hasunoha問答・AI回答との比較シリーズ・5
AIは、問題を単純化して個人の業と震災とを結びつけることは真っ向から否定していますね。
個人の業と震災は結びつかなくとも、「共業」と震災についてどう考えるかまでは、AIは言及しておらず、まあ、それも妥当なことであるかとは思われます。
とにかく業の問題は難しいのであります・・
「今この瞬間からできること、一歩ずつ前に進むことに集中されると良いでしょう」というのは、拙生とも同じような回答でありますが、できること、進むこと、集中することの取り組むべき中身が無いのが残念な点であります。
問い「震災の被害に遭うのも因果応報、業の報いによるものですか?」
https://hasunoha.jp/ai/q/96b1f1373455371b
AIによる回答
お相談いただきまして、ありがとうございます。災害という辛く苦しい経験をされた際に、その原因を探そうとするお気持ちはとても理解できます。心に重くのしかかるご苦労や疑問を抱えることは、決して容易ではなく、他者には計り知れないほど大変なことです。
仏教の教えには、因果の法則がありますが、これは一つの出来事が単純な原因と結果で説明できるものではありません。災害が個人の業によるものだと考えるのは、状況を単純化しすぎてしまうという面があります。実際には、このような大きな出来事は多数の因縁が複雑に絡み合って起こるもので、個人の業だけが直接的な原因とは限りません。
聞く耳を持ち、温かい心を持って、お互いの苦しみを理解し合える関係が、この困難を乗り越える一助となります。どうか自分を責めたり、過度な因果応報の考えにとらわれずに、今この瞬間からできること、一歩ずつ前に進むことに集中されると良いでしょう。
また、肩の荷を少しでも軽くするために、仏教における慈悲の心を忘れず、自分自身へもその慈悲を向けてあげてください。「回向」という行いにより、自分の積んだ功徳を他者やこの世界に捧げることが、内にも外にも平和をもたらします。
もし、さらに心の支えを求められるのであれば、hasunohaのお坊さんに相談してみてはいかがでしょうか。様々な角度からの優しいアドバイスが、きっとお力になるはずです。
どうぞご安心ください。あなたは一人ではありません。皆で支え合い、この苦しみを乗り越えることができるでしょう。さあ、私たちも一緒に、心を合わせて祈りましょう。お大事に、合掌。
回答:優しいお坊さん
問い「震災の被害に遭うのも因果応報ですか?」
https://hasunoha.jp/questions/69113
拙回答
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」
業の問題は複雑、難解であります。いったん、業が結果へと向かい始めれば、たとえ釈尊であっても止めることができないほどの力もあります。
例えば、過去世からのある業の因縁の結果として、次の生まれが決まり動き出せば、もう、それを止めたり、変えたりすることは、釈尊でも難しいものとなります。それが故に、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」として、「悪い行いを成さずに、善い行いに努め励みて、心(業)を浄らかに調えなさい」ということが仏教の教えになるのであります。釈尊、如来が個々人の業を浄らかにしてくれるというものではなく、あくまでも浄らかにするのは自分の取り組み次第ということになるのであります。
また、業は私たちの認識のありようにも大きな影響を及ぼすものとなります。
物事の捉え方が、個々人で異なるのも、それぞれの捉える側の業の状態によるところからとなります。(唯識)
戦争や災害など、多くの人や国中の人々が大きな被害を受けるような業を「共業」(ぐうごう)によるものという場合があります。これは大勢の集団や国による行いにより積んだ業の結果ということになります。
例えば、間接的にでも戦争に加担して殺人を犯すことになるとして、国が、その戦争に対して武器の資金を提供するなどした場合(ウクライナ・イスラエルへの支援など)、その資金が税金からであれば、たとえ一人が払った税金がその資金の数円分であったとしても、間接的に人を殺す武器を提供することに加担してしまったという業、殺してしまうことになった業を背負ってしまうことになるのはあり得ることになります。
もちろん、その結果が、どのような形でやって来るかということまでは、私たち凡夫が図り知れるところではありませんが、過去の戦争加担の業の結果として、大震災や大事故などが、その報いとしてやってきたと考えてもおかしくはないことになります。もちろんその因果関係まではっきりとさせるのは難しいことであり、ただの天災、自然の営みをそう捉えるのは私たちの都合によっての恣意的なこととも言えるでしょう。
