日記

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親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について

2023年02月28日 | ブログ
親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の不二摩訶衍としての性徳円満海論と同じであるという意見を頂いた。

要は、一如宝海と性徳円満海、それらは方便法身を生じさせる基としての法性法身と捉えるのか、それとも、法性法身と方便法身の両方を生じさせる基と捉えるか、そういう議論となります。

ただ、性徳円満海の海は、仏だけではなく、一切全てを生み出す根源的な意味合いで用いられていると思われる節が釈論の雰囲気としてはあるのですよね。つまり、仏の法性法身ではないということです。

いずれにしても、親鸞聖人の場合は、阿弥陀如来(の法性法身)一尊を絶対視するため(あとの諸仏諸仏説も方便法身としての従果降因的な扱いとなる)、この点で既に一如宝海と性徳円満海は同じではないと拙的には思うのであります。

もちろん、性徳円満海のイメージの典拠とされる金剛三昧経の「仏菩提薩般若海」、これは明らかに仏の悟りの根源としての般若、つまり、智慧としての法性法身そのものが想定されるものではあります。

もしくは徳の円満として、功徳性法身、つまり、方便法身とも捉えられなくもないのですが、智慧より功徳が先行重視されることは難しいので、この線も無いかなとは思うのですよね。

不二摩訶衍とは何かということとダイレクトに繋がるのですが、イメージ的には、宇宙のビッグバン諸元的なものでしょうか。
万物の根源的な。

ただ、いずれにしても不二摩訶衍について釈論の説明で出てくる「因縁無」がかなり引っかかるのですよね。

縁起するものに例外が無い、つまり、縁起以外によるものは無いというのが空の思想でもありますから、ビッグバンもやはり因縁によるものなので、そのイメージも違うのかとは思いますが。。

まあ、本当に龍樹が著したものであるならば、「因縁無」(逆説的な意味での説明であったとしても)とはここで書かないと思われますので、釈論の龍樹真作の線はやはり薄いと思われるのではあります。

・・

では、次に、親鸞聖人の一如宝海論は、大智度論のどこに見出すことができるのかというと、般若経系においてもよく出てくる表現とも重なりますが、それぞれ異なってある個々の雨水は、やがて川に集まり、海に入って一つに溶け込む、そのようなありようのことからヒントを得られた可能性が高くあります。

雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)というわけです。

巻92
「菩提名諸法實相,是諸佛所得究竟實相,無有變異。一切法入菩提中,皆寂滅相;如一切水入大海,同為一味」

巻67
「若菩薩於一切法不分別是法、是非法,悉皆是法;如大海水,百川萬流,皆合一味。爾時修般若波羅蜜具足」

巻32
「如水性下流故會歸於海,合為一味;諸法亦如是,一切總相、別相皆歸法性,同為一相,是名法性」

巻35「諸法如,入法性中無有別異;如火各各不同,而滅相無異。譬如眾川萬流,各各異色異味,入於大海,同為一味一名;如是愚癡、智慧,入於般若波羅蜜中,皆同一味、無有差別」

巻59
「至般若波羅蜜中,皆一相無有差別。譬如閻浮提阿那婆達多池,四大河流,一大河有五百小川歸之,俱入大海,則失其本名,合為一味,無有別異。又如樹木,枝葉華果,眾色別異,蔭則無別。」

まだ他にも同様の表現が数か所散見されますが、雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)として、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことによって、法性と方便の二種法身を得れて成仏することになると想定されてあるのであります。

しかし、大智度論では、親鸞聖人の想定されてあるように、ただ、阿弥陀如来の法性法身、自然の浄土へと溶け込むことで悟りへと至れる、成仏できる、二種法身を得れるとするのかとなれば、そうではないのであります。

特に重要となる諸法実相、法性、実際と衆生は異なるのか、異ならないのかという議論では、明確に一ではないとしているのであります。

もちろん、さりとて、二でもないし、一でないのでもなく、二でないのでもないとして四句分別という立場を取り、「畢竟寂滅 無戯論相」としています。

このあたりは中論の内容、仏の認識論と我々凡夫の認識論の違いが、当然に意識されているのであります。

また、大智度論では、自力修行、六波羅蜜等も否定されるものではなく、初発心の菩薩の立場についても、それなりの修養を終えてあるかなり境地の高い菩薩が想定されています。

この初発心は、よく誤解される仏道修行者が最初に発心する発菩提心の意ではなく、菩薩階梯の十地の内の第八地、不動地におけるいよいよ衆生を救わんとしての大慈悲心の発願とするのが、やはり基本的な立場となるのであります。

このように両者の立場には大きな違いがあるわけですが、親鸞聖人は、悟り、成仏は、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことにより達成されるとして、そのための信心獲得のみにおいて全て事足りるとされたのであります。

