日記

日記

曇りのち雨

2010年01月31日 | 徒然日記・日々の記録
今日はのちとなり、肌寒い一日となりましたね。

終日寺院勤務

寺務・法要・清掃などして過ごす。

しとしとと、冷たい雨が降りましたね。大阪国際女子マラソン、リディア・シモンさんの四位入賞が何よりすばらしかったですね。

迷いウサギ

うま~

往生院メールマガジン発行
http://archive.mag2.com/0000098047/index.html

■ 春季彼岸施餓鬼法要のご案内

■ 中観帰謬論証派の学びのススメ

■ 行事案内

■ お正月墓苑お供えの鏡餅セット・福祉施設へ寄贈

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

■ 春季彼岸施餓鬼法要のご案内

期間 三月十八日(木)~三月二十四日(水)
時間 午前八時~午後四時
場所 ご本堂にて
内容 ご先祖様施餓鬼供養
  要事前申込必要
(施餓鬼卒塔婆準備のため)
お早めにお申し込み下さいませ。
例年お勤めされている方には、案内往復ハガキを発送
させて頂きますので、ご返信の程を宜しくお願い申し
上げます。申し込み期限は、三月十二日まで。

http://oujyouin.com/segaki.htm

■ 中観帰謬論証派の学びのススメ

   現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの
  整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を
  生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥
  ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から
  学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・
  中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中
  におきまして、ある程度問題点を明確化することがで
  きて参りました。
   現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典
  の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に
  渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りが
  あったためであると考えております。
   インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、
  数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違が
  あるのかを真に理解できないままに、教典にとらわ
  れて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、
  醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの
  教義が最も優れていると、そのようなくだらないこと
  で終始したところが少なからずもあるように存じて
  おります。
   そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退も
  しかるべきであろうと思う次第でございます。
   上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進
  めていけば、容易に気づくことでもございますが、
  残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に
  伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題
  を最初から抱えざるを得なかったと考えております。
   これは、もちろんやむを得なかったこともござい
  ます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、
  「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時
  に流入していたのですから・・大きくは般若思想と
  如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれ
  ば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと
  考えます。
   結果として、どちらの教えが正しいのかといつま
  でも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」
  か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それ
  ぞれとらわれてしまったままとなっているのが、
  日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となって
  いる根本であると存じております。
   このことを解決するのは、龍樹論師以来の中観
  思想にあり、特にチャンドラキールティ論師から
  ツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の
  思想を正確に学ばないと解決は不可能なことである
  と考えております。
   龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わ
  ったものの、それから発展していった帰謬論証派の
  思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至って
  しまったところにおいて、日本仏教の抱えている
  苦難が続いてしまっているところがあるように存じ
  ております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、
  ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等
  でも日本にて知られることができてきたため、これ
  からは少しずつ変わっていくようには思うところも
  ございます。
   とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便と
  して正しく、等しいものであり、そこに優劣など
  本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の
  域で留まってのことであって、仏典の言語表現の
  一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、
  いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、
  下だと執着することは 大きな誤りを産み出す原因
  となると考えております。
   一つは、中論にございます
  「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は
  「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我で
  ある)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無
  い」とも説いている。』・・中論の邦訳は〔中論
  (上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグ
  ルス文庫〕より引用
   ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学
  ぶことによって、しっかりと理解していかなければ
  ならないことがあると僭越ながらも存じております。
   何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の
  中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口
  付近に来ることができてきたのではないかと、もち
  ろんまだまだの浅学非才の未熟者の身ながらも思って
  おります。今は学びを一歩でも前へと進めていかね
  ばならないと考えております。

  川口 英俊 拝


■ 行事案内

釈尊涅槃会
二月十五日(月)
   午前九時より
   ご本堂にて

釈尊降誕会
  四月八日(木)
   午前九時より
   ご本堂にて


■ お正月墓苑お供えの鏡餅セット・福祉施設へ寄贈

  皆様方が、お正月に墓苑においてお供えの鏡餅セット
  (お餅・みかん)は、一月四日に全て一斉にお下げさ
  せて頂きまして、例年どおりに、社会福祉法人・青山会
  ・東福六万寺さん、社会福祉法人・フィリシア・授産
  施設トゥインクルさん、社会福祉法人・生駒学院・児童
  養護施設生駒学園さんの福祉施設にそれぞれ寄贈させて
  頂きました。
   大変に喜んで頂いております。誠にありがとうござい
  ました。それぞれよりお礼状を賜っております。

・・

一部ブラウザでは画像が表示されないことがあります。

画像専用のページ
http://ameblo.jp/hidetoshi-k

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究1」・「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進め中。

チベット語原典と対象和訳となります。もちろんチベット語は読めませんので、邦訳からの理解の進めでございます。

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」を読み終えました。

意趣善明の鏡は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著「入中論」の注釈書で、中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがありました。また、唯識思想についてもある程度学ぶことができるため、是非、機会がございましたらお読みになられると良いかと存じております。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒されました次第でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

次は、「ツォンカパ 中観哲学の研究1」、「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進めて参ります。

・・

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

晴れ

2010年01月30日 | 徒然日記・日々の記録
今日もとなり、陽射しに暖かさが感じられましたが、風は少し冷たかったですね。

終日寺院勤務

寺務・楠木正行公ご墓所土入れ整備・往生院だよりNO.61作成・清掃などして過ごす。

楠木正行公ご墓所土入れ整備



腰が痛くなりましたね。。

合間にやまなみ広報紙37号の発行へ向けて担当印刷会社と打ち合わせ。

いよいよ発行へ向けまして調えて参ります。

迷いウサギ

えさは?

