今朝に往生院金堂跡に久しぶりに行ってきた。
地権者にも了承をもらっており、その目的は、平安時代に往生院を創建された安助上人のお墓、供養塔が必ず山内にあったはずでありながら、いまだ分からないままであり、そのおおよそのことを調べるために行ったのである。
色々なお寺に行っていることから、だいたい歴代の住職のお墓はここになるのではないかとの勘がつくため、そのお墓や供養塔が建てられてあったそうなところを隈なく調べていた。
しばらく回って調べるうちに、金堂跡裏手の南側の藪に入ったと同時に、体が重くなり、寒気と震え、めまいがして、もうろうとなり、ふらふらで立っておれなくなった…
もうダメだとして、とにかく下山、ふらふらになりながら、転げ落ちるようにして帰ってきて、寺務所前で倒れた…
息が浅く、意識も朦朧、驚いて出てきた妻の介抱にて、しばらく動けずに息を整えてから抱えられて家に帰り、なんとか横になる。
私の独り言で会話が始まり、それに私が相槌を打つ。
憑依にあったということ、、正直、はじめてのこと。
要約するとおおよそこうである。
往生院創建の安助上人から数えて五代目だと。足利の時の戦乱(畠山家の内紛の際か?)で金堂以下、伽藍が全て焼け落ちて、その際に私も討たれて亡くなったと。本尊さんは避難させて無事だが、避難の際に破損させてしまった(確かに破損があって修理されている跡がある)。金堂近くにある歴代のお墓に祀られたが、その後、お寺は本尊さんの避難した庵で村の信徒により守られた(現在の往生院)ものの、長い間、僧侶が入らず(往生院の金堂にあった説相箱が神感寺にわたり、竹林寺、唐招提寺へと至っている)、私たちのお墓は戦乱で荒らされたそのままになってしまい、やがて忘れ去られてしまったと。(江戸時代に浄土宗として再興されるまでは無住であった。現在の歴代のお墓もその時からの住職たちの無縫塔、五輪塔しかない。)
もとの往生院の歴代を供養してほしいと。(現在の往生院本堂に、位牌は、安助上人、黙庵和尚、正寛法師の御三方が祀られてある。)
上のことは私が独り言でつぶやき、それに、わかりましたと答えて、ようやく体が治ってきた。この様子を妻が横で不思議そうに見ていたのは言うまでもない。
ということになり、信じるか信じないかはともかく、住職に話して、改めて行ってみて、どのように供養するべきかを考えて、供養したいと思います。
しんどくなる直前まで、動画を撮っていたため画像は少ないが、最後に画像を撮ったところで、しんどくなった。この石は、まさにお墓の五輪塔の一部ではないかと思われるのである。
とにかく少し楽になってよかったが、まだふらふらしている。
・・
五代目とは少ないのでは?と思ったが、南北朝時代にも楠木正行公の本陣となって焼け落ちている。だから鎌倉と室町の瓦があるのだ。間に無住の時期がところどころであったのだろう、、
また、お名前は「浄興」と。寺史上の記録にはないお名前だ。
安助上人から記録にある入寺僧侶は、黙庵禅師と熊王丸こと正寛法師だけである。兼実により金堂が建てられた際は住職はおらず、四天王寺別当が住職を兼ねていたと思われ、慈円が名義的にはあたっていたと思われる。九条家個人の別荘みたいな管理にあったのだろう。九条道家の際に臨済宗となり、しばらくして黙庵禅師が入寺した記録がある。楠木正行公胴亡骸を胴塚に弔ったのも黙庵禅師になる。伽藍は高師直軍により火をかけられて消失しており、黙庵禅師は他に住持されることになる。それからの再建後には、正寛法師が入った記録はあるが住職になったのかどうかはわからない。その再建された伽藍が消失したのが、室町期の河内守護の畠山家による内紛時で、その際の住職が浄興さんであったのであろう、、とにかく大変なことにあった…
