指し示してくださるのがお念仏です。

そのお念仏による仏恩報謝の生活では、このように素睛らしい心安らぐ日常が送れるということです。

そのために、私たちはとにかく「阿弥陀如来のよび声に呼応」しなければなりません。この呼応することが「ご信心をいただく」という意味でもあります。まず私たちが聞法にはげみ、そして少しでも如来のお心にかなう生き方を目指し、「日々に 精一杯 つとめ」なければならないでしょう。それを奨励した言葉であることを肝に銘じなければなりません。

今回発布された消息文を以上のような味わいで唱和くださいますことをここに念じます。

『本願寺新報』2023年(令和5年)2月1日 3ページ


大智度論の指月喩の親鸞聖人の解釈について

2023年03月07日 | ブログ
親鸞聖人は、大智度論の指月喩から、「名号」(指)は、阿弥陀如来の(本願)真実功徳(法性法身)(月の光)に照らされてあることを私たちに分からせてくれる阿弥陀如来の(本願)真実功徳(月)のはたらき(救い)そのものである(方便法身)とするのである。また、阿弥陀如来の(本願)真実功徳(法性法身)(月の光)に照らされてあってこそ分かることができる「名号」(指)(方便法身のはたらき)の有り難さを強調するのである。

そして、大智度論において法性法身と方便法身の不一不異、由生由出の関係性が明示されてあるところとも繋がるのである。
大智度論巻第九の

「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」の
「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」だ。

しかし、親鸞聖人は、最終的には、法性法身と方便法身の不一不異、由生由出の関係性を再考した上で、曇鸞とは異なる二種法身の論である一如宝海論を展開していくことになるのである。