一部ブラウザでは画像が表示されないことがあります。

画像専用のページ
http://ameblo.jp/hidetoshi-k

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究1」・「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進め中。

チベット語原典と対象和訳となります。もちろんチベット語は読めませんので、邦訳からの理解の進めでございます。

「中観帰謬論証派の学びのススメ」

現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

このことを解決するのは、龍樹論師以来の中観思想にあり、特にチャンドラキールティ論師からツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

一つは、中論にございます

「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』・・中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用

ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身ながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないとも考えております。

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」を読み終えました。

意趣善明の鏡は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著「入中論」の注釈書で、中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがありました。また、唯識思想についてもある程度学ぶことができるため、是非、機会がございましたらお読みになられると良いかと存じております。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒されました次第でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

次は、「ツォンカパ 中観哲学の研究1」、「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進めて参ります。

・・

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

・・

最近の民主党幹事長・小沢一郎氏のカネを巡る問題・・誠に光と影を思うところであります。もちろん最終的には、仏教における縁起的考え方によって光と影の輪廻の迷いは超えていかなければならないと思う次第でございます。

光と影の輪廻の迷いを超えていくところにつきましては、下記論考を参照頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
十、相対から絶対へ
http://www.hide.vc/enginorikai10.html

・・

日本の国・地方における財政危機は既に限界点に達してしまっています・・本年はいよいよもはや臨界点を突破しそうであり、懸念の事態が生じる可能性が高いと存じております。危機管理は各自でしっかりと進めておかなければならないことでありますでしょう・・

日本国財政破綻Safety Net
http://wanderer.exblog.jp/

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

本石町日記
http://hongokucho.exblog.jp/

経済コラムマガジン
http://www.adpweb.com/eco/

JMM
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

少し過激な言論活動が展開されていますが、東海アマさんこと岩瀬氏の情報収集内容について注視の必要があるかと存じます。

「東海アマチュア無線地震予知研究会」さんのホームページ
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/

晴れ

2010年01月29日 | 徒然日記・日々の記録
今日はとなり、少し陽射しに暖かさが感じられました。

午前、寺院勤務

寺務などして過ごす。

合間に日本赤十字社・献血のため市内へ。400mlの成分献血。

東大阪のライオンズクラブが協賛していまして、色々とお土産も頂けました。

午後からやまなみプラザへ。

竹楊書道会・第155回目・書道修練。

帰山後、寺務などして過ごす。

合間にやまなみ広報紙37号の編集作業。



少しずつ開花してきました

迷いウサギ

えさ~

一部ブラウザでは画像が表示されないことがあります。

画像専用のページ
http://ameblo.jp/hidetoshi-k

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究1」・「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進め中。

チベット語原典と対象和訳となります。もちろんチベット語は読めませんので、邦訳からの理解の進めでございます。

「中観帰謬論証派の学びのススメ」

現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

このことを解決するのは、龍樹論師以来の中観思想にあり、特にチャンドラキールティ論師からツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

一つは、中論にございます

「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』・・中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用

ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身ながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないとも考えております。

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」を読み終えました。

意趣善明の鏡は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著「入中論」の注釈書で、中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがありました。また、唯識思想についてもある程度学ぶことができるため、是非、機会がございましたらお読みになられると良いかと存じております。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒されました次第でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

次は、「ツォンカパ 中観哲学の研究1」、「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進めて参ります。

・・

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

・・

最近の民主党幹事長・小沢一郎氏のカネを巡る問題・・誠に光と影を思うところであります。もちろん最終的には、仏教における縁起的考え方によって光と影の輪廻の迷いは超えていかなければならないと思う次第でございます。

光と影の輪廻の迷いを超えていくところにつきましては、下記論考を参照頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
十、相対から絶対へ
http://www.hide.vc/enginorikai10.html

・・

日本の国・地方における財政危機は既に限界点に達してしまっています・・本年はいよいよもはや臨界点を突破しそうであり、懸念の事態が生じる可能性が高いと存じております。危機管理は各自でしっかりと進めておかなければならないことでありますでしょう・・

日本国財政破綻Safety Net
http://wanderer.exblog.jp/

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

本石町日記
http://hongokucho.exblog.jp/

経済コラムマガジン
http://www.adpweb.com/eco/

JMM
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

少し過激な言論活動が展開されていますが、東海アマさんこと岩瀬氏の情報収集内容について注視の必要があるかと存じます。

「東海アマチュア無線地震予知研究会」さんのホームページ
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/

雨のち曇り

2010年01月28日 | 徒然日記・日々の記録
今日はのちの一日となり、肌寒い一日となりましたね。

終日寺院勤務

寺務・岩瀧不動明王様御供養・枯れた花抜き・ゴミ収集などして過ごす。

合間にやまなみ広報紙37号の編集作業。

雨が止んでから岩瀧へと行って参りました。

岩瀧不動明王様

ご無事であられました。

ご供養におきましては、ハイチ大地震で亡くなられました方々のご冥福もお祈りさせて頂きました。テレビ報道では、遺体の埋葬も適当になってしまうほどの甚大な被害、混乱状況・・誠に寂しく悲しい限りでございます・・復興に役立てて頂くための国際災害義援寄付をNPO法人東大阪国際協力プラットフォームから早急に行わせて頂きたいと考えております。

岩瀧


往生院だよりコラム 平成18年8月 お盆特別号より
「岩瀧不動明王様」
http://oujyouin.com/tayori1808.htm

一部ブラウザでは画像が表示されないことがあります。

画像専用のページ
http://ameblo.jp/hidetoshi-k

・・

最近の民主党幹事長・小沢一郎氏のカネを巡る問題・・誠に光と影を思うところであります。もちろん最終的には、仏教における縁起的考え方によって光と影の輪廻の迷いは超えていかなければならないと思う次第でございます。

光と影の輪廻の迷いを超えていくところにつきましては、下記論考を参照頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
十、相対から絶対へ
http://www.hide.vc/enginorikai10.html

・・

「中観帰謬論証派の学びのススメ」

現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

このことを解決するのは、龍樹論師以来の中観思想にあり、特にチャンドラキールティ論師からツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

一つは、中論にございます

「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』・・中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用

ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身ながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないとも考えております。

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」を読み終えました。

意趣善明の鏡は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著「入中論」の注釈書で、中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがありました。また、唯識思想についてもある程度学ぶことができるため、是非、機会がございましたらお読みになられると良いかと存じております。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒されました次第でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

