日記

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唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(2)

2021年09月26日 | 新日記
唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(2)

・仏陀の如量知には、形象は何も現れないのか

→ (通説)形象は何も現れない

→ (拙見解)「離戯論のみをご覧になられる」と表現されるところですが、それなら「離戯論」のみは知に現れられている可能性はあると言えます。もちろん、「離戯論」とは「空性」ということの一表現となりますが、「空性」である「縁起」の現れを捉えることはできるのではないかと考えます。もし、何も形象が現れないとすれば、衆生の救済にあたられる根拠となるもの、つまり、衆生の迷い苦しみのありようを知ることもできないということになります。もちろん、衆生の心のありよう(個別具体の無知・無明、業のありよう)を仏眼(神通力)によりて覗かれるということになりますが、ならば、それは仏知に一応映えないと知ることができないものとなります。知ることができなければ、対機説法、善巧方便も難しいものとなってしまいます。また、凡夫がどのように外界の世俗世界のことを認識しているのかということは、衆生それぞれの心のありようを通じて知られるところにもなりますが、それも、覗かれた衆生の心のありようを通じた外界世界のありよう(形象)が仏知に映えないと知ることはできないものとなります。

・空性は何も現れはないのかどうか、形象はないのかどうか

→ (通説)空性は虚空の如きと表現されるように、まるで澄み渡った秋空の深淵がどこまでも続くが如くに形象は何も見当たらない。

→ (拙見解)(1)でも述べたように、現れる形象が、「空性」を指示した「縁起」としての現れと捉えられるものであるならば、それを「空性」の現れ、形象と考えることができる。また、全ての形象は空性を本質とした現れであるのだから、逆に、現れ、形象が無いとすれば、「空性」を否定してしまうことにもなりかねない。

・空性を本質とした現れの面としての縁起における現れ、形象は全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)になるのか

→ (通説)直観知・現量、分別知・概念知・言説の量も、その現れ、形象は全て虚偽であり、虚妄分別として退ける。

→ (拙見解)直観知・現量、分別知・概念知・言説の量も、その現れ、形象は、当然に「空性」を本質とし、「空性」を指示するものであり、全て虚偽であり、虚妄分別として退けるのは虚無主義、悪しき無分別主義に陥ると考える。知の力は、あくまでも無記、中立的なものであり、問題となっているのは、真理を知ることを妨げることになっている無知・無明・煩悩・悪業(煩悩障・所知障)であり、現れ、形象にあるわけではない、その現れ、形象が、真実か虚偽かと議論することは正直、仏道においてはあまり益にならない。それよりも、どうして煩悩が生じ、間違った反応を起こしてしまっているのか、悪業を積むことになってしまっているのか、その原因となっている煩悩障・所知障を対治していくために、「空性」とそのヒントとして与えてくれている「縁起」による現れのありようについて考えていくことが重要となります。逆に、現れ、形象があるということだけでも、衆生にとっては大変に有り難いことなのである。空性、悟りへの手かがりを示してくれているのだから。

「仏身は法界に充満して、普く一切の群生の前に現ず。縁に従い、感に赴いて周ねからずということなし、而も常に、此の菩提の座に処したもう。」

・・

唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(1)

・直観知、現量に現れる形象は、真実であるのか、虚偽であるのか(基本論点)

→ 後期中観派の思想と「形象虚偽」説の考え方が近接していたため、ツォンカパ大師以降の高弟、その後のゲルク派においても「形象虚偽」説が通説的な扱いとなっていった。しかし、ツォンカパ大師の高弟の一人でツォンカパ大師の密教思想の後継となったケートゥプジェ大師は「形象真実」説を採用している。

→ (拙見解)空性と縁起を捉える知のあり方として、直観知、現量に現れる形象が、空性を指示した縁起による現れとして捉えられるものであるならば、「空性」(真実)を理解するための現れであるとして、「形象真実」と言っても私は良いと考えている。

→ (拙見解)全ての形象は空性を本質とした現れであるわけであるから、その現れを観て、空性(真実)を理解していくことにも繋がるため、全ての形象を虚偽、虚妄としては、空性の理解に向けた支障が生じてしまうと考えている。

