日記

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信心獲得、信心決定の証明について

2022年08月30日 | ブログ
信心獲得、信心決定の証明について・・

これを聞かれると、内証であるがゆえに、当然に第三者から見て判断、立証することが当然に難しく、現生においては、獲信者・善知識から印可してもらうことぐらいでしか証明ができないということではないだろうかとは思います。

では、何も分かり得ないのかと言うと、そうでもなく、信心獲得、信心決定に起因する事態を基に推測できることが少しはあるかと存じます。

正定聚の位(阿毘跋致・不退転の位)、菩薩の初地・歓喜地、補処・弥勒菩薩と同位などの事態ということであります。

そうなると少なくとも、どれぐらいの菩薩としての境地にあるのかが分かるものとなります。

ただ、これらの位を得るということの元々の論拠となる「十住毘婆沙論」は、龍樹の真作として疑わしいということと共に、サンスクリット・チベット語原典が未だに発見されておらず、中国撰述の偽経説もあるため、非常にナイーブな問題も孕んであるところであります。

いずれにしても、「十住毘婆沙論」は華厳経・十地品の注釈書であり、その内容から、正定聚の位は、菩薩の初地・歓喜地が想定されてあるため、それと同等の境地と考えるのが妥当ではないだろうかと存じます。

歓喜地は、顕教においては、一阿僧祇劫の智慧と福徳の資糧を積み終えることで到達可能な境地であり、特には「空性」が無明の迷苦を打ち破り、煩悩障・所知障を対治して悟りへと向けて了解すべき真理であることを如実に知見して歓喜するがゆえに「歓喜地」と言われるものとなります。つまり、ある一定の空性への理解と、膨大な功徳を積むことにて至れるということになるのであります。

そうなると、当然に仏教の智慧、空性の真理についてかなり理解していることと共に、それだけの功徳行を積んであるため、自利利他がある程度円満に為せることのできる存在であり、これは衆生界においてであれば、一目瞭然に誰もが理解できるような徳目を備えてある者と言えるため、まず、間違えることはないでしょう。

次に、補処・弥勒菩薩となると、弥勒菩薩は、兜率天にてもはや相当な高い境地にあるため、現前地(六地)以上、それもあと60億年ほどでの成道の資糧となれば、逆算すると不動地(八地)には既に至ってあると考えることができるのではないだろうかと考えます。

この境地の者であれば、相好も既に仏陀にかなり近いものとなっているため、誰が見ても、接しても、明らかに菩薩であると分かることでしょう。

煩悩障も断滅し終わり、一切煩悩により行いが汚されない中で過ごせる者であり、ほぼ仏陀と同等に空性への了解も進んでいるため、その後得智により、衆生を大いに教化できる素養も十分となっており、もはや、誰もが即座に礼拝し、教えを請うような存在となっているでしょう。

しかし、信心獲得、信心決定でこの境地に至れるというのは、正直、無理がありすぎて荒唐無稽と言わざるを得ません・・

一応、菩薩の初地・歓喜地としても、明らかに誰もが一目瞭然に分かり得るような徳目を備えていると言えるため、信心獲得、信心決定したと言う者が現れたのであれば、その行状をよく観察してみれば、その判断に大いに役立つものとなることでしょう。

浄土真宗についての一旦の総括

2022年08月28日 | ブログ
親鸞会の方とのやり取り以降、浄土真宗、親鸞教学への理解がより深まると共に、現在真宗の抱えている諸問題についても多く知り得ることができました。

もしも私が真宗僧侶であったならば、世論や世情の流れに迎合することなく、ただ親鸞聖人の教えの原点に回帰すべしを強く訴えていたことでしょう。

しかし、教団化、寺檀化により生じてしまうことになる内部矛盾と共に、原点の教えではその維持が許されなくなっていったであろうことは想像に難くないものであります。

また、相次ぐ分派や寺血族間の争い等による分裂、混乱も見受けられ、宗門系大学、教学研究機関もそれぞれにあり、ゴチャついており、百家争鳴的な感じとなってしまっています。非常に洗練、徹底されてある教えであるだけに、残念と言うべきか、もったいないと言うべきか、、

いずれにせよ、獲信の事態が、煩悩障断滅に直結するものであるとできるのであれば、意外にも通仏教から見て多々ある矛盾を一気に突破するものにもなるのだが、それはやはり難しいと言わざるを得ないのである。

正直、この一点なのである。

また、往還二種回向を獲信者、善知識を主体として、還相の菩薩の利他行を成せるとするにしても、やはり、煩悩障断滅は必須となるわけです。

なぜならば、煩悩障を断滅できていなければ、それはいかなる行、利他行も浄土真宗で否定される雑善の域を脱せれないことになるからであります。

空性の智慧を開発せずにして、それが可能なものでありえるのかどうか、なのです。


親鸞会が「善の勧め」を主張する構造について

2022年08月27日 | ブログ
「二種深信」も「真俗二諦」も、衆生の「悪人」性に対してのあり方をその本質としています。

輪廻にある我々、凡夫衆生は、生来的(俱生的)に煩悩を有している以上、その行いというものは、自ずと悪いものになることは避けられない面があります。

この凡夫衆生の行いの「悪人」性の必然性を深く知ることが、「二種深信」と「真俗二諦」のそれぞれを理解する上でも重要となります。

そして、この衆生本来の悪人性であることの必然性を深く鑑みて、雑修雑善(雑毒の善・虚仮の行)を否定し、私たちの行いは、本質的に何らとして悟り・涅槃へと至らしめるものにはならない、救いにはならないとして、ただ、阿弥陀如来の本願の利益・功徳に与れるように調えることのみを頼みとする「絶対他力」へと浄土真宗は向かうことになるのであります。

もちろん、自力的な行、自らのはからいとしての行の一切が否定されるものとなり、ただ、獲信へと向けた念仏のみが勧められるものとなるのであります。(もう一つ勧められるものとして加えるならば、阿弥陀如来への仏恩報謝になりますが、これはあくまでも獲信者に限定されるべきことになるのではないだろうかと考えます)

ここまでは基本的なこととして、では、親鸞会が「善の勧め」を主張する構造について、改めてどう考えなければならないのかということですが、

当然にいかなる善行もまず浄土真宗においては、基本的に認められるものではありません。

但し、否定されるべき善行を限定すれば、それ以外であれば「可」とすることもできなくはありません。

その否定されるべき善行を「自力的、自分のはからいによる善行」として、それ以外であれば認められるべき余地があるとして、その善を勧めているということであると考えることができます。

では、その善とは何かとなると、要は「他力的、他のはからいによる善行」ということであります。

そのような善行がありうるのかといえば、相当に無理がありますが、理論的には可能であり、ある意味で「無意識の善行」に近いものと言えるのではないだろうかと考えます。

要は、阿弥陀如来の本願の利益・功徳・はからいによる「他力的行い」とするわけであります。

その「他力的行い」を願生者、念仏行者とつなぐ役割を果たすのが、獲信者、善知識(親鸞会の場合は高森会長)であるとして、獲信者、善知識によって勧められる行いは、「自力的、自分のはからいによる善行ではない」としてしまうのであります。

ただ、何も考えずに、何も計らわずに、それを無意識的に行うべしということになるのであります。

もちろん、親鸞会の場合は、それが財施、寄付ということで勧められるというわけらしいのではありますが・・

獲信したい者、往生したい者にとっては、獲信者、善知識からの指導はある意味で絶対的なものとなります。

もともとは、獲信したい、往生したい、救われたいとして、財施、寄付することは、当然に雑修雑善(雑毒の善・虚仮の行)となり、否定されるべきものとなりますが、それが獲信者、善知識による指導において、肯定されるものへと変換されて、獲信したい、往生したい、救われたい者は、財施、寄付しなさいとして、「善の勧め」とされてしまっているのではないだろうかと考えるのであります。

往相回向・還相回向(往還二種回向)について・8

2022年08月18日 | ブログ
復古的、回帰的な還相回向の解釈を根拠に、現生にて獲信者、善知識、あるいは願生者において、菩薩行、利他行を積極的に認めたい向きがあるが、それにはやはり無理がありすぎると考える。

社会的要請、社会的意義等、その理由は分からなくはないが、親鸞聖人が現生往生を想定されていない以上、菩薩と同等の利他行を成せるほどの力を、獲信(正定聚の位)のみにて、阿弥陀如来の還相回向の本願の利益、本願のはたらきによって得させようとするのは、正直、根拠が薄すぎるのである。

やはり、実際の往生による見仏と教化を如来より直接に受けて、修行、本来の菩薩行に励み、その境地へと至らねば、真なる菩薩の利他行は難しいものであり、最低でも、菩薩の八地を終えた九地、善想地へと至らなければ、それは不可能なのである。

何より、煩悩障について何ら対治しないままでは、三輪清浄の完全な利他行を成すことはできず、煩悩障を断ずるまでの利他行は、涅槃・成仏へと向けた二資糧の内の功徳行の枠を出るものでなく、それには必ず自力的要素が加わることにもなるからである(功徳行は、自らの仏陀の色身を得るために欠かせないものである)。

また、煩悩障があるままならば、いくらその利他行を阿弥陀如来の本願による利益としての他力利他行(他利利他)であっても、衆生の側の理由により、当然に本来は不可となるのである。

それでも、衆生の側の事情を考慮せずに、とにかく何でもかんでもを阿弥陀如来の本願による利益としてしまえば、もう何でもありの本願誇り、本願驕りである。

また、獲信者、善知識を補処、弥勒菩薩と同等、法蔵菩薩と同等とするのも論をあまりに飛躍させ過ぎていると言わざるをえない。ましてや、恐れ多いことであり、それは慢以外のなにものでもないであろう。

・・

親鸞聖人の往還二種回向論をある程度、考究していく中で、なんとなくようやく分かってきたことが別にもある。

浄土真宗内における他宗派の修行(自力行・菩薩行等)を実践している者や、利他・善行・功徳活動、社会活動に積極的な(目立つ)者へと向けられる、何となくの冷眼視、白眼視のようなものについてである。

寺院として、僧侶として、ではなく、あくまでも個人的なことの中においてするべきだ的な雰囲気も。

一時、超宗派の活動に関わっていたことがある際に、少し気になっていたのだが、ようやく理解ができたような、である。

まあ、確かに、教義に反するとすれば、そうである。門徒さんを導く上でも、そういった余計な行や活動は、矛盾を伴うと共に、誤解を招くものとなる。

特に、小池龍之介氏の例が記憶に新しい。

それは、例えば、未来の住職塾等、超宗派の活動、教義と反する余計な活動へと参加している者へと向けた同じような雰囲気も。

まあ、人によっては、全く気にするようなことでもないし、個人の自由であるとも思うのだが、こと、宗旨、教義が絡むとなるとやはり厄介なようである・・

・・

元親鸞会の方からの意見を頂きました。

「善の勧め」も結局は、善知識・獲信者(ではもちろんないけれど)である高森顕徹会長への絶対的な帰依として、特に財施、寄附が勧められるための方便の一つに所詮は過ぎないのです。

高森会長の意向、意思に逆らうと、獲信、往生できないと恐怖、不安を煽り、マインドコントロールされているのです。まさに、現人神のような扱いになっているのです。

絶対他力も、自分のはからい、意思を捨てさせて、服従させるため、おっしゃるとおり思考停止にさせるための方便になっているのです。

はやくみんなに気づいてほしいです。

・・ということのようです。

まあ、やはりそんなとこなのでしょうが、往還二種回向について、思考停止に陥らずに、親鸞会内部でももっと教義的理解を深めるようにしていかないと、結局、そういう独善、専横を許すことになってしまうのでしょう。