次は、「ツォンカパ 中観哲学の研究1」、「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進めて参ります。

・・

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

・・

日本の国・地方における財政危機は既に限界点に達してしまっています・・本年はいよいよもはや臨界点を突破しそうであり、懸念の事態が生じる可能性が高いと存じております。危機管理は各自でしっかりと進めておかなければならないことでありますでしょう・・

日本国財政破綻Safety Net
http://wanderer.exblog.jp/

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

本石町日記
http://hongokucho.exblog.jp/

経済コラムマガジン
http://www.adpweb.com/eco/

JMM
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

少し過激な言論活動が展開されていますが、東海アマさんこと岩瀬氏の情報収集内容について注視の必要があるかと存じます。

「東海アマチュア無線地震予知研究会」さんのホームページ
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/

晴れ

2010年01月27日 | 徒然日記・日々の記録
今日もの一日となり、陽射しが暖かく感じられましたね。

午前前半、寺院勤務

寺務・法要などして過ごす。

午前10時頃から、やまなみプラザへ。

やまなみ広報紙37号の編集作業。原稿、全体の内容を確認し、パソコンで編集作業を行いました。いよいよこれから発行へと向かって参ります。

やまなみ広報紙も編集責任者となってもう六年目となり、委員は七年目となっております。六年で18回の発行を担当して参りました。一応、来期は広報部長を退任する予定でありますので、これで広報紙担当責務からは解放されることとなります。六年間、誠に長かったですね。自分で自分にお疲れ様と言いたいところでございます。色々と学んだこと、反省したことなど、これからの諸活動に活かせていければと考えております。

やまなみプラザ企画運営委員会ホームページ
http://www.hct.zaq.ne.jp/yamanami/

とにかく市民ボランティア活動も一つ一つでございます。

帰山後、寺務・墓苑土入れ整備・書道修練などして過ごす。

書道修練・半紙




この二日間の快晴にてついに開花しました。

迷いウサギ

土を入れ替えてあげました

一部ブラウザでは画像が表示されないことがあります。

画像専用のページ
http://ameblo.jp/hidetoshi-k

・・

「中観帰謬論証派の学びのススメ」

現時点におけます、私の仏教の学びの進めの一つの整理と致しましては、現代日本仏教のあり方に疑念を生じて以降、現代日本仏教がなぜ今のような現状に陥ってしまっているのかについて、根本・初期仏教から学び直しを進め始めまして、初期大乗仏教、唯識思想・中観思想の発展と中期大乗仏教の学びを進めていく中におきまして、ある程度問題点を明確化することができて参りました。

現時点におけます結論と致しましては、大きく仏典の説く仏説の相違の扱いにおいて、インドから日本に渡ってきた仏教を解釈する際において根本的な誤りがあったためであると考えております。

インド、中国、日本と仏教が渡ってくる中、なぜ、数多くの著された仏典の中で、仏説・教義の相違があるのかを真に理解できないままに、教典にとらわれて、教典に優劣を付けて、教義に優劣を付けて、醜い争いを展開し、これが一番の教えだ、私たちの教義が最も優れていると、そのようなくだらないことで終始したところが少なからずもあるように存じております。

そのようなことでは、争い、様々な堕落と衰退もしかるべきであろうと思う次第でございます。

上記のことは、中観思想の帰謬論証派の学びを進めていけば、容易に気づくことでもございますが、残念ながら、中観帰謬論証派は中国、日本へ正確に伝わることが無く、中国・日本の仏教は大きな問題を最初から抱えざるを得なかったと考えております。

これは、もちろんやむを得なかったこともございます・・中国・日本へ仏教が伝来してくる途上、「無我」を説く教典と「我」を説く教典がほぼ同時に流入していたのですから・・大きくは般若思想と如来蔵思想となりますが、両思想が同時に流入すれば様々な混乱が生じるのは当たり前であったのだと考えます。

結果として、どちらの教えが正しいのかといつまでも論争を繰り返すことになってしまい、「無我」か、それとも「我」か、両者の統合か、と、それぞれとらわれてしまったままとなっているのが、日本現代仏教が抱える苦悩の一番の問題となっている根本であると存じております。

このことを解決するのは、龍樹論師以来の中観思想にあり、特にチャンドラキールティ論師からツォンカパ論師に至るまで展開された帰謬論証派の思想を正確に学ばないと解決は不可能なことであると考えております。

龍樹論師の中観思想は日本にも三論宗として伝わったものの、それから発展していった帰謬論証派の思想は残念ながら伝わらないままで、現代に至ってしまったところにおいて、日本仏教の抱えている苦難が続いてしまっているところがあるように存じております。ただ、戦後にチベット仏教哲学、ツォンカパ論師の中観思想が徐々に邦訳・注釈等でも日本にて知られることができてきたため、これからは少しずつ変わっていくようには思うところもございます。

とにかく、仏典の言語表現は全て世俗諦の方便として正しく、等しいものであり、そこに優劣など本来はありません。もちろん、あくまでも世俗諦の域で留まってのことであって、仏典の言語表現の一切は、勝義諦を指向するための渡し船に過ぎず、いちいちの仏典の表現や解釈にとらわれて上だ、下だと執着することは大きな誤りを産み出す原因となると考えております。

一つは、中論にございます

「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』・・中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用

ということから、更に帰謬論証派の思想を深く学ぶことによって、しっかりと理解していかなければならないことがあると僭越ながらも存じております。

何とかここまでようやくに、ツォンカパ論師の中観思想の学びを本格的に進めていくための入り口付近に来ることができてきたのではないかと、もちろんまだまだの浅学非才の未熟者の身ながらも思っております。今は学びを一歩でも前へと進めていかねばならないとも考えております。

・・

「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」を読み終えました。

意趣善明の鏡は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著「入中論」の注釈書で、中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがありました。また、唯識思想についてもある程度学ぶことができるため、是非、機会がございましたらお読みになられると良いかと存じております。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒されました次第でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

