疑心に陥る、陥りそうになるのもお味わいの一つではないでしょうかとメッセージ頂いたが、まあ、法味の味わいは、確かにそれぞれにあり、尊重されるものではあるが、何でもかんでもを信心(決定・獲得)とするならば、法義の意味が逆になくなると考えるのである。
ただ、真実法味をそのままに味わえない凡夫であるため、それぞれに味わいも異なっているのでもある。
むしろ、味わいを介さずに本願勅命を飲み込むことが肝要と言えるのではないかと考えるのでもある。
ただ、真実法味をそのままに味わえない凡夫であるため、それぞれに味わいも異なっているのでもある。
むしろ、味わいを介さずに本願勅命を飲み込むことが肝要と言えるのではないかと考えるのでもある。