・・

親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。

ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。

釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。

ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。

親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。

親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。

その謎がやっと解けた感じであります。

それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。

大智度論巻第九

「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」

この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。

ここになります。

「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」

様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。

そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。

それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。

そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。

「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」

要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。

その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。

まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。

下記の初発意を信心として、ということです。

「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」

こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。

また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。

初発心の菩薩にです。

この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。



大智度論に見る親鸞聖人の一如宝海論の根拠について

2023年02月26日 | ブログ
では、次に、親鸞聖人の一如宝海論は、大智度論のどこに見出すことができるのかというと、般若経系においてもよく出てくる表現とも重なりますが、それぞれ異なってある個々の雨水は、やがて川に集まり、海に入って一つに溶け込む、そのようなありようのことからヒントを得られた可能性が高くあります。

雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)というわけです。

巻92
「菩提名諸法實相,是諸佛所得究竟實相,無有變異。一切法入菩提中,皆寂滅相;如一切水入大海,同為一味」

巻67
「若菩薩於一切法不分別是法、是非法,悉皆是法;如大海水,百川萬流,皆合一味。爾時修般若波羅蜜具足」

巻32
「如水性下流故會歸於海,合為一味;諸法亦如是,一切總相、別相皆歸法性,同為一相,是名法性」

巻35「諸法如,入法性中無有別異;如火各各不同,而滅相無異。譬如眾川萬流,各各異色異味,入於大海,同為一味一名;如是愚癡、智慧,入於般若波羅蜜中,皆同一味、無有差別」

巻59
「至般若波羅蜜中,皆一相無有差別。譬如閻浮提阿那婆達多池,四大河流,一大河有五百小川歸之,俱入大海,則失其本名,合為一味,無有別異。又如樹木,枝葉華果,眾色別異,蔭則無別。」

まだ他にも同様の表現が数か所散見されますが、雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)として、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことによって、法性と方便の二種法身を得れて成仏することになると想定されてあるのであります。

しかし、大智度論では、親鸞聖人の想定されてあるように、ただ、阿弥陀如来の法性法身、自然の浄土へと溶け込むことで悟りへと至れる、成仏できる、二種法身を得れるとするのかとなれば、そうではないのであります。

特に重要となる諸法実相、法性、実際と衆生は異なるのか、異ならないのかという議論では、明確に一ではないとしているのであります。

もちろん、さりとて、二でもないし、一でないのでもなく、二でないのでもないとして四句分別という立場を取り、「畢竟寂滅 無戯論相」としています。

このあたりは中論の内容、仏の認識論と我々凡夫の認識論の違いが、当然に意識されているのであります。

また、大智度論では、自力修行、六波羅蜜等も否定されるものではなく、初発心の菩薩の立場についても、それなりの修養を終えてあるかなり境地の高い菩薩が想定されています。

この初発心は、よく誤解される仏道修行者が最初に発心する発菩提心の意ではなく、菩薩階梯の十地の内の第八地、不動地におけるいよいよ衆生を救わんとしての大慈悲心の発願とするのが、やはり基本的な立場となるのであります。

このように両者の立場には大きな違いがあるわけですが、親鸞聖人は、悟り、成仏は、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことにより達成されるとして、そのための信心獲得のみにおいて全て事足りるとされたのであります。

・・

親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。

ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。

釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。

ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。

親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。

親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。

その謎がやっと解けた感じであります。

それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。

大智度論巻第九

「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」

この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。

ここになります。

「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」

様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。

そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。

それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。

そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。

「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」

要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。

その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。

まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。

下記の初発意を信心として、ということです。

「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」

こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。

また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。

初発心の菩薩にです。

この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。



大智度論に見る親鸞聖人の二種法身論・還相回向論・従果還因論の根拠について

2023年02月26日 | ブログ
親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。

ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。

釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。

ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。

親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。

親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。

その謎がやっと解けた感じであります。

それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。

大智度論巻第九

「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」

この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。

ここになります。

「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」

様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。

そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。

それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。

そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。

「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」

要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。

その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。

まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。

下記の初発意を信心として、ということです。

「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」

こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。

また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。

初発心の菩薩にです。

この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。



新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての拙見解(追記・ご消息解説・勧学寮)

2023年02月26日 | ブログ
浄土真宗本願寺派・西本願寺さんが発布された新しい領解文についての見解について幾人かより聞かれましたので・・

まずは、その新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息[龍谷門主釋専如]令和五年一月十六日
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_001985.html

