日記

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第6回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 5」顕現と戯論の関係性について 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月31日

2024年07月31日 | ブログ
明日からお盆月。いよいよ忙しくなるため、昼からも収録。引き続き戯論について。

やっとミニ法話らしくなった、、

第6回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 5」顕現と戯論の関係性について 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月31日
https://youtu.be/dH3NoFky-Hk?feature=shared


第5回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 4」戯論について 離戯論とは 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月31日

2024年07月31日 | ブログ
戯論について

やっと少し短く15分に収めた。前回のようなリップノイズもない。

ただ、カラスの鳴き声が(😣)

第5回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 4」戯論について 離戯論とは 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月31日
https://youtu.be/XbheRwyih18?feature=shared


第4回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 3」般若心経について 般若心経の説く無とは 常見と断見 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月30日

2024年07月30日 | ブログ
もう8月に入れば無理になるだろうとして、何とか時間のあるうちにとして、続けて撮りましたが、話し方など色々と改善が必要だと改めて思います・・朝イチで撮るのも良くないですね・・頭が全く回っていない・・

第4回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 3」般若心経について 般若心経の説く無とは 常見と断見 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月30日
https://youtu.be/yHfaHsiai1g?feature=shared


第3回 仏教ミニ法話「如来の無顕現とは」 衆生凡夫の顕現のあり方について 中観 断見と常見 悪取空見 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月29日

2024年07月29日 | ブログ
月2~3本のはずが、3日連続でもう3本・・しかもまた10分で収まっていない・・

第3回 仏教ミニ法話「如来の無顕現とは」 衆生凡夫の顕現のあり方について 中観 断見と常見 悪取空見 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月29日
https://youtu.be/ATxdBo7_EH8?feature=shared


如来の無顕現とはいかなる事態か

2024年07月28日 | ブログ
如来に顕現しているものは何も無いといっても、それで、世界、宇宙に存在してあるものや現象が何も無いといっているわけではもちろんない。

顕現とは、心に顕現しているものという意味である。感覚器官から入ってきた外部のものによることもあれば、心自身の側から現れてくるものも当然にある。後者は、業や煩悩、無明の力によるのである。こちらが大いに問題なのである。

例えば、視覚されるものとか、そういう感覚器官を通じて入ってくるような表層的なものだけからの認識によるのではないということである。

死んで、全ての感覚器官が止んでも、また、今の肉体が無くなっても、微細な心(次の輪廻へと向かう心)には心自身から(無明・煩悩・業により)現れてくるものが、無数に実はあるのである。

(厳密には、心だけの存在というわけではなく、中有においても体となる意成身を生じさせる。但し、寿命は短く、7日毎に死を迎えては、また意成身を生じさせるのである。この意成身の感覚器官によって外部認識もできるのである。7日毎の供養とは、この意成身の死を供養することもチベット仏教では兼ねているのでもある。)

八十自性分別心、 顕明・増輝・近得というのがその代表例となるが、このあたりのことは、密教を本格的に学ばなければ理解が難しいと言えるでしょう。

無顕現とは、外界の存在や現象が何も無いということではなく、外界の存在や現象は、もちろん、私たちが捉えてあるようにはあっても、如来は、その空性であるだけを現量で了解なさられているのみであり、私たち衆生が、外界のモノ・コトを捉えて反応して心に生じているような顕現というものは、如来には一切生じることはないということなのであります。

結局、明日、この説明で3回目を出すことになるかも・・


第2回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 2」 空と縁起 悪取空見の典型例 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月28日

2024年07月28日 | ブログ
初回に続いて、仏教で最も難解となる後期中観思想における二諦説を扱うことになりましたが、これまで二諦をめぐっては、長らくある誤解や偏見によって、議論がややこしくなってしまっているだけで、本当は極めてシンプル、簡単な説であります。

結局、補足が必要となり、しかも今回も10分では収まらなかった・・反省だ・・

第2回 仏教ミニ法話「勝義と世俗 2」 空と縁起 悪取空見の典型例 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月28日
https://youtu.be/BRco_qS2awI?feature=shared