・・

浄土真宗の往相回向・還相回向(往還二種回向)は、その回向主体を阿弥陀如来としたことに最大の教義的宣揚があるため、それを正しく理解することが、浄土真宗の教学体系、親鸞教学の体系を正しく理解することになります。

しかし、この「回向」主体を、念仏行者、獲信者に一定認めても良いのではないかという復古的(世親・曇鸞・善導の浄土門への回帰)主張が、最近の教学論において散見される事態となっており、また、それは、親鸞会教学においても見られる主張となっています。

親鸞会教学におけるその最たるものが「善の勧め」でしょう。

もちろん、通仏教的には、「七仏通誡偈」が仏教の根幹を示すものですから、当たり前のこととなりますが、もはやそれとは全く次元が異なるものとなるため、改めて説明するまでもないのですが、先に述べさせて頂いているように「・・ただ自他共に「獲信」を得ることへと向けた勧めだけが認められうる余地があるのではないだろうかと考えます。それは善悪という我々によっての概念(意思・はからい)は全く関係なく・・」ということであります。

また、更に親鸞会の問題はどこにあるのかということですが、高森顕徹会長を善知識、獲信者(本当かどうかは当然に別問題となりますが)として絶対的な導き手であると信じ込まされ、思考停止となり、言うがままになってしまうところ(マインドコントロール)でありますでしょう。

もちろん、高森顕徹会長を善知識、獲信者と信じている(信じ込まされている)者には、私など外部の意見も当然に素直には聞いてくれないものであります。

一応、拙いなりに改めて親鸞教学を学び直す中でも、明らかに善知識、獲信者ではない(通仏教的にも当然に)と言えるのですが、そんなことはもちろん否定されてしまうのであります。

更に、少なくとも親鸞聖人の説かれた「往還二種回向」の真意でさえ、実はまともに理解されていないのではないだろうか・・とも言えるのであります。

・・

ちなみに、現時点における往相回向・還相回向(往還二種回向)の拙理解からの見解から、「親鸞会と本願寺10の相違点」について回答していくとするならば、

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

阿弥陀如来の本願による絶対他力、一切の自分のはからい(意思・自力)の停止が求められるところとなるため、自力的な目的や、自分のはからいによる目的(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、その目的をあえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることのみだけを目的としては一応言えるのではないだろうかと考えます。

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?

善の勧めが、自分のはからい(意思・自力)によるもの(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

これも、往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、あえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることへと向けた勧めだけが認められうる余地があるのではないだろうかと考えます。それは善悪という我々によっての概念(意思・はからい)は全く関係なく。

4 阿弥陀仏の救いについて

獲信を得たとすれば、それで救いがはっきりとする。

5 助かるのはいつか

獲信を得た瞬間の現生から。

6 救われたらどうなるのか

獲信を得たら、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということ。

7 どうしたら助かるのか

獲信を得ること。

8 喜んでいること

獲信を得れたこと。「歓喜地」のその名の表現の通り。

9 念仏について

どの念仏でも、その念仏は「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号であることには変わりがないが、それだけで獲信できることはまずない。

となります。

設問の内容が何を聞きたいののかが、よく分からないものもあるため、もしかすると回答がそれぞれ的外れかもしれませんが、、

いずれにしても、往相回向・還相回向(往還二種回向)についての親鸞聖人の主張、論考をより精査していく必要があると考えています。

・・

信心獲得(獲信)・信心決定により、獲信した行者は、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まることになる、つまり、菩薩の初地、歓喜地にて、往生、見仏のみならず、悟り・涅槃へと至れることが決定づけられるということなのですが、それはかなり無理がありすぎる、根拠があまりにも薄すぎる、あまりにハードルを下げ過ぎているというのが、拙見解ではあります。

また、獲信して、現生に正定聚の位となった行者は、以後、どのように過ごすことになるのか、獲信した行者は、第三者から見て分かり得るのかどうか、更には、往生という事態をどう捉えるのか、獲信した行者における往相回向・還相回向(往還二種回向)のあり方をどう捉えるのかなど、色々と精査しなければならない問題点があり、親鸞会の方との議論というのも、論点はそこにつながってくるところになります。

要は、現在、親鸞会のサイトにある「親鸞会と本願寺との教義の相違点」における通仏教的な視点からの意見ということで、下記に挙げられてある相違点の内、1、2、4、5、6、7、8、9に対しての見解を示してほしいということであります。

しかし、それは通仏教からとしてはほとんど議論とならない、答えようのないこともあり、そうではなくて、浄土真宗、親鸞教学における最大の要諦となる「往相回向・還相回向(往還二種回向)」の正しい理解からであれば答えられることもあるのではないかとして、一応、このようにまとめさせて頂いているのであります。

親鸞会と本願寺10の相違点

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
いない
いる

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?
ない
ある

3 浄土真宗の正しい御本尊は?
木像でも絵像でもよい
御名号でなければならぬ

4 阿弥陀仏の救いについて
ハッキリするものではない
救われたら、 ハッキリする

5 助かるのはいつか
死なねば助からぬ
生きている時に助かる

6 救われたらどうなるのか
この世で救われたということは、ありえない
絶対の幸福になる

7 どうしたら助かるのか
念仏さえ称えておればいい
真実の信心ただ一つで助かる

8 喜んでいること
死んだらお助けを喜べ
現在、助かったことを喜ぶ身になれ

9 念仏について
念仏はみな同じだ
自力の念仏と他力の念仏とがある

10 使命としていること
葬式・法事・読経・遺骨の後始末
本当の親鸞聖人の教えを伝えること

・・

次に、では信心獲得(獲信)・信心決定により正定聚の位を得ることの事態をどう捉えるのかということになりますが、まず信心獲得(獲信)・信心決定とは、阿弥陀如来の本願による名号真実功徳と往相回向・還相回向(往還二種回向)における絶対他力の真実信心を得ることであります。

この真実信心を得ることにより、現生に正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということになるのであります。

「正定聚」とは、悟りを得ることが正しく定まった者たち、つまり、悟り・涅槃へと至ることが定まった者たちという意味合いとなり、通仏教的な菩薩の階梯においては、第八地の不動地、あるいは第六地の現前地に至った者、または、煩悩障を断滅して輪廻から解脱した者、無生法忍を得た者のことを表します。

しかし、親鸞聖人は、これを菩薩の十地の初地である「歓喜地」と説くのであります。つまり、獲信すれば、現生において菩薩の歓喜地と同等の位に至り、それは往生する存在でもあり、しかも、不退転なる存在にもなるという特異なあり方を示すのであります。これは主に「十住毘婆沙論」に基づくものとなっています。

もちろん、通仏教において、菩薩の歓喜地、あるいは、第六地、第八地、または、煩悩障の断滅、無生法忍に至るための本来必要となる色々な条件、特に智慧と福徳(功徳)の資糧の条件もほとんど関係がなくなるものであり、それは菩薩行を否定して、自力行を否定し、摂取不捨の阿弥陀如来の本願に一切をお任せすることによって現成するということなのであります。

しかし、現実的には、菩薩の歓喜地と同等とするにしても、歓喜地に至れる者など現在の衆生においても極々僅かであり、凡夫、下下品の者が、そのように至れることが更に難しいのは言うまでもありません。

ですから、信心獲得(獲信)・信心決定というものは、誰もがただ「南無阿弥陀佛」と名号念仏・称名念仏するだけで実現できるような簡単で、単純なものでも全くないということは当然に言えるのであります。

・・

往相回向・還相回向(往還二種回向)において、回向の主体を阿弥陀如来とすることにより、一気に「絶対他力」、「一切の自分のはからい(自力)の停止」へと浄土門が傾くことになるわけですが、これをわかりやすく例えるとすれば、(名号念仏・称名念仏の真実功徳により、)現在も含めて、未来の自分のありようの全てがプログラミングされてあるコンピューターを手に入れるようなイメージにある意味近いと言えるのではないだろうかと考えます。

そこには、自力的なものも含めて、自分のはからい(意思)は現在、未来に含めて一切なくなり、阿弥陀如来の本願によるはたらき、はからいに全てをお任せしていくだけのあり方ということであります。

まるで、一つの同じプログラミングにより全てがコントロールされてあるロボットが、画一的に存在して同じように行動して、そして、同じようにそんなロボットが増えていくというような無機質な世界のイメージとなるでしょうか。

それが果たして真なる浄土のありようと言えるのかどうかとなりますが、自分のはからいは全て否定される(否定されないといけない)わけですから、そのように考えることもできるということであります。

では、次に、そのような名号念仏・称名念仏の真実功徳(による摂取不捨の利益)を、誰もが無条件に受けることができるのかというと、もちろんそうではなく、それには(絶対他力の真実)信心の獲得(獲信)・信心決定が必要となります。

信心獲得(獲信)・信心決定により、正定聚の位を得ることで往生(のみならず涅槃へと向けた不退転の身となる)が可能になるとされるのであります。

・・

往相回向・還相回向、往還二種回向は、その回向主体が誰であるのかということにおいて、その様相がガラッと変わってしまうことになります。

もともと、その回向の主体は、当然に五念門を修する者、自利利他の菩薩行にある者によるところであったのでありますが、その回向の主体を阿弥陀如来としたのが、親鸞聖人であり、阿弥陀如来の本願による他力回向、往還二種は本願のはからいによるものと解されるところとなることで、その様相が一変することになります。

これは、結局のところ、五念門の修道のあり方を根底から破壊するものとなります。つまり、回向の主体が修道者ではないことを明らかとすることで、五念門の自力行、自利利他の菩薩行、二資糧集積行を完全否定して、名号念仏、称名念仏の真実功徳、それのみで一切が足り、往還二種も成し得るのだということを宣揚したということなのであります。

と共に、一気に「絶対他力」、そして、「一切の自分のはからい(自力)の停止」を求めるところとなっていくのであります。

・・

次に、浄土願生者が娑婆で過ごす意義についてのことですが、世親、曇鸞、善導と基本的な流れにおいては、五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向門)の修養が、その中心的なものとして、往生、見仏、涅槃へと向けた、菩薩行としての自利利他行、智慧と福徳の二資糧行として調えられていくべきものとされており、ある程度、通仏教的な見地に配慮して論ぜられてあるものとなっています。

但し、曇鸞において、下品下生(下下品・下品凡夫)の往生について、名号真実功徳と共に、五念門の修養者(八地以上の菩薩と同等の者)の導きの力、回向の力を必要とした名号念仏・称名念仏、いわゆる「十念往生の法門」が示されることになるのですが、以降、五念門における回向のあり方、つまり、「往相回向・還相回向」のあり方についての議論が様々に変遷していくことになってゆくのであります。

もともとは、当然に自利利他の自力菩薩行として通仏教的に調えられてあった浄土門の修道が、やがて、「十念往生の法門」への傾斜が強まっていくことにより、一気に極端な他力思想へと向かうことになるわけですが、それには「往相回向・還相回向」のあり方の議論も大きく関わってくることになるのであります。

・・

先に、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の論拠を「現観荘厳論」にあると推測したわけですが、曇鸞が「現観荘厳論」から二種法身説を展開できた可能性はかなり低いと研究者からのご指摘を頂いた。

