日記

日記

親鸞浄土論を簡潔・簡単にまとめると

2022年09月25日 | ブログ
親鸞浄土論をもっとわかりやすく、簡潔、簡単にまとめてほしいというご要望を頂くのですが、

大学の試験などでよくあるように、重要ワードを挙げて、そのワードをもとに説明させて頂こうかと思います。(1000字以内)

ワード選択は、「二種回向」、「二種法身」、「本願」、「信心獲得」、「名号」、「他力」。

親鸞浄土論の要諦は、何よりも阿弥陀如来による(主体とした)「二種回向」(往相回向と還相回向)となります。

そして、二種回向は、やがて衆生が、「二種法身」を得るための根拠となるもので、往相回向は、法性法身を得るための、還相回向は、方便法身を得るためのそれぞれ根拠となる阿弥陀如来による「本願」のはたらきなのであります。

衆生が、まず、法性法身を得るには、悟りへと至れる功徳を有する清浄なる浄土(拙見解では一如宝海・真如法性)への往生が必要となります。

その往生のためには、「信心獲得」(獲信)、信心決定が必要となります。

そして、信心獲得のためには、阿弥陀如来の本願によるはたらきである真実功徳(自利利他の円満)を有する「名号」を起因とした、絶対の「他力」、つまり、阿弥陀如来の本願(の功徳・利益)への絶対的な信心が必要となるのであります。

また、衆生へと阿弥陀如来の本願のはたらきが届く、その過程は、一如宝海・法性法身から生じて、次に、方便法身、そして、名号として示されるものとなるのであります。

それが、この娑婆世界においてであれば、阿弥陀如来の法性法身(一如宝海)→方便法身(法蔵菩薩・報身阿弥陀如来・応身釈迦如来)→名号となって示されているのであります。

問題点は、迷いから悟りへと向けた通仏教における修道論(の因果関係)、智慧と福徳の二資糧の集積、大乗仏教における六波羅密行の必要性が完全に否定されてしまうこと、

往生論、見仏論が、「信心」のみを根拠としたものとして、それ以外の行の一切が、雑行、雑善として否定されてしまうこと、

成仏論が、浄土のはたらき(阿弥陀如来の本願によること)のみを根拠とした本覚思想・如来蔵思想的なものになってしまうこと(煩悩即菩提・生死即涅槃など世俗諦と勝義諦の誤った相即相入・不一不異の二諦論による成仏論)、

過去世・現生の行状、業論が全く問われなくなってしまう(無法・無秩序・何でもありになりかねない)こと、

全ての一切の方便が、本願のはたらきであるとして肯定、是認されてしまいかねないこと(本願誇り・本願驕り)など、

これまでも見てきた問題点もいくつか整理することができるのであります。

曇鸞以降における浄土論の最大の誤謬(般若中観思想の誤った用法による)

2022年09月19日 | ブログ
しかし、そもそも曇鸞と道綽の浄土論の根幹となっている般若中観思想の論理としての、生即無生、相即無相、法性即方便の広略相入などの相即相入の関係、不一不異の関係の用法は、本来、正しいものであるのかどうかという問題があります。

これはいわゆる二諦の相即関係とも絡んでくるのですが、要は、世俗諦即勝義諦、煩悩即菩提、生死即涅槃という事態がその根底に控えてあるわけです。(本覚思想・如来蔵思想へと繋がる大問題)

これは、真なる中観思想(後期中観思想・ツォンカパ大師の後期中観思想)からは、残念ながら間違った用法であると言わざるをえないのであります。

(本来の般若中観思想の示す相即関係とは、空と縁起の相即関係を示し、そして、何よりも空・無自性であるからこその縁起、つまり、因果・因縁の正しさを論証するためのものであり、決して、迷いと悟りが同じであるとか、世俗諦と勝義諦が同じであるとか、そういうことを示しているものではないのであります。)

