日記

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曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の論拠について

2022年07月31日 | ブログ
曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)については、当然に「往生論註」を詳しくあたらなければならないが、仏の二身(法身・色身)、三身(応身・報身・法身)、四身(応身・報身・智法身・自性法身)において、この「方便法身」の考え方は、四身の「智法身」を論拠にしているように思われるのである。

往生論註は、世親(バスバンドゥ)の「無量寿経優婆提舎願生偈」についての解釈であるわけだから、もちろん、唯識思想の流れを汲むものであり、世親の師である無著(アサンガ)の摂大乗論を中心とした唯識論の影響が当然に往生論にも大きなものがある。

そして、更に方便法身の根拠を辿るとすれば、「二十一種無漏智」の「智法身」に至るとして、それは、無著の師である弥勒(マイトレーヤ)の「現観荘厳論」にまで遡ることができるということなのである。

ただ、曇鸞の二種法身(法性法身と方便法身)の方便法身の論拠が、「現観荘厳論」の「二十一種無漏智」の「智法身」にあるとしても、法身が、具体的に方便のはたらきを成す、成し得るのかどうかは、やはり懐疑的であると言わざるをえないものと考えます。

この「智法身」はあくまでも、報身、応身のはたらきの根拠となる仏の二種の能力・性質(智慧と方便の合一の方便の側)における分類に過ぎず、「智法身」そのものが衆生を救済するはたらきを有しているものではないということであります。

つまり、個別具体に衆生を救済する実行力を有するのは、報身、応身、つまり、「色身」であるということです。

仏陀となるためには、智慧と共に方便(福徳・功徳)の実践が必ず欠かせないものとなります。その実践して得たる方便の能力として備わった側を「智法身」と便宜的に述べているだけに過ぎず、そのはたらきは、報身か応身のいずれかでしか成し得ないということであります。

これは、親鸞聖人もこの原則を外れることはなく、方便法身を報身と位置づけたのであります。

しかし、曇鸞は方便法身を具体的な仏の救いの方便のはたらきを持つものとして捉えていた可能性が非常に高く、そのあたりをより精査していく必要があるというところであります。

要は、念仏が、方便法身のはたらきによるもので、その方便法身は、法性法身と同一、不即不離の関係であるのだから、念仏そのものが、悟り、涅槃へと向けた仏の智慧・般若のはたらきそのものでもあり、救いでもあり、その名号のはたらきをもって見仏、往生を根拠とするのであります。

つまり、摂取不捨の仏のはたらきを、方便法身を根拠として、更に不即不離である法性法身の智慧・般若のはたらきをも念仏に具わさせることで成立しているとして、見仏に必要な要件を念仏に満たさせるとするのであります。

また、曇鸞の法身における智慧・般若と方便の考え方には更に独特なものがあり、それは田中無量先生の論文「往生論註の二種法身と広略の関係再考」の内容を別に精査したいところとなります。

いずれにしても、論点は、一種にせよ、二種にせよ、法身が、個別具体的な衆生救済を実際に行い得るのかどうかであります。もちろん、それはあり得ないというのが拙見解です。

日本仏教(鎌倉仏教)の誤謬について

2022年07月29日 | ブログ
インド・チベット仏教における通仏教的な仏性論と見仏論から、日本の仏教(主には鎌倉仏教)を精査し直せば、日本仏教は八割方、瓦解してしまうことになるというのは、日本の仏教における教義の誤謬の要因の大元が、実は同じ考え方が根っこにあるからであります。

その根っこには、実は先日に少し先に述べてある(Facebookの方にて)カルトの問題(教義<オルグ・集金)とも同じであり、何かと言うと、巧妙な論理的すり替えによる「手段の目的化」があるのです。

本来、目的(悟り・涅槃)へと至ることが第一義であるにもかかわらず、そのための手段(方便)の方が第一義になってしまうというものであります。

挙句の果てには、手段(方便)そのものが、悟り・涅槃・仏性・見仏として、第一義の目的となってしまったのです。

そのため、本来は、目的(悟り)へと向けた手段・方法(六波羅蜜)の一つ、それもほんの些末な過程としての一つに過ぎない修行行為が、まさか、仏性、見仏そのものとなってしまうという、おかしなことになってしまったのです。

要は、例えば、本来は、受験生の場合であれば、大学合格が目的であるのに、その過程の勉強の行為が、やがて目的化して、勉強に頑張っているのを、周りもとにかく第一義的に評価して称賛する、そうすると、合格していなくても、とにかく頑張っていることが評価されるため、受験生はとにかく手段・方法に取り組むことを第一義として頑張ることを頑張るというおかしなことになり、やがてはそれに疲弊して、結局は目的も見失ってしまっていくという感じであります。