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで

救い取られる 自然の浄土

仏恩報謝の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者 となり

少しずつ 執われの心を 離れます

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず

穏やかな顔と 優しい言葉

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます』

・・

浄土真宗の要諦は、何よりも阿弥陀如来の往相還相の二種回向による法性方便の二種法身の獲得を目指しての阿弥陀如来の本願への絶対他力、絶対信心。

その絶対信心を得ること、信心決定が、極楽浄土への往生、正定聚に至るために求められるところとなります。

この信心決定、信心獲得は、帰依や報謝とは全くの別モノ、別次元であり、衆生に対しては、この信心決定、信心獲得に対してどうあるべきか、どう臨むべきかが教義的に重要となるため、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべきものとなります。

「自然の浄土」への往生、その浄土は、衆生が二種法身を獲得するための(阿弥陀如来の本願の利益としての)はたらきを有する阿弥陀如来の法性法身そのもの、一如宝海とされるわけであります。

この一如宝海への往生により、阿弥陀如来の救いに与ることができ、法性方便の二種法身を獲得して成仏が完成するとされるのであります。

そして、信心決定、信心獲得、それは、ただ、念仏するだけで可能となるような簡単なものではなく、当然に聖道門(自力行)における菩薩階梯の十地の第八地に相当するほどに難しく、厳しいものであり、とても易行道と呼べるものではなく、本来は難儀至極なるものであります。(別時意趣)

また、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべき中で、後半における、生きる者となり~、執着を離れて〜、感謝して~、貪瞋痴に流されず〜、和顔愛語に〜、分かち合い~、つとめます~、などは、自力的(自分自身による努力的)要素に絡む印象を与えかねず、ある意味、蛇足と言えるのではないだろうかと思われます。

最後の「つとめ」るべき内容は何か、それは絶対他力、阿弥陀如来の本願への絶対信心の獲得であるとして、それをより明確にした方が曖昧さを排除できたのではないだろうかというのが拙見解であります。(前半の「南無阿弥陀仏~仏恩報謝のお念仏」だけの方が良かったのではないだろうかと思われます。)

最後に、もう一つ特筆しておくべきことは、本覚思想的要素が鮮明になっていること。

「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」

親鸞思想が、本覚思想・如来蔵思想的な問題を抱えてあるということについては、下記の拙見解をご参考頂けましたらと存じます。

「曇鸞以降における浄土論の最大の誤謬(般若中観思想の誤った用法による)」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/2b03bb2aab7cfaec260de8d5382ab206

・・

追記・2023.2.26

ご消息解説 勧学寮

このたび、ご門主より発布されましたご消息は、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)と題していますが、平易さを重視し、唱和することを目的としたために、その肝要を現代版に直したものであることをご理解ください。

ところでこの文は、三段に分けて受け止めることができます。まず第一段は、「南無阿弥陀仏」のおこころです。そのおこころをありがとう、といただき、おまかせする[信心]。そして救われていく「浄土」。それに「報謝の念仏」について述べています。第二段では、そのみ教えを私たちにお示しくださった宗祖親鸞聖人、また、お伝えくださった歴代宗主の恩徳について感謝を表しています。第三段では念仏者の日々に生活する態度を示し、聞法を勧める構成になっています。

どのようなご文も同じですが、いかに味わって拝読するか、その味わい方が肝心です。いま、このご文を、二、三行ずつに分けてその肝要を窺ってまいりましょう。

第一段 お念仏のこころに

南無阿弥陀仏

はじめに、六字の名号が掲げられます。この名号は単に名前ではありません。阿弥陀如来の顕現したおすがたを示すものです。

親鸞聖人が名号といわれるとき、多くの場合、上に本願の語が冠せられます。「本願名号正定業」などです。他に「誓願の名号」とか「誓いの名号」などの例もみられます。これらは、名号が本願であり誓願されたそのこころを表しているという意味です。本願とは、阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったとき、一切の苦しみ悩む衆生を一人のこさず救いとろうと誓われたものです。この願いが成就して阿弥陀仏となられ、そして名号となって私をよんでくださっているのです。ですから続いて

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

とあります。「そのまま救う」が阿弥陀如来の願いですので、短い消息文の中に二度にわたって述べられます。親鸞聖人はこの六字の名号を

しかれば、「南無」の言は帰命なり(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(註釈版聖典170ページ)

として、阿弥陀仏が名号となって煩悩に覆われる私の上に届き「まかせよ、わが名を称えよ」とよびかけてくださるすがたと味わわれたのです。また、この名号はよび声ではありますが、阿弥陀仏の功徳のすべてを与えたいという慈悲のすがたでもあるのです。しかも、信ずることも、念仏することも如来よりいただくものと味わわれます。

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ここで問題は、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の受け止め方です。私たち凡夫の立場からすれば、異様な内容と映ります。しかし、阿弥陀如来の立場からするならば違って受け止めることができるのです。仏教では、迷いの世界とさとりの世界の両方を説きます。いま、私の煩悩と仏のさとりは本来一つ、と言われるのは、さとりの世界の風光を示すものです。

