日記

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疑心往生について・補足

2024年05月31日 | ブログ
疑心往生の件は、拙このポストを参考にして頂けたらと思うが、

https://www.facebook.com/share/p/tKMmH6eQrKn8MDsz/

疑心が微塵でもあれば、真実浄土への往生は不可であります。

これは、煩悩障が微塵でもあれば、空性を現量にて完全に了解できないという事態と同じようなものであると考えると分かりやすいでしょう。

もちろん、疑心があっても真実浄土以外のところへの往生は可であります。

そちらを想定する場合もあるため、それらそれぞれの往生先へと向けた条件の相違については、より細かく説明していく中で、誤解を生まないようにするのが望ましいことになるでしょう。

いずれにしても真実浄土への往生を勧めるのであれば、疑心は完全に無くす事態としなければならないというのが、親鸞聖人の意であると考えなければならないのであります。


四條縄手古戦場(東大阪市上四条) 地鎮法要・追善法要 楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養 経塚前祠堂にて厳修 法要の様子と経塚古墳について 2024年5月29日

2024年05月29日 | ブログ
ようやくに東大阪市上四条の字・天王堂が芝・西光寺廃寺跡地・四條縄手古戦場跡・砂山城跡へ赴き、法要を厳修いたしました。これで安心して畑小路地蔵尊の堂内五輪塔二基の元々あった場所についての調査にも入ることができます。また、経塚の内部につきましても少し扱わせて頂いております。

読経、回向も編集なしとなっており、全体がかなり長くなっていますので、ご興味のあるところだけご覧頂けましたらと存じます。

四條縄手古戦場(東大阪市上四条) 地鎮法要・追善法要 楠木正成公・正行公・正時公・四條縄手合戦戦没者追善供養 経塚前祠堂にて厳修 法要の様子と経塚古墳について 2024年5月29日

https://youtu.be/PW2mDGLL-EU?feature=shared




疑心往生・疑心残存の議論について

2024年05月28日 | ブログ
この問題は、疑心のないこと、信心獲得したことを明確に証明するのが難しいのに起因する問題であり、また、自内証であるため、第三者からの判定も無理なもので、何がそもそも疑心であり、何が自力にあたるものかも、かなり個々人の恣意的なものに委ねることになってしまう面もあり、議論自体が堂々巡り、水掛け論に陥るのも仕方のないところがあります。

まあ、疑心なく、自力でないとしても、周りからはそれは自力、功徳行、雑行、雑修と見られてしまうことも多々あるわけです。行動一つからでもです。

例えば、道にカタツムリがおり、車に轢かれて亡くなると可愛そうだと思って、脇に避けてやる行為でも、本人の動機、内証などわかりようがないわけです。

ある者は不殺生戒、慈悲行、功徳行として行う場合があるでしょうし、これは功徳行、自力行として行うのではない、ただかわいそう、それだけですることだ、決して往生のため、善根のためとしてするのではないと思っていたとしても、そんな内心のことなど、他からはわかり得ないし、推測しようとしてもあまり意味のないことなのであります。

まあ、純粋にカタツムリが助かった、だけで良いわけです。

とにかく、真実浄土へ往生するには、確かに疑心あれば不可であり、信心決定していなければ不可であるでしょう。

ただ、真実浄土へと往生できる者は、空性現量了解に匹敵するほどの境地であり、それは、菩薩の十地にほぼ該当するものであるわけです。

そうでなければ、如来の法身、色身に至るための根拠を欠くことになるわけです。

とにかく、彌陀往還回向、本願勅命を賜わり、往生申し法性方便法身を成就する根拠については、よくよくに検討することが望ましいことでしょう。

まあ、疑心あっても、真実浄土はもとより、極楽報土へも無理であっても、極楽六道には往生は可であるとは思います。

如来在世の化身仏より教えを頂いて、娑婆六道におけるのと同様に仏道修行に励むのも有り難いことになります。何より見仏の有無は我々凡夫にとってはかなり大きなものであります。



