日記

日記

ダライ・ラマ法王猊下大阿カーラチャクラ灌頂砂曼荼羅の御砂

2023年08月28日 | ブログ
少し前に紹介させて頂いたダライ・ラマ法王猊下大阿カーラチャクラ灌頂砂曼荼羅の御砂。

カパーラに納めておくのはカパーラの本来の法具的な役割とはやはり異なるものでもあるため、このままカパーラに納めたままとはせずに改めて仏舎利容器へと納め替えた。

2017年1月5日~8日、インド・ビハール州ブッタガヤで開催されたカーラチャクラ灌頂伝授・砂曼荼羅

神戸市・安養寺・清水良将師より拝領(ブッダカヤ・仏心寺・理事)

この御砂のお加持は誠に計り知れない。誠に有り難く尊いものであります。

第34回カーラチャクラ灌頂伝授会 1日目
https://youtu.be/9R2_Rt8iEP4?si=j6wuo0pcWJyc1o5c
2日目
https://youtu.be/FSoE7LekH1M?si=EcBCGN_dmodcftab
3日目
https://youtu.be/9X_F7irVg_E?si=eLaf6cDmNzI8K411
4日目
https://youtu.be/HYXx_RDJ6mY?si=zc67dzaQGo4OkMCL




死の光明を成仏、あるいは次世の清らかな生のために利用するのはなぜか

2023年08月24日 | ブログ
死の光明を成仏、あるいは次世の清らかな生のために利用するのはなぜか。

これは究竟次第における修行の進捗状況の進み具合によるからであると考えられます。

つまり、生身のままで定寂心の譬えの光明を実現できるまで至っているならば、死の光明を利用する必要などなく、次の成仏過程へとスムーズに進めることになりますが、五次第における定寂心にまだ至っていない場合であれば、譬えの光明に限りなく近い「死の光明」を利用することで、それを譬えの光明の代替として、そこから次の自加持次第としての譬えの幻身、不浄の幻身を実現することにより、境地を更に前へと進めていくこととしなければならないからであります。

それなら、皆、死の光明を利用することにより成仏体系に速やかに乗れることになるのではないかと思われるでしょうが、大抵の場合、凡夫はそれが死の光明とは分からずに、業の力によって中有を経ていくことになって、業の力に従って次の輪廻の生へと向かうことになるのであります。

死の光明を利用するには、死の光明を死の光明として認識できるだけの清らかな業の力と共に、空性の了解も継続しておかなければならないわけですから、それなりの功徳と智慧の資糧と共に、無上瑜伽タントラの成仏体系に従うのであれば、生起次第、究竟次第の修行をある程度積んでおくことが必要となるのであります。

「水子」(すいじ)[みずこ]の由来について

2023年08月24日 | ブログ
「水子」(すいじ)[みずこ]の名の由来については諸説ある。

おおよそ三つ。

嬰児は、母親の羊水の中で(あるいは出てすぐに)亡くなった子どもであるから。

亡くなった嬰児を川に流して水葬にしたから。

口減らし(間引き)の嬰児を川に遺棄したことから。

水子を特に手厚く供養する風習があるのは、もちろん、不運で可哀想であるからとなるのだが・・

実は、口減らし(間引き)のために亡くなった嬰児を供養するところに由来してあるとも考えられている。

飢餓、飢饉に見舞われることの多かったその昔には、特に口減らし(間引き)のために嬰児を殺めることが当たり前のように日常的に行われていた・・比較的社会が安定しつつあった江戸時代でも幕府が公に「棄児禁止令」、「間引き禁止令」を出すほどであったのだ・・

座敷わらしは、口減らしのために殺されてしまった子どもの霊であるのは有名な話である・・

本当は生きられたはずの子どもを殺めてしまったことへの悔悟の念と共に、祟りや霊障を恐れて、特に手厚く供養する対象となったと考えられるのである。

現在でももちろん人工中絶は多い。やむを得ない中絶ももちろんある。

中絶と水子供養・・色々と考えさせられるところとなるのであります。

死の光明の際、意識の状態だけで認識作用を起こすのかどうか

2023年08月23日 | ブログ
このところ仏教学的には浄土真宗の思想についてのことが中心となっていたため、無上瑜伽タントラの考察がなおざりになってしまっていましたが、以前から頂いていた質問をまた一つ一つに・・

死の光明の際には、意識の状態だけで認識作用を起こすのかどうか、というものを頂いていましたが、意識は、輪廻の微細な意識に限らずに、必ず身体と対として成り立つものとなるため、生身の身体か、あるいは中有の身体において認識作用を起こすものであると考えられます。

生身の身体において成すものがいわゆる「トゥクタム」となります。

しかし、生身の身体でいつまでもできるものではなく、然るべきに、意成身、つまり、中有の身体、あるいは幻身を立ち上げることになります。

この内、立ち上げを自らの意思においてコントロールできる方が「幻身」となり、生身の身体があっても「別に」幻身を立ち上げることも可能となるのは、相当な高い境地にある聖者でないと不可能なことになります。

