では、臨済宗の引導先である極楽浄土には往生してからどうなるのか?
次に、では、臨済宗の引導先となる阿弥陀如来の極楽浄土に往生したとして、曹洞宗の場合で考察してきたように、一切如来による灌頂を頂くことになるのかどうか?
これは断定できないものの、「見仏と授記」が仏道を前へ進めるための極楽往生の一番の目的となるため、一切如来(五智如来)からは頂けなくても、阿弥陀如来からの灌頂を頂戴できる可能性は高いのではないだろうかとも存じますし、阿弥陀如来が一切如来を招来して、同様に瓶灌頂(五智如来による灌頂)を授けることもあり得なくないとは思います。
また、密教では、極楽の「楽」は、私たちの世間的な苦楽の楽とかではなくて、密教の「大楽」の境地を意味するところとなります。
とするならば、「楽空無差別」の境地を目指す密教的な意味合いがあるとして、やはり、灌頂を頂戴できるのではないかと考えも良いのではないだろうかと存じます。
・・
では、一切如来による灌頂の内容とは何か?
無上瑜伽タントラの枠組みから捉えるならば、これは悟りへ向けた五智如来によるそれぞれの智慧のお加持のお力を頂戴する灌頂といえるのではないだろうかと思われます。
阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、大日如来。
そして、「授記」を受けることにもなります。
五智如来の灌頂は、瓶灌頂にあたりますが、この瓶灌頂を調べる中で、「不可逆灌頂」(最後有の菩薩に与えられる灌頂と同等)に「大いなる光明の灌頂」があることを知り、「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」によっての一切如来(ここでは一応、五智如来と考える)による灌頂として、この灌頂が想定されてあるように考えることができます。
しかし、これは金剛阿闍梨(菩薩)に与えられる特別な灌頂であり、やはり、生起次第の修行を終え、空性理解が相当高い聖者や最後有の菩薩のような存在に対して与えられる灌頂であるものの、全ての如来が成仏へと向けて、その菩薩が早く悟りへと至れるようにと授ける特別な灌頂と説明されてあることから、大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼は、全ての如来が成仏するための決定的かつ必要不可欠な加持力を有するとされる性格から考えて、この特別な灌頂を受けるための陀羅尼と考えると辻褄が合うものとなります。
問題は、これが「凡夫」に対して与えられる灌頂ではなさそうであるというところです。あくまでも一定境地に至った聖者に対してであり、となれば、葬儀による授戒と引導だけによる凡夫には当然に難しいものであると言えます。
しかし、光明に関わる成仏へ向けた重大な灌頂であることは名前からしても確かであり、ならば、仏性の覚醒へ向けた加持力を有するこの陀羅尼のことを考えると、四つの灌頂全体を俯瞰しても、まさにこれになるのではないだろうかと思われます。
また、聖者・菩薩でなくても、疑似的に(将来に受けるために、心にお加持の力の習気を置く)この灌頂が与えられると考えることもできます。
いずれにしても、大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来(五智如来)から頂く灌頂の内容は、特別な「大いなる光明の灌頂」ではないかもしれないものの、無上瑜伽タントラにおける通常の瓶灌頂(とあと三つの灌頂も続くかもしれないが)の内容であると考えて妥当となるのではないだろうかと存じます。
この灌頂で、「見仏と授記」を調えることになるというわけであり、そこから本格的に仏道の修習へと向かうということであります。
不退転となるという意味合いも、菩薩の現前地の不退転位を示すというわけではなく、灌頂による誓約と律義を守ることだけによっても、多少、紆余曲折があったり、時間が掛かっても、長くても7生~16生で成仏に至れる前進あることを言っているのであれば、それも不退転と言っても良いとも捉えることができます。
また引き続き精査して参りたいと存じます。
追記・・
灌頂には、その時には受ける資格がなくても、いずれ本当の灌頂を頂けるようにとして頂く灌頂もあり得ます。
要は、将来に正式に頂くために心に習気を置く灌頂というものです。
「不可逆灌頂」(不可逆秘儀)・「大いなる光明の灌頂」もそのようなものとして通常の無上瑜伽タントラの四灌頂内に組み込まれてあるとすれば、これは十分にあり得ます。
追記2・・
これは結局、精査の結果、瓶灌頂にある阿闍梨灌頂のことであり、やはり、一応、受者を金剛阿闍梨である(本当はまだまだ凡夫であっても)として授かる灌頂でありました。
これで繋がりました。
・・
見仏と授記へ向けて
もちろん、菩薩の現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものの根拠が凡夫にあれば、一切如来からの灌頂における大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼のお加持のお力により、不退転位を得ることは可能になると考えることはできます。
しかし、現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものは、通常の波羅蜜乗であれば、やはり相当な修行が必要であり、当然に時間も掛かります。(少なくとも二阿僧祇劫ほど)