つまり、法性法身と方便法身の二種法身の理論にて展開されてある浄土論は、日本の浄土論、親鸞浄土論も含めて、元々から大きな誤謬を抱えてあるというわけなのであります。

親鸞思想が、本覚思想・如来蔵思想的な問題を抱えてあるというのも、要は二種法身を論理的根拠としているからなのであります。

・・

では、曇鸞、道綽における浄土論において、願生者における凡夫の「空性」理解は、実際にどのようなものになるのかということですが、曇鸞は、論註(往生論註)において、往生と般若の智慧(空性の理解)の獲得の構造を「見生の火」で喩えています。

見生とは、要は、「空」を理解できずに、モノ・コトのありようを実体視して囚われを起こしてしまう状態のことであり、いわゆる無知無明、倶生の諦執、真実執着と言われるものであります。

「見生の火」とは、つまり、燃え盛る無明、煩悩の喩えのことで、願生者における凡夫は、阿弥陀如来の本願の功徳・利益によって、その火を滅することができる、無明、煩悩を滅することができると、曇鸞は論註にて説明するのであります。つまり、その火を消す水、氷の如くの功徳、利益が浄土のはたらきにあるということで、その根拠は、法性法身と方便法身との相即相入関係であり、方便法身のはたらきにより、真なる空性を理解する真如・悟り・涅槃の境涯へと誘われるという次第となります。

また、曇鸞は、現生の願生者において、それが可能であるとするのでもあります。(これは無理がありすぎですが・・)

一方で、道綽は、そうではなく、願生者における凡夫が往生して極楽に至った時において、無明、煩悩が滅されることになる(生即無生、相即無相、法性即方便の広略相入を根拠として)と解釈しており、両者の違いが明らかとなっているところであります。

・・

曇鸞と道綽は、それぞれの浄土論の展開において、仏教の智慧となる空性の理解へと向けた配慮が相当慎重になされてあったことが窺えるところであります。

生即無生、相即無相、法性即方便の広略相入などの相即相入の関係、不一不異の関係は、般若中観思想の論理を浄土論の根幹に置いてある証左であります。

しかし、それでも、当時の中国仏教界では、悪取空見、絶対無、虚無、無分別知への執着等によっての無念無想や無思無観の禅定を悟りへと向けて重視する傾向があり、そのような中で、一般凡夫が、それらの(もちろん間違った空見であるのですが)境地へと至ることなどとても難しいとされている中で、有相の浄土、化身化土への往生を願う思想は、当時の仏教界エリートたちの間からは、相や行、仏を実体視して執着するものとして、酷く蔑視されていたものとなっていたのであります。

それよりも、空性の修習(結局は間違った空性の理解なのですが)による無相の浄土、報身報土への往生、見仏こそが王道であるという論が主流にあったわけです。

よって、空性の修習をせずに、有相の浄土、化身化土へと往生するという思想は、相、行、仏に対する執着によるもので、往生できるどころか、悪業となりて悪趣へと墜ちるとさえ批判されていたのであります。

そのような中で、当時の空思想を換骨奪胎して、「凡聖通往」の論理を導き出したのが、曇鸞であり、道綽なのであります。

特に道綽は、「道綽禅師」と別称されているように当時の禅思想にもかなり精通してあった学僧で、その禅思想の抱えてあった問題点(悪取空見、絶対無、虚無、無分別知への執着等)を鋭く見抜かれていた可能性が高くあります。

それを踏まえた上で、誤った空性の修習によるのではなくて、生即無生、相即無相、法性即方便の広略相入としてある阿弥陀如来の本願による功徳・利益としての救済のあり方を重視し、有相の浄土、化身化土への往生こそが、衆生の時機にあったものであると結論付けたのであります。

また、その往生する有相の浄土、化身化土は、報身報土に包摂されてあるものとして、それは、阿弥陀如来の本願による衆生救済のあり方の相違であり、衆生の機根においての往生先の相違であるものの、阿弥陀如来の救いに与れることには何ら変わりはないとするのであります。

これは、裏を返せば、唯識思想にも相当配慮されてあるものとして、往生する者、それぞれの業のありようによってその認識に映える世界における往生先の相、無相の相違としても考えることができるもので、道綽の往生観、浄土観は、かなり、中観・唯識思想共に精通したものとなっているとも言えるのであります。