また、それらの中有の身体は、有漏の意識によってか、無漏の意識によってかにおいて、汚れたものか、清らかなものかが左右されるものとなります。

「トゥクタム」を行う行者は、生身の身体内において、「死の光明」を利用して、一気に有漏から無漏への意識の浄化の修行を図っている可能性が高く、この間はできる限り静かに見守る必要があります。

やがて、無漏へと向かって意識が安定したところで、幻身を立ち上げてから生身の身体から抜け出ていくことになるのであります。

では、なぜ、死後即座に幻身を立ち上げないのかは、もしも、有漏の意識のままで、すぐに中有の身体となると、非常に不安定なものとなって、自らの意志での次の行き先を安定させることができず、業の力による輪廻への作用が強く働いてしまうことになり、仏道の妨げになるところへと赴く危険性が高くなるからであります。

ですから、なるべく自らの意志で安定させることのできる幻身を立ち上げれるまでは生身の身体に留まって、それから次の赴きへと向かうのだと考えられるであります。

令和5年お盆お施餓鬼 法話「焼香について」 往生院六萬寺

2023年08月18日 | ブログ
コロナ禍、台風等の影響にてご来山できなかった皆様へと向けましての録画配信



令和5年お盆お施餓鬼 法話「焼香について」 往生院六萬寺

https://youtu.be/nWMlKZDMDUs

配布資料「 焼香の意義について 」岩瀧山 往生院六萬寺
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91078088.html

往生院六萬寺
http://oujyouin.com/

答申無視、越権行為、引責辞任・・

2023年08月10日 | ブログ
これで「新しい領解文」の廃棄は決定的になったと言えるでしょう。そういえば、文中のある方のパワハラが、あまりに酷いとの怨嗟の声まで漏れ出るほどでしたね…体制刷新ももはや避けられないでしょう。

答申無視、越権行為、引責辞任
https://note.com/ryouge/n/n67d92b23e741



・・

前勧学寮頭の徳永一道氏が主導したとの見方もありますが、以前にも指摘したように、蓮如教学における機法一体、仏凡一体の本覚思想性について、徳永氏は明らかに批判されていたことから、「新しい領解文」の誤謬を鑑みると、その主導は考えにくいのではないかと思っています。

やはり強引に追い込まれて、止むを得ずに同意させられたということであったのだと思われるのであります。

https://m.facebook.com/groups/4239983176033867/permalink/6721158084583018/



・・

もしも、門主が主導していたとなればどうなるのでしょうか、と頂いたのだが、確かに「門主のご意向だから」という言葉は、「新しい領解文」を推進する側の者たちの口癖のようではあった。それは門主の威光を傘に着て、強引に「新しい領解文」を通していこうとする意図によるところであったと思われるのであるが、もしも、本当に門主がその主導をしていたとなれば、宗門、教学に大きな混乱を招いた責任を取り、その任にあらずとして自らで潔く退任して西本願寺・本願寺派を去るのがよいことにはなるでしょう。

門主が主導でなければ、門主は大恥をかかされて、「新しい領解文」の旗振り役のピエロにされてしまったわけですから、大激怒して当然となります。主導した者たちを厳しく処断して、宗門、特に総局以下の体制を刷新しなければならないでしょう。

・・

個人間の独断、偏見によって発布されてしまった経緯が、いよいよ明らかにされたため、手続きの瑕疵と教学的な瑕疵により、「新しい領解文」はこれで廃棄されることがほぼ確実になったようである。

では、主導したのはいったい誰だったのか?

門主?(前門?)、石上前総長?、前総長周辺?、その他の者?

門主でなければ、門主は前代未聞のとんだ大恥をかかされたことになる。いったいこの始末をどうつけるのだろうか、、

そもそも真に門主への尊崇、敬意、敬愛が、宗門の要職にある者たちにあったのであれば、まず起こらなかった問題であっただろう。

真に宗門を護る愛山と共に、門主への敬意、敬愛のある者は誰であったのか。

早々に「新しい領解文について考える会」を立ち上げ、その中心となり、反対の声を上げた岡本法治さんや木下明水さん、数名の志士たちの存在は、これからも決して忘れてはならないだろう。

・・

中外日報より重大な記事が掲載されました。

徳永一道前寮頭が辞任の理由を記された文章を取り上げており、それによって、「新しい領解文」の発布に関して重大な問題があったことが明るみになりました。

検討委員会の答申を無視して進めた石上智康前総長の問題をはじめ、ご消息の勧学諮問では、勧学寮の再考を願う答申に対して、統合企画室の葛谷英淳室長から一対一の直談判で強い要求があり、それを受けて前寮頭は寮員に相談せずに独断で判断したことなどが記されています。