そういえば、「現観荘厳論」は中国には伝わってなかったのか・・確かに中国での弥勒五論に「現観荘厳論」はない・・漢訳の存在についても今一つはっきりしない。ならば、「大乗荘厳経論」の仏身論あたりになるか、あるいは、「成唯識論」、または如来蔵系の「究竟一乗宝性論」あたりになるか、、

いずれにしても、三身説を基として、無漏法身(法性法身)と、受用身(報身)を方便法身としての同一化を図ろうとした原点は、「摂大乗論」において説かれてある清浄法界(無漏法身)からの清浄等流の仏のはたらきを即一的に捉えるところにもあるのではないだろうかと思われます。

その清浄等流の仏のはたらきは、真実功徳によるもので、「名号」念仏にその浄土の功徳、浄土のはたらきが全て備わっており、衆生を悟り、涅槃へと導くものであるとするのであります。

また、特に曇鸞教学において特筆すべきところは、唯識思想だけでなく、中観思想にも通底し、智慧(空思想)についても注意を払い、「名号」功徳において、「無生の生」、「無生即生」「生即無生」、いわゆる「色即是空」「空即是色」としての「空、縁起の法」の智慧を得させしめる「はたらき」ももたせてあることであります。要は、「無生法忍」、「不退転位」、「正定聚位」、「平等法身」に至らさせしめる智慧を得る功徳も「名号」の功徳に説いているということなのであります。

このそれぞれの位を菩薩の第八地とすれば、つまり、「見仏」の要件を満たせるということでもあり、「名号」念仏に「見仏」のはたらきの功徳も含めてあることを補ったものであると考えることができます。それは、更に「授記」の要件も踏まえてとなり、悟り、涅槃へと至れることを決定づけさせるという功徳も「名号」の功徳に含ませるということとなるのであります。

それが「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号となるのであります。

しかし、名号念仏に多くの功徳のあることを述べたところで、実際現実の生身の衆生、願生者に、それ(特に「不退転位」「正定聚位」「平等法身」の獲得とその証左しての智慧と現世利他功徳行など)が顕現してこない限り、実際に浄土へと往生できるまでは何もその功徳の証左が得られない、その功徳に与れないとなれば、そもそも本当に往生ができるのかどうかも非常に怪しいこと(死んでからしか分からない)になるのは言うまでもないのであります。

名号念仏と功徳実現がイコールであれば、空性・般若の智慧の獲得と共に平等法身としての菩薩の身体を生身の衆生が得れてもおかしくないはずだからであります。もちろん、浄土での「はたらき」がやはりそれには必要となるから、娑婆などの穢土では難しく、浄土に往生してからとなるのが、その理屈となるのでしょうが、では、娑婆で過ごす意義は、仏道修養も含めて悟り、涅槃へと向けて、何らもはや無いものであるならば、早々に往生できるように調えるのが得策となってしまうのではないだろうかということにもなりかねないのであります。実際にそのようにして自死した例(異相往生)は数え切れずでもあります。

いずれにしても、もう少し二種法身について考察していこうと思います。

・・

曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)については、当然に「往生論註」を詳しくあたらなければならないが、仏の二身(法身・色身)、三身(応身・報身・法身)、四身(応身・報身・智法身・自性法身)において、この「方便法身」の考え方は、四身の「智法身」を論拠にしているように思われるのである。

往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。

そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。

ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。

この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。

つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。

仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。

これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。

しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。

要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。

つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。

また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。

いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。

往相回向・還相回向(往還二種回向)について・7

2022年08月17日 | ブログ
親鸞聖人の往還二種回向論をある程度、考究していく中で、なんとなくようやく分かってきたことが別にもある。

浄土真宗内における他宗派の修行(自力行・菩薩行等)を実践している者や、利他・善行・功徳活動、社会活動に積極的な(目立つ)者へと向けられる、何となくの冷眼視、白眼視のようなものについてである。

寺院として、僧侶として、ではなく、あくまでも個人的なことの中においてするべきだ的な雰囲気も。

一時、超宗派の活動に関わっていたことがある際に、少し気になっていたのだが、ようやく理解ができたような、である。

まあ、確かに、教義に反するとすれば、そうである。門徒さんを導く上でも、そういった余計な行や活動は、矛盾を伴うと共に、誤解を招くものとなる。

特に、小池龍之介氏の例が記憶に新しい。

それは、例えば、未来の住職塾等、超宗派の活動、教義と反する余計な活動へと参加している者へと向けた同じような雰囲気も。

まあ、人によっては、全く気にするようなことでもないし、個人の自由であるとも思うのだが、こと、宗旨、教義が絡むとなるとやはり厄介なようである・・

・・

元親鸞会の方からの意見を頂きました。

「善の勧め」も結局は、善知識・獲信者(ではもちろんないけれど)である高森顕徹会長への絶対的な帰依として、特に財施、寄附が勧められるための方便の一つに所詮は過ぎないのです。

高森会長の意向、意思に逆らうと、獲信、往生できないと恐怖、不安を煽り、マインドコントロールされているのです。まさに、現人神のような扱いになっているのです。

絶対他力も、自分のはからい、意思を捨てさせて、服従させるため、おっしゃるとおり思考停止にさせるための方便になっているのです。

はやくみんなに気づいてほしいです。

・・ということのようです。

まあ、やはりそんなとこなのでしょうが、往還二種回向について、思考停止に陥らずに、親鸞会内部でももっと教義的理解を深めるようにしていかないと、結局、そういう独善、専横を許すことになってしまうのでしょう。

・・

浄土真宗の往相回向・還相回向(往還二種回向)は、その回向主体を阿弥陀如来としたことに最大の教義的宣揚があるため、それを正しく理解することが、浄土真宗の教学体系、親鸞教学の体系を正しく理解することになります。

しかし、この「回向」主体を、念仏行者、獲信者に一定認めても良いのではないかという復古的(世親・曇鸞・善導の浄土門への回帰)主張が、最近の教学論において散見される事態となっており、また、それは、親鸞会教学においても見られる主張となっています。

親鸞会教学におけるその最たるものが「善の勧め」でしょう。

もちろん、通仏教的には、「七仏通誡偈」が仏教の根幹を示すものですから、当たり前のこととなりますが、もはやそれとは全く次元が異なるものとなるため、改めて説明するまでもないのですが、先に述べさせて頂いているように「・・ただ自他共に「獲信」を得ることへと向けた勧めだけが認められうる余地があるのではないだろうかと考えます。それは善悪という我々によっての概念(意思・はからい)は全く関係なく・・」ということであります。

また、更に親鸞会の問題はどこにあるのかということですが、高森顕徹会長を善知識、獲信者(本当かどうかは当然に別問題となりますが)として絶対的な導き手であると信じ込まされ、思考停止となり、言うがままになってしまうところ(マインドコントロール)でありますでしょう。

もちろん、高森顕徹会長を善知識、獲信者と信じている(信じ込まされている)者には、私など外部の意見も当然に素直には聞いてくれないものであります。

一応、拙いなりに改めて親鸞教学を学び直す中でも、明らかに善知識、獲信者ではない(通仏教的にも当然に)と言えるのですが、そんなことはもちろん否定されてしまうのであります。

更に、少なくとも親鸞聖人の説かれた「往還二種回向」の真意でさえ、実はまともに理解されていないのではないだろうか・・とも言えるのであります。

・・

ちなみに、現時点における往相回向・還相回向(往還二種回向)の拙理解からの見解から、「親鸞会と本願寺10の相違点」について回答していくとするならば、

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

阿弥陀如来の本願による絶対他力、一切の自分のはからい(意思・自力)の停止が求められるところとなるため、自力的な目的や、自分のはからいによる目的(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、その目的をあえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることのみだけを目的としては一応言えるのではないだろうかと考えます。

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?

善の勧めが、自分のはからい(意思・自力)によるもの(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

これも、往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、あえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることへと向けた勧めだけが認められうる余地があるのではないだろうかと考えます。それは善悪という我々によっての概念(意思・はからい)は全く関係なく。

4 阿弥陀仏の救いについて

獲信を得たとすれば、それで救いがはっきりとする。

5 助かるのはいつか

獲信を得た瞬間の現生から。

6 救われたらどうなるのか

獲信を得たら、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということ。

7 どうしたら助かるのか

獲信を得ること。

8 喜んでいること

獲信を得れたこと。「歓喜地」のその名の表現の通り。

9 念仏について

どの念仏でも、その念仏は「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号であることには変わりがないが、それだけで獲信できることはまずない。

となります。

設問の内容が何を聞きたいののかが、よく分からないものもあるため、もしかすると回答がそれぞれ的外れかもしれませんが、、

いずれにしても、往相回向・還相回向(往還二種回向)についての親鸞聖人の主張、論考をより精査していく必要があると考えています。

・・

信心獲得(獲信)・信心決定により、獲信した行者は、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まることになる、つまり、菩薩の初地、歓喜地にて、往生、見仏のみならず、悟り・涅槃へと至れることが決定づけられるということなのですが、それはかなり無理がありすぎる、根拠があまりにも薄すぎる、あまりにハードルを下げ過ぎているというのが、拙見解ではあります。

また、獲信して、現生に正定聚の位となった行者は、以後、どのように過ごすことになるのか、獲信した行者は、第三者から見て分かり得るのかどうか、更には、往生という事態をどう捉えるのか、獲信した行者における往相回向・還相回向(往還二種回向)のあり方をどう捉えるのかなど、色々と精査しなければならない問題点があり、親鸞会の方との議論というのも、論点はそこにつながってくるところになります。

要は、現在、親鸞会のサイトにある「親鸞会と本願寺との教義の相違点」における通仏教的な視点からの意見ということで、下記に挙げられてある相違点の内、1、2、4、5、6、7、8、9に対しての見解を示してほしいということであります。

しかし、それは通仏教からとしてはほとんど議論とならない、答えようのないこともあり、そうではなくて、浄土真宗、親鸞教学における最大の要諦となる「往相回向・還相回向(往還二種回向)」の正しい理解からであれば答えられることもあるのではないかとして、一応、このようにまとめさせて頂いているのであります。

親鸞会と本願寺10の相違点

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
いない
いる

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?
ない
ある

3 浄土真宗の正しい御本尊は?
木像でも絵像でもよい
御名号でなければならぬ

4 阿弥陀仏の救いについて
ハッキリするものではない
救われたら、 ハッキリする

5 助かるのはいつか
死なねば助からぬ
生きている時に助かる

6 救われたらどうなるのか
この世で救われたということは、ありえない
絶対の幸福になる

7 どうしたら助かるのか
念仏さえ称えておればいい
真実の信心ただ一つで助かる

8 喜んでいること
死んだらお助けを喜べ
現在、助かったことを喜ぶ身になれ

9 念仏について
念仏はみな同じだ
自力の念仏と他力の念仏とがある

10 使命としていること
葬式・法事・読経・遺骨の後始末
本当の親鸞聖人の教えを伝えること

・・

次に、では信心獲得(獲信)・信心決定により正定聚の位を得ることの事態をどう捉えるのかということになりますが、まず信心獲得(獲信)・信心決定とは、阿弥陀如来の本願による名号真実功徳と往相回向・還相回向(往還二種回向)における絶対他力の真実信心を得ることであります。

この真実信心を得ることにより、現生に正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということになるのであります。