阿弥陀如来には絶対的な真実無相の立場と、人間を救う仏として具体的なかたちをあらわす二面性があります。それが智慧と慈悲の阿弥陀仏と言われる所以です。智慧とはさとりを指しますので、その智慧の眼で眺めた時には「煩悩と菩提は一つ」と見ることができます。このさとりの智慧から衆生救済の慈悲が導き出されるのですから「ゆえ」が付加されているのでしょう。

要するに阿弥陀如来のさとりの智慧から「この私をよんでくださる慈悲」が出されたという意味です。この弥陀のよび声に私が呼応して「ありがとうございます」といただくのです。「そのまま救う」とよびかけてくださるのですから、素直に「この身このまま、おまかせします」と、ただただおまかせするのみを「いただく」と言っているのです。ですから

ありがとう といただいて

と続きます。

阿弥陀如来の必ず救うという慈悲のこころをそのまま受け入れて、この身をおまかせする。ここを「信心をいただく」と表現し、ここに他力の救いが成立します。本願を憶念して、自力のこころを離れていく、それ以外に煩悩具足の私が迷いの世界から抜け出る道はありません。

この愚身をまかす このままで
救い取られる自然の浄土

すでに述べたように、救われるということは、如来のよび声を聞き、おまかせするということです。ですから、如来の側からすれば「そのままの救い」であり、私の側から言えば「このまま救われる」ということになります。

ここを「愚身をまかす」とあえて「愚身」と書いて「み」と読むように指示されています。私という愚かな身ながら[このまま救われる]ことを表そうとされているのです。そうすれば、私の命が終かったその時にお浄土に往生させていただき、この私を仏にしてくださいます。

その往生させていただく世界が「救い取られる 自然の浄土」、いわゆる極楽浄土です。浄土が自然の語によってさとりの世界であることを表そうとしています。「自然虚無之身無極之体」という経典のことばにも、自然がさとりを意味していることが窺えます。

仏恩報謝の お念仏

阿弥陀如来の私をよんでくださるよび声が届いた瞬間からお浄土に寄せていただくまでのこの世での生活、それが「ありがとうございます」という感謝の念仏生活以外にはありません。「仏恩報謝のお念仏」と表現される所以です。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出ます。決して救いの因として役立たせるためではありません。阿弥陀如来のご恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものです。仏になるべき身に育てあげていただいたご恩に対する報恩の念仏です。

第二段

師の徳を讃える
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

ところで、愚身の私が往生させていただく手段は、すべて阿弥陀さまの方で完成されていますので、これを「他力」といいます。この「他力の法門」を数あるお釈迦さまの教えの中から見出してくださり、この私に至るまでお伝えくださったのは「ひとえに宗祖親鸞聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の 尊いお導きに よるもの」と言えましょう。親鸞聖人ましまさずば、と思うとき本当にお念仏に遇いえた喜びが湧きあがってきます。そして法灯を伝承された歴代宗主のお導きに感謝しなければなりません。

第三段

念仏者の生活

み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます

「そのままの救い」とか「摂取不捨の救い」とはいっても、どんな悪事をしてもいいということではありません。「薬あればとて、毒をこのむべからず」という誡めもあります。ですから、他力の教えをいただき感謝の念仏を称える人たちの生き方はどのようなものといえるでしょうか、それを考えねばなりません。消息文では「み教えを依りどころに生きる者」と示されています。

今生が終わった後の行き先が定まれば、その後の生活は当然ながら異なってくるものです。努力しなくとも「少しずつ 執われの心」が離れていきましょう。「執われ」とは「この世の財産や地位、名誉等々」に執われることで、当然ながら、そこには「生きる」ことも含まれます。要するに、死んだ後まで相続できないものへの執着です。

私たちは、この執着心からなかなか離れることができないものです。しかし、それが阿弥陀如来のみ光に照らされて、死後に至るまで相続できないものとわかれば、少しずつ心に変化が生じてくるものです。そこを聖人は

仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし(註釈版聖典739ページ)

と示してくださいます。

ここの「誓いを聞き始めしより」の文が大切です。煩悩成就の凡夫ですが、如来の誓願を知ったならばという意味でしょう。そうすれば、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが少しずつ遠のいていくものだと示してくださっているのです。

生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず

執われの心が薄れてくれば「生かされていることに 感謝」ができます。私たちは多くのご縁によって生かされています。常に自分を中心において、さまざまなご縁を眺めていますが、ご縁が先にあっての私だということがわかります。生かされて生きているのです。そのように思うとき、煩悩的欲求に無批判に従うことはできません。

また、貪・瞋・痴の三毒の煩悩は死ぬまで無くなりませんが、親鸞聖人がお示しくださったように「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ」てくるに違いありません。これらを「むさぼり いかりに 流されず」と言い表しているのです。くれぐれもそのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活ができるという意味ですのでご注意ください。

穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い

「和顔愛語」は法蔵菩薩修行の徳目の一つです。阿弥陀如来はいつも私たちによりそい、私の喜び悲しみを共にしてくださる仏さまです。

善導大師は、阿弥陀仏と念仏の衆生との関係を親縁で示してくださいます。親しい間柄という意味です。阿弥陀さまと私が親しい間柄ということをこころに思い浮かべるとき、自然にこころ穏やかになり、顔や言葉にあらわれるものです。私の優しい態度や言葉は、広く他におよび、曇鸞大師が念仏者を「四海のうちみな兄弟とするなり」(註釈版聖典310ページ)と言われるような輪が広がっていきます。すなわち、「穏やかな顔と 優しい言葉」また「喜びも 悲しみも 分かち合」う生活が送れることになるのです。

日々に 精一杯 つとめます

念仏申して生きることは、生きる意義がはっきりするということです。『仏説無量寿経』には

愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず(註釈版聖典70ページ)

とあります。どこから来て、どこへ帰っていくのか知らない私です。そのような私に生きる方向を指し示してくださるのがお念仏です。

そのお念仏による仏恩報謝の生活では、このように素睛らしい心安らぐ日常が送れるということです。

そのために、私たちはとにかく「阿弥陀如来のよび声に呼応」しなければなりません。この呼応することが「ご信心をいただく」という意味でもあります。まず私たちが聞法にはげみ、そして少しでも如来のお心にかなう生き方を目指し、「日々に 精一杯 つとめ」なければならないでしょう。それを奨励した言葉であることを肝に銘じなければなりません。

今回発布された消息文を以上のような味わいで唱和くださいますことをここに念じます。

『本願寺新報』2023年(令和5年)2月1日 3ページ


釈摩訶衍論の不二摩訶衍とは

2023年02月21日 | ブログ
釈摩訶衍論の不二摩訶衍は、まあ、中観思想における自立論証派と帰謬論証派の議論と似ているところがある。

依言真如、絶言真如、それらを超える不二摩訶衍。

要は、離戯論の議論なのであるが、チベット後期中観思想、ツォンカパ大師の説かれてある離戯論にはやはり遠く及ばない。

なぜか?

大乗起信論、釈摩訶衍論、起信論周辺における議論においては、空と縁起の理論がかなり疎かになってしまっているのと、ベースにはやはり本覚思想が控えてあるからである。

その本覚思想も内実はかなり強烈なもの。この本覚思想に、特に鎌倉仏教は少なからず影響を受けてしまっているのである。

親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の不二摩訶衍における性徳円満海論について

2023年02月19日 | ブログ
親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の不二摩訶衍における性徳円満海論は、意外にも両者に通底してある本覚思想は同じではないかと見ています。

両者共に「海」が使われてあることもさることながら、大乗起信論の本覚思想の要諦となる波の喩えとも双方共に関連していると考えます。

そして、釈論の性徳円満海は、もともと金剛三昧経の「仏菩提薩般若海」にその原意を伺うことができるのであります。

親鸞聖人が阿弥陀如来の本体について、どう考えていたのか、その真意を図るには、やはり本覚思想からアプローチするのが正解となるのでしょう。

西本願寺さんの新しい領解文(浄土真宗のみ教え)からは、本覚思想がはっきりと見てとれるわけでもありますから、より核心的であると考えるのであります。

釋摩訶衍論の金剛喩定について・追記

2023年02月18日 | ブログ
平岡宏一先生よりご指摘を賜りまして、下記のような説明では、色身を法身より先に獲得するような誤解を与えてしまうため、単純に無上瑜伽タントラの成仏体系と比較するのではなく、あくまでも顕教の成仏体系から、釋摩訶衍論の金剛喩定の「方便」の禅定は、煩悩障断滅のための三摩地、「正体」の禅定は、所知障断滅のための三摩地として、拙生としてはそのような理解に留めておくことと致します。

少し「方便」(色身のための資糧)という語の名称に引っ張られ過ぎたのかもです・・

・・

随分前に頂いていた質問で、釋摩訶衍論の金剛喩定のことがあり、かなり遅れてしまいましたが、、

釋摩訶衍論の金剛喩定における方便と正体は、無上瑜伽タントラの成仏体系と比較検討すると分かりやすくなります。

方便は、色身の成就のため、正体は、法身の成就のため、そのそれぞれの三摩地を表すものと考えるのであります。

要は、煩悩障断滅のための三摩地、所知障断滅のための三摩地ということになります。

無上瑜伽タントラにおいては、どちらも清浄なる勝義の光明への等引となりますが、方便は、煩悩障を断滅して、清浄なる幻身を実現させるための等引であり、煩悩障を断滅した後に実現したその清浄なる幻身は、そのまま仏陀の色身へと移行していくことになります。