手続きに瑕疵があったことが明白になりました。

今後、宗会議員がどのように対応していくのか注目が集まります。




「新しい領解文」は誰が主導したのか

2023年08月10日 | ブログ
前勧学寮頭の徳永一道氏が主導したとの見方もありますが、以前にも指摘したように、蓮如教学における機法一体、仏凡一体の本覚思想性について、徳永氏は明らかに批判されていたことから、「新しい領解文」の誤謬を鑑みると、その主導は考えにくいのではないかと思っています。

やはり強引に追い込まれて、止むを得ずに同意させられたということであったのだと思われるのであります。

https://m.facebook.com/groups/4239983176033867/permalink/6721158084583018/



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もしも、門主が主導していたとなればどうなるのでしょうか、と頂いたのだが、確かに「門主のご意向だから」という言葉は、「新しい領解文」を推進する側の者たちの口癖のようではあった。それは門主の威光を傘に着て、強引に「新しい領解文」を通していこうとする意図によるところであったと思われるのであるが、もしも、本当に門主がその主導をしていたとなれば、宗門、教学に大きな混乱を招いた責任を取り、その任にあらずとして自らで潔く退任して西本願寺・本願寺派を去るのがよいことにはなるでしょう。

門主が主導でなければ、門主は大恥をかかされて、「新しい領解文」の旗振り役のピエロにされてしまったわけですから、大激怒して当然となります。主導した者たちを厳しく処断して、宗門、特に総局以下の体制を刷新しなければならないでしょう。

・・

個人間の独断、偏見によって発布されてしまった経緯が、いよいよ明らかにされたため、手続きの瑕疵と教学的な瑕疵により、「新しい領解文」はこれで廃棄されることがほぼ確実になったようである。

では、主導したのはいったい誰だったのか?

門主?(前門?)、石上前総長?、前総長周辺?、その他の者?

門主でなければ、門主は前代未聞のとんだ大恥をかかされたことになる。いったいこの始末をどうつけるのだろうか、、

そもそも真に門主への尊崇、敬意、敬愛が、宗門の要職にある者たちにあったのであれば、まず起こらなかった問題であっただろう。

真に宗門を護る愛山と共に、門主への敬意、敬愛のある者は誰であったのか。

早々に「新しい領解文について考える会」を立ち上げ、その中心となり、反対の声を上げた岡本法治さんや木下明水さん、数名の志士たちの存在は、これからも決して忘れてはならないだろう。

・・

中外日報より重大な記事が掲載されました。

徳永一道前寮頭が辞任の理由を記された文章を取り上げており、それによって、「新しい領解文」の発布に関して重大な問題があったことが明るみになりました。

検討委員会の答申を無視して進めた石上智康前総長の問題をはじめ、ご消息の勧学諮問では、勧学寮の再考を願う答申に対して、統合企画室の葛谷英淳室長から一対一の直談判で強い要求があり、それを受けて前寮頭は寮員に相談せずに独断で判断したことなどが記されています。

手続きに瑕疵があったことが明白になりました。

今後、宗会議員がどのように対応していくのか注目が集まります。




「新しい領解文」令和の惑乱の顛末は・・

2023年08月10日 | ブログ
もしも、門主が主導していたとなればどうなるのでしょうか、と頂いたのだが、確かに「門主のご意向だから」という言葉は、「新しい領解文」を推進する側の者たちの口癖のようではあった。それは門主の威光を傘に着て、強引に「新しい領解文」を通していこうとする意図によるところであったと思われるのであるが、もしも、本当に門主がその主導をしていたとなれば、宗門、教学に大きな混乱を招いた責任を取り、その任にあらずとして自らで潔く退任して西本願寺・本願寺派を去るのがよいことにはなるでしょう。

門主が主導でなければ、門主は大恥をかかされて、「新しい領解文」の旗振り役のピエロにされてしまったわけですから、大激怒して当然となります。主導した者たちを厳しく処断して、宗門、特に総局以下の体制を刷新しなければならないでしょう。

・・

個人間の独断、偏見によって発布されてしまった経緯が、いよいよ明らかにされたため、手続きの瑕疵と教学的な瑕疵により、「新しい領解文」はこれで廃棄されることがほぼ確実になったようである。

では、主導したのはいったい誰だったのか?

門主?(前門?)、石上前総長?、前総長周辺?、その他の者?