「正定聚」とは、悟りを得ることが正しく定まった者たち、つまり、悟り・涅槃へと至ることが定まった者たちという意味合いとなり、通仏教的な菩薩の階梯においては、第八地の不動地、あるいは第六地の現前地に至った者、または、煩悩障を断滅して輪廻から解脱した者、無生法忍を得た者のことを表します。

しかし、親鸞聖人は、これを菩薩の十地の初地である「歓喜地」と説くのであります。つまり、獲信すれば、現生において菩薩の歓喜地と同等の位に至り、それは往生する存在でもあり、しかも、不退転なる存在にもなるという特異なあり方を示すのであります。これは主に「十住毘婆沙論」に基づくものとなっています。

もちろん、通仏教において、菩薩の歓喜地、あるいは、第六地、第八地、または、煩悩障の断滅、無生法忍に至るための本来必要となる色々な条件、特に智慧と福徳(功徳)の資糧の条件もほとんど関係がなくなるものであり、それは菩薩行を否定して、自力行を否定し、摂取不捨の阿弥陀如来の本願に一切をお任せすることによって現成するということなのであります。

しかし、現実的には、菩薩の歓喜地と同等とするにしても、歓喜地に至れる者など現在の衆生においても極々僅かであり、凡夫、下下品の者が、そのように至れることが更に難しいのは言うまでもありません。

ですから、信心獲得(獲信)・信心決定というものは、誰もがただ「南無阿弥陀佛」と名号念仏・称名念仏するだけで実現できるような簡単で、単純なものでも全くないということは当然に言えるのであります。

・・

往相回向・還相回向(往還二種回向)において、回向の主体を阿弥陀如来とすることにより、一気に「絶対他力」、「一切の自分のはからい(自力)の停止」へと浄土門が傾くことになるわけですが、これをわかりやすく例えるとすれば、(名号念仏・称名念仏の真実功徳により、)現在も含めて、未来の自分のありようの全てがプログラミングされてあるコンピューターを手に入れるようなイメージにある意味近いと言えるのではないだろうかと考えます。

そこには、自力的なものも含めて、自分のはからい(意思)は現在、未来に含めて一切なくなり、阿弥陀如来の本願によるはたらき、はからいに全てをお任せしていくだけのあり方ということであります。

まるで、一つの同じプログラミングにより全てがコントロールされてあるロボットが、画一的に存在して同じように行動して、そして、同じようにそんなロボットが増えていくというような無機質な世界のイメージとなるでしょうか。

それが果たして真なる浄土のありようと言えるのかどうかとなりますが、自分のはからいは全て否定される(否定されないといけない)わけですから、そのように考えることもできるということであります。

では、次に、そのような名号念仏・称名念仏の真実功徳(による摂取不捨の利益)を、誰もが無条件に受けることができるのかというと、もちろんそうではなく、それには(絶対他力の真実)信心の獲得(獲信)・信心決定が必要となります。

信心獲得(獲信)・信心決定により、正定聚の位を得ることで往生(のみならず涅槃へと向けた不退転の身となる)が可能になるとされるのであります。

・・

往相回向・還相回向、往還二種回向は、その回向主体が誰であるのかということにおいて、その様相がガラッと変わってしまうことになります。

もともと、その回向の主体は、当然に五念門を修する者、自利利他の菩薩行にある者によるところであったのでありますが、その回向の主体を阿弥陀如来としたのが、親鸞聖人であり、阿弥陀如来の本願による他力回向、往還二種は本願のはからいによるものと解されるところとなることで、その様相が一変することになります。

これは、結局のところ、五念門の修道のあり方を根底から破壊するものとなります。つまり、回向の主体が修道者ではないことを明らかとすることで、五念門の自力行、自利利他の菩薩行、二資糧集積行を完全否定して、名号念仏、称名念仏の真実功徳、それのみで一切が足り、往還二種も成し得るのだということを宣揚したということなのであります。

と共に、一気に「絶対他力」、そして、「一切の自分のはからい(自力)の停止」を求めるところとなっていくのであります。

・・

次に、浄土願生者が娑婆で過ごす意義についてのことですが、世親、曇鸞、善導と基本的な流れにおいては、五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向門)の修養が、その中心的なものとして、往生、見仏、涅槃へと向けた、菩薩行としての自利利他行、智慧と福徳の二資糧行として調えられていくべきものとされており、ある程度、通仏教的な見地に配慮して論ぜられてあるものとなっています。

但し、曇鸞において、下品下生(下下品・下品凡夫)の往生について、名号真実功徳と共に、五念門の修養者(八地以上の菩薩と同等の者)の導きの力、回向の力を必要とした名号念仏・称名念仏、いわゆる「十念往生の法門」が示されることになるのですが、以降、五念門における回向のあり方、つまり、「往相回向・還相回向」のあり方についての議論が様々に変遷していくことになってゆくのであります。

もともとは、当然に自利利他の自力菩薩行として通仏教的に調えられてあった浄土門の修道が、やがて、「十念往生の法門」への傾斜が強まっていくことにより、一気に極端な他力思想へと向かうことになるわけですが、それには「往相回向・還相回向」のあり方の議論も大きく関わってくることになるのであります。

・・

先に、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の論拠を「現観荘厳論」にあると推測したわけですが、曇鸞が「現観荘厳論」から二種法身説を展開できた可能性はかなり低いと研究者からのご指摘を頂いた。

そういえば、「現観荘厳論」は中国には伝わってなかったのか・・確かに中国での弥勒五論に「現観荘厳論」はない・・漢訳の存在についても今一つはっきりしない。ならば、「大乗荘厳経論」の仏身論あたりになるか、あるいは、「成唯識論」、または如来蔵系の「究竟一乗宝性論」あたりになるか、、

いずれにしても、三身説を基として、無漏法身(法性法身)と、受用身(報身)を方便法身としての同一化を図ろうとした原点は、「摂大乗論」において説かれてある清浄法界(無漏法身)からの清浄等流の仏のはたらきを即一的に捉えるところにもあるのではないだろうかと思われます。

その清浄等流の仏のはたらきは、真実功徳によるもので、「名号」念仏にその浄土の功徳、浄土のはたらきが全て備わっており、衆生を悟り、涅槃へと導くものであるとするのであります。

また、特に曇鸞教学において特筆すべきところは、唯識思想だけでなく、中観思想にも通底し、智慧(空思想)についても注意を払い、「名号」功徳において、「無生の生」、「無生即生」「生即無生」、いわゆる「色即是空」「空即是色」としての「空、縁起の法」の智慧を得させしめる「はたらき」ももたせてあることであります。要は、「無生法忍」、「不退転位」、「正定聚位」、「平等法身」に至らさせしめる智慧を得る功徳も「名号」の功徳に説いているということなのであります。

このそれぞれの位を菩薩の第八地とすれば、つまり、「見仏」の要件を満たせるということでもあり、「名号」念仏に「見仏」のはたらきの功徳も含めてあることを補ったものであると考えることができます。それは、更に「授記」の要件も踏まえてとなり、悟り、涅槃へと至れることを決定づけさせるという功徳も「名号」の功徳に含ませるということとなるのであります。

それが「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号となるのであります。

しかし、名号念仏に多くの功徳のあることを述べたところで、実際現実の生身の衆生、願生者に、それ(特に「不退転位」「正定聚位」「平等法身」の獲得とその証左しての智慧と現世利他功徳行など)が顕現してこない限り、実際に浄土へと往生できるまでは何もその功徳の証左が得られない、その功徳に与れないとなれば、そもそも本当に往生ができるのかどうかも非常に怪しいこと(死んでからしか分からない)になるのは言うまでもないのであります。

名号念仏と功徳実現がイコールであれば、空性・般若の智慧の獲得と共に平等法身としての菩薩の身体を生身の衆生が得れてもおかしくないはずだからであります。もちろん、浄土での「はたらき」がやはりそれには必要となるから、娑婆などの穢土では難しく、浄土に往生してからとなるのが、その理屈となるのでしょうが、では、娑婆で過ごす意義は、仏道修養も含めて悟り、涅槃へと向けて、何らもはや無いものであるならば、早々に往生できるように調えるのが得策となってしまうのではないだろうかということにもなりかねないのであります。実際にそのようにして自死した例(異相往生)は数え切れずでもあります。

いずれにしても、もう少し二種法身について考察していこうと思います。

・・

曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)については、当然に「往生論註」を詳しくあたらなければならないが、仏の二身(法身・色身)、三身(応身・報身・法身)、四身(応身・報身・智法身・自性法身)において、この「方便法身」の考え方は、四身の「智法身」を論拠にしているように思われるのである。

往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。

そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。

ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。

この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。

つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。

仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。

これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。

しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。

要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。

つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。

また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。

いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。

現生往生説について

2022年08月16日 | ブログ
現生往生説をどう考えるのかとしても、往生の定義をどう捉えるのかで見解は色々と変わるでしょう。

現世、娑婆を如来の化身化土や報身報土、またはそれに近似するものと捉えられれば、現生往生と言える事態もあるでしょうし、それぞれにおける現生の修習次第において、そこが浄土として真なる菩提心と共に仏道を歩む自分を自覚した再出発を往生と言えるようなこともありうるとは思います。

ただ、往生の主目的は「見仏と授記」にあるわけですから、例えば如来からの直接の見仏、教化を頂ける事態となれば、往生云々などは所詮のところ、どうでもよい瑣末な議論になります。

また、最勝応身や報身でなくても、化身からの教化を頂ける世界を如来の化土と捉えれば、そこを浄土として、先に述べてあるように現生往生と言える事態もあるでしょう。しかし、この場合は、見仏、授記がないのであれば、往生とは言えないのではないかとは思います。

一方、例えば、密教においては、灌頂によって「見仏と授記」を頂くことになるため、それは現生往生と言える事態に当てはまるのではないかと考えます。

では、浄土真宗、親鸞聖人における往生観はどうなるのかと言えば、獲信という事態は、明らかに「見仏と授記」を得るものではないため、拙見解では、現生往生と言えるような事態ではないと考えます。正定聚の位も、あくまでも往生、見仏、授記の(確定的な)「予約」を得られたといった感じに近いのではないかと考えます。また、現生往生が想定されるような親鸞聖人の明らかな論説も著作群にはないように思われます。

往相回向・還相回向(往還二種回向)について・6

2022年08月13日 | ブログ
元親鸞会の方からの意見を頂きました。

「善の勧め」も結局は、善知識・獲信者(ではもちろんないけれど)である高森顕徹会長への絶対的な帰依として、特に財施、寄附が勧められるための方便の一つに所詮は過ぎないのです。

高森会長の意向、意思に逆らうと、獲信、往生できないと恐怖、不安を煽り、マインドコントロールされているのです。まさに、現人神のような扱いになっているのです。

絶対他力も、自分のはからい、意思を捨てさせて、服従させるため、おっしゃるとおり思考停止にさせるための方便になっているのです。

はやくみんなに気づいてほしいです。

・・ということのようです。

まあ、やはりそんなとこなのでしょうが、往還二種回向について、思考停止に陥らずに、親鸞会内部でももっと教義的理解を深めるようにしていかないと、結局、そういう独善、専横を許すことになってしまうのでしょう。

・・

浄土真宗の往相回向・還相回向(往還二種回向)は、その回向主体を阿弥陀如来としたことに最大の教義的宣揚があるため、それを正しく理解することが、浄土真宗の教学体系、親鸞教学の体系を正しく理解することになります。