地権者にも了承をもらっており、その目的は、平安時代に往生院を創建された安助上人のお墓、供養塔が必ず山内にあったはずでありながら、いまだ分からないままであり、そのおおよそのことを調べるために行ったのである。
色々なお寺に行っていることから、だいたい歴代の住職のお墓はここになるのではないかとの勘がつくため、そのお墓や供養塔が建てられてあったそうなところを隈なく調べていた。
しばらく回って調べるうちに、金堂跡裏手の南側の藪に入ったと同時に、体が重くなり、寒気と震え、めまいがして、もうろうとなり、ふらふらで立っておれなくなった…
もうダメだとして、とにかく下山、ふらふらになりながら、転げ落ちるようにして帰ってきて、寺務所前で倒れた…
息が浅く、意識も朦朧、驚いて出てきた妻の介抱にて、しばらく動けずに息を整えてから抱えられて家に帰り、なんとか横になる。
私の独り言で会話が始まり、それに私が相槌を打つ。
憑依にあったということ、、正直、はじめてのこと。
要約するとおおよそこうである。
往生院創建の安助上人から数えて五代目だと。足利の時の戦乱(畠山家の内紛の際か?)で金堂以下、伽藍が全て焼け落ちて、その際に私も討たれて亡くなったと。本尊さんは避難させて無事だが、避難の際に破損させてしまった(確かに破損があって修理されている跡がある)。金堂近くにある歴代のお墓に祀られたが、その後、お寺は本尊さんの避難した庵で村の信徒により守られた(現在の往生院)ものの、長い間、僧侶が入らず(往生院の金堂にあった説相箱が神感寺にわたり、竹林寺、唐招提寺へと至っている)、私たちのお墓は戦乱で荒らされたそのままになってしまい、やがて忘れ去られてしまったと。(江戸時代に浄土宗として再興されるまでは無住であった。現在の歴代のお墓もその時からの住職たちの無縫塔、五輪塔しかない。)
もとの往生院の歴代を供養してほしいと。(現在の往生院本堂に、位牌は、安助上人、黙庵和尚、正寛法師の御三方が祀られてある。)
上のことは私が独り言でつぶやき、それに、わかりましたと答えて、ようやく体が治ってきた。この様子を妻が横で不思議そうに見ていたのは言うまでもない。
ということになり、信じるか信じないかはともかく、住職に話して、改めて行ってみて、どのように供養するべきかを考えて、供養したいと思います。
しんどくなる直前まで、動画を撮っていたため画像は少ないが、最後に画像を撮ったところで、しんどくなった。この石は、まさにお墓の五輪塔の一部ではないかと思われるのである。
とにかく少し楽になってよかったが、まだふらふらしている。
・・
五代目とは少ないのでは?と思ったが、南北朝時代にも楠木正行公の本陣となって焼け落ちている。だから鎌倉と室町の瓦があるのだ。間に無住の時期がところどころであったのだろう、、
また、お名前は「浄興」と。寺史上の記録にはないお名前だ。
安助上人から記録にある入寺僧侶は、黙庵禅師と熊王丸こと正寛法師だけである。兼実により金堂が建てられた際は住職はおらず、四天王寺別当が住職を兼ねていたと思われ、慈円が名義的にはあたっていたと思われる。九条家個人の別荘みたいな管理にあったのだろう。九条道家の際に臨済宗となり、しばらくして黙庵禅師が入寺した記録がある。楠木正行公胴亡骸を胴塚に弔ったのも黙庵禅師になる。伽藍は高師直軍により火をかけられて消失しており、黙庵禅師は他に住持されることになる。それからの再建後には、正寛法師が入った記録はあるが住職になったのかどうかはわからない。その再建された伽藍が消失したのが、室町期の河内守護の畠山家による内紛時で、その際の住職が浄興さんであったのであろう、、とにかく大変なことにあった…