疑心往生説、疑心残存説についての問題提起について、特定の僧侶に対して異義・異安心というのは何事か?とか異端を裁くのかという意見がありますが、宗派の教義に背く説を布教する人が、どういう処分受けるのかなどというのは、それぞれの所属する組織が決めることであります。ましてや、宗派外の人に対しては何ら拘束力をもたないのであります。ただ本願寺派の伝統宗学において学者が合意している枠組みからは外れているということにすぎないのです。
 重要なのは、以下の点です。
1 一生涯親鸞聖人は本願に対する疑いを離れられず、悩み続けた人である
2 信心をいただいた、助かった、という人は自分の体験を握りしめている人である。その正しさで人を裁いてはいけない、それが自力にとらわれている人である
以上の主張を親鸞聖人の教えとして流布することが許されるのかということであります。
 どちらも親鸞聖人の著作にはまったくみられない教義であることを私は論証しています。上のことを主張するなら、親鸞聖人のご文から上の教えを裏づける根拠を示さなければなりません。それは、まったくなされていません。
 勧学和上の説を引用して応答はしていますが、どちらも本人の誤解、誤用です。(それは別の機会に考察します)
結論として、親鸞聖人の教えでないものを親鸞聖人の教えとして僧侶が流布していてもいいのですかということです。他派のことはいいにくいので、本願寺派の伝統宗学ではダメだと言われているということ提示して、本願寺派の人に考えていただきたいと思ったわけです。真宗全体でも、ご自身の往生の問題ですから、本当に親鸞聖人がおっしゃったことなのかを問う意味では大切なことだと思います。

古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて 四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて 2024年5月27日

2024年05月27日 | ブログ
忌み地や禁足地への向き合い方について

古来より伝わる忌み地・禁足地における畏敬・慰霊・供養の大切さについて 四條縄手の合戦戦没者供養・楠木正成公・正行公・正時公供養へと向けて 2024年5月27日

https://youtu.be/L0U-HHhNrlc?feature=shared


上四条・西光寺廃寺跡・四條縄手古戦場跡地調査の前に楠木家・戦没者供養を勤める予定

2024年05月26日 | ブログ
上四条の西光寺廃寺跡地調査は、単なる史跡調査や研究目的ではなく、やはりまずは供養をメインへと切り替えることにする。

近日に西光寺廃寺跡、楠木正行公、正時公五輪塔が元あったところの調査へと向かう予定だが、すでにここだろうというところは最初に赴いた時に感じてはいる。おそらくは間違いないだろう。

また、周囲においては、やはり、古来より古戦場跡であるだけに禁足地、忌み地としての伝えも多い。つまり、失礼があれば、祟りがあるということだ。気をつけなければならない。

明治二年の村の願書にもあったように、以来、慰霊を丁寧になされてはいたが、もうここ数年は滞りがちとなっているのは明白で、明治、大正、昭和、平成と慰霊を続けていた施主たちが、次々と亡くなり、後の世代への継承が残念ながらなされなかったためであろう。

花草神社跡の小祠が無くなってしまった状況からも、それは歴然である。

ずっと慰霊の祭祀がなされていたと思われる経塚の祠も、一部床が抜け落ちていた…もう祭祀どころでもなく、建物の管理さえも怪しくなってしまっている状況だった。

調査研究も大事ではあるが、とにかく供養を勤めるのが何よりも大切である。


上四条・経塚の祠堂

2024年05月26日 | ブログ
上四条、経塚の祠堂、下記のブログ記事は10年前だが、まだ祭祀はしっかりなされていたようである。

ただ、現在でも注連縄、紙垂(しで)はまだ代えられているようには思うが・・

河内彷徨 ~郷土を見にゆく~
私の故郷「中河内」を見に行きます
http://ovw100bj.blog129.fc2.com/blog-entry-1061.html


四條縄手の合戦の怨霊を慰霊したい旨の願書・四条村

2024年05月23日 | ブログ
上四条(四条村)で実際に出されていた四條縄手の合戦の怨霊を慰霊したい旨の願書が記されてある項。

祠、社建立は、恐らく経塚の前にあった社となったのであろう。菊水の紋が瓦に入ってあったことから、これに間違いない。

ということは明治期の建立になる。

公碑は、大正以降になるだろうか(大正十四年(1925)建立のようです)。やはり、元々に五輪塔、塚があったとされるところに建てられた可能性が高いが、隠された五輪塔の大きさから考えても、石組があまりに大き過ぎて不自然である。