門主でなければ、門主は前代未聞のとんだ大恥をかかされたことになる。いったいこの始末をどうつけるのだろうか、、

そもそも真に門主への尊崇、敬意、敬愛が、宗門の要職にある者たちにあったのであれば、まず起こらなかった問題であっただろう。

真に宗門を護る愛山と共に、門主への敬意、敬愛のある者は誰であったのか。

早々に「新しい領解文について考える会」を立ち上げ、その中心となり、反対の声を上げた岡本法治さんや木下明水さん、数名の志士たちの存在は、これからも決して忘れてはならないだろう。

・・

中外日報より重大な記事が掲載されました。

徳永一道前寮頭が辞任の理由を記された文章を取り上げており、それによって、「新しい領解文」の発布に関して重大な問題があったことが明るみになりました。

検討委員会の答申を無視して進めた石上智康前総長の問題をはじめ、ご消息の勧学諮問では、勧学寮の再考を願う答申に対して、統合企画室の葛谷英淳室長から一対一の直談判で強い要求があり、それを受けて前寮頭は寮員に相談せずに独断で判断したことなどが記されています。

手続きに瑕疵があったことが明白になりました。

今後、宗会議員がどのように対応していくのか注目が集まります。




往生院関連年表一部を修正

2023年08月09日 | ブログ
往生院関連年表一部を修正

往生院・最新年表はこちらになります↓
http://blog.livedoor.jp/oujyouin_blog/archives/91065827.html

東京大学は、旧制東京大学→帝国大学◯科大学→東京帝国大学→新制東京大学と名を変えており、先々代の頃では帝国大学文科大学時代ということであります。

川口蓮海は、帝国大学文科大学(現・東京大学)・英文学科を卒業、それから朝日新聞に勤務し、本社編集長となるも、前妻・英子の死去後、紆余曲折を経て、岸和田の久米田寺(高野山真言宗)にて得度、修行し、その後に泉南の信達楠畑にある浄土宗・大雄寺にて文筆家として小説を多く書いていた。当時、大雄寺の住職であった豊島妙澄尼の娘と再婚。大雄寺との縁から往生院への入寺の話があり、浄土宗へと転籍し、浄土宗教師となって、往生院の復興を目指すことになる。















桜井寺・善信尼帰国入寺
役行者・岩瀧山開山
女人大峯・修験道修行場、葛城修験宿場の一つであった
聖武天皇勅願・行基開基
六萬寺・本尊・薬師如来
宇多天皇(仁和寺御室)による寄進があった

念仏聖・安助上人・川瀬吉松の夢告通りに来訪。川瀬吉松の開基・安助上人により往生院の創建(拾遺往生伝・三善為康)

安助上人往生。以後、日想観・五念門・二十五三昧会・百万遍念仏を修する寺院として、多くの念仏行者・信者が来山し栄える。この頃から、往生院は、九条家の権勢が強まる中で、九条家の荘園地・寺社領地の一つに組み込まれることになったと思われる。九条兼実により四天王寺の奥の院として金堂が建立される。(九条家の祈願寺となる)。九条兼実・慈円・法然等の参詣。九条兼実の奉納と思われる法然の三日月の御影が往生院に伝わる。また、宗派的には天台系の浄土教であったと推測される。

往生院は、鎌倉~南北朝までは、九条家の寺院として管理され、四天王寺の一院・奥の院として、四天王寺の別当、僧侶が住持を兼ねていたものと思われる。

仁和寺御室・道深法親王(九条道家の後見人)の参詣。九条家祈願寺であるため、高野山への中継地として参詣の度に訪れる。(藤原定家・明月記)この頃における往生院での九条道家・関係者との深い交流が窺える。

親鸞・九条家の祈願寺である往生院を参詣・自作坐像安置・玉日姫を供養する

九条道家が開基となり臨済宗・往生院の成立(九条家文書)

円爾(聖一国師)が来寺
伽藍整備・東福寺の末寺となる(東福寺の開基は九条道家・東福寺・初代住職は円爾)

楠木家の要所となる。山城として利用される。

夢窓疎石の弟子・黙庵周諭の兼務寺となる

楠木正成・四天王寺にて聖徳太子の「未来記」見る。
新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす
湊川の合戦・楠木正成と足利尊氏が戦う。正成死後、楠木正行が楠木家の当主となる。

北畠親房の長男・花将軍・北畠顕家が戦死。顕家は南朝勢力維持のため後醍醐帝の下、各地を転戦して活躍した。
四条縄手の合戦、高師直と楠木正行・正時が戦う。往生院が本陣となる。正行死後、黙庵周諭が楠木正行墓所建立(胴塚)。以後、往生院は楠木正行菩提寺となる。翌年に楠木正儀が供養のため来寺している。
楠木正儀に仕えた、赤松光範の家臣・宇野六郎の子・熊王丸こと和田正寛が法師として往生院に入寺。
畠山家内紛時に城塞化が進む
畠山義就と畠山政長との争いに巻き込まれる
応仁の乱
若江城の戦い・往生院城焼失
畠山義豊戦死・往生院城焼失
畠山尚順との家督争い
往生院の本堂にあった説相箱が古・神感寺へと渡っている。
戦国期、往生院は、城塞として利用されるものの、細川晴元の内衆三好家に仕えていた渡辺(稙)孫三郎(渡辺惣官家)の所領となり、三好長慶が畿内を制覇した際には、その所領を安堵されている。また、織田信長が三好三人衆を畿内から駆逐した際には、渡辺(稙)孫三郎は信長に従い、その所領が安堵された。渡辺(稙)孫三郎が織田信長に所領地を安堵された理由の一つには、渡辺家が元々は南朝の功臣であったからではないかと思われる。信長は南朝功臣たちを明らかに厚遇、一定配慮しているのが分かる。