もちろん、結果として合格すれば、それはそれで良いのですが、とにかく、日本人の気質においては、手段・方法をとにかく頑張っていれば評価されるから、それをより頑張る、一生懸命に取り組んでいることが評価されるから、それをより頑張る、とにかく結果云々ではなく、手段・方法にガムシャラにでも頑張れば良いというような、非効率な構造が根底にあり、それが仏教の修行についても同じようなことが言い得るのではないだろうかと考えます。

少し話が逸れましたが、もちろん、末法思想という当時の時代背景も考慮しなければならないのですが、「手段の目的化」を象徴するような論理的すり替えとして、最も有名であるのが、曇鸞の指月喩です。

指月の指(手段)は月(目的)の光に照らされてこその指月の指であり得ており、その照らされてある指は、仏のはたらきとしての「方便法身」であるとして、悟り、真理、仏性と同体として扱い得るという考え方であります。

しかし、これなら指し示す指(方便)だけでなく、月(悟り)の光が照らされてあるもの全てが、「方便法身」であるとも言い得てしまうわけで、つまり、悟りを示す全ての方便、手段が、悟り、真理、仏性そのものと同体となってしまってもおかしくないということになります。

この論理で展開されてあるのが、実は鎌倉仏教であると言えるのであります。

ですから、鎌倉仏教においては、方便・手段が、仏性、見仏とイコールとなってしまうという誤謬をそれぞれに犯してしまっていると言い得るところがあるのであります。それも手段・方法のほんの一部だけを・・

また、本覚思想も、この「方便法身」を根拠としたような同じ誤った論理にて成り立っていると言えるのであります。


道元禅師の仏性論「濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる」

2022年07月28日 | ブログ
「濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる」道元禅師

先日に曹洞第一道場・永平寺へと初参拝した際に、参道の脇に苔むした道元禅師の歌碑があり、この御歌を知りました。



道元禅師の思想については、それなりに学び進めてきておりましたが、お恥ずかしいことながら、この歌については正直、知りませんでした。

しかし、道元禅師の仏性論を知る上で、非常に重要な歌であるとして留めおかさせて頂きます。

この歌から道元禅師の仏性論について知ることができるというのは、どういうことであるのかということですが、

濁りのない(迷いの無い)、清らかな心に住む月、つまり、澄む「月」というものは、指月喩と同様に、仏、悟り、真理、真如の喩えとなります。

私たちの心に、澄んだ清らかな「仏性」を映し出す(住まわせる、澄まわせる)ということを表すものとなります。

次に、「波もくだけて」の波というのは、心の波のことで、無明、煩悩、迷いの喩えで、唯識にてよく引用されるものとなります。

波「も」ということは、より広く多くのものも含めて、という意味合いとなるでしょう。

「砕けて」は、粉砕する、打ち破るということで、つまり、無明、煩悩、迷いに打ち勝つということになります。

「光とぞなる」は、無明、煩悩、迷いに打ち勝つ、悟りを灯す光になるということであります。もちろん、その月(仏性)が、ということであります。

只管打坐が、清浄なる仏性(月)を心に保つ(映し出す)こととなり、また、「見仏」することにもなり、その仏性(月)が、無明、煩悩を打ち砕くものになるということであります。

注意すべきポイントは、元から心に澄んだ清らかな月(仏性)があるわけではないということで、道元禅師は本覚思想ではないというところであります。また、「煩悩即菩提」でもないということでもあります。

坐禅だけではなく、日々の行持全てを清浄として、仏性を心に顕現(澄まわさせる、住まわさせる)させなければならないというお立場なのであります。

また、「光とぞなる」の主語を「波」と捉えてしまうと、無明・煩悩が悟りの光になるとして、「煩悩即菩提」的な考え方へと一気に寄ることになります。

そうなると全く解釈が異なってしまうことになります。少しネット上では、そのような意も散見されましたが、拙考では、「光とぞなる」の主語は、あくまでも「月」(仏性)として解釈しております。