次は、「ツォンカパ 中観哲学の研究1」、「菩提道次第論・中篇-観の章-・和訳、原著・ツォンカパ論師」を読み進めて参ります。

・・

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

・・

最近の民主党幹事長・小沢一郎氏のカネを巡る問題・・誠に光と影を思うところであります。もちろん最終的には、仏教における縁起的考え方によって光と影の輪廻の迷いは超えていかなければならないと思う次第でございます。

光と影の輪廻の迷いを超えていくところにつきましては、下記論考を参照頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
十、相対から絶対へ
http://www.hide.vc/enginorikai10.html

先日のハイチ大地震・・甚大な被害、犠牲者となってしまっております・・犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。NPO法人東大阪国際協力プラットフォームからの国際災害義援寄付を早急に検討したいと考えております。

晴れ

2010年01月26日 | 徒然日記・日々の記録
今日はの一日となり、陽射しはありましたが肌寒い一日でしたね。

午前、寺院勤務

寺務・法要・書道修練などして過ごす。

書道修練・条幅


午後から東大阪市総合庁舎へ。

平成21年度・第3回東大阪市生涯学習市民推進会議に出席。

・(仮称)第三次東大阪市生涯学習推進計画に伴う「東大阪市の生涯学習に関するアンケート調査」の結果について
・その他

東大阪市民会議プランニングチームから出向しております。

本日は主に第三次計画策定へ向けましてのアンケート調査の結果につきまして議論が展開されました。まずは、事務局からのアンケート調査の報告、次に、アンケート調査を行った業者から詳しい調査結果の報告が行われ、その報告を受けて全委員が順番に発言し、意見が集約されました。

本日の私の発言の趣旨と致しましては、まず、「生涯学習」そのものの認知度がまだまだ本市では低いことについて、情報発信・提供における媒体についての充実を図ること(ITの活用と情報誌のあり方について)の必要性、アンケートからの市民の要望として高い「趣味的なもの」・「健康・スポーツに関わるもの」は、財政難の国・地方自治体にとっては、医療費の抑制、介護費の抑制にも繋がることであり、確かに充実度を上げることが必要となるが、一方で社会的要請として強くあるものの、なかなか市民が積極的に取り組む意欲は低い状態である「地域まちづくり活動」・「ボランティア活動」・「自然保護環境活動」等に掛かる生涯教育についても、計画策定でしっかりと具現化していけるように調えていくべきであると意見具申させて頂きました。

後者は、特に住民自治の拡大、住民主体のまちづくりを目指す上でも重要なことであり、このことも財政難の時代おいては非常に予算の効率化を図る上でも大切になると考えております。

いよいよ次回には第三次東大阪市生涯学習推進計画の骨子案が提示され、実質の計画案審議へと移っていくことになるかと存じております。

事務局 東大阪市・教育委員会事務局・社会教育部・社会教育課
http://www.city.higashiosaka.osaka.jp/240/240010/index2.html

とにかく一つ一つでございます。。

帰山後、寺務などして過ごす。



蕾が膨らんで参りました。。

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http://ameblo.jp/hidetoshi-k

最近の民主党幹事長・小沢一郎氏のカネを巡る問題・・誠に光と影を思うところであります。もちろん最終的には、仏教における縁起的考え方によって光と影の輪廻の迷いは超えていかなければならないと思う次第でございます。

光と影の輪廻の迷いを超えていくところにつきましては、下記論考を参照頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
十、相対から絶対へ
http://www.hide.vc/enginorikai10.html

先日のハイチ大地震・・甚大な被害、犠牲者となってしまっております・・犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。NPO法人東大阪国際協力プラットフォームからの国際災害義援寄付を早急に検討したいと考えております。

・・

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」、何と言っても十地論の中でも第六地「現前地」の内容が全文の半分ほどを占めています。中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがあります。また、唯識思想についてもある程度深く学ぶことができるため、ここは実に重要であり、本論の要諦であります。しっかりと理解していけましたらと存じます。

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」は、実にすばらしい論著であると感嘆しながら読み進めております。いわゆる菩薩道の要説である十地論に基づいて空思想・中観思想がまとめられているものであります。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒される限りでございます。

「ツォンカパ 中観哲学の研究5 ダライ・ラマ一世ゲンドゥンドゥプ著 入中論の意趣善明の鏡」を読み進め中。入中論は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著であります。その入中論を注釈された論著が、意趣善明の鏡でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

内容につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究2」と同様に半分ほど理解が及んでいるようには思います。おそらく1~2年前にこの内容を読み進めていたとしても、まず途中で挫折していたことでありますでしょう。僭越ながらもある程度、仏教における縁起と空の理解が及んできているからこそ、かろうじて読み進めが可能になっているのではないかと存じております。とにかく一歩一歩でございます。

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

・・

日本の国・地方における財政危機は既に限界点に達してしまっています・・本年はいよいよもはや臨界点を突破しそうであり、懸念の事態が生じる可能性が高いと存じております。危機管理は各自でしっかりと進めておかなければならないことでありますでしょう・・

日本国財政破綻Safety Net
http://wanderer.exblog.jp/

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

本石町日記
http://hongokucho.exblog.jp/

経済コラムマガジン
http://www.adpweb.com/eco/

JMM
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

少し過激な言論活動が展開されていますが、東海アマさんこと岩瀬氏の情報収集内容について注視の必要があるかと存じます。

「東海アマチュア無線地震予知研究会」さんのホームページ
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/

・・

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

曇りのち雨

2010年01月25日 | 徒然日記・日々の記録
今日はのちの一日となり、寒くなりました。

終日寺院勤務

寺務・枯れた花抜き・ゴミ収集などして過ごす。

ここのところ乾燥していましたが、今日は久しぶりの雨となりましたね。

実は、春のお彼岸で配布させて頂く予定としての施本論考シリーズ第六弾の執筆がかなり止まってしまっております。一つの要因は、中観思想における二諦(世俗諦と勝義諦)をめぐる解釈の問題について、現時点における私なりの解釈の解答を出さねばならないと考えているからでございます。ここは避けて通れないところであり、またかなり難解なるところでもございます。とにかく慎重に論究して参りたいと存じております。ただ、時間があまり無く、もしかすると夏まで先送りしてしまうかもしれません。そうなることとなっても拙速に陥らず、焦らずに論考して参りたいと存じております。