悪取空見、「一切は縁起し空である」縁起について

2024年07月28日 | ブログ
悪取空見の最たるは、一切空を理由として、悟れる、救われるとすることです。

まあ、もとから一切空なのであるのだから、それなら輪廻の衆生、迷い苦しむ自分なども、もとから存在しない、していないことになるわけです。

しかし、実際の現実は、自分自身も含めて、衆生は全くそんなわけなどはなく、一切空だからとして、悟れる、悟れている、救われる、救われているわけなどないのであります。

結局のところは、輪廻、迷い苦しみの原因となっている無明、煩悩を対治しない限り、悟れることなどないのであります。

また、「一切は縁起し空である」という場合の「縁起」は、世俗の側で「空」を理解するための便宜的な概念であり、仏陀、如来の側からは、「縁起」もあくまでも世俗、衆生の側の顕現してある世界におけることであるため、空性現量了解しかなされていない仏陀、如来には「縁起」しているものなど微塵にも認識されない、顕現されないのであります。

仏陀、如来が縁起してある顕現、縁起してあるもののありようを認識なさるのも、衆生一人ひとりの認識を借りて、その一人ひとりの顕現してあるありようからお知りになられるのであります。

次回にもう少し補足したいと思います。


浄土真宗本願寺派の『伝わる伝道』

2024年07月27日 | ブログ
結局は、現世利益、一番は執行部自分たちの利益(がっぽり報酬)のために、余計なこと、全く必要ないことも、世間一般企業では当たり前にやっていることだからとの理由と、やってるよ感を出すためのPR&PRでもあるのでしょう…もちろん効果はなしどころか、混乱と停滞、悪評のマイナスだらけ、、本当に笑えない、、


第1回 仏教ミニ法話「勝義と世俗」 仏陀の認識論 蔓延る悪取空見 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月27日

2024年07月27日 | ブログ
16分、、初回から内容が内容だけに、10分では収められなかった、、とても説明しきれない。また補足をちゃんとしていきたいと思います。

しかも、表題、法話が法語になってるし、、泣く

第1回 仏教ミニ法話「勝義と世俗」 仏陀の認識論 蔓延る悪取空見 岩瀧山 往生院六萬寺 2024年7月27日
https://youtu.be/PdcgnRdb5_k?feature=shared


仏陀の認識「無分別」とは

2024年07月26日 | ブログ
仏陀の現量には何も顕現しておらず、ただ映えているのは澄み渡る虚空の如き空性のみである事態を「無分別」と言うだけで、もちろん、それで、衆生の側の顕現が無くなっているわけではないのであります。

また、衆生の認識、心、業、輪廻のありようも、対治していかない限り、そのまま進行しているのは何ら変わらないままなのである。

これが理解できていないために、「新しい領解文」問題も、「疑心往生」説も出てきてしまっているのは、これまで何度も指摘してきた通りである。

これを機に、古典的な空の間違った説や理解を改めることが、問題の解決、今後、同様の問題を起こさないための道筋となるのであります。

・・

一切知とは、我々に顕現している世界のあらゆるモノ・コトを隅々まで知ることではない。

仏陀の認識には何も顕現しておらず、映えるのは澄み渡る空性しかないのである。

一切知とは、衆生一人ひとりの顕現してあるありようを、衆生一人ひとりの認識を通して(借りて)ご覧になられて、その者の心、業のありようを過不足なくにお知りになられることなのである。全ての衆生の個々の心、業を知ることができるから、一切知者と呼ばれるのである。

ただ、法身にて空性のみを現量で了解なさられているだけでは、衆生を救済することは仏陀であってもできない。

仏陀は、福徳資糧により得たる色身による慈悲、方便の力にて、済度をお図りになられるのである。

色身が、衆生一人ひとりの認識してある顕現を、その衆生一人ひとりの認識を借りて、把捉されて、衆生一人ひとりの心、業の状態を知られることで授記(個別具体的対機指導)を行われるのである。

悟りへと向けて、見仏と授記が必須になるのはこのためなのであり、授記は一切知者たる仏陀でしかなせない事業なのである。