もちろん、当人が過去世でそれだけの二資糧を積み終えてあれば、たやすく灌頂により不退転位を確定させることは可能であるでしょう。
では、まだとてもその二資糧に無い凡夫はどうなるのだ、ということになります。
葬儀の授戒と引導だけでは、やはりとても足らないのは明白。
それを補うための二資糧を葬儀の儀軌にて持たせることができるのかどうか・・これはやはりとても無理なことである・・
では、今世だけでその二資糧を積むことはできないのか、となれば、それはできる方法があり、それが無上瑜伽タントラの修行の実践となる。
つまり、生起次第と究竟次第となる。
また、もしも現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるぐらいの修行となれば、生起次第を終えてあることは必要不可欠となるのではないだろうかと思われる。
これなら、今世だけでも可能と言えば可能である。
もしも、曹洞宗の引導によりて、大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来からの灌頂を頂き、即座に不退転位に至りたいと思うのであれば、無上瑜伽タントラの生起次第までは確かに終えておけば、確実に至れることになるのではないだろうかと考えることはできます。
いや、そもそも生起次第を終えてある者であれば、自らの意思で行きたい浄土へと赴くことも可能となっているぐらいであり、他による引導は必要としないのではないかと言えば、もちろんそれまででもある。
まあ、とにかく灌頂は頂けても、その灌頂から実際の修行に励まなければ、とても成仏へは至れないのは確かであり、即座に不退転位は不可能でも、見仏と授記、灌頂(四つの灌頂)を受けることで、仏道を前へと進めていくための足掛かりは十分に調えることができるのであります。
そう考えれば、そのための引導と捉えられるのであるならば、意義は大変に大きなものとなります。
もちろん、執行する側、つまり、導師の資質も十分に問われるものとなるのは明らかであるのは言うまでもないのではありますが。
いずれにしても、浄土往生、浄土導引に向けては、引導を受ける側においても、それなりの条件(仏縁、善根、福智二資糧)は最低限必要となるのも言うまでないことであります。
できる限り今生においても仏縁、善根、福智二資糧に励んでおくことが肝要ということですね。
・・
引導だけで一切如来からの灌頂を頂けることになるのかどうか
そう、釈尊成道時直前に色究竟天にて灌頂を頂いたのは、般若智灌頂からである。
であっても、この般若智灌頂にて大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼におけるお加持を頂戴する灌頂があったかどうかはやはり確定はできない。
むしろ、それより前の過去世にて既に頂戴している可能性ももちろんある。そのヒントの一つとしては不退転となる菩薩の段階であるかもしれない。
そうなれば現前地あたりの菩薩時が妥当となる。
ならば、瓶灌頂、秘密灌頂である可能性も当然に否定はできない。
しかし、この陀羅尼により全ての如来が成仏することができたのだというほどに決定的かつ必要不可欠な陀羅尼であることが強調されてあるから、やはり成道の終局時に近いと考えることもできる。
ならば、最後有の菩薩が妥当とも言える。
まあ、とにかく主眼は、曹洞宗の引導において、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来からの灌頂を頂けることになるのかどうかであります。
誠にそうであるならば、一気に不退転の位に到達することにもなるのでしょうが、いきなり凡夫が菩薩の現前地に至れるかどうかと考えるならば、やはり現実的ではないと言わざるを得なくなります。
なぜなら、現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものの根拠が凡夫には当然にないからであります。
ましてや葬儀だけでその代替とするなど、とてもとても、
・・
「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」のお加持のお力を授かるための灌頂は何か?
これは拙見解でありますが、「般若智灌頂」であると考えます。
理由は、この陀羅尼が、仏性の覚醒を目的とする趣旨が強くあるため、仏性の覚醒、つまり、無上瑜伽タントラにおいての「光明」に関わってくる灌頂であると想定されることから、それが「般若智灌頂」であるからであります。
しかし、いずれしても、「般若智灌頂」を頂戴するには、その前段階である灌頂、更には灌頂を受けるための資格要件も満たさなければならないものとなります。
そもそも、死後、例えば葬儀の引導だけで、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)に赴き、一切如来から灌頂を賜れることが可能となるのかどうか、もちろん、灌頂だけであれば、頂戴できる可能性は高くありますが、実際に赴けるだけの機縁、機根、仏縁も具わってあるのかどうかというところも問われるものとなります。
もちろん、これは極楽往生についても言えることではありますが・・
善根少ない者はやはり当然ながら無理となるでしょう。このあたりのことついては更に考えることにします。
・・
では、釈尊が色究竟天にて灌頂を頂いた際のどの灌頂において、「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」のお加持のお力を授かることになったのか?