一部ブラウザでは画像が表示されないことがあります。

画像専用のページ
http://ameblo.jp/hidetoshi-k

最近の民主党幹事長・小沢一郎氏のカネを巡る問題・・誠に光と影を思うところであります。もちろん最終的には、仏教における縁起的考え方によって光と影の輪廻の迷いは超えていかなければならないと思う次第でございます。

光と影の輪廻の迷いを超えていくところにつきましては、下記論考を参照頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
十、相対から絶対へ
http://www.hide.vc/enginorikai10.html

先日のハイチ大地震・・甚大な被害、犠牲者となってしまっております・・犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。NPO法人東大阪国際協力プラットフォームからの国際災害義援寄付を早急に検討したいと考えております。

・・

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」、何と言っても十地論の中でも第六地「現前地」の内容が全文の半分ほどを占めています。中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがあります。また、唯識思想についてもある程度深く学ぶことができるため、ここは実に重要であり、本論の要諦であります。しっかりと理解していけましたらと存じます。

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」は、実にすばらしい論著であると感嘆しながら読み進めております。いわゆる菩薩道の要説である十地論に基づいて空思想・中観思想がまとめられているものであります。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒される限りでございます。

「ツォンカパ 中観哲学の研究5 ダライ・ラマ一世ゲンドゥンドゥプ著 入中論の意趣善明の鏡」を読み進め中。入中論は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著であります。その入中論を注釈された論著が、意趣善明の鏡でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

内容につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究2」と同様に半分ほど理解が及んでいるようには思います。おそらく1~2年前にこの内容を読み進めていたとしても、まず途中で挫折していたことでありますでしょう。僭越ながらもある程度、仏教における縁起と空の理解が及んできているからこそ、かろうじて読み進めが可能になっているのではないかと存じております。とにかく一歩一歩でございます。

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

・・

日本の国・地方における財政危機は既に限界点に達してしまっています・・本年はいよいよもはや臨界点を突破しそうであり、懸念の事態が生じる可能性が高いと存じております。危機管理は各自でしっかりと進めておかなければならないことでありますでしょう・・

日本国財政破綻Safety Net
http://wanderer.exblog.jp/

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

本石町日記
http://hongokucho.exblog.jp/

経済コラムマガジン
http://www.adpweb.com/eco/

JMM
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

少し過激な言論活動が展開されていますが、東海アマさんこと岩瀬氏の情報収集内容について注視の必要があるかと存じます。

「東海アマチュア無線地震予知研究会」さんのホームページ
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/

・・

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

晴れ

2010年01月24日 | 徒然日記・日々の記録
今日はの一日となり、陽射しがありましたが誠に風が冷たかったですね。

終日寺院勤務

寺務・法要・水子地蔵尊御供養・春彼岸施餓鬼卒塔婆書き準備・清掃などして過ごす。

今日は天気が良かったのでお参りが多かったですね。

迷いウサギ

なによー

一部ブラウザでは画像が表示されないことがあります。

画像専用のページ
http://ameblo.jp/hidetoshi-k

最近の民主党幹事長・小沢一郎氏のカネを巡る問題・・誠に光と影を思うところであります。もちろん最終的には、仏教における縁起的考え方によって光と影の輪廻の迷いは超えていかなければならないと思う次第でございます。

光と影の輪廻の迷いを超えていくところにつきましては、下記論考を参照頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
十、相対から絶対へ
http://www.hide.vc/enginorikai10.html

先日のハイチ大地震・・甚大な被害、犠牲者となってしまっております・・犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。NPO法人東大阪国際協力プラットフォームからの国際災害義援寄付を早急に検討したいと考えております。

・・

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」、何と言っても十地論の中でも第六地「現前地」の内容が全文の半分ほどを占めています。中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがあります。また、唯識思想についてもある程度深く学ぶことができるため、ここは実に重要であり、本論の要諦であります。しっかりと理解していけましたらと存じます。

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」は、実にすばらしい論著であると感嘆しながら読み進めております。いわゆる菩薩道の要説である十地論に基づいて空思想・中観思想がまとめられているものであります。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒される限りでございます。

「ツォンカパ 中観哲学の研究5 ダライ・ラマ一世ゲンドゥンドゥプ著 入中論の意趣善明の鏡」を読み進め中。入中論は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著であります。その入中論を注釈された論著が、意趣善明の鏡でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

内容につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究2」と同様に半分ほど理解が及んでいるようには思います。おそらく1~2年前にこの内容を読み進めていたとしても、まず途中で挫折していたことでありますでしょう。僭越ながらもある程度、仏教における縁起と空の理解が及んできているからこそ、かろうじて読み進めが可能になっているのではないかと存じております。とにかく一歩一歩でございます。

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

・・

日本の国・地方における財政危機は既に限界点に達してしまっています・・本年はいよいよもはや臨界点を突破しそうであり、懸念の事態が生じる可能性が高いと存じております。危機管理は各自でしっかりと進めておかなければならないことでありますでしょう・・

日本国財政破綻Safety Net
http://wanderer.exblog.jp/

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

本石町日記
http://hongokucho.exblog.jp/

経済コラムマガジン
http://www.adpweb.com/eco/

JMM
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

少し過激な言論活動が展開されていますが、東海アマさんこと岩瀬氏の情報収集内容について注視の必要があるかと存じます。

「東海アマチュア無線地震予知研究会」さんのホームページ
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/

・・

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

曇り時々晴れ

2010年01月23日 | 徒然日記・日々の記録
今日は時々の一日となり、寒くなりましたね。

終日寺院勤務

寺務・法要・春彼岸施餓鬼卒塔婆書き準備・清掃などして過ごす。

合間にここ数日続きました諸活動に関しての書類作成・整理など。

春彼岸施餓鬼卒塔婆書き準備

なかなか慣れずでありまして、あまりうまくありません・・とにかく少しずつと存じております・・

迷いウサギ

うん?