更に、道綽は、それぞれの仏果へと向けた菩提心、つまり、化身への菩提心、報身への菩提心、法身への菩提心を配するなど、修道のあり方についても整理し、浄土論の中でも、色々な点が精緻に検討されてあることが窺えるところでもあります。

主な著作としては、ただ「安楽集」しかないのですが、道綽の浄土論は、もっと評価されてしかるべきではないだろうかと思うのであります。

「見生の火」とは

2022年09月19日 | ブログ
では、曇鸞、道綽における浄土論において、願生者における凡夫の「空性」理解は、実際にどのようなものになるのかということですが、曇鸞は、論註(往生論註)において、往生と般若の智慧(空性の理解)の獲得の構造を「見生の火」で喩えています。

見生とは、要は、「空」を理解できずに、モノ・コトのありようを実体視して囚われを起こしてしまう状態のことであり、いわゆる無知無明、倶生の諦執、真実執着と言われるものであります。

「見生の火」とは、つまり、燃え盛る無明、煩悩の喩えのことで、願生者における凡夫は、阿弥陀如来の本願の功徳・利益によって、その火を滅することができる、無明、煩悩を滅することができると、曇鸞は論註にて説明するのであります。つまり、その火を消す水、氷の如くの功徳、利益が浄土のはたらきにあるということで、その根拠は、法性法身と方便法身との相即相入関係であり、方便法身のはたらきにより、真なる空性を理解する真如・悟り・涅槃の境涯へと誘われるという次第となります。

また、曇鸞は、現生の願生者において、それが可能であるとするのでもあります。(これは無理がありすぎですが・・)

一方で、道綽は、そうではなく、願生者における凡夫が往生して極楽に至った時において、無明、煩悩が滅されることになる(生即無生、相即無相、法性即方便の広略相入を根拠として)と解釈しており、両者の違いが明らかとなっているところであります。

・・

曇鸞と道綽は、それぞれの浄土論の展開において、仏教の智慧となる空性の理解へと向けた配慮が相当慎重になされてあったことが窺えるところであります。

生即無生、相即無相、法性即方便の広略相入などの相即相入の関係、不一不異の関係は、般若中観思想の論理を浄土論の根幹に置いてある証左であります。

しかし、それでも、当時の中国仏教界では、悪取空見、絶対無、虚無、無分別知への執着等によっての無念無想や無思無観の禅定を悟りへと向けて重視する傾向があり、そのような中で、一般凡夫が、それらの(もちろん間違った空見であるのですが)境地へと至ることなどとても難しいとされている中で、有相の浄土、化身化土への往生を願う思想は、当時の仏教界エリートたちの間からは、相や行、仏を実体視して執着するものとして、酷く蔑視されていたものとなっていたのであります。

それよりも、空性の修習(結局は間違った空性の理解なのですが)による無相の浄土、報身報土への往生、見仏こそが王道であるという論が主流にあったわけです。

よって、空性の修習をせずに、有相の浄土、化身化土へと往生するという思想は、相、行、仏に対する執着によるもので、往生できるどころか、悪業となりて悪趣へと墜ちるとさえ批判されていたのであります。

そのような中で、当時の空思想を換骨奪胎して、「凡聖通往」の論理を導き出したのが、曇鸞であり、道綽なのであります。

特に道綽は、「道綽禅師」と別称されているように当時の禅思想にもかなり精通してあった学僧で、その禅思想の抱えてあった問題点(悪取空見、絶対無、虚無、無分別知への執着等)を鋭く見抜かれていた可能性が高くあります。

それを踏まえた上で、誤った空性の修習によるのではなくて、生即無生、相即無相、法性即方便の広略相入としてある阿弥陀如来の本願による功徳・利益としての救済のあり方を重視し、有相の浄土、化身化土への往生こそが、衆生の時機にあったものであると結論付けたのであります。

また、その往生する有相の浄土、化身化土は、報身報土に包摂されてあるものとして、それは、阿弥陀如来の本願による衆生救済のあり方の相違であり、衆生の機根においての往生先の相違であるものの、阿弥陀如来の救いに与れることには何ら変わりはないとするのであります。