・概念知、分別知、言説の量は、全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)であるのか

→ ツォンカパ大師は、概念知、分別知、言説の量の全てが虚偽、虚妄として退けられていたわけではない。正しい智慧に基づいた概念知、分別知、言説の量は、無明・悪業を退治するためには当然に必要なものであり、それさえも虚偽、虚妄としてしまうのであれば、仏道修行など成り立たないものとなってしまう。悟りへの階梯のための概念知、分別知、言説の量までもを否定してしまうことを厳しく批判された。

→ 「形象虚偽」説では、直観知、現量と共に全ての概念知、分別知、言説の量も虚偽、虚妄として否定した二取空、無分別知を目指す傾向が強く、この無分別知の解釈を巡って後期中観派においても議論がなされるところとなった。

→ (拙見解)無分別知はあくまでも仏陀・如来の側、つまり、結果論からみた仏陀の認識のあり方についての説明(表現)であり、凡夫の側からの説明、また理解では成り立たないものであると考えます。

拙見解

仏陀の認識においては、如量知と如実知は既に一体の知となり、空性だけをただご覧にならない仕方にてご覧になられている、現量了解というもので、如量知と如実知の一体のあり方として、あくまでも、既に凡夫のような分別のあり方ではないということでの無分別ということであり、何もご覧になられない、何も認識なさられない、何も思わない、何も観じない、何も念がない、何も想がないというわけではないのであります。(離戯論のみをご覧になられる)

唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(1)

2021年09月25日 | 新日記
唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理(1)

・直観知、現量に現れる形象は、真実であるのか、虚偽であるのか(基本論点)

→ 後期中観派の思想と「形象虚偽」説の考え方が近接していたため、ツォンカパ大師以降の高弟、その後のゲルク派においても「形象虚偽」説が通説的な扱いとなっていった。しかし、ツォンカパ大師の高弟の一人でツォンカパ大師の密教思想の後継となったケートゥプジェ大師は「形象真実」説を採用している。

→ (拙見解)空性と縁起を捉える知のあり方として、直観知、現量に現れる形象が、空性を指示した縁起による現れとして捉えられるものであるならば、「空性」(真実)を理解するための現れであるとして、「形象真実」と言っても私は良いと考えている。

→ (拙見解)全ての形象は空性を本質とした現れであるわけであるから、その現れを観て、空性(真実)を理解していくことにも繋がるため、全ての形象を虚偽、虚妄としては、空性の理解に向けた支障が生じてしまうと考えている。

・概念知、分別知、言説の量は、全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)であるのか

→ ツォンカパ大師は、概念知、分別知、言説の量の全てが虚偽、虚妄として退けられていたわけではない。正しい智慧に基づいた概念知、分別知、言説の量は、無明・悪業を退治するためには当然に必要なものであり、それさえも虚偽、虚妄としてしまうのであれば、仏道修行など成り立たないものとなってしまう。悟りへの階梯のための概念知、分別知、言説の量までもを否定してしまうことを厳しく批判された。

→ 「形象虚偽」説では、直観知、現量と共に全ての概念知、分別知、言説の量も虚偽、虚妄として否定した二取空、無分別知を目指す傾向が強く、この無分別知の解釈を巡って後期中観派においても議論がなされるところとなった。

→ (拙見解)無分別知はあくまでも仏陀・如来の側、つまり、結果論からみた仏陀の認識のあり方についての説明(表現)であり、凡夫の側からの説明、また理解では成り立たないものであると考えます。

拙見解

仏陀の認識においては、如量知と如実知は既に一体の知となり、空性だけをただご覧にならない仕方にてご覧になられている、現量了解というもので、如量知と如実知の一体のあり方として、あくまでも、既に凡夫のような分別のあり方ではないということでの無分別ということであり、何もご覧になられない、何も認識なさられない、何も思わない、何も観じない、何も念がない、何も想がないというわけではないのであります。(離戯論のみをご覧になられる)

唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理

2021年09月24日 | 新日記
唯識思想における形象真実と形象虚偽の論点整理

・直観知、現量に現れる形象は、真実であるのか、虚偽であるのか(基本論点)