キリスト教伝来

桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破る

織田信長が足利義昭と共に京都に入る

室町幕府滅亡

安土城完成

本能寺の変

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が豊臣秀吉に敗れる

豊臣秀吉が関白になる。

豊臣秀吉が天下統一

豊臣秀吉死去

関ヶ原の戦い・東軍の勝利

江戸幕府成立

大坂夏の陣・豊臣家滅ぶ

江戸前期の往生院には、有名な大きな柘榴の木があった。(和漢三才図会・河内國名所鑑)近くの寺院には、南北朝期に会通していた古・神感寺があり、山号は楉蔵山であった。古・神感寺由来の柘榴ではないかと考えられる。
鷹司信房の開基により浄土宗・往生院の成立。欣誉浄泉(池島村・富家家)が初代住職。本堂再興。後陽成天皇の庇護を受ける。後陽成天皇より御宸筆の勅賜本堂額「往生院」を賜る。以後、九条家と共に鷹司家の祈願寺にもなる。浄土寺往生院と戦時供出した梵鐘に銘されていた。寺号を浄土寺としていたことが分かる。浄土宗知恩院の末寺として、浄土宗鎮西派となるが、元々平安期より浄土信仰の篤いお寺であったことから、浄土宗だけでなく浄土真宗も受容していたことが、在家墓所や位牌堂にある位牌からも推測できる。
早逝した鷹司基輝の御袍が供養のため往生院に奉納されている。
十世・松誉貞故の際に寺域が再整備される。
池島村に往生院浄士寺という塔頭寺院があった。
江戸後期、本願寺派20世・広如の時に、玉日姫の菩提寺・祈願寺・史跡が一斉に整備された際、鷹司家により、往生院に玉日姫坐像並びに親鸞坐像が奉納された。
往生院は、明治時代に楠木正行公御墓所を御陵墓(小楠公神社)とする計画が立ち上がり、その中心となった会が南木会(明治35年発足)であった。会長は、鷹司熈通。そして、九条家・鷹司家の祈願寺であった往生院は、この南木会によって小楠公神社の一角になっていた可能性があった。寺院としての根底が破壊されてしまいかねなかった時期である。(但し、神仏分離令の例外として往生院存続のためにやむなく神社の一角となり往生院を再興しようとしていた可能性もあった。)しかし、この南木会は財政問題により早々に解散。やがて小楠公神社の中心的な整備は、四條畷神社へと移り、往生院は難を逃れた。その後、明治時代後半から荒廃したままの往生院は無住となり、村の総代、世話人たちが管理していた。南朝にゆかりのある者を住持として迎えたいとして待つ中、大正14年に川口蓮海が入寺し、浄土宗教師となって再興を目指すことになる。川口蓮海は、楠木正行御墓所の整備、林間学舎建設(1930)、楠公道場の建設(1940)など、心身の鍛錬所として寺院を開放していた。また、菊水会・楠薫会・三寶会など講社を結成して往生院の檀家を増やすことに努力する。神武天皇御聖蹟巡拝会も結成している。文筆家としても小説の刊行、また、小誌を多く監修している。

往生院参道整備・桜並木化
行者堂建立(1926)
小楠公銅像建立(1927)
菊水寮建立(1930)
楠公道場建立(1940)
梵鐘の供出
小楠公銅像の供出
学童疎開の受け入れ
8月11日・川口蓮海・往生
8月15日・終戦
川口立誡が住職となる

単立寺院となる(臨済宗系)
檀家制度廃止、信徒制度となる

戦後すぐの頃の往生院は困窮著しく、薪を売ったり、托鉢に出るなど、日々の生活にも厳しい状況であった。法輪・菊水という機関誌を発行して生計の足しとしていた。

この頃の無縁塔の整備から始まり、本堂修理、金堂跡整備、墓苑整備、稲荷社整備と、ようやく本格的な復興が始まる。
寺務所建立
梵鐘再鋳(戦時供出)
中門建立
仏殿建立
新本堂・奥之院建立
宝蔵・校倉建立
仁王門建立
新寺務所・客殿建立
川口立誡・遷化
川口哲秀が住職となる
小楠公銅像再鋳・建立
民具供養館建立
新鐘楼堂建立
歴史館・展示館の改修建立
公衆トイレ建立

日想観法要再興
岩瀧山・滝行再興
合祀塔・やよい観音建立
寺史再考証


桓武天皇・誕生・白壁王(光仁天皇)の長男

桓武天皇・即位
桓武天皇の子・葛原親王(桓武平氏の祖)→平高望→平国香(伊勢平氏の祖)