これは、裏を返せば、唯識思想にも相当配慮されてあるものとして、往生する者、それぞれの業のありようによってその認識に映える世界における往生先の相、無相の相違としても考えることができるもので、道綽の往生観、浄土観は、かなり、中観・唯識思想共に精通したものとなっているとも言えるのであります。

更に、道綽は、それぞれの仏果へと向けた菩提心、つまり、化身への菩提心、報身への菩提心、法身への菩提心を配するなど、修道のあり方についても整理し、浄土論の中でも、色々な点が精緻に検討されてあることが窺えるところでもあります。

主な著作としては、ただ「安楽集」しかないのですが、道綽の浄土論は、もっと評価されてしかるべきではないだろうかと思うのであります。

曇鸞と道綽の浄土論

2022年09月18日 | ブログ
曇鸞と道綽は、それぞれの浄土論の展開において、仏教の智慧となる空性の理解へと向けた配慮が相当慎重になされてあったことが窺えるところであります。

生即無生、相即無相、法性即方便の広略相入などの相即相入の関係、不一不異の関係は、般若中観思想の論理を浄土論の根幹に置いてある証左であります。

しかし、それでも、当時の中国仏教界では、悪取空見、絶対無、虚無、無分別知への執着等によっての無念無想や無思無観の禅定を悟りへと向けて重視する傾向があり、そのような中で、一般凡夫が、それらの(もちろん間違った空見であるのですが)境地へと至ることなどとても難しいとされている中で、有相の浄土、化身化土への往生を願う思想は、当時の仏教界エリートたちの間からは、相や行、仏を実体視して執着するものとして、酷く蔑視されていたものとなっていたのであります。

それよりも、空性の修習(結局は間違った空性の理解なのですが)による無相の浄土、報身報土への往生、見仏こそが王道であるという論が主流にあったわけです。

よって、空性の修習をせずに、有相の浄土、化身化土へと往生するという思想は、相、行、仏に対する執着によるもので、往生できるどころか、悪業となりて悪趣へと墜ちるとさえ批判されていたのであります。

そのような中で、当時の空思想を換骨奪胎して、「凡聖通往」の論理を導き出したのが、曇鸞であり、道綽なのであります。

特に道綽は、「道綽禅師」と別称されているように当時の禅思想にもかなり精通してあった学僧で、その禅思想の抱えてあった問題点(悪取空見、絶対無、虚無、無分別知への執着等)を鋭く見抜かれていた可能性が高くあります。

それを踏まえた上で、誤った空性の修習によるのではなくて、生即無生、相即無相、法性即方便の広略相入としてある阿弥陀如来の本願による功徳・利益としての救済のあり方を重視し、有相の浄土、化身化土への往生こそが、衆生の時機にあったものであると結論付けたのであります。

また、その往生する有相の浄土、化身化土は、報身報土に包摂されてあるものとして、それは、阿弥陀如来の本願による衆生救済のあり方の相違であり、衆生の機根においての往生先の相違であるものの、阿弥陀如来の救いに与れることには何ら変わりはないとするのであります。

これは、裏を返せば、唯識思想にも相当配慮されてあるものとして、往生する者、それぞれの業のありようによってその認識に映える世界における往生先の相、無相の相違としても考えることができるもので、道綽の往生観、浄土観は、かなり、中観・唯識思想共に精通したものとなっているとも言えるのであります。

更に、道綽は、それぞれの仏果へと向けた菩提心、つまり、化身への菩提心、報身への菩提心、法身への菩提心を配するなど、修道のあり方についても整理し、浄土論の中でも、色々な点が精緻に検討されてあることが窺えるところでもあります。

主な著作としては、ただ「安楽集」しかないのですが、道綽の浄土論は、もっと評価されてしかるべきではないだろうかと思うのであります。

真実報土と一如宝海のことについて

2022年09月10日 | ブログ
真実報土と一如宝海のことについて聞かれましたので、その補足として・・

聖者のみならず、凡夫が報土へと往生できる、つまり、凡夫救済の理論も、「往生論註」が示す法性法身と方便法身の不一不異、相即相入、由生由出関係がその根拠となるわけです。