「信心決定」(信心獲得)と「報身仏との見仏に関する境地」について

2022年07月20日 | ブログ
ここ数ヶ月、親鸞会(と自称されている)の方と意見交換、質疑応答をちょこちょこしている。

仏教の知識から、普通の在家の信者ではなく、教理的にも詳しいため、もしかすると親鸞会の中枢付近にいる方ではないかと推測している。

端緒は、拙考「本当の浄土真宗とは何か」についてのことである。

内容は、「信心決定」・「信心獲得」と「報身仏との見仏に関する境地」について。

通仏教的には、阿羅漢以上、菩薩階梯の第八地以上の境地に到達していなければ、見仏は不可である。

真実報土へ往生し、阿弥陀仏の報身仏との見仏ということになれば、最低でも、阿羅漢か菩薩階梯の第八地に達していないと不可であり、「信心決定」(信心獲得)がそれに相応するのかどうかについてである。

「信心決定」(信心獲得)が、仏教の智慧や福徳(功徳)の二資糧に根拠付けられるものであるならば、話は簡単なのであるが、そうではないため、当然に厄介なことになる。

特に、空性の理解が、悟りへと向けた智慧の境地における要諦となるわけだが、確かに、龍樹大師については祖師として扱われるものの、その重要な仏教の思想である中観、空については、「信心決定」(信心獲得)とは、ほとんど無関係にスルーされてしまっているからである。ましてや、空性について説かれてある般若経典群も排除されてしまっているため、どうしょうもない・・

更には、智慧と福徳の二資糧集積は、「自力」行として徹底的に排斥されてしまうのだから、見仏の条件の前提そのものが最初から否定されてしまうことになるので、議論の余地は正直ほとんどなくなってしまうのである・・

いくら意見交換を繰り返したところで、「絶対他力の信心決定・獲得」と「見仏」の論理構造は、やはりすっきりとしないものであり、以前にも述べたことがあるように、麻布了海が、「見仏」についての論理的根拠を補おうとして、法蔵菩薩の本願と善知識との同一性を主張した点は、拙的に相当注目しても良いのではないだろうかと考えているのである。

鎌倉仏教祖師方の誤謬

2022年07月12日 | 新考察
鎌倉仏教祖師方の各教義における誤謬というものは、仏性論と見仏論の論理的整合性を欠いてしまったところにまず問題があります。

そして、成道論を見仏論へとすり替えてしまい、「修道<見仏」と重点を逸らせてしまったのであります。

それでも福智二資糧の集積は、見仏においても絶対に欠かせない最低条件であるにもかかわらず、バランスを大きく欠いた修道をそれぞれで更に説いてしまい、二重、三重の誤りを犯してしまうことになったのであります。

このあたりのことは、拙考の「見仏と仏性論」、「本覚思想」をご参照頂けましたら。

如来の最勝応身

2022年07月11日 | 新日記
如来、仏陀の能力であるならば、自身の最勝応身の存在を生み出すことなど簡単なのではないか、とのご質問。

最勝応身とは、私たち凡夫とも相見えられることができ、凡夫でも直接に如来、仏陀から教えを頂けることのできる大変に有り難く尊い存在である。

しかし、よく考えてほしい。

私たちの身体は、有漏、つまり、煩悩障、その習気である所知障、業により成り立っているものである。

最勝応身は、その有漏の身体に、如来、仏陀が合わせるということになる。

既に悟りを開き、勝義の光明を成就していて、完全に清浄なる意識にある無漏の心からである。

無漏の心から有漏の身体は、因果律から考えれば、生じさせることなど、もちろん当然にできないのである。

それは、如来、仏陀であってもである。

では、如来、仏陀は、最勝応身をどう生じさせるのかとなると、擬似的に有漏の心を生じさせてから、その心から有漏の身体を生じさせるのである。

擬似的にとはいえ、その有漏の存在は、当然に私たちと同じように苦しむものとなる。

釈尊の最勝応身が、数多の困難に見舞われることになったのも、その擬似的な有漏によるためであり、私たちと同じように苦しむことになるのを百も承知しながらに、最勝応身として衆生を教化なされたのは、釈尊の大慈悲によるところであったからなのである。

既に完全に綺麗となった心を、衆生の救済のためにと、擬似的にとはいえ、わざわざ汚して、地獄のような苦しみも受け入れながらに、なのである。

最勝応身ならば、報身よりもはるかに多くの衆生の救済のために資せることができる。しかし、それは自らを多く犠牲にしてによるところとなる。

一歩間違えれば、最勝応身における業次第では、如来、仏陀から退転することもないわけではないのである。

そんな危険を侵してまでも、衆生教化を何としても優先させるという強い志がなければ、とても最勝応身など安易には成せないのである。

ですから、最勝応身の出世は稀有にて、誠に有り難く尊いのであります。

とにかく、成仏論をしっかり体系的に学ぶのであれば、行合集灯、灯作明や五次第明灯がやはりお勧めとなります。