平国香・平将門の乱で戦死
平国香→平貞盛(平将門の乱の鎮圧・鎮守府将軍)→平維衡→平正度→平正衡→平正盛→平忠盛(平清盛の父)

平正度の子・正衡の兄弟・貞季の子が、平正季→範季→季房→家貞(筑後守)→
貞能(筑前守・肥後守)

平貞能は、平清盛の参謀。治承・寿永の乱で活躍。大橋姓を名乗る。

平貞能は、平家滅亡後に流浪。母が宇都宮家でもあり、親友であった宇都宮朝綱(奥州合戦で活躍)を頼り、身を寄せた。宇都宮朝綱には貞能への恩義があった。朝綱の嘆願により源頼朝の許しを得た。

貞能以降、大橋通貞→貞経→貞宗→貞俊→貞高→定清→定省(愛知県津島市に奴野城を築城・城主となる)

津島四家七名字。新田系の四家としての大橋家・恒川家・岡本家・山川家、七名字としての堀田家・平野家・服部家・光賀家・鈴木家・真野家・河村家となる。

南北朝時代から戦国時代にかけて、特に河内地方における河内十七箇所の荘園群を巡っての争奪戦が激しく繰り広げられることになる。往生院もその争いに巻き込まれることになっていく。

足利尊氏、光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受ける。

新田義貞・燈明寺畷で戦死

後醍醐天皇を助けた北畠親房の三男・北畠顕能は伊勢国の国司となり、以後、公家大名として伊勢周辺域を支配している。この際に北畠家に従い、南朝方の武将として参戦し、新田義貞・楠木正成と共に活躍することになったのだと思われる。

定省→信吉→信重(良王君の子・後醍醐天皇の後胤説)→定廣

定廣の子に、定安(禅休)・宗定・定祐・廣正と女子(大河内家へ嫁ぐ)・女子(蜂須賀家へ嫁ぐ・蜂須賀正勝の母)がおり、この内の宗定(帯刀・盛祐)が、川口家へと養子に入る。

大橋家と同様に川口家も桓武平氏で、平季房の子の流れで同族であり、美濃の川口村(岐阜県安八郡)にあった宗倫の代から川口姓となり、8代・宗持の養子に大橋家の宗定(帯刀・盛祐)が入った。

川口宗吉。妻は、小島信房の娘、織田信長の伯母とされる。大橋家と同様に織田信秀に仕える。子に川口宗勝。宗勝の織田家での厚遇から織田信長の伯母の子であると考えられる。

川口宗勝。妻は、福富直貞(福富家は織田家家臣)の娘。水野信元→柴田勝家→織田信長に仕える。織田信長の直臣旗本、弓大将となる。本能寺の変後、織田信雄、豊臣秀吉と仕える。伊勢国と尾張国内で1万8千石を拝領している。

関ヶ原の戦いにおいては、安濃津城攻めなどに参加する。西軍が敗れると高野山に蟄居し、所領は没収。身柄を伊達政宗に預けられる。1606年、徳川秀忠に許されて千葉・佐倉・青菅2千5百石を賜って旗本となった。1612年、青菅にて死去。以後、1698年までの92年間、宗信(孫作)、宗次(久助)、宗恒(源左衛門、摂津守、長崎奉行のちに江戸町奉行)と4代に同地を知行された。徳川秀忠に許されたのは、宗勝と徳川家康との血縁関係によることからも考えられる。

川口宗勝が、織田信長、信雄に仕えていた時代、つまり、安土幕府の時には、安土城の城下屋敷に川口家も一族が移り住んでいたと思われる。現在、川口家が代々住職となっている西法寺は、元々武家屋敷であった事が、昔の地名から分かる。安土村大字中屋字屋敷内。川口宗勝の兄弟、あるいは子、川口家の一族が、武家屋敷を寺院として、信長や柴田勝家、戦友たちの菩提を弔うために僧侶となって西法寺を開基したと思われる。現在の往生院・川口家のルーツは、川口宗吉・宗勝にあると推測でき、また西法寺の由来について改めて詳しく調査、精査することで確定させることができると考えている。

織田信雄が秀吉の配下となると共に、宗勝は秀吉の家臣となる。おそらくは、織田信長の直臣であった川口家が、秀吉の家臣になることなど屈辱的でもあり、許さなかった川口家一族の中で、秀吉の家臣にはならずに屋敷を寺院として出家した者が西法寺の住職になったということではないかと考えられる。