これはなかなか難しい質問。。
無上瑜伽タントラの四灌頂のうちのどれになるのかということになるでしょう。
そして、秘密灌頂、般若智灌頂、第四灌頂のいずれかになると思われます。
大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼の中枢目的を鑑みれば、ある程度の推測はできるでしょう。
分かりました。やってみましょう。
・・
・・大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼(宝楼閣真言)から曹洞宗の引導先を考える
要は、臨済宗と曹洞宗で、それぞれ葬儀儀軌・施餓鬼で引導にて中心的に読まれる陀羅尼の相違が、そのまま引導先を決定づけると言っても良いかもしれません。臨済宗は、「往生呪」であり、極楽浄土への引導が明らかとなります。
では、曹洞宗の「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」は、具体的に述べればどこになるのか。
「・・かの諸衆生、この陀羅尼(大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼)を聞くに由っての故に、常に安楽を獲りて諸地獄餓鬼畜生阿素羅道より離れ、諸悪趣門悉く皆関閉し、浄天の路を開き、かの諸衆生皆、阿耨多羅三藐三菩提心を観ず。・・」(施餓鬼作法・面山瑞方師)
「浄天の路を開き」とあるように、やはり、「天」が想定されてあるとは言えるでしょう。
では、その「天」とはどこになるのか。
おそらくは、この「天」は、曼荼羅世界、つまり、諸尊から密教灌頂を受ける世界になると推測されるものではあります。
そしてその曼荼羅世界が荘厳されてあるところということになると考えられます。
では、それはどこか。
大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼は、広大宝楼閣善住秘密陀羅尼経における陀羅尼となりますが、この陀羅尼が説かれる由縁は、「牟梨曼陀羅呪経」に依るのが妥当とされます。
それによれば、釈尊が王舎城の説法集会の場において、突然現れた魔軍をこの陀羅尼により瞬時に滅したことに端を発し、請われてこの陀羅尼の由来について、まずは東方の「宝灯世界」にある「大宝賢種々善住清浄如来」のことを紹介し、この陀羅尼の力を示し、また、全ての如来もこの陀羅尼により成仏したことを説明し、そして、実際に宝灯世界に皆を連れて赴き、大宝賢種々善住清浄如来から、この陀羅尼を説くように改めて勧められ、そして、諸仏諸菩薩を招来して、更に詳しくこの陀羅尼について説くことになります。
この陀羅尼の力は、悟り・無上正等覚へ向けた不退転、つまり、悟りへ向けて退かないということ、つまり、仏道を前へと確実に進められるようになること、そして、悪罪滅除、一切如来からの灌頂と授記を受けることができるということが説明されるものとなります。
これが重要であり、この陀羅尼によって、一切如来からの灌頂を受けて「見仏と授記」を満たすということで成仏への道筋をつけるということになるのであります。
つまり、具体的に述べるとするならば、一切如来から灌頂を受ける場、「菩提(灌頂)道場」ということになります。
では一切如来とはどの如来となるのか、全ての諸尊となるのか、または五仏のことで、胎蔵・金剛のどちらの五仏になるのか、更には、五仏・五智のそれぞれの力が一体化した如来のことであるのかということであります。
あるいは、五仏・五智、諸尊が一体化した曼荼羅そのものと考えることもできます。
いずれにしても灌頂には諸尊(曼荼羅)によるお加持のお力が必要になるということから、大宝楼閣曼荼羅(世界)そのものと言えるのではないだろうかということになります。
この陀羅尼により荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と今のところは理解しておくことにします。
そして、それは天部(予想では、釈尊が悟りを開く際に[この陀羅尼の]灌頂を[も]受けたと思われる色究竟天)に荘厳されてあると考えることもできるでしょう。
ということで、拙見解として、曹洞宗の引導先は天部・色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と推察するところとなります。
・・
曹洞宗の引導先の類推
曹洞宗の甘露門について考察していく中で、曹洞宗の引導先について、甘露門・招請発願にある一節に少しそのヒントがあるように思えました。
「・・苦を離れて解脱し、天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し、菩提心を發し、菩提道を行し、當来に作佛して、永く退轉なく・・」
特に「天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し」のところであります。
曹洞宗の通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」と共に勘案して、天界に生じさせしめて、そこから色々な如来のいらっしゃる様々な浄土世界に、自分が学び修したい、自分の機根、機縁、仏縁に合ったところへと自分の意思で向かう(もちろん、天での諸尊の導きによるところとなるのでしょうが)、それも一つのところではなく、あっちの浄土に行ったり、こっちの浄土に行ったりと。
とすれば、曹洞宗が葬儀で引導する先は、あくまでも甘露門からの類推として、まずは「天」、例えば、色究竟天や忉利天、あるいは兜率天など仏の教えが、如来や菩薩方から学び修せられることのできる世界と考えるのが妥当ではないだろうかと思われます。
・・
同じ禅宗で曹洞宗の場合の引導はどうでしょうか、ということですが、曹洞宗の場合の引導は、臨済宗の「極楽浄土」とは異なります。
曹洞宗と臨済宗、葬儀においてはほとんどよく似た回向になりますが、「山頭念誦回向」の内容が決定的に違うからです。臨済宗の場合では、阿弥陀如来様の称名三回が入り、霊位の資助(往生)を阿弥陀如来様にお願いする文言が入ります。