一部ブラウザでは画像が表示されないことがあります。

画像専用のページ
http://ameblo.jp/hidetoshi-k

最近の民主党幹事長・小沢一郎氏のカネを巡る問題・・誠に光と影を思うところであります。もちろん最終的には、仏教における縁起的考え方によって光と影の輪廻の迷いは超えていかなければならないと思う次第でございます。

光と影の輪廻の迷いを超えていくところにつきましては、下記論考を参照頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
十、相対から絶対へ
http://www.hide.vc/enginorikai10.html

先日のハイチ大地震・・甚大な被害、犠牲者となってしまっております・・犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。NPO法人東大阪国際協力プラットフォームからの国際災害義援寄付を早急に検討したいと考えております。

・・

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」、何と言っても十地論の中でも第六地「現前地」の内容が全文の半分ほどを占めています。中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがあります。また、唯識思想についてもある程度深く学ぶことができるため、ここは実に重要であり、本論の要諦であります。しっかりと理解していけましたらと存じます。

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」は、実にすばらしい論著であると感嘆しながら読み進めております。いわゆる菩薩道の要説である十地論に基づいて空思想・中観思想がまとめられているものであります。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒される限りでございます。

「ツォンカパ 中観哲学の研究5 ダライ・ラマ一世ゲンドゥンドゥプ著 入中論の意趣善明の鏡」を読み進め中。入中論は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著であります。その入中論を注釈された論著が、意趣善明の鏡でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

内容につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究2」と同様に半分ほど理解が及んでいるようには思います。おそらく1~2年前にこの内容を読み進めていたとしても、まず途中で挫折していたことでありますでしょう。僭越ながらもある程度、仏教における縁起と空の理解が及んできているからこそ、かろうじて読み進めが可能になっているのではないかと存じております。とにかく一歩一歩でございます。

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

・・

日本の国・地方における財政危機は既に限界点に達してしまっています・・本年はいよいよもはや臨界点を突破しそうであり、懸念の事態が生じる可能性が高いと存じております。危機管理は各自でしっかりと進めておかなければならないことでありますでしょう・・

日本国財政破綻Safety Net
http://wanderer.exblog.jp/

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

本石町日記
http://hongokucho.exblog.jp/

経済コラムマガジン
http://www.adpweb.com/eco/

JMM
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

少し過激な言論活動が展開されていますが、東海アマさんこと岩瀬氏の情報収集内容について注視の必要があるかと存じます。

「東海アマチュア無線地震予知研究会」さんのホームページ
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/

・・

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。

曇り

2010年01月22日 | 徒然日記・日々の記録
今日は少しがちな一日となり、やや寒くなりましたね。

午前、寺院勤務

寺務・小楠公見学会付添・春彼岸施餓鬼卒塔婆書き準備などして過ごす。

小楠公見学会



京都からカルチャーセンターの教室の方がこられ、大学の名誉教授先生から楠木正行公に関する歴史についての講義を受けられておりました。

午後から瓢箪山商店街・スマイル瓢箪山事務所へ。

瓢箪山地域まちづくり協議会設立総会に出席。

瓢箪山地域まちづくり協議会発足準備会の議事内容の確認、規約内容に関する議論、地域情報誌のための作業進捗、これからの流れについて、他。



自己紹介の次に瓢箪山地域まちづくり協議会発足準備会の議事内容の確認を行い、これまでの経過につきまして、まとめられました。全国商店街支援センター委託事業についての説明もあり、それから規約について、名称・事務所・趣旨・目的・役員・運営のあり方と審議されました。また、地域情報発信のための情報誌の発行へ向けての学生からの報告もありました。

既に、ブログが開設されておりまして、その報告もありました。

ひょっこりひょうたん山
http://hytnym.jugem.jp/
たっきーとあべしが東大阪ひょうたん山で成長していくブログ

是非、皆さん楽しみにご覧頂けましたらと存じます。

役員選任では、会長に酒井理先生、副会長には、各商店街組合の理事長さん、自治協議会の役員さんたち五人が選任されるなど、重厚な役員体制となり、これからの運営が非常に期待されるところでございます。

地域まちづくり活性化と商店街活性化へ向けて、地域まちづくり資源間が連携協働して取り組んでいく体制が本格的に調えられました。これからいよいよ事業を具体化し実践していく作業工程へと入って参ります。私もこれまでの市民活動で培って参りましたノウハウを活かしてお手伝いできていけましたらと存じております。

酒井理先生

誠に先生の行動力・実践力にはご敬服致します。

大阪商業大学・総合経営学部・酒井理准教授先生が、長年取り組んでこられました瓢箪山商店街活性化プロジェクト・教育GP事業の発展延長として、この度の瓢箪山地域まちづくり協議会の発足について中心となられまして提言なされまして、実践に移されました次第でございます。私はやまなみプラザ企画運営委員会からの出向として参画させて頂くこととなりました。

とにかく、これからの展開が楽しみでございます。

夕刻に帰山後、寺務・春彼岸施餓鬼卒塔婆書き準備などして過ごす。

一部ブラウザでは画像が表示されないことがあります。

画像専用のページ
http://ameblo.jp/hidetoshi-k

最近の民主党幹事長・小沢一郎氏のカネを巡る問題・・誠に光と影を思うところであります。もちろん最終的には、仏教における縁起的考え方によって光と影の輪廻の迷いは超えていかなければならないと思う次第でございます。

光と影の輪廻の迷いを超えていくところにつきましては、下記論考を参照頂ければと存じます。

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
十、相対から絶対へ
http://www.hide.vc/enginorikai10.html

先日のハイチ大地震・・甚大な被害、犠牲者となってしまっております・・犠牲者の方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。NPO法人東大阪国際協力プラットフォームからの国際災害義援寄付を早急に検討したいと考えております。