以後の川口宗勝の直系は、徳川家の下、旗本として関東に所領を持ち、代々徳川幕府に仕えることになった。

滋賀県近江八幡市安土町中屋の浄土真宗・大谷派・西法寺は、安土桃山時代から代々、川口家が住職を勤めているものと思われる。明治時代に西法寺の住職であった川口法旭の三男・蓮海が、大正14年に往生院に入寺することになる。川口蓮海は、帝国大学文科大学(現・東京大学)・英文学科を卒業、それから朝日新聞に勤務し、本社編集長となるも、前妻・英子の死去後、紆余曲折を経て、岸和田の久米田寺(高野山真言宗)にて得度、修行し、その後に泉南の信達楠畑にある浄土宗・大雄寺にて文筆家として小説を多く書いていた。当時、大雄寺の住職であった豊島妙澄尼の娘と再婚。大雄寺との縁から往生院への入寺の話があり、浄土宗へと転籍し、浄土宗教師となって、往生院の復興を目指すことになる。

豊島英海が中心となり、河内新西国三十三箇所霊場を開く(1930)。現在の河内西国観音霊場の前身である。

川口立誡が三樹子(芳樹尼)と結婚。1946年に現住・川口哲秀が生まれる

川口立誡は、浄土宗で得度した後、教師過程から、思うところがあり、曹洞宗・橋本恵光老師門下となり、曹洞宗の僧籍へと転籍している。薬師寺の橋本凝胤の下で3年間、唯識を学んでいる。漢詩作成に秀でていた。法隆寺の佐伯良謙、東大寺の清水公俊らとの交流があった。

1966年・川口哲秀・岐阜・正眼寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。1969年に帰山。その後、敏子と結婚。1976年に現副住・川口英俊が生まれる。民具供養館にて社会見学の受け入れ(延べ20万人以上)。近隣の幼稚園の園児たちの岩瀧山・登山遠足を受け入れていた。また、定期的に子ども向けの坐禅会も開催していた。

1999年・川口英俊・岐阜・
瑞龍寺禅専門僧堂(臨済宗・妙心寺派)へ修行に。2001年に帰山。

仏像・宝物について再調査


伝・聖武天皇御宸筆・六萬寺・山門額「岩瀧山」
聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇
光仁天皇は天智天皇の孫

南都仏教を牽制・最澄留学

坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して東北平定

平将門の乱

平忠盛は白河院・鳥羽院に仕えた武将。娘を源義忠(河内守・検非違使)に嫁がせて河内源氏と和合した。

保元の乱

平治の乱

平清盛が太政大臣になる。

源頼朝が挙兵する。

壇ノ浦の戦い・平家滅亡

源頼朝が征夷大将軍になる。

鎌倉幕府の成立

承久の乱(後鳥羽上皇流罪)

一説には、大橋定省に後醍醐天皇の子である宗良親王の娘・桜姫が嫁ぎ、その生まれた子・定元の娘が、宗良親王の子であるとされる尹良親王の子の良王君の妻となり、その子が大橋信重となるとあり、後醍醐天皇の後胤との説もある。

また、新田系となるのは、新田家の世良田政義の娘が、良王君の母であるとされたからであろう。

いずれにしても、以後、津島四家七名字、その代表であった大橋家は南朝方に従って戦ったのである。

後醍醐天皇即位

後醍醐天皇・建武の新政
後醍醐天皇が吉野に移る。
(南朝・大覚寺統と北朝・持明院統に天皇が分かれる)

足利尊氏・征夷大将軍となる
室町幕府の成立
北畠親房が神皇正統記を著す
観応の擾乱の際には南北・正平一統が一時的にあった。
南北朝の統一・明徳の和約
しかし、足利義満が死去すると和約・両統迭立が破られることになり、北朝中心の天皇継承となる。以後、後南朝勢力が断続的に新帝を立て蜂起することになるが鎮圧される。
川口家・・姓ハ桓武平氏、平宗清末流、宗信美濃国川口村ニ住シ男宗倫ヨリ川口ヲ称ス、宗倫八代ノ孫宗持大橋廣定ノ二男宗貞(定)ヲ養子トス、家紋ハ丸ニ茗荷一ノ字、王ノ字(向島岩子島史)

川口家は、大橋家とは季房までは同じ平氏で、大橋家は、家貞の流れとなり、川口家は、季宗の流れとなって、川口家は代々「宗」がつけられるようになったと推測できる。つまり、同じ伊勢平氏として大橋家ともほとんど同族関係にあったのだと思われる。そして、盛祐が、宗定と改名して、嫡子の絶える川口家を継いだと考えられる。

川口宗定の妻は、徳川家康の祖母の華陽院(於富の方)。
以後の川口家(川口宗吉から)は、徳川家康とも血縁関係ということになる。華陽院は、松平清康、水野忠政、あと二人と結婚している。華陽院との子に川口宗吉。華陽院は、なんと5名と結婚している。よほどに魅力があったのだろう。