また、引導における陀羅尼も、臨済宗の「往生呪」(抜一切業障根本得生浄土陀羅尼)は無く、曹洞宗では「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」が読まれることになります。
曹洞宗の場合では、通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」がヒントになりますが、具体的にどこへであるとは示されるものは全体的にはないかと思われます。
そういう点では見性的な側面が強くあると言えるかもしれないですね。
「通夜・葬儀の式次第・一日葬の場合はどうするのかについて」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/1d1728f0b3bcd55b57db7ab4dcceb105
・・
大悲呪(大悲心陀羅尼・千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼)について
千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼という名前の通り、千手千眼観世音菩薩のお加持のお力、ご加護を頂戴するための陀羅尼となっています。
縁起としては、千光王静住如来が観音菩薩(当時の名前は不明)に対して、この陀羅尼により、未来に(濁世になった世界の)衆生たちを救うようにということで授けられたものが由来となっています。
そこで、この陀羅尼と共に、未来において、たくさんの衆生を救うことができるようにと、千光王静住如来に対して、千の手と千の眼を下さいと懇願した結果、千手千眼を備えることができるようになったとあります。
ここで想起されるのは、チベットにおいての伝記にて、観音菩薩が、救っても救っても救いきれない衆生たちの数に圧倒されて疲れてしまい、やがて衆生を救うことを諦めるような気持ちを起こしてしまった際に、かつて阿弥陀如来に対して挫折するようなことがあれば、顔は十に割れ、体は千に砕けると誓願したように、顔は十に割れ、体は千に砕けてしまわれることになります。(この砕ける直前に悔しさから涙した滴がターラ菩薩になります)
その慈悲深くある観音菩薩を憐れみられた阿弥陀如来は、より衆生を救えるようにと、バラバラになったそれぞれをつなげ十の顔と千の手とし、十一面千手観音が誕生することになります。
より衆生を救うために、この大悲呪の強力な陀羅尼の力を得て、千の眼、千の手(強力な救済力)を得ることができたことと、どこか相似するところがあります。
また、千手経における釈尊による補足において、実は、観音菩薩は既にはるか昔に如来となっており、「正法明如来」であったが、衆生を救うために化身、応身として菩薩となっているということも説明されています。
言ってみれば、それだけ観音菩薩は慈悲の強さが半端ないということなのでしょう。
また、千手経によれば、大悲呪を唱える前には、現在の観音菩薩の先生である阿弥陀如来への念仏も行うようにとの指示があります。
阿弥陀如来と観音菩薩の関係を考える上でも非常に興味深いところであります。
・・
曹洞宗の甘露門について
質問を頂きましたが、実は、臨済宗と曹洞宗では同じ「甘露門」という名前のお経であっても、その内容が全く違っているのであります。
これは典拠とした施餓鬼の作法が示されてある儀軌集・論書集が異なっているからであると推測されます。
現在曹洞宗における甘露門の内容・・
「奉請三宝・縁起衆→招請発願(施餓鬼の目的の発露)・雲集鬼神招請陀羅尼→破地獄門開咽喉陀羅尼→無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼→蒙甘露法味陀羅尼→毘盧遮那一字心水輪観陀羅尼→五如来宝号招請陀羅尼→発菩提心陀羅尼→授菩薩三摩耶戒陀羅尼→大宝楼閣善住秘密陀羅尼→諸仏光明真言灌頂陀羅尼(光明真言)→(撥遣解脱陀羅尼)→普回向・略三宝」
10(11)の陀羅尼により構成されています。(臨済宗では陀羅尼が4つ)
臨済宗の7如来は、5如来に集約されています。
多宝如来・妙色身如来・甘露王如来・広博身如来・離怖畏如来
また、菩提心を起こさせて、戒律を授けるための陀羅尼もあることから、仏教へと帰依させしめる効果が鮮明化されています。
大宝楼閣善住秘密陀羅尼・諸仏光明真言灌頂陀羅尼は、滅罪消除、悪趣清浄、浄土引導的陀羅尼となります。
さて、ここまで同じ名前のお経で内容に違いがあるのはなぜか、これは、臨済宗の葬儀儀軌との違いとも関連があると見ています。
臨済宗では、葬儀儀軌と同様に、開甘露門に「往生呪」があることから、施餓鬼においても、餓鬼も含めた一切衆生の阿弥陀如来の極楽浄土への引導が示唆されており、曹洞宗は、この点を避けた儀軌を(近年になり)調えた傾向がみられます。
しかし、元々の曹洞宗の葬送儀軌、施餓鬼でも阿弥陀如来の極楽浄土への往生思想的な面は立宗の早い段階(瑩山清規)からあったものの、それが近代の曹洞宗から無くなってしまった背景がどうしてであるのかは、教義面との整合性からであるのか、そこは非常に興味深いところであります。(曹洞宗の葬送儀軌でも、元々は極楽浄土への往生思想的面が強くあった。)
・・
開甘露門(施餓鬼のお経について)
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/34b4c7f4598a50c7cd091030d62eed6c
施餓鬼供養の本質について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85135519.html
施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html
3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html
次に、では、臨済宗の引導先となる阿弥陀如来の極楽浄土に往生したとして、曹洞宗の場合で考察してきたように、一切如来による灌頂を頂くことになるのかどうか?