化土つまり、相土と、報土である無相土も、不一不異、相即相入ということで、聖者であろうが凡夫であろうが、往生すれば同じように平等に救済に与れることになるという次第なのであります。

これらの根拠も阿弥陀如来の本願による功徳・利益であると説明されるわけでありますが、何よりも、法性法身と方便法身の不一不異、相即相入、由生由出関係そのものが阿弥陀如来の本願の功徳・利益ということで、親鸞聖人が最も注目したのもこの点にあったと推測するのであります。

真実報土とは、本来は、阿弥陀如来の報身による報土とされるわけですが、本当の真意はそうではなく、法性法身そのもの、つまり、法身法土、先に述べてあるように一如宝海をその往生先として想定されていたのではないだろうかというのが、拙結論というわけなのであります。

大乗起信論における二分依他性について

2022年09月10日 | ブログ
大乗起信論における二分依他性とはいかなる事態であるのかということの質問を随分前に頂いていたのだが、親鸞思想についての考察を重視していたために後回しになってしまっていました。

要は、染浄二分の如来蔵ということで、私たちには、元々は真理を知る力としての浄らかなる真如(知)が備わっているものの、それよりも汚れた知としての煩悩障・所知障による虚妄分別(知)の方が勝ってしまっていることで、迷苦輪廻の中にあるということであります。

そして、修道により、虚妄分別を無くすことに成功すれば、そのまま元々自分に備わっていた真如によって全てが真理そのままで認識されるようになるということであります。

この関係は、大乗起信論において波の喩えで分かりやすく表現されるところでもあります。

風が立ち、波が起こると、底が見えなくなるありようが、虚妄分別による汚れた知のありようを示し、風が止み、波も止めば、底が見えるようになるありようが、真如による浄らかなる知のありようを示すということであります。

もちろん、波が起ころうが起こるまいが、水は水として何ら元々汚れもなく、浄らかなる本体として、真理を知る真如そのままの知があるとするのであり、それを如来蔵と言うわけなのであります。

大乗起信論の最大の特徴としても、この波の喩えを理解することが重要となります。







浄土論における本覚思想・如来蔵思想的な救済論について

2022年09月08日 | ブログ
先に曇鸞の二種法身について議論してきた際に、方便法身は、従来の仏陀の法身説における「智法身」にあたるのではないかとして、但し、その智法身は、方便のはたらきを行うための仏陀の認識の主体であり、土台となるものではあるものの、法身そのものが衆生の済度を行うものではなく、あくまでもその法身からの報身、応身、化身が、済度のはたらきを成すものであり、法性法身と不一不異、相即相入の関係とするような曇鸞の方便法身の考え方は、本来、間違ったものと言わざるをえないのではないだろうかと述べさせて頂いています。

もちろん、衆生の救済に当たるために、法身から各色身を生じさせることにはなるものの、それはあくまでも法身ではなく、法身は色身を生じる直接的な元となる因縁に過ぎないものであるということなのであります。

ところがそうではなく、曇鸞は、方便のはたらきを行う法身があるとして、それを法性法身と不一不異、相即相入としてしまうことで、浄土論における本覚思想・如来蔵思想的な救済論を展開していくことへと繋がるものになったと考えられるのであります。

そして、この二種法身におけるはたらき(智慧・慈悲・方便の三種門)と阿弥陀如来の本願の功徳・利益を結びつけることで、摂取によって、本来、悟りへ向けて必要となる智慧(般若)と福徳(方便・功徳)の力を得ることができるとした成仏観が生まれたのであります。

しかし、本当にこんなご都合主義のような論理で、悟り・涅槃へと至れて仏陀・如来となれるのであれば、これほど簡単で、楽なことはもちろんありません。

また、そのようにして成仏した者が多数いるのであれば、もうこの世界、この三千大千世界、他の無数の三千大千世界は、仏陀・如来で溢れかえっていてもおかしくないものとなりますが、全くそういうわけでもありません。