そして、正体は、この清浄なる幻身と勝義の光明のそろってある状態においての等引であり、これは所知障を断滅させるための三摩地で、この等引により、全ての所知障を断じ尽くすと、勝義の光明が法身となり、清浄なる幻身が色身となり、仏陀・如来の完成となるのであります。

このように考えるとすっきりとすることになります。


釋摩訶衍論の金剛喩定について(追記 2023年2月18日)

2023年02月12日 | ブログ
(追記 2023年2月18日)

平岡宏一先生よりご指摘を賜りまして、下記のような説明では、色身を法身より先に獲得するような誤解を与えてしまうため、単純に無上瑜伽タントラの成仏体系と比較するのではなく、あくまでも顕教の成仏体系から、釋摩訶衍論の金剛喩定の「方便」の禅定は、煩悩障断滅のための三摩地、「正体」の禅定は、所知障断滅のための三摩地として、拙生としてはそのような理解に留めておくことと致します。

少し「方便」(色身のための資糧)という語の名称に引っ張られ過ぎたのかもです・・

・・

随分前に頂いていた質問で、釋摩訶衍論の金剛喩定のことがあり、かなり遅れてしまいましたが、、

釋摩訶衍論の金剛喩定における方便と正体は、無上瑜伽タントラの成仏体系と比較検討すると分かりやすくなります。

方便は、色身の成就のため、正体は、法身の成就のため、そのそれぞれの三摩地を表すものと考えるのであります。

要は、煩悩障断滅のための三摩地、所知障断滅のための三摩地ということになります。

無上瑜伽タントラにおいては、どちらも清浄なる勝義の光明への等引となりますが、方便は、煩悩障を断滅して、清浄なる幻身を実現させるための等引であり、煩悩障を断滅した後に実現したその清浄なる幻身は、そのまま仏陀の色身へと移行していくことになります。

そして、正体は、この清浄なる幻身と勝義の光明のそろってある状態においての等引であり、これは所知障を断滅させるための三摩地で、この等引により、全ての所知障を断じ尽くすと、勝義の光明が法身となり、清浄なる幻身が色身となり、仏陀・如来の完成となるのであります。

このように考えるとすっきりとすることになります。


新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての拙見解(追記・ご消息解説・勧学寮)

2023年02月10日 | ブログ
浄土真宗本願寺派・西本願寺さんが発布された新しい領解文についての見解について幾人かより聞かれましたので・・

まずは、その新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息[龍谷門主釋専如]令和五年一月十六日
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_001985.html

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで

救い取られる 自然の浄土

仏恩報謝の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者 となり

少しずつ 執われの心を 離れます

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず

穏やかな顔と 優しい言葉

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます』

・・

浄土真宗の要諦は、何よりも阿弥陀如来の往相還相の二種回向による法性方便の二種法身の獲得を目指しての阿弥陀如来の本願への絶対他力、絶対信心。

その絶対信心を得ること、信心決定が、極楽浄土への往生、正定聚に至るために求められるところとなります。

この信心決定、信心獲得は、帰依や報謝とは全くの別モノ、別次元であり、衆生に対しては、この信心決定、信心獲得に対してどうあるべきか、どう臨むべきかが教義的に重要となるため、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべきものとなります。

「自然の浄土」への往生、その浄土は、衆生が二種法身を獲得するための(阿弥陀如来の本願の利益としての)はたらきを有する阿弥陀如来の法性法身そのもの、一如宝海とされるわけであります。

この一如宝海への往生により、阿弥陀如来の救いに与ることができ、法性方便の二種法身を獲得して成仏が完成するとされるのであります。

そして、信心決定、信心獲得、それは、ただ、念仏するだけで可能となるような簡単なものではなく、当然に聖道門(自力行)における菩薩階梯の十地の第八地に相当するほどに難しく、厳しいものであり、とても易行道と呼べるものではなく、本来は難儀至極なるものであります。(別時意趣)

また、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべき中で、後半における、生きる者となり~、執着を離れて〜、感謝して~、貪瞋痴に流されず〜、和顔愛語に〜、分かち合い~、つとめます~、などは、自力的(自分自身による努力的)要素に絡む印象を与えかねず、ある意味、蛇足と言えるのではないだろうかと思われます。

最後の「つとめ」るべき内容は何か、それは絶対他力、阿弥陀如来の本願への絶対信心の獲得であるとして、それをより明確にした方が曖昧さを排除できたのではないだろうかというのが拙見解であります。(前半の「南無阿弥陀仏~仏恩報謝のお念仏」だけの方が良かったのではないだろうかと思われます。)