これは断定できないものの、「見仏と授記」が仏道を前へ進めるための極楽往生の一番の目的となるため、一切如来(五智如来)からは頂けなくても、阿弥陀如来からの灌頂を頂戴できる可能性は高いのではないだろうかとも存じますし、阿弥陀如来が一切如来を招来して、同様に瓶灌頂(五智如来による灌頂)を授けることもあり得なくないとは思います。
また、密教では、極楽の「楽」は、私たちの世間的な苦楽の楽とかではなくて、密教の「大楽」の境地を意味するところとなります。
とするならば、「楽空無差別」の境地を目指す密教的な意味合いがあるとして、やはり、灌頂を頂戴できるのではないかと考えも良いのではないだろうかと存じます。
・・
では、一切如来による灌頂の内容とは何か?
無上瑜伽タントラの枠組みから捉えるならば、これは悟りへ向けた五智如来によるそれぞれの智慧のお加持のお力を頂戴する灌頂といえるのではないだろうかと思われます。
阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、大日如来。
そして、「授記」を受けることにもなります。
五智如来の灌頂は、瓶灌頂にあたりますが、この瓶灌頂を調べる中で、「不可逆灌頂」(最後有の菩薩に与えられる灌頂と同等)に「大いなる光明の灌頂」があることを知り、「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」によっての一切如来(ここでは一応、五智如来と考える)による灌頂として、この灌頂が想定されてあるように考えることができます。
しかし、これは金剛阿闍梨(菩薩)に与えられる特別な灌頂であり、やはり、生起次第の修行を終え、空性理解が相当高い聖者や最後有の菩薩のような存在に対して与えられる灌頂であるものの、全ての如来が成仏へと向けて、その菩薩が早く悟りへと至れるようにと授ける特別な灌頂と説明されてあることから、大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼は、全ての如来が成仏するための決定的かつ必要不可欠な加持力を有するとされる性格から考えて、この特別な灌頂を受けるための陀羅尼と考えると辻褄が合うものとなります。
問題は、これが「凡夫」に対して与えられる灌頂ではなさそうであるというところです。あくまでも一定境地に至った聖者に対してであり、となれば、葬儀による授戒と引導だけによる凡夫には当然に難しいものであると言えます。
しかし、光明に関わる成仏へ向けた重大な灌頂であることは名前からしても確かであり、ならば、仏性の覚醒へ向けた加持力を有するこの陀羅尼のことを考えると、四つの灌頂全体を俯瞰しても、まさにこれになるのではないだろうかと思われます。
また、聖者・菩薩でなくても、疑似的に(将来に受けるために、心にお加持の力の習気を置く)この灌頂が与えられると考えることもできます。
いずれにしても、大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来(五智如来)から頂く灌頂の内容は、特別な「大いなる光明の灌頂」ではないかもしれないものの、無上瑜伽タントラにおける通常の瓶灌頂(とあと三つの灌頂も続くかもしれないが)の内容であると考えて妥当となるのではないだろうかと存じます。
この灌頂で、「見仏と授記」を調えることになるというわけであり、そこから本格的に仏道の修習へと向かうということであります。
不退転となるという意味合いも、菩薩の現前地の不退転位を示すというわけではなく、灌頂による誓約と律義を守ることだけによっても、多少、紆余曲折があったり、時間が掛かっても、長くても7生~16生で成仏に至れる前進あることを言っているのであれば、それも不退転と言っても良いとも捉えることができます。
また引き続き精査して参りたいと存じます。
追記・・
灌頂には、その時には受ける資格がなくても、いずれ本当の灌頂を頂けるようにとして頂く灌頂もあり得ます。
要は、将来に正式に頂くために心に習気を置く灌頂というものです。
「不可逆灌頂」(不可逆秘儀)・「大いなる光明の灌頂」もそのようなものとして通常の無上瑜伽タントラの四灌頂内に組み込まれてあるとすれば、これは十分にあり得ます。
追記2・・
これは結局、精査の結果、瓶灌頂にある阿闍梨灌頂のことであり、やはり、一応、受者を金剛阿闍梨である(本当はまだまだ凡夫であっても)として授かる灌頂でありました。
これで繋がりました。
・・
見仏と授記へ向けて
もちろん、菩薩の現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものの根拠が凡夫にあれば、一切如来からの灌頂における大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼のお加持のお力により、不退転位を得ることは可能になると考えることはできます。
しかし、現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものは、通常の波羅蜜乗であれば、やはり相当な修行が必要であり、当然に時間も掛かります。(少なくとも二阿僧祇劫ほど)
もちろん、当人が過去世でそれだけの二資糧を積み終えてあれば、たやすく灌頂により不退転位を確定させることは可能であるでしょう。
では、まだとてもその二資糧に無い凡夫はどうなるのだ、ということになります。