・概念知、分別知、言説の量は、全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)であるのか

・仏陀の如量知には、形象は何も現れないのか

・空性は何も現れはないのかどうか、形象はないのかどうか

・空性を本質とした現れの面としての縁起における現れ、形象は全て虚偽であるのか、全て虚妄(分別)になるのか
以上について整理したいと思います。

質問

2021年09月20日 | 徒然日記
感官に依拠せずに認識するものがありますか、というご質問。

もちろんあります。例えば、死後の中有、中陰の存在は人間肉体機能としての五官が無くてもその意識に現れてくるものを認識しています。

また、生きている間においても、五官に依らずに私たちも認識しているものはあります。夢における認識で、五官が働いていなくても、見えたり、聞こえたり、味わったり、匂えたり、触れてあったりと認識していることがあるように

ですから、昨日に述べたように「空性の現れ」があるとすれば、別に五官に依らずとも識で捉えられる可能性も当然にあるということになります。

・・

識が、空性を本質とした縁起の現れを捉えられているならば、その本質たる空性を捉えていることにはならないのか?

捉えてはいるんでしょう。しかし、無明によって捉えにくいものになってしまっているだけで、空性を何も捉えられていないわけではないと考えています。

また、識に捉えられたものは、虚偽なるものではあっても縁起なるものとして捉えられてあるのは確実であり、それが虚偽であろうが、真実であろうが、縁起してあるものとして捉えられてあるならば、二重の意味で間違って捉えてあったとしても、実体のない空性ということには何ら変わらないのですから。

凡夫であっても、現量、比量において皆、一律に空性の認識が全くないわけではなく、それがどのくらい正しく捉えられているのかの、その(無明の状態による)度合いの問題になっていると考えています。

形象真実ということで、その空性の現れとしての縁起を識が捉えてあるのだとすれば、それはそれで空性(真実)のほんの一部でも(あるいはその手がかりを)捉えてあると言えなくはないということであります。

識に現れてあるのも縁起してあるものとして当然に空性であるものなのですから。


講座の比喩

2021年09月19日 | 徒然日記
現れのモノ・コトの本質が「空性」であるのは当然なことながら、ではその本質としての「空性」の現れを「自証」は捉えられていないのかどうか。

つまり、私たちの認識においては、「虚偽の現れ」のみではなく、「虚偽の現れ」と共に「空性の現れ」も同時に捉えることができているのではないだろうかということ。

しかし、その「空性の現れ」は無明によって排斥されてしまい、結局は、「虚偽の現れ」のみとなることで、「真実執着」という問題を起こしてしまっているということであります。

私の仮説としては、無明による「虚偽の現れ」と共に、まるであたかも遮光塗料が少し剥げたところから光が漏れて見えてしまっているように、「空性の現れ」が識に届いてある可能性が否定できないということであります。

やがて、無明という遮光塗料を仏道修行によって徐々に剥がしていくことに成功していけばいくほどに、「虚偽の現れ」は薄まり、「空性の現れ」の度合いが増していくことで、「正智」へと近づくことができていくという感じであります。

この上記の観点から、実は、今回の講座においては、蝋燭の焔とスス、ススが着くガラスを用いて、その認識のありようについて比喩的に説明させて頂いたのであります。

なぜ後期中観思想の論師たちが「形象虚偽」と「形象真実」の議論に拘ったのか?

2021年09月19日 | 新日記
後期中観思想の論師たち、ツォンカパ大師の高弟たちも、なぜ論理破綻の主張が多い唯識思想において、その思想の中でも特に「形象虚偽」か「形象真実」かの議論に拘ったのか?

それはやはり最終的な「空性」の認識の状態に「形象虚偽」か「形象真実」かが関わってくるからであると考えています。

特に今、私が注目しているのが、「形象虚偽」が主張する「識は清浄な水晶の如き」という、その「清浄な水晶の如き」の内実がどのようなものとなるのか、ということであります。

前回において、

「形象虚偽」は、「もともとの自証は、真実を認識できていないが、真実を認識できるように調える」という方法論

「形象真実」は、「もともとの自証は、真実を認識しているが、それを妨げているものがあるため、その妨げを取り除いていくように調える」という方法論

としましたが、「形象虚偽」が「識は清浄な水晶の如き」と主張するならば、もともと自証は清浄であり、真実を認識できていると考えることができなくはないからであります。

つまり、もともと自証は清浄であり、真実を認識できているが、無明という汚れがそれを覆ってしまっているために真実を認識できていないとなれば、「形象真実」と同じような状態と考えることができます。