また、二石塔は並んであったと思われる。前回、公碑に赴いた際にピンときていたところが別にあった。

間違いなくそこだと思っている。今回も不思議に御霊に呼ばれたのかもしれない。


楠木正行公墓所・公刊物からの考察

2024年05月23日 | ブログ
楠木正行公の往生院胴塚墓所、上四条西光寺跡墓所、四條畷雁屋南墓所、公刊されているものからの歴史認識としては、上四条の河内鑑名所記が、今のところ一番古いことになる。

次に大日本史、そして、和漢三才図会、諸州巡覧記となる。

編纂時、あるいは調査時、見聞から考えても、河内鑑名所記が一番古くなる。次に、大日本史と諸州巡覧記は同時期ぐらいになるだろうか。

政府(幕府)公刊としての考証からは、やはり大日本史となる。

もちろん、往生院における鷹司信房公による墓所整備が、1650年代であるため、その際に墓所としての認識に至る何らかの文献が、その前にはあったと考えられる。

それは、大日本史編纂でも参考とした資料であったと思われる。彰考館による南朝関係資料の徹底調査においてで。もしかしたら、彰考館に残ってあるのかも。空襲でほとんど焼けてしまっているようだが、、

その資料の発見についても留意しておきたいところです。


四條縄手の戦い跡・東大阪市上四条町の伝承

2024年05月23日 | ブログ
上四条町には、いまだに馬の嘶き、軍勢の足音や雄叫びが山から響き渡るということがあるらしい。

四條縄手の戦いは、最後には往生院城、客坊寺城、砂山城の正行軍は、山側からの佐々木道誉軍、東高野街道からは高師直軍に挟まれ、阿鼻叫喚の地獄であったと想像ができる。

南朝方の城、砦、寺院、館、朝廷内裏などは吉野に至るまで容赦なくことごとく焼き払われてしまった。

いかほどの無念であったであろうか。

関連かもしれないが、やはり、往生院でも謎の地響きがいまだによくあり、小さい頃から聞いているが、南北朝時代の侍たちがこの辺りをまだ彷徨っているということであるのかもしれない。

また、四條村には、明治期に村が騒動しく、落ち着きがなく、諍いが絶えないのは、四條縄手の戦いで亡くなった怨霊たちの仕業であるから、楠木正行の御霊を鎮めたいとの切実な訴えの願書まで残っている。

近年にも数件の相談が往生院にもあり、住職が何度か実際に供養へと赴いているぐらいである。やはりまだ障りはあるのだろう。家を建てたり、開発をする際には、地鎮祭や土地の供養は絶対に欠かしてはいけない理由である。

しかし、四條畷神社創設に際して、その候補地から外すために、正行、正時のお墓を壊して二石塔をいまだ隠滅したままであるのは誠に残念なことである。いずれ元あったところに戻さないといけないであろうが、お寺は廃寺となり、もはや荒れ果ててしまっている。こちらも、まずは元々祀られてあった場所を特定して供養せねばと思うのである。

やがて、観応の擾乱にて高師直、高師泰兄弟は非業の死を遂げることになるが、渡辺橋の美談がある正行とは雲泥の差の狼藉ぶりであった因果の報いでもあったのだろう。
更に、太平記と違って、四條縄手の戦いが東大阪市四条、上四条であったとしての戦いの真相についても迫っていくつもりである。


西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!? 2024年5月21日

2024年05月21日 | ブログ
ついに畑小路地蔵尊にある楠木正行・正時兄弟の五輪塔の元々祀られていたところが特定できた。やはり、砂山城跡だったが、そこには西光寺というお寺もあったことがわかった。また一つの謎が解けた。

更に、村では当時に色々と障りが多く混乱が起こっていたのは、四條縄手の戦いで亡くなった者たちの供養をちゃんとしてないからだということで、供養をするための請願も出されていたことも改めて知った。

しかし、逆に四條畷神社建立を避けるために正行公・正時公のお墓を壊して、五輪塔を隠匿するのでもあるが・・

果たして、五輪塔が元にあったところへと戻ることは、これから先いつかあるのだろうか・・

西光寺・廃寺(東大阪市上四条町)・字「天王堂が芝」に畑小路地蔵堂に隠匿されている楠木正行公・正時公の供養五輪塔が元々祀られていたか!? 2024年5月21日
https://youtu.be/YYG1DKByLew?feature=shared