葬儀の授戒と引導だけでは、やはりとても足らないのは明白。
それを補うための二資糧を葬儀の儀軌にて持たせることができるのかどうか・・これはやはりとても無理なことである・・
では、今世だけでその二資糧を積むことはできないのか、となれば、それはできる方法があり、それが無上瑜伽タントラの修行の実践となる。
つまり、生起次第と究竟次第となる。
また、もしも現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるぐらいの修行となれば、生起次第を終えてあることは必要不可欠となるのではないだろうかと思われる。
これなら、今世だけでも可能と言えば可能である。
もしも、曹洞宗の引導によりて、大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来からの灌頂を頂き、即座に不退転位に至りたいと思うのであれば、無上瑜伽タントラの生起次第までは確かに終えておけば、確実に至れることになるのではないだろうかと考えることはできます。
いや、そもそも生起次第を終えてある者であれば、自らの意思で行きたい浄土へと赴くことも可能となっているぐらいであり、他による引導は必要としないのではないかと言えば、もちろんそれまででもある。
まあ、とにかく灌頂は頂けても、その灌頂から実際の修行に励まなければ、とても成仏へは至れないのは確かであり、即座に不退転位は不可能でも、見仏と授記、灌頂(四つの灌頂)を受けることで、仏道を前へと進めていくための足掛かりは十分に調えることができるのであります。
そう考えれば、そのための引導と捉えられるのであるならば、意義は大変に大きなものとなります。
もちろん、執行する側、つまり、導師の資質も十分に問われるものとなるのは明らかであるのは言うまでもないのではありますが。
いずれにしても、浄土往生、浄土導引に向けては、引導を受ける側においても、それなりの条件(仏縁、善根、福智二資糧)は最低限必要となるのも言うまでないことであります。
できる限り今生においても仏縁、善根、福智二資糧に励んでおくことが肝要ということですね。
・・
引導だけで一切如来からの灌頂を頂けることになるのかどうか
そう、釈尊成道時直前に色究竟天にて灌頂を頂いたのは、般若智灌頂からである。
であっても、この般若智灌頂にて大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼におけるお加持を頂戴する灌頂があったかどうかはやはり確定はできない。
むしろ、それより前の過去世にて既に頂戴している可能性ももちろんある。そのヒントの一つとしては不退転となる菩薩の段階であるかもしれない。
そうなれば現前地あたりの菩薩時が妥当となる。
ならば、瓶灌頂、秘密灌頂である可能性も当然に否定はできない。
しかし、この陀羅尼により全ての如来が成仏することができたのだというほどに決定的かつ必要不可欠な陀羅尼であることが強調されてあるから、やはり成道の終局時に近いと考えることもできる。
ならば、最後有の菩薩が妥当とも言える。
まあ、とにかく主眼は、曹洞宗の引導において、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)にて一切如来からの灌頂を頂けることになるのかどうかであります。
誠にそうであるならば、一気に不退転の位に到達することにもなるのでしょうが、いきなり凡夫が菩薩の現前地に至れるかどうかと考えるならば、やはり現実的ではないと言わざるを得なくなります。
なぜなら、現前地に至るための智慧福徳二資糧の代替となるものの根拠が凡夫には当然にないからであります。
ましてや葬儀だけでその代替とするなど、とてもとても、
・・
「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」のお加持のお力を授かるための灌頂は何か?
これは拙見解でありますが、「般若智灌頂」であると考えます。
理由は、この陀羅尼が、仏性の覚醒を目的とする趣旨が強くあるため、仏性の覚醒、つまり、無上瑜伽タントラにおいての「光明」に関わってくる灌頂であると想定されることから、それが「般若智灌頂」であるからであります。
しかし、いずれしても、「般若智灌頂」を頂戴するには、その前段階である灌頂、更には灌頂を受けるための資格要件も満たさなければならないものとなります。
そもそも、死後、例えば葬儀の引導だけで、色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)に赴き、一切如来から灌頂を賜れることが可能となるのかどうか、もちろん、灌頂だけであれば、頂戴できる可能性は高くありますが、実際に赴けるだけの機縁、機根、仏縁も具わってあるのかどうかというところも問われるものとなります。
もちろん、これは極楽往生についても言えることではありますが・・
善根少ない者はやはり当然ながら無理となるでしょう。このあたりのことついては更に考えることにします。
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では、釈尊が色究竟天にて灌頂を頂いた際のどの灌頂において、「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」のお加持のお力を授かることになったのか?