最後に、もう一つ特筆しておくべきことは、本覚思想的要素が鮮明になっていること。

「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」

親鸞思想が、本覚思想・如来蔵思想的な問題を抱えてあるということについては、下記の拙見解をご参考頂けましたらと存じます。

「曇鸞以降における浄土論の最大の誤謬(般若中観思想の誤った用法による)」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/2b03bb2aab7cfaec260de8d5382ab206

・・

追記・2023.2.26

ご消息解説 勧学寮

このたび、ご門主より発布されましたご消息は、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)と題していますが、平易さを重視し、唱和することを目的としたために、その肝要を現代版に直したものであることをご理解ください。

ところでこの文は、三段に分けて受け止めることができます。まず第一段は、「南無阿弥陀仏」のおこころです。そのおこころをありがとう、といただき、おまかせする[信心]。そして救われていく「浄土」。それに「報謝の念仏」について述べています。第二段では、そのみ教えを私たちにお示しくださった宗祖親鸞聖人、また、お伝えくださった歴代宗主の恩徳について感謝を表しています。第三段では念仏者の日々に生活する態度を示し、聞法を勧める構成になっています。

どのようなご文も同じですが、いかに味わって拝読するか、その味わい方が肝心です。いま、このご文を、二、三行ずつに分けてその肝要を窺ってまいりましょう。

第一段 お念仏のこころに

南無阿弥陀仏

はじめに、六字の名号が掲げられます。この名号は単に名前ではありません。阿弥陀如来の顕現したおすがたを示すものです。

親鸞聖人が名号といわれるとき、多くの場合、上に本願の語が冠せられます。「本願名号正定業」などです。他に「誓願の名号」とか「誓いの名号」などの例もみられます。これらは、名号が本願であり誓願されたそのこころを表しているという意味です。本願とは、阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったとき、一切の苦しみ悩む衆生を一人のこさず救いとろうと誓われたものです。この願いが成就して阿弥陀仏となられ、そして名号となって私をよんでくださっているのです。ですから続いて

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

とあります。「そのまま救う」が阿弥陀如来の願いですので、短い消息文の中に二度にわたって述べられます。親鸞聖人はこの六字の名号を

しかれば、「南無」の言は帰命なり(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(註釈版聖典170ページ)

として、阿弥陀仏が名号となって煩悩に覆われる私の上に届き「まかせよ、わが名を称えよ」とよびかけてくださるすがたと味わわれたのです。また、この名号はよび声ではありますが、阿弥陀仏の功徳のすべてを与えたいという慈悲のすがたでもあるのです。しかも、信ずることも、念仏することも如来よりいただくものと味わわれます。

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ここで問題は、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の受け止め方です。私たち凡夫の立場からすれば、異様な内容と映ります。しかし、阿弥陀如来の立場からするならば違って受け止めることができるのです。仏教では、迷いの世界とさとりの世界の両方を説きます。いま、私の煩悩と仏のさとりは本来一つ、と言われるのは、さとりの世界の風光を示すものです。

阿弥陀如来には絶対的な真実無相の立場と、人間を救う仏として具体的なかたちをあらわす二面性があります。それが智慧と慈悲の阿弥陀仏と言われる所以です。智慧とはさとりを指しますので、その智慧の眼で眺めた時には「煩悩と菩提は一つ」と見ることができます。このさとりの智慧から衆生救済の慈悲が導き出されるのですから「ゆえ」が付加されているのでしょう。

要するに阿弥陀如来のさとりの智慧から「この私をよんでくださる慈悲」が出されたという意味です。この弥陀のよび声に私が呼応して「ありがとうございます」といただくのです。「そのまま救う」とよびかけてくださるのですから、素直に「この身このまま、おまかせします」と、ただただおまかせするのみを「いただく」と言っているのです。ですから

ありがとう といただいて

と続きます。

阿弥陀如来の必ず救うという慈悲のこころをそのまま受け入れて、この身をおまかせする。ここを「信心をいただく」と表現し、ここに他力の救いが成立します。本願を憶念して、自力のこころを離れていく、それ以外に煩悩具足の私が迷いの世界から抜け出る道はありません。

この愚身をまかす このままで
救い取られる自然の浄土

すでに述べたように、救われるということは、如来のよび声を聞き、おまかせするということです。ですから、如来の側からすれば「そのままの救い」であり、私の側から言えば「このまま救われる」ということになります。

ここを「愚身をまかす」とあえて「愚身」と書いて「み」と読むように指示されています。私という愚かな身ながら[このまま救われる]ことを表そうとされているのです。そうすれば、私の命が終かったその時にお浄土に往生させていただき、この私を仏にしてくださいます。

その往生させていただく世界が「救い取られる 自然の浄土」、いわゆる極楽浄土です。浄土が自然の語によってさとりの世界であることを表そうとしています。「自然虚無之身無極之体」という経典のことばにも、自然がさとりを意味していることが窺えます。