これについては、阿弥陀如来の法身への摂取により、文字通りに、法身へと包摂、取り込まれることで、阿弥陀如来の法身に、各々が溶け込むことになるというようなイメージに近いのではないだろうかと推測するところであります。要は、皆、摂取によって、阿弥陀如来に吸収されるという感じであります。

もちろん、これでは個々人の個別相や心、性質、気質等がどうなるのかはかなり説明しづらくなるのですが・・(具体的な例があまり思い浮かびませんが、ドラゴンボールのセルや魔人ブウに吸収されるようなイメージでしょうか・・)

そして、それぞれが阿弥陀如来の方便法身としてのはたらきを行っていくということになるわけです。要は還相の菩薩行ということになります。

このように考えると、それぞれが個別の仏陀・如来となるわけではなくて、阿弥陀如来の法性法身に溶け込んだ者たちが、阿弥陀如来の方便法身のはたらきをそれぞれ各々で行っていくことになると考えることもできるのであります。

このような成仏観であれば、色々と無理はあるものの、少しは説明ができることもあるのではないだろうかと思っているのであります。

親鸞思想の本質

2022年09月04日 | ブログ
そして、結局は、最初の結論に戻るのでもあります。

それは、最初に指摘した方便・手段が、仏性、見仏とイコールとなってしまうという誤謬です。

要は、方便法身と法性法身を不一不異、相即相入の関係と見ることで、方便法身のはたらきそのものを悟り・涅槃のはたらきそのものとしてしまうあり方です。

そして、これはもう本覚思想・如来蔵思想に相当近似してある考え方でもあり、「方便法身=法性法身」として、四相も現生往生(往相)、現生浄土、現生成仏、現生還相とそれぞれのあり方を見ることもできなくはないということなのであります。

つまり、方便法身のはたらきの届いてあるところは、もうそこは法性法身に既に包摂されてあるということであります。

それが、端的には現生往生(往相)、現生浄土、現生成仏、現生還相という事態にも繋がりかねないことになるのであります。

拙生の結論的には、親鸞思想もその本質においては、本覚思想・如来蔵思想を踏破しきれなかったと見ているのであります。

・・

親鸞会の方との議論における曇鸞の二種法身の考察から始まった一連の積み重ねにより、親鸞思想への理解が相当に進んできたように思います。

そして、色々な議論もその大元としては、やはり二種法身を再考することでより見えてくるものがあるように思えます。

親鸞聖人にとっては、阿弥陀如来の法性法身を第一義として全ての教えが展開、整理されてあるということであります。

阿弥陀如来の法性法身を、悟り・涅槃・真如・法界の大海、つまり、一如宝海とし、一如宝海へと向かう相を往相として、一如宝海から衆生界へと向かう相を還相として、その二種を阿弥陀如来が主体として回向されてあるとするのであります。

故に、親鸞聖人にとっては、阿弥陀如来の報身、釈迦如来の最勝応身、また、法蔵菩薩も、この阿弥陀如来の一如宝海から示現した還相というあり方として説明されるところとなるのであります。いわゆる「従果還因・従果降因」の菩薩ということであります。

そして、私たち衆生が、悟り・涅槃へと至り、成仏するあり方も、この阿弥陀如来の一如宝海へと入ることにより、阿弥陀如来の法性法身と一如、一味に溶け込むことで成されるとするのであります。

まとめるとすると、

往生(往相)は、阿弥陀如来への一如宝海へと向かうあり方。

浄土(浄土相)は、阿弥陀如来の一如宝海の様相のあり方。

成仏(成仏相)は、阿弥陀如来の一如宝海と一如・一味となるあり方。

ということになるのであります。

そして、還相は、阿弥陀如来の一如宝海から衆生界へと向かうあり方(要は、方便法身のあり方)ということで、これらの往相・浄土相・成仏相・還相の四相が、阿弥陀如来の本願により回向されているということなのであります。