これはなかなか難しい質問。。
無上瑜伽タントラの四灌頂のうちのどれになるのかということになるでしょう。
そして、秘密灌頂、般若智灌頂、第四灌頂のいずれかになると思われます。
大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼の中枢目的を鑑みれば、ある程度の推測はできるでしょう。
分かりました。やってみましょう。
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・・大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼(宝楼閣真言)から曹洞宗の引導先を考える
要は、臨済宗と曹洞宗で、それぞれ葬儀儀軌・施餓鬼で引導にて中心的に読まれる陀羅尼の相違が、そのまま引導先を決定づけると言っても良いかもしれません。臨済宗は、「往生呪」であり、極楽浄土への引導が明らかとなります。
では、曹洞宗の「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」は、具体的に述べればどこになるのか。
「・・かの諸衆生、この陀羅尼(大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼)を聞くに由っての故に、常に安楽を獲りて諸地獄餓鬼畜生阿素羅道より離れ、諸悪趣門悉く皆関閉し、浄天の路を開き、かの諸衆生皆、阿耨多羅三藐三菩提心を観ず。・・」(施餓鬼作法・面山瑞方師)
「浄天の路を開き」とあるように、やはり、「天」が想定されてあるとは言えるでしょう。
では、その「天」とはどこになるのか。
おそらくは、この「天」は、曼荼羅世界、つまり、諸尊から密教灌頂を受ける世界になると推測されるものではあります。
そしてその曼荼羅世界が荘厳されてあるところということになると考えられます。
では、それはどこか。
大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼は、広大宝楼閣善住秘密陀羅尼経における陀羅尼となりますが、この陀羅尼が説かれる由縁は、「牟梨曼陀羅呪経」に依るのが妥当とされます。
それによれば、釈尊が王舎城の説法集会の場において、突然現れた魔軍をこの陀羅尼により瞬時に滅したことに端を発し、請われてこの陀羅尼の由来について、まずは東方の「宝灯世界」にある「大宝賢種々善住清浄如来」のことを紹介し、この陀羅尼の力を示し、また、全ての如来もこの陀羅尼により成仏したことを説明し、そして、実際に宝灯世界に皆を連れて赴き、大宝賢種々善住清浄如来から、この陀羅尼を説くように改めて勧められ、そして、諸仏諸菩薩を招来して、更に詳しくこの陀羅尼について説くことになります。
この陀羅尼の力は、悟り・無上正等覚へ向けた不退転、つまり、悟りへ向けて退かないということ、つまり、仏道を前へと確実に進められるようになること、そして、悪罪滅除、一切如来からの灌頂と授記を受けることができるということが説明されるものとなります。
これが重要であり、この陀羅尼によって、一切如来からの灌頂を受けて「見仏と授記」を満たすということで成仏への道筋をつけるということになるのであります。
つまり、具体的に述べるとするならば、一切如来から灌頂を受ける場、「菩提(灌頂)道場」ということになります。
では一切如来とはどの如来となるのか、全ての諸尊となるのか、または五仏のことで、胎蔵・金剛のどちらの五仏になるのか、更には、五仏・五智のそれぞれの力が一体化した如来のことであるのかということであります。
あるいは、五仏・五智、諸尊が一体化した曼荼羅そのものと考えることもできます。
いずれにしても灌頂には諸尊(曼荼羅)によるお加持のお力が必要になるということから、大宝楼閣曼荼羅(世界)そのものと言えるのではないだろうかということになります。
この陀羅尼により荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と今のところは理解しておくことにします。
そして、それは天部(予想では、釈尊が悟りを開く際に[この陀羅尼の]灌頂を[も]受けたと思われる色究竟天)に荘厳されてあると考えることもできるでしょう。
ということで、拙見解として、曹洞宗の引導先は天部・色究竟天上に荘厳された大宝楼閣曼荼羅(世界)と推察するところとなります。
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曹洞宗の引導先の類推
曹洞宗の甘露門について考察していく中で、曹洞宗の引導先について、甘露門・招請発願にある一節に少しそのヒントがあるように思えました。
「・・苦を離れて解脱し、天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し、菩提心を發し、菩提道を行し、當来に作佛して、永く退轉なく・・」
特に「天に生じて楽を受け、十方の浄土も意に随って遊往し」のところであります。
曹洞宗の通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」と共に勘案して、天界に生じさせしめて、そこから色々な如来のいらっしゃる様々な浄土世界に、自分が学び修したい、自分の機根、機縁、仏縁に合ったところへと自分の意思で向かう(もちろん、天での諸尊の導きによるところとなるのでしょうが)、それも一つのところではなく、あっちの浄土に行ったり、こっちの浄土に行ったりと。
とすれば、曹洞宗が葬儀で引導する先は、あくまでも甘露門からの類推として、まずは「天」、例えば、色究竟天や忉利天、あるいは兜率天など仏の教えが、如来や菩薩方から学び修せられることのできる世界と考えるのが妥当ではないだろうかと思われます。
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同じ禅宗で曹洞宗の場合の引導はどうでしょうか、ということですが、曹洞宗の場合の引導は、臨済宗の「極楽浄土」とは異なります。
曹洞宗と臨済宗、葬儀においてはほとんどよく似た回向になりますが、「山頭念誦回向」の内容が決定的に違うからです。臨済宗の場合では、阿弥陀如来様の称名三回が入り、霊位の資助(往生)を阿弥陀如来様にお願いする文言が入ります。
