日記

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浄土門における浄土真宗と他宗との相違について

2024年01月08日 | ブログ
仏教でも浄土真宗でもないような異安心の「新しい領解文」のせいで、すっかりと忘れてしまっていたが、この問答を回答する中で、そう言えば浄土真宗教学・親鸞思想におけるどのあたりについて考究していたのかを久しぶりに思い出した・・もう一年ほど前で研究が止まってしまっていたわけである・・

問い「浄土について」
https://hasunoha.jp/questions/69131

拙回答

浄土真宗の教義においては、機と法の二種深信を信心の面において重視するため、煩悩具足の凡夫のままにて救われるありようを考えることが大切となります。

悩みや恐怖、不安は、やはりそう簡単には無くならないし、無くせないものであり、煩悩によって善い行いも成せない、成し得ない(雑善、雑毒の善)と自覚することも必要となります。

一方で、自力聖道門では、悟りへと向けて、二資糧(智慧と福徳)の開発が求められるところになるわけです。

同じ浄土門においても、他力と自力、その折衷的なものと分かれるところがあります。

簡単には、他力では、弥陀の救いの手が、自分の心を掴んであるありようを真底に確信(確認)していくこと(絶対他力の場合、雑善も含めて、専修正行以外の通仏教におけるいかなる修行、功徳行も雑行雑修として否定されることになります)、

自力では、弥陀の救いの手を、探し出し、その救いの手を取りに行くために努力して菩薩行を進んでいくこと(自分の力で歩いて悟りへと向かっていくイメージ)と、

言えるのではないかと考えます。浄土真宗は、前者ということになります。

また、浄土論についても異なるものとなります。

極楽浄土を報土と捉えて、報身(方便法身)の阿弥陀仏にご指導を頂きに往生を目指すという場合と、そうではなく、往生は、極楽浄土ではなく、法身(法性法身)の阿弥陀仏のもとへと向けて目指すという場合とでも異なり、浄土真宗は後者の方となります。

つまり、浄土真宗の場合では、信心獲得、信心決定によりて、法身の阿弥陀仏のもとへと往生することで、二種法身(方便・法性)を得て、それで悟りへと至ると考えるものとなります。

ですから、往生後の阿弥陀仏のお導きで、徐々に悟りへと至るということではなく、むしろ、法身の阿弥陀仏と一味、一体となることで、自らも阿弥陀仏の二種法身に溶け込み、そして、二種法身のはたらきを有せるものになる(それが悟りという事態)と考えられるところとなります。

その際には、阿弥陀仏と自分との差異はもう微塵も見いだせなくなるものであるとも言えるでしょう。

では、そこに、「過去の」自分という存在としてあったものの「意思」が、何かはたらき得るものがあるのかどうか、そのあたりの、特に(方便法身としての)還相のありようについて、現在、拙生も考究しているところでございます。

合掌