この四相のあり方へと向けた阿弥陀如来の本願への絶対他力、絶対信心が、四相の功徳、利益を受ける絶対条件ということになっているのであります。

そして、ではその四相が、今現生で可能なのかどうかということが更に論点になるということであります。

これらの妥当性を吟味していくことが拙生における重要な課題というわけなのであります。





親鸞聖人の往生観・浄土観・成仏観・還相観について

2022年09月04日 | ブログ
親鸞会の方との議論における曇鸞の二種法身の考察から始まった一連の積み重ねにより、親鸞思想への理解が相当に進んできたように思います。

そして、色々な議論もその大元としては、やはり二種法身を再考することでより見えてくるものがあるように思えます。

親鸞聖人にとっては、阿弥陀如来の法性法身を第一義として全ての教えが展開、整理されてあるということであります。

阿弥陀如来の法性法身を、悟り・涅槃・真如・法界の大海、つまり、一如宝海とし、一如宝海へと向かう相を往相として、一如宝海から衆生界へと向かう相を還相として、その二種を阿弥陀如来が主体として回向されてあるとするのであります。

故に、親鸞聖人にとっては、阿弥陀如来の報身、釈迦如来の最勝応身、また、法蔵菩薩も、この阿弥陀如来の一如宝海から示現した還相というあり方として説明されるところとなるのであります。いわゆる「従果還因・従果降因」の菩薩ということであります。

そして、私たち衆生が、悟り・涅槃へと至り、成仏するあり方も、この阿弥陀如来の一如宝海へと入ることにより、阿弥陀如来の法性法身と一如、一味に溶け込むことで成されるとするのであります。

まとめるとすると、

往生(往相)は、阿弥陀如来への一如宝海へと向かうあり方。

浄土(浄土相)は、阿弥陀如来の一如宝海の様相のあり方。

成仏(成仏相)は、阿弥陀如来の一如宝海と一如・一味となるあり方。

ということになるのであります。

そして、還相は、阿弥陀如来の一如宝海から衆生界へと向かうあり方(要は、方便法身のあり方)ということで、これらの往相・浄土相・成仏相・還相の四相が、阿弥陀如来の本願により回向されているということなのであります。

この四相のあり方へと向けた阿弥陀如来の本願への絶対他力、絶対信心が、四相の功徳、利益を受ける絶対条件ということになっているのであります。

そして、ではその四相が、今現生で可能なのかどうかということが更に論点になるということであります。

これらの妥当性を吟味していくことが拙生における重要な課題というわけなのであります。





獲信により正定聚の位に定まるという事態について

2022年09月03日 | ブログ
獲信したとしても、煩悩具足の身のままであるならば、行いは当然に否定されるべき雑修雑善(虚仮の行・雑毒の善)となるため、現生にて還相の菩薩の利他行を為すことは当然に不可となります。また、往還二種回向の主体はあくまでも阿弥陀如来であり、他が主体となる余地は微塵もないのであります。

もちろん、獲信できたとすれば、阿弥陀如来の本願の利益に与ることにより、五趣八難の道を超え、現生に十種の益を得るとして、悪業が滅罪して輪廻から解脱すること(横超)と共に、転悪成善の益も説かれてあるところですが、まさか、これを根拠に(世間的にも誰から見ても明らかな)悪行(例えば殺人など)を犯したとしても、それが善行、善業になるのだと主張するのであれば、これほど明らかな本願誇り、本願驕りはないものであると考えます。

また、獲信により正定聚の位に定まるという事態は、現生往生を否定して、往生以後における菩提修道を想定して考えない限り、成仏の因をただ「信心のみ」として、阿弥陀如来の本願の利益、摂取不捨の利益によって成仏までもを可としてしまうのは、あまりにも論理の飛躍と言わざるをえないのであります。

もし、そのようにして「信心のみ」にて如来が出現するとなれば、もうこの尽十法界には、如来が相当多数、それこそ数百万、数千万単位で出現していることになっているはずですが、そのようなことは釈尊も他の如来方もお説きにはなられていないのであります。もし極楽浄土で多数の如来がそのようにして出現しているとなれば、阿弥陀経でも当然にそのことが明確に説かれているはずなのであります。