少し前の考察から、私のところも南北朝時代、または室町時代に南朝方の武将が僧侶となって入寺されて、浄土真宗に改宗した寺院です、と複数の方から教えて頂いていた。
やはりそんな寺院は、考察での推測どおりに案外多いのかもしれない。
楠木家は、楠木正勝が本願寺派4世の善如から学びを受けているのは有名な話であり、本願寺派8世の蓮如の参謀であった浄賢は正勝の孫であったとも言われている。やはり、南朝勢力は生き残る術として、本願寺、浄土真宗に入り込むようになっていたとも言えるのである。
河内において、楠木家の子孫が次々と浄土真宗の僧侶となって入寺したり、開山となったり、中興となったりしたのは、南朝の生き残りの一つの策であったのだろうとして考察したのが先の拙説だったが、河内以外でも多いとなれば、そういう向きが全国的にもあったのだろうと思われるのである。
しかし、拙生が引っかかるのは、織田信長との関係である。
織田信長が、南朝勢力を利用することで足利政権の後を担おうとしたのは以前の考察の通りで、結局、北朝方の頭領格然となっていた明智光秀に討たれることになったのが、「本能寺の変」となるわけです。
背後には南北朝の争いが続いていたということになるのですが、もしも、信長が真に南朝方で、本願寺が南朝勢力であったとすれば、信長の天下統一に協力する側に回っていた可能性もあったはずである。
このことについては、本願寺派10世の証如、特に信長と激しく戦った11世の顕如の頃の経過をよく見ておく必要があると考えています。
つまり、顕如の頃の信長は、足利義昭を奉じて上洛しており、当然に見た目は完全に「北朝」支援者というわけなのである。
となれば、本願寺が南朝方であるとしたら、徹底的に抗戦して当然なことであったと言えるわけであります。
義昭追放後、信長は天下統一へと向けて、より一層に南朝勢力を頼りとすることに偏っていくわけですが、だからといってそれまで徹底抗戦にあった本願寺も、いまさらということになってしまっていたと考えられるのであります。
そして、いよいよ天皇の地位さえも信長により左右されかねなくなりつつある中、本気で南朝天皇擁立もあり得る(信長による二条新御所建立)としての危機感から、義昭の一番の臣下であって、北朝方の頭領格となっていた光秀が動くことになった(北朝方公家、あるいは正親町天皇自身により動かされた)のが「本能寺の変」というわけであります。
「本能寺の変」の際、二条御所もその攻撃対象となったのは、織田信忠が陣屋を放棄して、二条御所へ真っ先に移動して籠もったということもありますが、実は、通説での正親町天皇の嫡男・誠仁親王がそこにいたのではなく、美作後南朝の尊道親王がいたために、もしかすると安土や尾張へと逃げれたはずなのに、信忠がわざわざ(本能寺にも向かわずに)御所へと移動したのではないかとも考えられるわけであります。(以前の考察では、後醍醐帝の後胤との説のある織田信弌が、その標的の一人であったとも考えています。)
もしも、二条御所にいたのが本当に誠仁親王であったのであれば、光秀が、次期天皇候補を通説のように「歩かせて逃亡させる」ようなことはありえないわけであり、やはり、後南朝の尊道親王だったために、「歩いて逃げさせるぐらいで十分」と考えたとしてもおかしくないわけです。
ちなみに、誠仁親王は、本能寺の変後に、吉田兼和を勅使として、京都の治安維持に努めるようにと光秀のもとへと向かわせており、それに応えて、光秀は上洛して、朝廷や寺院へと安土城にあった大量の銀を献上しているのである。信長が、一応は正親町天皇、誠仁親王の庇護者であったわけですから、その信長を討った光秀を朝敵、逆賊としてもおかしくないはずなのに、なんとも不可解なことなのである・・誠仁親王自身、もしかしたら殺されており、ほうほうの体で逃げたとされているわけですから、おかしなことなのであります。
その誠仁親王の当時における状況、そして、しばらくしての死についても、かなりの謎が色々とあり、拙見解としては、信長は、既に誠仁親王の代わりとして、美作後南朝の尊道親王を次の天皇への画策があったことが、誠仁親王に関する様々な謎の裏にあるのではないかと考えるわけでもあります。
もちろん、このように信長が、本当に南朝方天皇擁立に動く向きはあったのかも疑問となるわけですが、当時、美作に後南朝小倉宮家があることは、備前の大名の宇喜多直家信長と同盟、離反、帰順、家臣には、楠木正虎の子・橘玄正のちの楢村玄正がいる)や足利義昭に側で最も仕えていた公家・家臣であった日野有尚(その長男・豊岡与右衛門の娘・吉子は小倉宮家に嫁いでいる)から聞いていたのは確かでもあり、十分にそれも考えることができるわけです。
また、織田信長に仕えた楠木正虎は、楠木正成→正儀→正秀→大饗正盛→大饗隆成→大饗正虎となり、織田信長の力もあって、楠木姓へと戻すことが許されており、美作後南朝の小倉宮家のことも楠木家の縁を通じて、既知であった可能性は十分に高いのである。実際に、上記のように正虎の子・玄正が、宇喜多直家の家臣として美作にいたのでもある。
いずれにしても、このあたりのことは更に突き詰めていければと思っています。
・・
南北朝時代・楠木家の子孫が河内の浄土真宗寺院の僧侶となった者が多いのは何故か
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/1efd6186095a58c4acee5b4133a80789