しかし、この「回向」主体を、念仏行者、獲信者に一定認めても良いのではないかという復古的(世親・曇鸞・善導の浄土門への回帰)主張が、最近の教学論において散見される事態となっており、また、それは、親鸞会教学においても見られる主張となっています。

親鸞会教学におけるその最たるものが「善の勧め」でしょう。

もちろん、通仏教的には、「七仏通誡偈」が仏教の根幹を示すものですから、当たり前のこととなりますが、もはやそれとは全く次元が異なるものとなるため、改めて説明するまでもないのですが、先に述べさせて頂いているように「・・ただ自他共に「獲信」を得ることへと向けた勧めだけが認められうる余地があるのではないだろうかと考えます。それは善悪という我々によっての概念(意思・はからい)は全く関係なく・・」ということであります。

また、更に親鸞会の問題はどこにあるのかということですが、高森顕徹会長を善知識、獲信者(本当かどうかは当然に別問題となりますが)として絶対的な導き手であると信じ込まされ、思考停止となり、言うがままになってしまうところ(マインドコントロール)でありますでしょう。

もちろん、高森顕徹会長を善知識、獲信者と信じている(信じ込まされている)者には、私など外部の意見も当然に素直には聞いてくれないものであります。

一応、拙いなりに改めて親鸞教学を学び直す中でも、明らかに善知識、獲信者ではない(通仏教的にも当然に)と言えるのですが、そんなことはもちろん否定されてしまうのであります。

更に、少なくとも親鸞聖人の説かれた「往還二種回向」の真意でさえ、実はまともに理解されていないのではないだろうか・・とも言えるのであります。

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ちなみに、現時点における往相回向・還相回向(往還二種回向)の拙理解からの見解から、「親鸞会と本願寺10の相違点」について回答していくとするならば、

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

阿弥陀如来の本願による絶対他力、一切の自分のはからい(意思・自力)の停止が求められるところとなるため、自力的な目的や、自分のはからいによる目的(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、その目的をあえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることのみだけを目的としては一応言えるのではないだろうかと考えます。

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?

善の勧めが、自分のはからい(意思・自力)によるもの(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

これも、往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、あえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることへと向けた勧めだけが認められうる余地があるのではないだろうかと考えます。それは善悪という我々によっての概念(意思・はからい)は全く関係なく。

4 阿弥陀仏の救いについて

獲信を得たとすれば、それで救いがはっきりとする。

5 助かるのはいつか

獲信を得た瞬間の現生から。

6 救われたらどうなるのか

獲信を得たら、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということ。

7 どうしたら助かるのか

獲信を得ること。

8 喜んでいること

獲信を得れたこと。「歓喜地」のその名の表現の通り。

9 念仏について

どの念仏でも、その念仏は「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号であることには変わりがないが、それだけで獲信できることはまずない。

となります。

設問の内容が何を聞きたいののかが、よく分からないものもあるため、もしかすると回答がそれぞれ的外れかもしれませんが、、

いずれにしても、往相回向・還相回向(往還二種回向)についての親鸞聖人の主張、論考をより精査していく必要があると考えています。

・・

信心獲得(獲信)・信心決定により、獲信した行者は、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まることになる、つまり、菩薩の初地、歓喜地にて、往生、見仏のみならず、悟り・涅槃へと至れることが決定づけられるということなのですが、それはかなり無理がありすぎる、根拠があまりにも薄すぎる、あまりにハードルを下げ過ぎているというのが、拙見解ではあります。

また、獲信して、現生に正定聚の位となった行者は、以後、どのように過ごすことになるのか、獲信した行者は、第三者から見て分かり得るのかどうか、更には、往生という事態をどう捉えるのか、獲信した行者における往相回向・還相回向(往還二種回向)のあり方をどう捉えるのかなど、色々と精査しなければならない問題点があり、親鸞会の方との議論というのも、論点はそこにつながってくるところになります。

要は、現在、親鸞会のサイトにある「親鸞会と本願寺との教義の相違点」における通仏教的な視点からの意見ということで、下記に挙げられてある相違点の内、1、2、4、5、6、7、8、9に対しての見解を示してほしいということであります。

しかし、それは通仏教からとしてはほとんど議論とならない、答えようのないこともあり、そうではなくて、浄土真宗、親鸞教学における最大の要諦となる「往相回向・還相回向(往還二種回向)」の正しい理解からであれば答えられることもあるのではないかとして、一応、このようにまとめさせて頂いているのであります。

親鸞会と本願寺10の相違点

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
いない
いる

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?
ない
ある

3 浄土真宗の正しい御本尊は?
木像でも絵像でもよい
御名号でなければならぬ

4 阿弥陀仏の救いについて
ハッキリするものではない
救われたら、 ハッキリする

5 助かるのはいつか
死なねば助からぬ
生きている時に助かる

6 救われたらどうなるのか
この世で救われたということは、ありえない
絶対の幸福になる

7 どうしたら助かるのか
念仏さえ称えておればいい
真実の信心ただ一つで助かる

8 喜んでいること
死んだらお助けを喜べ
現在、助かったことを喜ぶ身になれ

9 念仏について
念仏はみな同じだ
自力の念仏と他力の念仏とがある

10 使命としていること
葬式・法事・読経・遺骨の後始末
本当の親鸞聖人の教えを伝えること

・・

次に、では信心獲得(獲信)・信心決定により正定聚の位を得ることの事態をどう捉えるのかということになりますが、まず信心獲得(獲信)・信心決定とは、阿弥陀如来の本願による名号真実功徳と往相回向・還相回向(往還二種回向)における絶対他力の真実信心を得ることであります。

この真実信心を得ることにより、現生に正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということになるのであります。

「正定聚」とは、悟りを得ることが正しく定まった者たち、つまり、悟り・涅槃へと至ることが定まった者たちという意味合いとなり、通仏教的な菩薩の階梯においては、第八地の不動地、あるいは第六地の現前地に至った者、または、煩悩障を断滅して輪廻から解脱した者、無生法忍を得た者のことを表します。

しかし、親鸞聖人は、これを菩薩の十地の初地である「歓喜地」と説くのであります。つまり、獲信すれば、現生において菩薩の歓喜地と同等の位に至り、それは往生する存在でもあり、しかも、不退転なる存在にもなるという特異なあり方を示すのであります。これは主に「十住毘婆沙論」に基づくものとなっています。

もちろん、通仏教において、菩薩の歓喜地、あるいは、第六地、第八地、または、煩悩障の断滅、無生法忍に至るための本来必要となる色々な条件、特に智慧と福徳(功徳)の資糧の条件もほとんど関係がなくなるものであり、それは菩薩行を否定して、自力行を否定し、摂取不捨の阿弥陀如来の本願に一切をお任せすることによって現成するということなのであります。

しかし、現実的には、菩薩の歓喜地と同等とするにしても、歓喜地に至れる者など現在の衆生においても極々僅かであり、凡夫、下下品の者が、そのように至れることが更に難しいのは言うまでもありません。

ですから、信心獲得(獲信)・信心決定というものは、誰もがただ「南無阿弥陀佛」と名号念仏・称名念仏するだけで実現できるような簡単で、単純なものでも全くないということは当然に言えるのであります。

・・

往相回向・還相回向(往還二種回向)において、回向の主体を阿弥陀如来とすることにより、一気に「絶対他力」、「一切の自分のはからい(自力)の停止」へと浄土門が傾くことになるわけですが、これをわかりやすく例えるとすれば、(名号念仏・称名念仏の真実功徳により、)現在も含めて、未来の自分のありようの全てがプログラミングされてあるコンピューターを手に入れるようなイメージにある意味近いと言えるのではないだろうかと考えます。

そこには、自力的なものも含めて、自分のはからい(意思)は現在、未来に含めて一切なくなり、阿弥陀如来の本願によるはたらき、はからいに全てをお任せしていくだけのあり方ということであります。

まるで、一つの同じプログラミングにより全てがコントロールされてあるロボットが、画一的に存在して同じように行動して、そして、同じようにそんなロボットが増えていくというような無機質な世界のイメージとなるでしょうか。

それが果たして真なる浄土のありようと言えるのかどうかとなりますが、自分のはからいは全て否定される(否定されないといけない)わけですから、そのように考えることもできるということであります。

では、次に、そのような名号念仏・称名念仏の真実功徳(による摂取不捨の利益)を、誰もが無条件に受けることができるのかというと、もちろんそうではなく、それには(絶対他力の真実)信心の獲得(獲信)・信心決定が必要となります。

信心獲得(獲信)・信心決定により、正定聚の位を得ることで往生(のみならず涅槃へと向けた不退転の身となる)が可能になるとされるのであります。

・・

往相回向・還相回向、往還二種回向は、その回向主体が誰であるのかということにおいて、その様相がガラッと変わってしまうことになります。

もともと、その回向の主体は、当然に五念門を修する者、自利利他の菩薩行にある者によるところであったのでありますが、その回向の主体を阿弥陀如来としたのが、親鸞聖人であり、阿弥陀如来の本願による他力回向、往還二種は本願のはからいによるものと解されるところとなることで、その様相が一変することになります。

これは、結局のところ、五念門の修道のあり方を根底から破壊するものとなります。つまり、回向の主体が修道者ではないことを明らかとすることで、五念門の自力行、自利利他の菩薩行、二資糧集積行を完全否定して、名号念仏、称名念仏の真実功徳、それのみで一切が足り、往還二種も成し得るのだということを宣揚したということなのであります。

と共に、一気に「絶対他力」、そして、「一切の自分のはからい(自力)の停止」を求めるところとなっていくのであります。

・・

次に、浄土願生者が娑婆で過ごす意義についてのことですが、世親、曇鸞、善導と基本的な流れにおいては、五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向門)の修養が、その中心的なものとして、往生、見仏、涅槃へと向けた、菩薩行としての自利利他行、智慧と福徳の二資糧行として調えられていくべきものとされており、ある程度、通仏教的な見地に配慮して論ぜられてあるものとなっています。

但し、曇鸞において、下品下生(下下品・下品凡夫)の往生について、名号真実功徳と共に、五念門の修養者(八地以上の菩薩と同等の者)の導きの力、回向の力を必要とした名号念仏・称名念仏、いわゆる「十念往生の法門」が示されることになるのですが、以降、五念門における回向のあり方、つまり、「往相回向・還相回向」のあり方についての議論が様々に変遷していくことになってゆくのであります。

もともとは、当然に自利利他の自力菩薩行として通仏教的に調えられてあった浄土門の修道が、やがて、「十念往生の法門」への傾斜が強まっていくことにより、一気に極端な他力思想へと向かうことになるわけですが、それには「往相回向・還相回向」のあり方の議論も大きく関わってくることになるのであります。

・・

先に、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の論拠を「現観荘厳論」にあると推測したわけですが、曇鸞が「現観荘厳論」から二種法身説を展開できた可能性はかなり低いと研究者からのご指摘を頂いた。

そういえば、「現観荘厳論」は中国には伝わってなかったのか・・確かに中国での弥勒五論に「現観荘厳論」はない・・漢訳の存在についても今一つはっきりしない。ならば、「大乗荘厳経論」の仏身論あたりになるか、あるいは、「成唯識論」、または如来蔵系の「究竟一乗宝性論」あたりになるか、、

いずれにしても、三身説を基として、無漏法身(法性法身)と、受用身(報身)を方便法身としての同一化を図ろうとした原点は、「摂大乗論」において説かれてある清浄法界(無漏法身)からの清浄等流の仏のはたらきを即一的に捉えるところにもあるのではないだろうかと思われます。