また、引導における陀羅尼も、臨済宗の「往生呪」(抜一切業障根本得生浄土陀羅尼)は無く、曹洞宗では「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」が読まれることになります。
曹洞宗の場合では、通夜式における回向の一節、「唯願わくは人間生死の根身を透脱して速やかに如来宝明の空海に入らんことを」の「如来宝明の空海」がヒントになりますが、具体的にどこへであるとは示されるものは全体的にはないかと思われます。
そういう点では見性的な側面が強くあると言えるかもしれないですね。
「通夜・葬儀の式次第・一日葬の場合はどうするのかについて」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/1d1728f0b3bcd55b57db7ab4dcceb105
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大悲呪(大悲心陀羅尼・千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼)について
千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼という名前の通り、千手千眼観世音菩薩のお加持のお力、ご加護を頂戴するための陀羅尼となっています。
縁起としては、千光王静住如来が観音菩薩(当時の名前は不明)に対して、この陀羅尼により、未来に(濁世になった世界の)衆生たちを救うようにということで授けられたものが由来となっています。
そこで、この陀羅尼と共に、未来において、たくさんの衆生を救うことができるようにと、千光王静住如来に対して、千の手と千の眼を下さいと懇願した結果、千手千眼を備えることができるようになったとあります。
ここで想起されるのは、チベットにおいての伝記にて、観音菩薩が、救っても救っても救いきれない衆生たちの数に圧倒されて疲れてしまい、やがて衆生を救うことを諦めるような気持ちを起こしてしまった際に、かつて阿弥陀如来に対して挫折するようなことがあれば、顔は十に割れ、体は千に砕けると誓願したように、顔は十に割れ、体は千に砕けてしまわれることになります。(この砕ける直前に悔しさから涙した滴がターラ菩薩になります)
その慈悲深くある観音菩薩を憐れみられた阿弥陀如来は、より衆生を救えるようにと、バラバラになったそれぞれをつなげ十の顔と千の手とし、十一面千手観音が誕生することになります。
より衆生を救うために、この大悲呪の強力な陀羅尼の力を得て、千の眼、千の手(強力な救済力)を得ることができたことと、どこか相似するところがあります。
また、千手経における釈尊による補足において、実は、観音菩薩は既にはるか昔に如来となっており、「正法明如来」であったが、衆生を救うために化身、応身として菩薩となっているということも説明されています。
言ってみれば、それだけ観音菩薩は慈悲の強さが半端ないということなのでしょう。
また、千手経によれば、大悲呪を唱える前には、現在の観音菩薩の先生である阿弥陀如来への念仏も行うようにとの指示があります。
阿弥陀如来と観音菩薩の関係を考える上でも非常に興味深いところであります。
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曹洞宗の甘露門について
質問を頂きましたが、実は、臨済宗と曹洞宗では同じ「甘露門」という名前のお経であっても、その内容が全く違っているのであります。
これは典拠とした施餓鬼の作法が示されてある儀軌集・論書集が異なっているからであると推測されます。
現在曹洞宗における甘露門の内容・・
「奉請三宝・縁起衆→招請発願(施餓鬼の目的の発露)・雲集鬼神招請陀羅尼→破地獄門開咽喉陀羅尼→無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼→蒙甘露法味陀羅尼→毘盧遮那一字心水輪観陀羅尼→五如来宝号招請陀羅尼→発菩提心陀羅尼→授菩薩三摩耶戒陀羅尼→大宝楼閣善住秘密陀羅尼→諸仏光明真言灌頂陀羅尼(光明真言)→(撥遣解脱陀羅尼)→普回向・略三宝」
10(11)の陀羅尼により構成されています。(臨済宗では陀羅尼が4つ)
臨済宗の7如来は、5如来に集約されています。
多宝如来・妙色身如来・甘露王如来・広博身如来・離怖畏如来
また、菩提心を起こさせて、戒律を授けるための陀羅尼もあることから、仏教へと帰依させしめる効果が鮮明化されています。
大宝楼閣善住秘密陀羅尼・諸仏光明真言灌頂陀羅尼は、滅罪消除、悪趣清浄、浄土引導的陀羅尼となります。
さて、ここまで同じ名前のお経で内容に違いがあるのはなぜか、これは、臨済宗の葬儀儀軌との違いとも関連があると見ています。
臨済宗では、葬儀儀軌と同様に、開甘露門に「往生呪」があることから、施餓鬼においても、餓鬼も含めた一切衆生の阿弥陀如来の極楽浄土への引導が示唆されており、曹洞宗は、この点を避けた儀軌を(近年になり)調えた傾向がみられます。
しかし、元々の曹洞宗の葬送儀軌、施餓鬼でも阿弥陀如来の極楽浄土への往生思想的な面は立宗の早い段階(瑩山清規)からあったものの、それが近代の曹洞宗から無くなってしまった背景がどうしてであるのかは、教義面との整合性からであるのか、そこは非常に興味深いところであります。(曹洞宗の葬送儀軌でも、元々は極楽浄土への往生思想的面が強くあった。)
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開甘露門(施餓鬼のお経について)
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/34b4c7f4598a50c7cd091030d62eed6c
施餓鬼供養の本質について
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85135519.html
施餓鬼供養・塔婆について(春彼岸・夏お盆の年2回法会開催)
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85052585.html
3/17-3/23・春彼岸「おせがき」供養・3/20・彼岸中日「日想観」法要のご案内
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/85003156.html