・・

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」、何と言っても十地論の中でも第六地「現前地」の内容が全文の半分ほどを占めています。中論、中観自立論証派、中観帰謬論証派といった中観思想の展開を学ぶ上でも註の内容は非常に読み応えがあります。また、唯識思想についてもある程度深く学ぶことができるため、ここは実に重要であり、本論の要諦であります。しっかりと理解していけましたらと存じます。

現在、読み進めを行っております「ツォンカパ 中観哲学の研究5・入中論の意趣善明の鏡」は、実にすばらしい論著であると感嘆しながら読み進めております。いわゆる菩薩道の要説である十地論に基づいて空思想・中観思想がまとめられているものであります。改めまして、チベット仏教哲学の精緻さ洗練さに圧倒される限りでございます。

「ツォンカパ 中観哲学の研究5 ダライ・ラマ一世ゲンドゥンドゥプ著 入中論の意趣善明の鏡」を読み進め中。入中論は、中観帰謬論証派のチャンドラキールティ論師の代表論著であります。その入中論を注釈された論著が、意趣善明の鏡でございます。

入中論の意趣善明の鏡

ダライ・ラマ十四世テンジン・ギャツォ大師による序文

内容につきましては、「ツォンカパ 中観哲学の研究2」と同様に半分ほど理解が及んでいるようには思います。おそらく1~2年前にこの内容を読み進めていたとしても、まず途中で挫折していたことでありますでしょう。僭越ながらもある程度、仏教における縁起と空の理解が及んできているからこそ、かろうじて読み進めが可能になっているのではないかと存じております。とにかく一歩一歩でございます。

本年の抱負は、施本論考シリーズ第六弾の執筆は当然ながら、前回施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」におけます縁起・空性の理解を更に深く進めていけましたらと考えております。特に中観思想の展開過程、ツォンカパ論師の中観思想についてしっかりと考究していけましたらと存じております。

施本論考シリーズ第六弾の本格執筆を前に、論著の読み進めを行っております。

「チベット仏教哲学」松本史朗著・大蔵出版
「ツォンカパの中観思想―ことばによることばの否定」四津谷孝道著・大蔵出版
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅰ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅱ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅲ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅳ」
「ツォンカパ 中観哲学の研究Ⅴ」
「般若経釈 現観荘厳論の研究」兵藤一夫著 文栄堂
「ダライ・ラマ 般若心経入門」ダライ・ラマ14世著、宮坂宥洪翻訳・春秋社
「チベット仏教成就者たちの聖典『道次第・解脱荘厳』解脱の宝飾」
 ガムポパ著・ツルティム・ケサン、藤仲 孝司共訳 UNIO
「心の迷妄を断つ智慧―チベット密教の真髄」
 チュギャム トゥルンパ著・宮坂宥洪訳
「チベット密教 修行の設計図」
 斎藤保高著・春秋社
「チベット密教 心の修行」
 ゲシェー・ソナム・ギャルツェン ゴンタ著、藤田省吾著 法蔵館
「チベット仏教 文殊菩薩(マンジュシュリ)の秘訣」
 ソナム・ギャルツェン・ゴンタ著 法蔵館

施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/enginorikai.html
施本・「仏教・空の理解から学ぶ」
http://oujyouin.com/topengi.htm
施本「仏教・空の理解」
http://oujyouin.com/sunyatop.htm
施本「仏教 ~ 一枚の紙から考える ~」
http://oujyouin.com/buddhism1p.html
施本「佛の道」
http://oujyouin.com/hotokenomichi.html

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第三弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第二弾

これから更に仏教の学びを進めるための文献・第一弾

・・

日本の国・地方における財政危機は既に限界点に達してしまっています・・本年はいよいよもはや臨界点を突破しそうであり、懸念の事態が生じる可能性が高いと存じております。危機管理は各自でしっかりと進めておかなければならないことでありますでしょう・・

日本国財政破綻Safety Net
http://wanderer.exblog.jp/

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

本石町日記
http://hongokucho.exblog.jp/

経済コラムマガジン
http://www.adpweb.com/eco/

JMM
http://ryumurakami.jmm.co.jp/

少し過激な言論活動が展開されていますが、東海アマさんこと岩瀬氏の情報収集内容について注視の必要があるかと存じます。

「東海アマチュア無線地震予知研究会」さんのホームページ
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/

・・

現代仏教学を再生するためのホームページ掲示板投稿より・・

mixiのコミュニティ「仏教」におけます中論・「観涅槃品」(第二十五)の最終偈についての考察からの引用抜粋でございます。

以下、引用抜粋・・

・・前略・・

以下、中論の邦訳は〔中論(上・中・下) 三枝充悳訳注 第三文明社・レグルス文庫〕より引用致します。

中論・「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』

まず、前半について考えて参りたいと存じます。

一切の得ること(有所得)が寂滅し・・縁起的・空性的あり方を理解し、あらゆる一切は実体が無く、得るための主体も、得れる対象となる客体も、いずれにも実体が無いため、何も得る実体たるところも何も得れる実体たるところも無いということであるかと存じます。

般若心経における「無所得」とほぼ同意の事態のことを示しているものであると考えます。

戯論(想定された論議)が寂滅・・縁起・空性の理解から、四句分別・「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」を理解し、更に言語活動・言語表現の限界を理解して、もはや一切の想定された論議も止み、「無記」への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義諦・第一義諦のありようを真に了解するということであるかと存じております。

もちろん、このあたりのことは、「二諦をめぐる解釈の問題」が控えておりますが、あらゆる一切における世俗諦と勝義諦のありよう(世俗諦によって勝義諦があり、勝義諦によって世俗諦があるという、縁起的・空性的あり方における勝義諦についての理解も含めて)について了解した上で、「勝義の空」の真たるが何であるかも完全に了解し、様々な虚妄分別・分別執着によって迷い・苦しんでいる者に対して、自由自在に方便を用いながら、その迷い・苦しみを解き放つことができるようになるための仏道が完全に完成し、慈悲の実践を展開していくことに繋がるものであるかと存じております。 ・・中略・・