その清浄等流の仏のはたらきは、真実功徳によるもので、「名号」念仏にその浄土の功徳、浄土のはたらきが全て備わっており、衆生を悟り、涅槃へと導くものであるとするのであります。

また、特に曇鸞教学において特筆すべきところは、唯識思想だけでなく、中観思想にも通底し、智慧(空思想)についても注意を払い、「名号」功徳において、「無生の生」、「無生即生」「生即無生」、いわゆる「色即是空」「空即是色」としての「空、縁起の法」の智慧を得させしめる「はたらき」ももたせてあることであります。要は、「無生法忍」、「不退転位」、「正定聚位」、「平等法身」に至らさせしめる智慧を得る功徳も「名号」の功徳に説いているということなのであります。

このそれぞれの位を菩薩の第八地とすれば、つまり、「見仏」の要件を満たせるということでもあり、「名号」念仏に「見仏」のはたらきの功徳も含めてあることを補ったものであると考えることができます。それは、更に「授記」の要件も踏まえてとなり、悟り、涅槃へと至れることを決定づけさせるという功徳も「名号」の功徳に含ませるということとなるのであります。

それが「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号となるのであります。

しかし、名号念仏に多くの功徳のあることを述べたところで、実際現実の生身の衆生、願生者に、それ(特に「不退転位」「正定聚位」「平等法身」の獲得とその証左しての智慧と現世利他功徳行など)が顕現してこない限り、実際に浄土へと往生できるまでは何もその功徳の証左が得られない、その功徳に与れないとなれば、そもそも本当に往生ができるのかどうかも非常に怪しいこと(死んでからしか分からない)になるのは言うまでもないのであります。

名号念仏と功徳実現がイコールであれば、空性・般若の智慧の獲得と共に平等法身としての菩薩の身体を生身の衆生が得れてもおかしくないはずだからであります。もちろん、浄土での「はたらき」がやはりそれには必要となるから、娑婆などの穢土では難しく、浄土に往生してからとなるのが、その理屈となるのでしょうが、では、娑婆で過ごす意義は、仏道修養も含めて悟り、涅槃へと向けて、何らもはや無いものであるならば、早々に往生できるように調えるのが得策となってしまうのではないだろうかということにもなりかねないのであります。実際にそのようにして自死した例(異相往生)は数え切れずでもあります。

いずれにしても、もう少し二種法身について考察していこうと思います。

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曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)については、当然に「往生論註」を詳しくあたらなければならないが、仏の二身(法身・色身)、三身(応身・報身・法身)、四身(応身・報身・智法身・自性法身)において、この「方便法身」の考え方は、四身の「智法身」を論拠にしているように思われるのである。

往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。

そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。

ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。

この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。

つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。

仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。

これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。

しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。

要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。

つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。

また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。

いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。

自性法身と智法身について

2022年08月12日 | ブログ
これはもう少し単純に考えるのであれば、無上瑜伽タントラにおける「光明」に二つあるそれが、自性法身と智法身にそれぞれ分類されるものとして、認識対象の空性が自性法身に、その空性を認識する主体が智法身に、ということであります。

もちろん、成仏においては、光明における対象と認識において、勝義の空性を一味としなければならないことになります。

いずれにしても智法身は、色身ではないということになります。

更に詳しくとなれば、第四次第の勝義の光明における「倶生の大楽智」が、「智法身」に移行していくと考えることができます。

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さて、少し先に触れましたが、現観荘厳論註で有名なハリバドラの四身説をツォンカパ大師がご支持なさられたことで、チベット仏教においては、以後、四身説(応身・報身・智法身・自性法身)が通説となるところになりました。

では、チベット仏教においては、智法身・自性法身の位置づけがどのようになるのかということですが、それは、顕密共の成道過程における福智二資糧による法身へと至った結果として、二つの素地がそれぞれ円満に備えられたということを表すものであり、智法身・自性法身により直接に衆生に対して救済のはたらきかけが行われるようなものではないと考えることができます。

特に密教、無上瑜伽タントラにおいては、方便の菩提心が、智法身へと繋がり、般若の菩提心が、自性法身へと繋がるという、法身へと至るための独特な修習の論拠として示されてくるところとなります。

そして、智法身は、色身(報身・応身)の根拠として説明され得るということであります。

もちろん、これはあくまでも修行の過程からの結果を見た場合における分類としての、ということであり、智法身・自性法身が何か個別具体的な衆生の救済にあたるというものではないと解しています。

また、先の考察にて、曇鸞の「方便法身」の根拠が、現観荘厳論における「智法身」にあると推測したわけですが、そもそも、成道の過程、仏の事業において「方便」に関わるにもかかわらず、もともとに「智」という名前が付いてある理由について考える必要があるように思われます。

チベット仏教における四身説においては、特に無上瑜伽タントラなど密教の灌頂において四身成就へと向けたあり方で「智法身」も論じられるところとなります。

灌頂は、修習の許可が与えられるもので、瓶灌頂、秘密灌頂、般若智灌頂、第四灌頂が、それぞれに応身、報身、法身、法身を得るためのもので、「智法身」は、般若智灌頂における世俗の菩提心、つまり、方便の菩提心がその基となるものと考えることができます。

問題は、世俗・方便の意を有しながら、なぜ「智」と名付けられてあるのかということであります。

「智」となれば、般若の智慧、勝義の智慧が連想されることになるからであります。ならば、世俗・方便とは違った「空性」に関わるものになるのかとなりますが、しかし、そうではありません。

ならば、この「智」の意味は何かということですが、自性法身は、勝義の空そのものとなりますが、その勝義の空を認識するものは何かということであります。それが「智法身」であるということであります。

要は、一切智の「智」で、「智法身」は仏陀の認識する主体と言い得るのであります。この「智」がなければ、当然に衆生のありようも認識されないことになります。この「智」がなければ、方便のはたらきも当然にできないことになるからであります。

仏陀の認識する力、つまり、お知りになられる力が、この「智」として表されてあると言えるのではないかと考えます。それは慈悲による方便を行う根拠の「智」ということなのであります。

この「智」によって衆生のありようをご覧にならない仕方にてご覧になられて、済度のために報身、応身をご発動なさられるのであります。

ですから、「智法身」は、仏陀の認識する力のことであり、それが直接に衆生に対して何かはたらきかけをされるというわけではないということが、これでよりはっきりと言えるのではないだろうかと存じます。

往相回向・還相回向(往還二種回向)について・5

2022年08月10日 | ブログ
浄土真宗の往相回向・還相回向(往還二種回向)は、その回向主体を阿弥陀如来としたことに最大の教義的宣揚があるため、それを正しく理解することが、浄土真宗の教学体系、親鸞教学の体系を正しく理解することになります。

しかし、この「回向」主体を、念仏行者、獲信者に一定認めても良いのではないかという復古的(世親・曇鸞・善導の浄土門への回帰)主張が、最近の教学論において散見される事態となっており、また、それは、親鸞会教学においても見られる主張となっています。

親鸞会教学におけるその最たるものが「善の勧め」でしょう。

もちろん、通仏教的には、「七仏通誡偈」が仏教の根幹を示すものですから、当たり前のこととなりますが、もはやそれとは全く次元が異なるものとなるため、改めて説明するまでもないのですが、先に述べさせて頂いているように「・・ただ自他共に「獲信」を得ることへと向けた勧めだけが認められうる余地があるのではないだろうかと考えます。それは善悪という我々によっての概念(意思・はからい)は全く関係なく・・」ということであります。

また、更に親鸞会の問題はどこにあるのかということですが、高森顕徹会長を善知識、獲信者(本当かどうかは当然に別問題となりますが)として絶対的な導き手であると信じ込まされ、思考停止となり、言うがままになってしまうところ(マインドコントロール)でありますでしょう。

もちろん、高森顕徹会長を善知識、獲信者と信じている(信じ込まされている)者には、私など外部の意見も当然に素直には聞いてくれないものであります。

一応、拙いなりに改めて親鸞教学を学び直す中でも、明らかに善知識、獲信者ではない(通仏教的にも当然に)と言えるのですが、そんなことはもちろん否定されてしまうのであります。

更に、少なくとも親鸞聖人の説かれた「往還二種回向」の真意でさえ、実はまともに理解されていないのではないだろうか・・とも言えるのであります。

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ちなみに、現時点における往相回向・還相回向(往還二種回向)の拙理解からの見解から、「親鸞会と本願寺10の相違点」について回答していくとするならば、

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

阿弥陀如来の本願による絶対他力、一切の自分のはからい(意思・自力)の停止が求められるところとなるため、自力的な目的や、自分のはからいによる目的(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、その目的をあえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることのみだけを目的としては一応言えるのではないだろうかと考えます。

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?

善の勧めが、自分のはからい(意思・自力)によるもの(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

これも、往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、あえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることへと向けた勧めだけが認められうる余地があるのではないだろうかと考えます。それは善悪という我々によっての概念(意思・はからい)は全く関係なく。

4 阿弥陀仏の救いについて

獲信を得たとすれば、それで救いがはっきりとする。

5 助かるのはいつか

獲信を得た瞬間の現生から。

6 救われたらどうなるのか

獲信を得たら、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということ。

7 どうしたら助かるのか

獲信を得ること。

8 喜んでいること

獲信を得れたこと。「歓喜地」のその名の表現の通り。

9 念仏について

どの念仏でも、その念仏は「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号であることには変わりがないが、それだけで獲信できることはまずない。

となります。

設問の内容が何を聞きたいののかが、よく分からないものもあるため、もしかすると回答がそれぞれ的外れかもしれませんが、、

いずれにしても、往相回向・還相回向(往還二種回向)についての親鸞聖人の主張、論考をより精査していく必要があると考えています。

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信心獲得(獲信)・信心決定により、獲信した行者は、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まることになる、つまり、菩薩の初地、歓喜地にて、往生、見仏のみならず、悟り・涅槃へと至れることが決定づけられるということなのですが、それはかなり無理がありすぎる、根拠があまりにも薄すぎる、あまりにハードルを下げ過ぎているというのが、拙見解ではあります。

また、獲信して、現生に正定聚の位となった行者は、以後、どのように過ごすことになるのか、獲信した行者は、第三者から見て分かり得るのかどうか、更には、往生という事態をどう捉えるのか、獲信した行者における往相回向・還相回向(往還二種回向)のあり方をどう捉えるのかなど、色々と精査しなければならない問題点があり、親鸞会の方との議論というのも、論点はそこにつながってくるところになります。

要は、現在、親鸞会のサイトにある「親鸞会と本願寺との教義の相違点」における通仏教的な視点からの意見ということで、下記に挙げられてある相違点の内、1、2、4、5、6、7、8、9に対しての見解を示してほしいということであります。

しかし、それは通仏教からとしてはほとんど議論とならない、答えようのないこともあり、そうではなくて、浄土真宗、親鸞教学における最大の要諦となる「往相回向・還相回向(往還二種回向)」の正しい理解からであれば答えられることもあるのではないかとして、一応、このようにまとめさせて頂いているのであります。