仏恩報謝の お念仏

阿弥陀如来の私をよんでくださるよび声が届いた瞬間からお浄土に寄せていただくまでのこの世での生活、それが「ありがとうございます」という感謝の念仏生活以外にはありません。「仏恩報謝のお念仏」と表現される所以です。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出ます。決して救いの因として役立たせるためではありません。阿弥陀如来のご恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものです。仏になるべき身に育てあげていただいたご恩に対する報恩の念仏です。

第二段

師の徳を讃える
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

ところで、愚身の私が往生させていただく手段は、すべて阿弥陀さまの方で完成されていますので、これを「他力」といいます。この「他力の法門」を数あるお釈迦さまの教えの中から見出してくださり、この私に至るまでお伝えくださったのは「ひとえに宗祖親鸞聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の 尊いお導きに よるもの」と言えましょう。親鸞聖人ましまさずば、と思うとき本当にお念仏に遇いえた喜びが湧きあがってきます。そして法灯を伝承された歴代宗主のお導きに感謝しなければなりません。

第三段

念仏者の生活

み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます

「そのままの救い」とか「摂取不捨の救い」とはいっても、どんな悪事をしてもいいということではありません。「薬あればとて、毒をこのむべからず」という誡めもあります。ですから、他力の教えをいただき感謝の念仏を称える人たちの生き方はどのようなものといえるでしょうか、それを考えねばなりません。消息文では「み教えを依りどころに生きる者」と示されています。

今生が終わった後の行き先が定まれば、その後の生活は当然ながら異なってくるものです。努力しなくとも「少しずつ 執われの心」が離れていきましょう。「執われ」とは「この世の財産や地位、名誉等々」に執われることで、当然ながら、そこには「生きる」ことも含まれます。要するに、死んだ後まで相続できないものへの執着です。

私たちは、この執着心からなかなか離れることができないものです。しかし、それが阿弥陀如来のみ光に照らされて、死後に至るまで相続できないものとわかれば、少しずつ心に変化が生じてくるものです。そこを聖人は

仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし(註釈版聖典739ページ)

と示してくださいます。

ここの「誓いを聞き始めしより」の文が大切です。煩悩成就の凡夫ですが、如来の誓願を知ったならばという意味でしょう。そうすれば、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが少しずつ遠のいていくものだと示してくださっているのです。

生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず

執われの心が薄れてくれば「生かされていることに 感謝」ができます。私たちは多くのご縁によって生かされています。常に自分を中心において、さまざまなご縁を眺めていますが、ご縁が先にあっての私だということがわかります。生かされて生きているのです。そのように思うとき、煩悩的欲求に無批判に従うことはできません。

また、貪・瞋・痴の三毒の煩悩は死ぬまで無くなりませんが、親鸞聖人がお示しくださったように「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ」てくるに違いありません。これらを「むさぼり いかりに 流されず」と言い表しているのです。くれぐれもそのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活ができるという意味ですのでご注意ください。

穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い

「和顔愛語」は法蔵菩薩修行の徳目の一つです。阿弥陀如来はいつも私たちによりそい、私の喜び悲しみを共にしてくださる仏さまです。

善導大師は、阿弥陀仏と念仏の衆生との関係を親縁で示してくださいます。親しい間柄という意味です。阿弥陀さまと私が親しい間柄ということをこころに思い浮かべるとき、自然にこころ穏やかになり、顔や言葉にあらわれるものです。私の優しい態度や言葉は、広く他におよび、曇鸞大師が念仏者を「四海のうちみな兄弟とするなり」(註釈版聖典310ページ)と言われるような輪が広がっていきます。すなわち、「穏やかな顔と 優しい言葉」また「喜びも 悲しみも 分かち合」う生活が送れることになるのです。

日々に 精一杯 つとめます

念仏申して生きることは、生きる意義がはっきりするということです。『仏説無量寿経』には

愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず(註釈版聖典70ページ)

とあります。どこから来て、どこへ帰っていくのか知らない私です。そのような私に生きる方向を指し示してくださるのがお念仏です。

そのお念仏による仏恩報謝の生活では、このように素睛らしい心安らぐ日常が送れるということです。

そのために、私たちはとにかく「阿弥陀如来のよび声に呼応」しなければなりません。この呼応することが「ご信心をいただく」という意味でもあります。まず私たちが聞法にはげみ、そして少しでも如来のお心にかなう生き方を目指し、「日々に 精一杯 つとめ」なければならないでしょう。それを奨励した言葉であることを肝に銘じなければなりません。

今回発布された消息文を以上のような味わいで唱和くださいますことをここに念じます。

『本願寺新報』2023年(令和5年)2月1日 3ページ