やはりそんな寺院は、考察での推測どおりに案外多いのかもしれない。
楠木家は、楠木正勝が本願寺派4世の善如から学びを受けているのは有名な話であり、本願寺派8世の蓮如の参謀であった浄賢は正勝の孫であったとも言われている。やはり、南朝勢力は生き残る術として、本願寺、浄土真宗に入り込むようになっていたとも言えるのである。
河内において、楠木家の子孫が次々と浄土真宗の僧侶となって入寺したり、開山となったり、中興となったりしたのは、南朝の生き残りの一つの策であったのだろうとして考察したのが先の拙説だったが、河内以外でも多いとなれば、そういう向きが全国的にもあったのだろうと思われるのである。
しかし、拙生が引っかかるのは、織田信長との関係である。
織田信長が、南朝勢力を利用することで足利政権の後を担おうとしたのは以前の考察の通りで、結局、北朝方の頭領格然となっていた明智光秀に討たれることになったのが、「本能寺の変」となるわけです。
背後には南北朝の争いが続いていたということになるのですが、もしも、信長が真に南朝方で、本願寺が南朝勢力であったとすれば、信長の天下統一に協力する側に回っていた可能性もあったはずである。
このことについては、本願寺派10世の証如、特に信長と激しく戦った11世の顕如の頃の経過をよく見ておく必要があると考えています。
つまり、顕如の頃の信長は、足利義昭を奉じて上洛しており、当然に見た目は完全に「北朝」支援者というわけなのである。
となれば、本願寺が南朝方であるとしたら、徹底的に抗戦して当然なことであったと言えるわけであります。
義昭追放後、信長は天下統一へと向けて、より一層に南朝勢力を頼りとすることに偏っていくわけですが、だからといってそれまで徹底抗戦にあった本願寺も、いまさらということになってしまっていたと考えられるのであります。
そして、いよいよ天皇の地位さえも信長により左右されかねなくなりつつある中、本気で南朝天皇擁立もあり得る(信長による二条新御所建立)としての危機感から、義昭の一番の臣下であって、北朝方の頭領格となっていた光秀が動くことになった(北朝方公家、あるいは正親町天皇自身により動かされた)のが「本能寺の変」というわけであります。
「本能寺の変」の際、二条御所もその攻撃対象となったのは、織田信忠が陣屋を放棄して、二条御所へ真っ先に移動して籠もったということもありますが、実は、通説での正親町天皇の嫡男・誠仁親王がそこにいたのではなく、美作後南朝の尊道親王がいたために、もしかすると安土や尾張へと逃げれたはずなのに、信忠がわざわざ(本能寺にも向かわずに)御所へと移動したのではないかとも考えられるわけであります。(以前の考察では、後醍醐帝の後胤との説のある織田信弌が、その標的の一人であったとも考えています。)
もしも、二条御所にいたのが本当に誠仁親王であったのであれば、光秀が、次期天皇候補を通説のように「歩かせて逃亡させる」ようなことはありえないわけであり、やはり、後南朝の尊道親王だったために、「歩いて逃げさせるぐらいで十分」と考えたとしてもおかしくないわけです。
ちなみに、誠仁親王は、本能寺の変後に、吉田兼和を勅使として、京都の治安維持に努めるようにと光秀のもとへと向かわせており、それに応えて、光秀は上洛して、朝廷や寺院へと安土城にあった大量の銀を献上しているのである。信長が、一応は正親町天皇、誠仁親王の庇護者であったわけですから、その信長を討った光秀を朝敵、逆賊としてもおかしくないはずなのに、なんとも不可解なことなのである・・誠仁親王自身、もしかしたら殺されており、ほうほうの体で逃げたとされているわけですから、おかしなことなのであります。
その誠仁親王の当時における状況、そして、しばらくしての死についても、かなりの謎が色々とあり、拙見解としては、信長は、既に誠仁親王の代わりとして、美作後南朝の尊道親王を次の天皇への画策があったことが、誠仁親王に関する様々な謎の裏にあるのではないかと考えるわけでもあります。
もちろん、このように信長が、本当に南朝方天皇擁立に動く向きはあったのかも疑問となるわけですが、当時、美作に後南朝小倉宮家があることは、備前の大名の宇喜多直家信長と同盟、離反、帰順、家臣には、楠木正虎の子・橘玄正のちの楢村玄正がいる)や足利義昭に側で最も仕えていた公家・家臣であった日野有尚(その長男・豊岡与右衛門の娘・吉子は小倉宮家に嫁いでいる)から聞いていたのは確かでもあり、十分にそれも考えることができるわけです。
また、織田信長に仕えた楠木正虎は、楠木正成→正儀→正秀→大饗正盛→大饗隆成→大饗正虎となり、織田信長の力もあって、楠木姓へと戻すことが許されており、美作後南朝の小倉宮家のことも楠木家の縁を通じて、既知であった可能性は十分に高いのである。実際に、上記のように正虎の子・玄正が、宇喜多直家の家臣として美作にいたのでもある。
いずれにしても、このあたりのことは更に突き詰めていければと思っています。
・・
南北朝時代・楠木家の子孫が河内の浄土真宗寺院の僧侶となった者が多いのは何故か
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/1efd6186095a58c4acee5b4133a80789