親鸞会と本願寺10の相違点

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
いない
いる

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?
ない
ある

3 浄土真宗の正しい御本尊は?
木像でも絵像でもよい
御名号でなければならぬ

4 阿弥陀仏の救いについて
ハッキリするものではない
救われたら、 ハッキリする

5 助かるのはいつか
死なねば助からぬ
生きている時に助かる

6 救われたらどうなるのか
この世で救われたということは、ありえない
絶対の幸福になる

7 どうしたら助かるのか
念仏さえ称えておればいい
真実の信心ただ一つで助かる

8 喜んでいること
死んだらお助けを喜べ
現在、助かったことを喜ぶ身になれ

9 念仏について
念仏はみな同じだ
自力の念仏と他力の念仏とがある

10 使命としていること
葬式・法事・読経・遺骨の後始末
本当の親鸞聖人の教えを伝えること

・・

次に、では信心獲得(獲信)・信心決定により正定聚の位を得ることの事態をどう捉えるのかということになりますが、まず信心獲得(獲信)・信心決定とは、阿弥陀如来の本願による名号真実功徳と往相回向・還相回向(往還二種回向)における絶対他力の真実信心を得ることであります。

この真実信心を得ることにより、現生に正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということになるのであります。

「正定聚」とは、悟りを得ることが正しく定まった者たち、つまり、悟り・涅槃へと至ることが定まった者たちという意味合いとなり、通仏教的な菩薩の階梯においては、第八地の不動地、あるいは第六地の現前地に至った者、または、煩悩障を断滅して輪廻から解脱した者、無生法忍を得た者のことを表します。

しかし、親鸞聖人は、これを菩薩の十地の初地である「歓喜地」と説くのであります。つまり、獲信すれば、現生において菩薩の歓喜地と同等の位に至り、それは往生する存在でもあり、しかも、不退転なる存在にもなるという特異なあり方を示すのであります。これは主に「十住毘婆沙論」に基づくものとなっています。

もちろん、通仏教において、菩薩の歓喜地、あるいは、第六地、第八地、または、煩悩障の断滅、無生法忍に至るための本来必要となる色々な条件、特に智慧と福徳(功徳)の資糧の条件もほとんど関係がなくなるものであり、それは菩薩行を否定して、自力行を否定し、摂取不捨の阿弥陀如来の本願に一切をお任せすることによって現成するということなのであります。

しかし、現実的には、菩薩の歓喜地と同等とするにしても、歓喜地に至れる者など現在の衆生においても極々僅かであり、凡夫、下下品の者が、そのように至れることが更に難しいのは言うまでもありません。

ですから、信心獲得(獲信)・信心決定というものは、誰もがただ「南無阿弥陀佛」と名号念仏・称名念仏するだけで実現できるような簡単で、単純なものでも全くないということは当然に言えるのであります。

・・

往相回向・還相回向(往還二種回向)において、回向の主体を阿弥陀如来とすることにより、一気に「絶対他力」、「一切の自分のはからい(自力)の停止」へと浄土門が傾くことになるわけですが、これをわかりやすく例えるとすれば、(名号念仏・称名念仏の真実功徳により、)現在も含めて、未来の自分のありようの全てがプログラミングされてあるコンピューターを手に入れるようなイメージにある意味近いと言えるのではないだろうかと考えます。

そこには、自力的なものも含めて、自分のはからい(意思)は現在、未来に含めて一切なくなり、阿弥陀如来の本願によるはたらき、はからいに全てをお任せしていくだけのあり方ということであります。

まるで、一つの同じプログラミングにより全てがコントロールされてあるロボットが、画一的に存在して同じように行動して、そして、同じようにそんなロボットが増えていくというような無機質な世界のイメージとなるでしょうか。

それが果たして真なる浄土のありようと言えるのかどうかとなりますが、自分のはからいは全て否定される(否定されないといけない)わけですから、そのように考えることもできるということであります。

では、次に、そのような名号念仏・称名念仏の真実功徳(による摂取不捨の利益)を、誰もが無条件に受けることができるのかというと、もちろんそうではなく、それには(絶対他力の真実)信心の獲得(獲信)・信心決定が必要となります。

信心獲得(獲信)・信心決定により、正定聚の位を得ることで往生(のみならず涅槃へと向けた不退転の身となる)が可能になるとされるのであります。

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往相回向・還相回向、往還二種回向は、その回向主体が誰であるのかということにおいて、その様相がガラッと変わってしまうことになります。

もともと、その回向の主体は、当然に五念門を修する者、自利利他の菩薩行にある者によるところであったのでありますが、その回向の主体を阿弥陀如来としたのが、親鸞聖人であり、阿弥陀如来の本願による他力回向、往還二種は本願のはからいによるものと解されるところとなることで、その様相が一変することになります。

これは、結局のところ、五念門の修道のあり方を根底から破壊するものとなります。つまり、回向の主体が修道者ではないことを明らかとすることで、五念門の自力行、自利利他の菩薩行、二資糧集積行を完全否定して、名号念仏、称名念仏の真実功徳、それのみで一切が足り、往還二種も成し得るのだということを宣揚したということなのであります。

と共に、一気に「絶対他力」、そして、「一切の自分のはからい(自力)の停止」を求めるところとなっていくのであります。

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次に、浄土願生者が娑婆で過ごす意義についてのことですが、世親、曇鸞、善導と基本的な流れにおいては、五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向門)の修養が、その中心的なものとして、往生、見仏、涅槃へと向けた、菩薩行としての自利利他行、智慧と福徳の二資糧行として調えられていくべきものとされており、ある程度、通仏教的な見地に配慮して論ぜられてあるものとなっています。

但し、曇鸞において、下品下生(下下品・下品凡夫)の往生について、名号真実功徳と共に、五念門の修養者(八地以上の菩薩と同等の者)の導きの力、回向の力を必要とした名号念仏・称名念仏、いわゆる「十念往生の法門」が示されることになるのですが、以降、五念門における回向のあり方、つまり、「往相回向・還相回向」のあり方についての議論が様々に変遷していくことになってゆくのであります。

もともとは、当然に自利利他の自力菩薩行として通仏教的に調えられてあった浄土門の修道が、やがて、「十念往生の法門」への傾斜が強まっていくことにより、一気に極端な他力思想へと向かうことになるわけですが、それには「往相回向・還相回向」のあり方の議論も大きく関わってくることになるのであります。

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先に、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の論拠を「現観荘厳論」にあると推測したわけですが、曇鸞が「現観荘厳論」から二種法身説を展開できた可能性はかなり低いと研究者からのご指摘を頂いた。

そういえば、「現観荘厳論」は中国には伝わってなかったのか・・確かに中国での弥勒五論に「現観荘厳論」はない・・漢訳の存在についても今一つはっきりしない。ならば、「大乗荘厳経論」の仏身論あたりになるか、あるいは、「成唯識論」、または如来蔵系の「究竟一乗宝性論」あたりになるか、、

いずれにしても、三身説を基として、無漏法身(法性法身)と、受用身(報身)を方便法身としての同一化を図ろうとした原点は、「摂大乗論」において説かれてある清浄法界(無漏法身)からの清浄等流の仏のはたらきを即一的に捉えるところにもあるのではないだろうかと思われます。

その清浄等流の仏のはたらきは、真実功徳によるもので、「名号」念仏にその浄土の功徳、浄土のはたらきが全て備わっており、衆生を悟り、涅槃へと導くものであるとするのであります。

また、特に曇鸞教学において特筆すべきところは、唯識思想だけでなく、中観思想にも通底し、智慧(空思想)についても注意を払い、「名号」功徳において、「無生の生」、「無生即生」「生即無生」、いわゆる「色即是空」「空即是色」としての「空、縁起の法」の智慧を得させしめる「はたらき」ももたせてあることであります。要は、「無生法忍」、「不退転位」、「正定聚位」、「平等法身」に至らさせしめる智慧を得る功徳も「名号」の功徳に説いているということなのであります。

このそれぞれの位を菩薩の第八地とすれば、つまり、「見仏」の要件を満たせるということでもあり、「名号」念仏に「見仏」のはたらきの功徳も含めてあることを補ったものであると考えることができます。それは、更に「授記」の要件も踏まえてとなり、悟り、涅槃へと至れることを決定づけさせるという功徳も「名号」の功徳に含ませるということとなるのであります。

それが「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号となるのであります。

しかし、名号念仏に多くの功徳のあることを述べたところで、実際現実の生身の衆生、願生者に、それ(特に「不退転位」「正定聚位」「平等法身」の獲得とその証左しての智慧と現世利他功徳行など)が顕現してこない限り、実際に浄土へと往生できるまでは何もその功徳の証左が得られない、その功徳に与れないとなれば、そもそも本当に往生ができるのかどうかも非常に怪しいこと(死んでからしか分からない)になるのは言うまでもないのであります。

名号念仏と功徳実現がイコールであれば、空性・般若の智慧の獲得と共に平等法身としての菩薩の身体を生身の衆生が得れてもおかしくないはずだからであります。もちろん、浄土での「はたらき」がやはりそれには必要となるから、娑婆などの穢土では難しく、浄土に往生してからとなるのが、その理屈となるのでしょうが、では、娑婆で過ごす意義は、仏道修養も含めて悟り、涅槃へと向けて、何らもはや無いものであるならば、早々に往生できるように調えるのが得策となってしまうのではないだろうかということにもなりかねないのであります。実際にそのようにして自死した例(異相往生)は数え切れずでもあります。

いずれにしても、もう少し二種法身について考察していこうと思います。

・・

曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)については、当然に「往生論註」を詳しくあたらなければならないが、仏の二身(法身・色身)、三身(応身・報身・法身)、四身(応身・報身・智法身・自性法身)において、この「方便法身」の考え方は、四身の「智法身」を論拠にしているように思われるのである。

往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。

そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。

ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。

この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。

つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。

仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。

これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。

しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。

要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。

つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。

また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。

いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。

往相回向・還相回向(往還二種回向)について・4

2022年08月09日 | ブログ
ちなみに、現時点における往相回向・還相回向(往還二種回向)の拙理解からの見解から、「親鸞会と本願寺10の相違点」について回答していくとするならば、

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?

阿弥陀如来の本願による絶対他力、一切の自分のはからい(意思・自力)の停止が求められるところとなるため、自力的な目的や、自分のはからいによる目的(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、その目的をあえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることのみだけを目的としては一応言えるのではないだろうかと考えます。

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?