後半・・「吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」

縁起的・空性的あり方(○によって非○があり、非○によって○があるとして、一応、○も非○もそれぞれ仮において言えるものの、○だけでは○は成り立たない、非○だけでは非○は成り立たない、○にも非○にも実体は無い」)の理解から、無所得(無実体・無自性)、言語道断・無記・戯論寂滅(四句分別の否定「非有、非無、非有無、非「非有非無」(非非有非非無)」)への論理的道筋をしっかりと理解し、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦のありようを真に了解することは、いかなる虚妄分別・分別執着も打ち破り、いかなる迷い・苦しみもを打ち破る、無上甚深微妙の法にして真なる涅槃に至るための実にすばらしく吉祥なるものである。

「ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。」・・お釈迦様・諸仏・如来によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説は、対機説法・方便として、様々な者に対してそれぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着のその一つ一つを打ち破らせるために説かれているものに過ぎず、最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、いかなるところにおいても、誰に対しても説かれたことはない。

最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦としての無上甚深微妙の法のありようは、それぞれがそれぞれにおいて真に了解すべきものであり、お釈迦様・諸仏・如来の慈悲によって、言語活動・言語表現を扱った世俗諦における諸々の教説から、それぞれが色々と抱えている虚妄分別・分別執着、迷い・苦しみのその一つ一つをそれぞれが打ち破るために、勝義の空・勝義諦・第一義諦を真に了解し、真なる涅槃に至ることが何よりも重要であると存じております。当然にその了解したる最高の真理である勝義の空・勝義諦・第一義諦は、もはや言語活動・言語表現を超えたものであって、いかなるところにおいても、誰に対しても説けるものでもないと存じております。・・後略・・

・・引用抜粋ここまで。

・・

さて、最近はmixiのコミュニティ・仏教のトピック「ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)」におきまして仏教論考を継続させて頂いておりまして、現在は特に龍樹論師「中論」の理解も平行して鋭意進めております。

そのコメント投稿におきまして、先日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容につきまして扱わせて頂きました。

コミュニティ・仏教

トピック・ダルマキールティ論師の刹那滅論証(瞬間的存在性論証)

89  2009年12月11日 21:50

引き続きまして、中論・「観涅槃品」(第二十五)を扱いまして、「中論」の説く「ニルヴァーナ(涅槃)」の考察を行って参りたいと存じておりますが、

少しその前に・・昨日のオバマ米大統領・ノーベル平和賞・受賞演説の内容は誠にやや残念でございました・・

米大統領選の当選直後にダライ・ラマ14世師と会談した際に、ダライ・ラマ14世師から中観思想の視座によっての平和・戦争のありようについての示唆を得られておられるものであるかとご期待申し上げておりましたが・・「平和のための戦争」を肯定してしまうような受賞演説の内容には少し失望を覚えました・・

最近のダライ・ラマ14世師との会談を延期したオバマ米大統領のありよう、もちろん、今回の受賞演説の内容のありようも鑑みますと、相当に何らかの圧力があってのことであろうとも存じます・・オバマ米大統領の真意の内容では無いのかもしれませんが・・

「戦争によって平和がある、平和によって戦争がある」と縁起的・空性的あり方においてそれぞれは仮に言えたとしてもそれぞれは実体の無いものであり、いつまでも平和だ、戦争だと実体視して執着し続けている限り、戦争は決して無くなることはあり得ませんし、真に平和に至ることもあり得ません・・

戦争利権を貪り、執着するものたちがいるかぎり、そのものたちが虚妄分別・分別執着で自作自演にて産み出し続けながら、しかも変化してゆく「平和」と「戦争」の定義に、世界の人々が実体視して執着させられてしまう限り、戦争は無くならず、真なる平和も得られないものでありますでしょう・・

このことは、最近の環境利権においても同様のことが言えるかと存じますが・・

誠にどこか寂しい限りでございますね・・

もちろん・・

以前にも引用にてコメントを述べさせて頂きましたこととなりますが、

以下、引用・・

国家破綻研究ブログ
http://gijutsu.exblog.jp/

リーマンショック1周年 何が明らかになり、何が変わったのか 変わらない強欲
http://gijutsu.exblog.jp/8971065/

におきましてコメント投稿させて頂いておりますように、

「リーマンショックから一年を振り返ってのまさに的確な分析であると存じます。確かに、「世界経済奥の院」が現在進行形で一体何をどうしたいのかということは、なかなか読み解くことは難しくあります。ただ世の流動における歴史の厳然たる結果を見ると、遡って、ああ、そういうことを考えていたのかということは理解することはできます。しかし、その内実のほとんどはkanconsultingさんのおっしゃる通りに傲慢に利権を貪る者の「強欲さ」が反映されているものばかりであり、相変わらず浅ましく下らない愚かなことの繰り返しであります・・

この負の連鎖をいい加減に断ち切らない限りは、同じことの繰り返しとなってしまいます・・私はこの繰り返し(輪廻)を断ち切るには、お釈迦様の仏法真理とその実践(慈悲)が必要であると強く考えております。特に現代社会においては、ナーガールジュナ(龍樹)論師以来の仏教・中観思想の考究とそこからの実践が重要と存じております。」

と致しまして、「世界経済奥の院」の強欲・傲慢さが生み出し続ける数々の人間世界の苦しみを無くすためには、何としても「世界経済奥の院」たちに仏法真理、その一つとしての中観思想も学んで頂き、理解して頂いて、そして、そこからの慈悲の実践を行ってほしいという想いがございます。

・・引用ここまで。

このように述べさせて頂きましたように、中観思想の学びとそこからの実践は実に現代世界においては重要であると存じております。

とにかく、あまりにも微力でありまして、浅学菲才の未熟者でございますが、少しでも中観思想の学びとそこからの実践を行っていけましたらと存じております。

誠に皆様方におかれましては、ご賢察賜りまして、ご理解を賜れますよう、何卒、宜しくお願い申し上げます。

・・ここまで。

とにかく中観思想の学びとその実践が、現代社会においては誠に重要であると存じております。誠に一つ一つでございます。