水野忠政と華陽院との娘(於大の方)が徳川家康の母である。

大橋安定の子、大橋重長は、織田信秀の娘婿で織田信長の姉婿である。最初は、尾張国・清洲城主織田家と領地を争っていたが、後に、織田信秀に帰順する。

大橋安定と織田信秀の娘の子は、織田一門となった織田信弌。本能寺の変で戦死した。もう一人の大橋安定の子、大橋重一は、津島に近い美濃の高須城の城主となっている。川口家の由来となった美濃の川口村にも近い。津島四家七名字に川口家は含まれていないが、大橋家と同様に武家としての力があったと推測できる。

川口宗勝が、徳川秀忠に召し抱えられることになったのは、伊達政宗の嘆願によるところも大きなところがあったと考えられる。伊達家は、南北朝時代は南朝の忠臣であり、第7代、伊達行宗(行朝)は、後醍醐天皇に従い、義良親王(後村上帝)、北畠顕家の式評定衆として尽くしており、同じく南朝の忠臣であった津島大橋家とも同朋の関係であったことから、一説に後醍醐天皇の後胤であるとされる大橋家から養子となり川口家となった子孫である宗勝を、とにかく何としてでも擁護するのは、南朝忠臣の伊達家として当然のことであったということであるのかもしれない。

大橋家は、大橋重賢が、織田家の家臣として、滝川一益に仕えたが、滝川家の没落後、福島正則に仕える。福島正則の改易後、松平直政(父は徳川家康の次男・結城秀康)に仕えて家老となっている。(松平直政が、出雲松江藩に入る際、武名の高かった福島正則・旧臣の大橋茂右衛門を6千石で召し抱え、家老としている。)

久米田寺は、往生院とも似たような歴史を持っており、奈良時代に聖武天皇勅願、行基菩薩開基の四十九院の一つとして創建されたとされており、平安時代に九条兼実の姉・皇嘉門院の持仏堂である九条御堂の末寺として寺域が整備されている。更に、南北朝時代には、楠木正成らによる南朝の一大拠点となっており、南朝からの庇護を篤く受けているのである。

大雄寺は、大正時代に、豊島妙澄尼(松山藩士の子孫)が住職になっていた。豊島妙澄尼の長女・壽子(茶道・華道・俳句の師範)と川口蓮海が結婚し、川口立誡が生まれている。大雄寺は、楠木正成の一族・和田高家が築城した岸和田城に近く、また、楠畑と名があるように、近くには楠由来の名前が幾つも見られることから、南朝・楠木家に縁があったと推測できる。現在は無住のお寺である。

豊島英海・浄土宗教師・松山藩士の子孫。蓮海の妻・壽子の弟(松山には豊島家住宅・重要文化財が残る)。

終戦後すぐの頃には、度々、窮状打開・寺院護持のための断食行、千巻心経祈願・一切経祈願・金剛経祈願・理趣経祈願が川口立誡により修されている。復興へと向けた並々ならない気迫が伝わる。
三樹子(芳樹尼)の母・塩田妙澄尼(前述の豊島妙澄尼とは別人)は大阪市・天王寺区・六大院(真言宗)の尼僧。戦後になり往生院に入り、長年、三樹子(芳樹尼)と共に往生院の復興に大変貢献される。当時、川口立誡が住職であった頃は、檀家制度を廃止しており(信徒制度)、また、川口立誡は、葬式仏教を廃するとの強い信念があり、葬式の導師を勤めることは住職在中、一度たりとも無かった。ただ、次世の川口哲秀の頃からは葬儀の導師の受け入れを再開している。寺院・小楠公の歴史・史跡の保全に努める。民具歳時記の発行(延べ30号以上)。

戦時に梵鐘と共に供出されて無くなっていた小楠公銅像を再鋳再建。

浄土真宗開祖・親鸞、親鸞の正妻・玉日姫との関連精査

霊灰供養(斎場総供養)

2023年08月09日 | ブログ
初めて知りましたが、霊灰供養として、斎場で荼毘された全員の供養を毎年されている様子になります。

八戸市斎場 霊灰供養法会〜1年間に火葬された3,749名へ祈りを捧げる〜(八戸仏教会)【2023.8.8】
https://youtu.be/w06jc86TwnI

全国でも同じように斎場ごとにて総供養はされているのだろうか?(行われているところは、行政が主体としてではなく、各地の葬祭業組合と地域仏教会が共催して行うような形となっているようである)

最近はなかなか全骨を収骨することはなくなってしまっているため、ほとんどの方の遺骨の大半は斎場に残されて、一つにまとめられることになり、灰と共に塚に納めて埋められることになります。

中にはもちろん有縁無縁に限らずに供養を受けたくても受けれなかった方もいるわけです。

それぞれに宗教や宗派の違い等もあるため、一律にとは難しいかもしれないが、このように全体を慰霊、供養することは大切なことであると思うのであります。

斎場によっては、帰りにかなり体調が不良になることがあり、それもあるところでは必ずなるということも。もちろん、気のせいなのかもしれませんが、、

できたらこのように全国の各斎場では霊灰供養を年一回でもするようにして頂けると有り難いものであります。