清浄な水晶が、全てを黒く覆われてしまっていれば別ですが、皆がそうでないのであれば(凡夫でもその状態は様々に異なるはずです)、対象を正しく認識できていることも当然にありえるということになるはずです。(自証で空性を認識できているものが、凡夫でもわずかでもありえるということです)

私たちがモノを認識する際に、もともとそれは何かはわからないもの、何かは決められないもの、実体がわからないもの、自性はわからないものと、どこか自証で認識できていることがあるかどうか。

もちろん、現量だけでなく、分別知・概念知・言説の量でも「空性」を認識できているものがあるかどうかということにも関わってくるものとなります。

このあたりのことを考える上で、「形象虚偽」か「形象真実」かが問われてくるものになるのだと考えています。









形象虚偽・無相唯識と形象真実・有相唯識

2021年09月18日 | 新日記
形象虚偽・無相唯識の基本・・

凡夫において、認識は全て、無明により虚偽の認識である。

自証(直観・現量)における認識は否定されない。

無明を無くして、虚偽の認識を排斥した正しい自証を目指す。

もともとの自証(直観・現量)は、真実を認識できていないが、真実を認識できるように調える。


形象真実・有相唯識の基本・・

認識は、自証(直観・現量)として正しい認識とする。

凡夫において、その自証(直観・現量)は無明により転倒・迷乱したものとなり、対象を誤って捉えてしまっている。

無明を無くして、自証(直観・現量)で形象を正しく認識していくことを目指す。

もともとの自証は、真実を認識しているが、それを妨げているものがあるため、その妨げを取り除いていくように調える。


どちらも「自証」における認識のあり方を問うものの、

ただ、どちらかと言えば、

形象虚偽・無相唯識は、形象<自証(問題は自証の方にある)

形象真実・有相唯識は、形象>自証(問題は形象の方にある)

と、その自証の正しさへと向かう比重が少しだけ微妙に異なっているように思えます。

この差異が、タルマリンチェン大師とケートゥプジェ大師における「空性」の認識に向けた相違のヒントになるように考えています。

頓悟か、漸悟か

2021年09月18日 | 新日記
何か分からないものの、純粋に感官から入ってきてあるそれを「知る」ための能力(知ろうとする力)は、衆生に共通してあるとは言えるでしょう。(心にある皆持っているもともとの知力)

しかし、その何かは分からないモノ(もちろん、空性にて縁起なるものになりますが)は、結局のところ、無明により間違ったモノ、転倒したモノ、迷乱したモノ(虚偽の現れ)として捉えてしまって、問題が起こってしまっている(真実執着・倶生諦執)というのは、輪廻している衆生に共通して言えることであります。

問題は、その心にある知力は「空性」を認識し得るもの(あるいは、し得ているもの)であるのかどうか(潜在的な力)、もともとその知力は「空性」が認識できている(いた)ものであるのかどうか(ただ今は条件が悪く、不具合があるだけ・壊れているだけなど)、もしくは、「空性」を認識できる知力は、もともとには無くて、あとから(仏道修習により)獲得できるものであるのかどうか(後得性)。

これらにより、ガラッと変わってくるものになります。

いわゆる頓悟か、漸悟かというところであります。

サムイェー宗論ですね。

チベット仏教の原点。

形象真実か形象虚偽かもそこに関わってくる重大なところなのであります。

形象虚偽と形象真実についての考察備忘録(乱雑なメモ)・・

2021年09月17日 | 新日記
形象虚偽と形象真実についての考察備忘録(乱雑なメモ)・・



青と眼に映えている者
青(色)と知っている者

青と眼に映えている者
青(色)と知らない者

青と眼に映えていない者(色盲)(但し別の色に映えている場合もある。例えば緑など)
青(色)と識別できない者(青色がどのような色かはわからない者)(但し別の色については青と知っている者と同様に識別できている場合もある)

眼に何色も映えない者(盲目)
但し黒色(闇色)は識別できているが他の色はどのような色かはわかり得ない

それぞれの感官と分別知・概念知・言説の量の状態に依存して外界のモノ・コトを認識して、一応はそこにその色が有るとして措定している例

また、更に昆虫や動物もそれぞれの感官、認識の状態によりて、その色を把捉している。

「青」というのは色についての一概念。

人種・民族・文化によっては、青を緑と分類したり、濃淡の変化次第においても、青という概念ではない場合もある。

また、同じ青でも、濃淡により名称が異なってあることもある(水色や空色と言ったように)

