日記

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改悔批判での「新しい領解文」使用を受けて、とある文書を加筆修正

2024年01月11日 | ブログ
この度の御正忌報恩講・改悔批判での「新しい領解文」使用を受けて、とある文書に加筆修正した・・

いずれにしても「新しい領解文」の件に関して、拙生としては、あとは、西本願寺・本願寺派における修正力、自浄作用に期待するしかなく、ひとまずはここまでとして、引き続き親鸞思想・浄土真宗教学の研究に戻りたいと思います・・

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また、昨今の親教では、先の戦時におけるその時代や社会に迎合して、戦争に賛成し、積極的に加担するために教えを歪めた反省を述べながらにも、結局、今の時代や社会に応じて、教え(救いのよろこび、念仏者の生き方、私たちのちかい、浄土真宗のみ教え、新しい領解文)を変え、調えていくというまさに矛盾したあり方について、自らそれを露呈するところにもなってしまっています。

とにかく、新しい領解文に至るまでの一連の流れ(救いのよろこび、念仏者の生き方、私たちのちかい、浄土真宗のみ教え)は、まずは宗門内へと向けた思想扇動(思想操作)、運動扇動(行動操作)の意図があり、門信徒・念仏者のあり方を型にはめて、規定し、強制していくためのものであり、それは今後の展開へと向けた伏線として、ひいては戦時教学と同様の過ちへと向かうことにもなりかねず、親鸞聖人・浄土真宗の教えが、聖なるものから俗なるものへと次々と貶められ、歪められていく中で、その最終的なものが「新しい領解文」にて至りて、このようなことになってしまったと考えるのであります。

また、◯◯、◯◯の意図が背景になくとも、「新しい領解文」が、教義の中心的なものとして居座ることになれば、末寺、僧侶、門信徒が、仏教でもなく、浄土真宗でもないような教え(方針・指針)をもとに、あれをしろ、これをしろと色々と思想扇動(思想操作)、運動扇動(行動操作)をされて、本山、宗門の都合のいいように利用されつつ、更には本山、宗門の経済的生存のためだけに今後、搾取され続けることにもなるのではないかと懸念するところであります。

・・以上。