善の勧めが、自分のはからい(意思・自力)によるもの(自利・利他活動も含めて)は否定されるものとなる。

これも、往還二種回向の主体を完全に阿弥陀如来として、あえて述べるとすれば、ただ自他共に「獲信」を得ることへと向けた勧めだけが認められうる余地があるのではないだろうかと考えます。それは善悪という我々によっての概念(意思・はからい)は全く関係なく。

4 阿弥陀仏の救いについて

獲信を得たとすれば、それで救いがはっきりとする。

5 助かるのはいつか

獲信を得た瞬間の現生から。

6 救われたらどうなるのか

獲信を得たら、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということ。

7 どうしたら助かるのか

獲信を得ること。

8 喜んでいること

獲信を得れたこと。「歓喜地」のその名の表現の通り。

9 念仏について

どの念仏でも、その念仏は「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号であることには変わりがないが、それだけで獲信できることはまずない。

となります。

設問の内容が何を聞きたいののかが、よく分からないものもあるため、もしかすると回答がそれぞれ的外れかもしれませんが、、

いずれにしても、往相回向・還相回向(往還二種回向)についての親鸞聖人の主張、論考をより精査していく必要があると考えています。

・・

信心獲得(獲信)・信心決定により、獲信した行者は、正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まることになる、つまり、菩薩の初地、歓喜地にて、往生、見仏のみならず、悟り・涅槃へと至れることが決定づけられるということなのですが、それはかなり無理がありすぎる、根拠があまりにも薄すぎる、あまりにハードルを下げ過ぎているというのが、拙見解ではあります。

また、獲信して、現生に正定聚の位となった行者は、以後、どのように過ごすことになるのか、獲信した行者は、第三者から見て分かり得るのかどうか、更には、往生という事態をどう捉えるのか、獲信した行者における往相回向・還相回向(往還二種回向)のあり方をどう捉えるのかなど、色々と精査しなければならない問題点があり、親鸞会の方との議論というのも、論点はそこにつながってくるところになります。

要は、現在、親鸞会のサイトにある「親鸞会と本願寺との教義の相違点」における通仏教的な視点からの意見ということで、下記に挙げられてある相違点の内、1、2、4、5、6、7、8、9に対しての見解を示してほしいということであります。

しかし、それは通仏教からとしてはほとんど議論とならない、答えようのないこともあり、そうではなくて、浄土真宗、親鸞教学における最大の要諦となる「往相回向・還相回向(往還二種回向)」の正しい理解からであれば答えられることもあるのではないかとして、一応、このようにまとめさせて頂いているのであります。

親鸞会と本願寺10の相違点

1 親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?
いない
いる

2 親鸞聖人の教えに善の勧めは?
ない
ある

3 浄土真宗の正しい御本尊は?
木像でも絵像でもよい
御名号でなければならぬ

4 阿弥陀仏の救いについて
ハッキリするものではない
救われたら、 ハッキリする

5 助かるのはいつか
死なねば助からぬ
生きている時に助かる

6 救われたらどうなるのか
この世で救われたということは、ありえない
絶対の幸福になる

7 どうしたら助かるのか
念仏さえ称えておればいい
真実の信心ただ一つで助かる

8 喜んでいること
死んだらお助けを喜べ
現在、助かったことを喜ぶ身になれ

9 念仏について
念仏はみな同じだ
自力の念仏と他力の念仏とがある

10 使命としていること
葬式・法事・読経・遺骨の後始末
本当の親鸞聖人の教えを伝えること

・・

次に、では信心獲得(獲信)・信心決定により正定聚の位を得ることの事態をどう捉えるのかということになりますが、まず信心獲得(獲信)・信心決定とは、阿弥陀如来の本願による名号真実功徳と往相回向・還相回向(往還二種回向)における絶対他力の真実信心を得ることであります。

この真実信心を得ることにより、現生に正定聚の位に定まり、往生も定まり、不退転となり、涅槃も定まるということになるのであります。

「正定聚」とは、悟りを得ることが正しく定まった者たち、つまり、悟り・涅槃へと至ることが定まった者たちという意味合いとなり、通仏教的な菩薩の階梯においては、第八地の不動地、あるいは第六地の現前地に至った者、または、煩悩障を断滅して輪廻から解脱した者、無生法忍を得た者のことを表します。

しかし、親鸞聖人は、これを菩薩の十地の初地である「歓喜地」と説くのであります。つまり、獲信すれば、現生において菩薩の歓喜地と同等の位に至り、それは往生する存在でもあり、しかも、不退転なる存在にもなるという特異なあり方を示すのであります。これは主に「十住毘婆沙論」に基づくものとなっています。

もちろん、通仏教において、菩薩の歓喜地、あるいは、第六地、第八地、または、煩悩障の断滅、無生法忍に至るための本来必要となる色々な条件、特に智慧と福徳(功徳)の資糧の条件もほとんど関係がなくなるものであり、それは菩薩行を否定して、自力行を否定し、摂取不捨の阿弥陀如来の本願に一切をお任せすることによって現成するということなのであります。

しかし、現実的には、菩薩の歓喜地と同等とするにしても、歓喜地に至れる者など現在の衆生においても極々僅かであり、凡夫、下下品の者が、そのように至れることが更に難しいのは言うまでもありません。

ですから、信心獲得(獲信)・信心決定というものは、誰もがただ「南無阿弥陀佛」と名号念仏・称名念仏するだけで実現できるような簡単で、単純なものでも全くないということは当然に言えるのであります。

・・

往相回向・還相回向(往還二種回向)において、回向の主体を阿弥陀如来とすることにより、一気に「絶対他力」、「一切の自分のはからい(自力)の停止」へと浄土門が傾くことになるわけですが、これをわかりやすく例えるとすれば、(名号念仏・称名念仏の真実功徳により、)現在も含めて、未来の自分のありようの全てがプログラミングされてあるコンピューターを手に入れるようなイメージにある意味近いと言えるのではないだろうかと考えます。

そこには、自力的なものも含めて、自分のはからい(意思)は現在、未来に含めて一切なくなり、阿弥陀如来の本願によるはたらき、はからいに全てをお任せしていくだけのあり方ということであります。

まるで、一つの同じプログラミングにより全てがコントロールされてあるロボットが、画一的に存在して同じように行動して、そして、同じようにそんなロボットが増えていくというような無機質な世界のイメージとなるでしょうか。

それが果たして真なる浄土のありようと言えるのかどうかとなりますが、自分のはからいは全て否定される(否定されないといけない)わけですから、そのように考えることもできるということであります。

では、次に、そのような名号念仏・称名念仏の真実功徳(による摂取不捨の利益)を、誰もが無条件に受けることができるのかというと、もちろんそうではなく、それには(絶対他力の真実)信心の獲得(獲信)・信心決定が必要となります。

信心獲得(獲信)・信心決定により、正定聚の位を得ることで往生(のみならず涅槃へと向けた不退転の身となる)が可能になるとされるのであります。

・・

往相回向・還相回向、往還二種回向は、その回向主体が誰であるのかということにおいて、その様相がガラッと変わってしまうことになります。

もともと、その回向の主体は、当然に五念門を修する者、自利利他の菩薩行にある者によるところであったのでありますが、その回向の主体を阿弥陀如来としたのが、親鸞聖人であり、阿弥陀如来の本願による他力回向、往還二種は本願のはからいによるものと解されるところとなることで、その様相が一変することになります。

これは、結局のところ、五念門の修道のあり方を根底から破壊するものとなります。つまり、回向の主体が修道者ではないことを明らかとすることで、五念門の自力行、自利利他の菩薩行、二資糧集積行を完全否定して、名号念仏、称名念仏の真実功徳、それのみで一切が足り、往還二種も成し得るのだということを宣揚したということなのであります。

と共に、一気に「絶対他力」、そして、「一切の自分のはからい(自力)の停止」を求めるところとなっていくのであります。

・・

次に、浄土願生者が娑婆で過ごす意義についてのことですが、世親、曇鸞、善導と基本的な流れにおいては、五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向門)の修養が、その中心的なものとして、往生、見仏、涅槃へと向けた、菩薩行としての自利利他行、智慧と福徳の二資糧行として調えられていくべきものとされており、ある程度、通仏教的な見地に配慮して論ぜられてあるものとなっています。

但し、曇鸞において、下品下生(下下品・下品凡夫)の往生について、名号真実功徳と共に、五念門の修養者(八地以上の菩薩と同等の者)の導きの力、回向の力を必要とした名号念仏・称名念仏、いわゆる「十念往生の法門」が示されることになるのですが、以降、五念門における回向のあり方、つまり、「往相回向・還相回向」のあり方についての議論が様々に変遷していくことになってゆくのであります。

もともとは、当然に自利利他の自力菩薩行として通仏教的に調えられてあった浄土門の修道が、やがて、「十念往生の法門」への傾斜が強まっていくことにより、一気に極端な他力思想へと向かうことになるわけですが、それには「往相回向・還相回向」のあり方の議論も大きく関わってくることになるのであります。

・・

先に、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の論拠を「現観荘厳論」にあると推測したわけですが、曇鸞が「現観荘厳論」から二種法身説を展開できた可能性はかなり低いと研究者からのご指摘を頂いた。

そういえば、「現観荘厳論」は中国には伝わってなかったのか・・確かに中国での弥勒五論に「現観荘厳論」はない・・漢訳の存在についても今一つはっきりしない。ならば、「大乗荘厳経論」の仏身論あたりになるか、あるいは、「成唯識論」、または如来蔵系の「究竟一乗宝性論」あたりになるか、、

いずれにしても、三身説を基として、無漏法身(法性法身)と、受用身(報身)を方便法身としての同一化を図ろうとした原点は、「摂大乗論」において説かれてある清浄法界(無漏法身)からの清浄等流の仏のはたらきを即一的に捉えるところにもあるのではないだろうかと思われます。

その清浄等流の仏のはたらきは、真実功徳によるもので、「名号」念仏にその浄土の功徳、浄土のはたらきが全て備わっており、衆生を悟り、涅槃へと導くものであるとするのであります。

また、特に曇鸞教学において特筆すべきところは、唯識思想だけでなく、中観思想にも通底し、智慧(空思想)についても注意を払い、「名号」功徳において、「無生の生」、「無生即生」「生即無生」、いわゆる「色即是空」「空即是色」としての「空、縁起の法」の智慧を得させしめる「はたらき」ももたせてあることであります。要は、「無生法忍」、「不退転位」、「正定聚位」、「平等法身」に至らさせしめる智慧を得る功徳も「名号」の功徳に説いているということなのであります。

このそれぞれの位を菩薩の第八地とすれば、つまり、「見仏」の要件を満たせるということでもあり、「名号」念仏に「見仏」のはたらきの功徳も含めてあることを補ったものであると考えることができます。それは、更に「授記」の要件も踏まえてとなり、悟り、涅槃へと至れることを決定づけさせるという功徳も「名号」の功徳に含ませるということとなるのであります。

それが「阿弥陀如来方便荘厳真実清浄無量功徳」名号となるのであります。

しかし、名号念仏に多くの功徳のあることを述べたところで、実際現実の生身の衆生、願生者に、それ(特に「不退転位」「正定聚位」「平等法身」の獲得とその証左しての智慧と現世利他功徳行など)が顕現してこない限り、実際に浄土へと往生できるまでは何もその功徳の証左が得られない、その功徳に与れないとなれば、そもそも本当に往生ができるのかどうかも非常に怪しいこと(死んでからしか分からない)になるのは言うまでもないのであります。

名号念仏と功徳実現がイコールであれば、空性・般若の智慧の獲得と共に平等法身としての菩薩の身体を生身の衆生が得れてもおかしくないはずだからであります。もちろん、浄土での「はたらき」がやはりそれには必要となるから、娑婆などの穢土では難しく、浄土に往生してからとなるのが、その理屈となるのでしょうが、では、娑婆で過ごす意義は、仏道修養も含めて悟り、涅槃へと向けて、何らもはや無いものであるならば、早々に往生できるように調えるのが得策となってしまうのではないだろうかということにもなりかねないのであります。実際にそのようにして自死した例(異相往生)は数え切れずでもあります。

いずれにしても、もう少し二種法身について考察していこうと思います。

・・

曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)については、当然に「往生論註」を詳しくあたらなければならないが、仏の二身(法身・色身)、三身(応身・報身・法身)、四身(応身・報身・智法身・自性法身)において、この「方便法身」の考え方は、四身の「智法身」を論拠にしているように思われるのである。

往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。

そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。

ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。

この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。

つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。

仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。

これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。

しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。

要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。

つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。

また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。

いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。