あるいは、光の当たり具合や反射等によって、青色が変化して見えてしまうこともある(タマムシの羽の色が光の反射によって色々とその色を変えるように)

もちろん、青色も時間が経てば青色で無くなっていく場合もある(経年劣化していく絵画の色のように)

青色を構成している塗料の要素(部分、例えば分子や原子や量子など)のどこかに青色を青色足らしめている永久永遠に青色としての独立自存的なもの、つまり、実体・自性的な要素はありうるかどうかといえば、そのようなものは見当たらない。(例えば、ビッグバン以前からそれを青色足らしめているようなモノがそこのどこかにあるかどうか)

問題は、その青色は真実なのか虚偽なのか。

その者の感官と分別知・概念知・言説の量に依存しては、確かにその「色」はあるのだが、では、本当のその「色」が何であるのかは、分からない、決められないという例。

形象真実論では、青色という形象が分別知・概念知・言説の量に一致したものであれば、それを真実なるもの、依他起性なるものとして肯定されるものとなる。

一方、形象虚偽説では、分別知・概念知・言説の量は、それぞれにおいて異なるものであり、誰においてもそれが青色というわけでなく、これで正しい、これで決まりと言えるものではなく、青色という形象は虚偽なるもの、遍計所執性として否定されるものとなる。

もともと、私たち、衆生たち(餓鬼や畜生、地獄の衆生たちも)において、分別知・概念知・言説の量にて、何か共通してモノ・コトを把捉できる「知」があるのかどうか。

もし、そういう共通した「知」があるならば、その「知」によって全員が同じように同じモノ・コトを把捉できるものがあると考えることができる。

一方、そういった共通した「知」は無い、ありえないとするならば、誰も同じように同じモノ・コトを把捉できることはありえないと考えることができます。

ここで問題とするのが、「空性」の認識はどうなるのかということになります。

最終的に悟りへと至れるための「空性」を認識できるような(共通の)「知」が無いとするならば、誰も悟れないことになってしまいます。

しかし、そのような(共通の)「知」が、どこかに有るとするならば、やはり、モノ・コトの認識においても、皆が同じように認識できているものがどこかになければおかしなことになります。(つまり、青色として把捉している形象においても、皆が認識している中での共通の認識が青色に対しての認識の中にあるということ)

そこで、「空性」を認識する知(形象虚偽派では清浄な水晶と喩えられる)は、もともと皆、共通してあるものの、それを邪魔しているものがあるとして、その邪魔しているものが全ての形象を虚偽なるものとして映えさせていると考えるのが、「形象虚偽」とされますが、実は、皆、本当の認識においては「空性」を認識している(できている)ものの、ただその邪魔になっているものがあるだけであるとして、どこかでその形象の「空性」を共通して認識できている(凡夫はただそのことに気づいていないだけ)「知」があるとすれば、「形象真実」と言えてしまうのではないだろうか、ということであります。

これは、私たちの心における最終的なところの「知」、つまり、「光明」に関わってくるところであり、その性質について慎重に吟味する必要性があります。

ケートゥプジェ大師がなぜ「形象真実」説を採用したのかも、上記のことを考えるのが、そのヒントになるのではないだろうかと考えています。

タルマリンチェン大師とケートゥプジェ大師

2021年09月14日 | 新日記
タルマリンチェン大師とケートゥプジェ大師における形象虚偽派と形象真実派としてそれぞれの見解の相違において、ケートゥプジェ大師が形象真実派を支持した一番の理由は、要は「悟り」へ向けた「認識」の根拠として、「空性」を正しく認識できる知の根拠が認識する主体の側に無いと「悟り」へ至れることはありえないのではないか、という至極当然な疑問におけることからの理由であると拙生は考えています。

これは「光明」が「無記」か否かということにも関わるところで、それについては、講座動画のコメント欄にて拙見解を述べさせて頂いております。

そして、この議論が色々と微妙になるのが、いわゆる如来蔵思想・仏性思想にも関わってくるからであります。

つまり、それは無上瑜伽タントラ、特に秘密集会タントラにおける「光明」論、最終的なツォンカパ大師の密教見解にも関わるところであり、かなりセンシティブなものであるのであります。