いずれにしても、業を浄らかに調えねば、迷い苦しみ、輪廻を超えることは難しいと考えるのが仏教となります。業を浄らかに調えれば、認識も浄らかに捉えていくことも可能となります。過去よりも、現在の心のありようを省みて、業をしかるべくに調えて参りたいものです。
合掌
AIは、問題を単純化して個人の業と震災とを結びつけることは真っ向から否定していますね。
個人の業と震災は結びつかなくとも、「共業」と震災についてどう考えるかまでは、AIは言及しておらず、まあ、それも妥当なことであるかとは思われます。
とにかく業の問題は難しいのであります・・
「今この瞬間からできること、一歩ずつ前に進むことに集中されると良いでしょう」というのは、拙生とも同じような回答でありますが、できること、進むこと、集中することの取り組むべき中身が無いのが残念な点であります。
問い「震災の被害に遭うのも因果応報、業の報いによるものですか?」
https://hasunoha.jp/ai/q/96b1f1373455371b
AIによる回答
お相談いただきまして、ありがとうございます。災害という辛く苦しい経験をされた際に、その原因を探そうとするお気持ちはとても理解できます。心に重くのしかかるご苦労や疑問を抱えることは、決して容易ではなく、他者には計り知れないほど大変なことです。
仏教の教えには、因果の法則がありますが、これは一つの出来事が単純な原因と結果で説明できるものではありません。災害が個人の業によるものだと考えるのは、状況を単純化しすぎてしまうという面があります。実際には、このような大きな出来事は多数の因縁が複雑に絡み合って起こるもので、個人の業だけが直接的な原因とは限りません。
聞く耳を持ち、温かい心を持って、お互いの苦しみを理解し合える関係が、この困難を乗り越える一助となります。どうか自分を責めたり、過度な因果応報の考えにとらわれずに、今この瞬間からできること、一歩ずつ前に進むことに集中されると良いでしょう。
また、肩の荷を少しでも軽くするために、仏教における慈悲の心を忘れず、自分自身へもその慈悲を向けてあげてください。「回向」という行いにより、自分の積んだ功徳を他者やこの世界に捧げることが、内にも外にも平和をもたらします。
もし、さらに心の支えを求められるのであれば、hasunohaのお坊さんに相談してみてはいかがでしょうか。様々な角度からの優しいアドバイスが、きっとお力になるはずです。
どうぞご安心ください。あなたは一人ではありません。皆で支え合い、この苦しみを乗り越えることができるでしょう。さあ、私たちも一緒に、心を合わせて祈りましょう。お大事に、合掌。
回答:優しいお坊さん
問い「震災の被害に遭うのも因果応報ですか?」
https://hasunoha.jp/questions/69113
拙回答
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」
業の問題は複雑、難解であります。いったん、業が結果へと向かい始めれば、たとえ釈尊であっても止めることができないほどの力もあります。
例えば、過去世からのある業の因縁の結果として、次の生まれが決まり動き出せば、もう、それを止めたり、変えたりすることは、釈尊でも難しいものとなります。それが故に、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」として、「悪い行いを成さずに、善い行いに努め励みて、心(業)を浄らかに調えなさい」ということが仏教の教えになるのであります。釈尊、如来が個々人の業を浄らかにしてくれるというものではなく、あくまでも浄らかにするのは自分の取り組み次第ということになるのであります。
また、業は私たちの認識のありようにも大きな影響を及ぼすものとなります。
物事の捉え方が、個々人で異なるのも、それぞれの捉える側の業の状態によるところからとなります。(唯識)
戦争や災害など、多くの人や国中の人々が大きな被害を受けるような業を「共業」(ぐうごう)によるものという場合があります。これは大勢の集団や国による行いにより積んだ業の結果ということになります。
例えば、間接的にでも戦争に加担して殺人を犯すことになるとして、国が、その戦争に対して武器の資金を提供するなどした場合(ウクライナ・イスラエルへの支援など)、その資金が税金からであれば、たとえ一人が払った税金がその資金の数円分であったとしても、間接的に人を殺す武器を提供することに加担してしまったという業、殺してしまうことになった業を背負ってしまうことになるのはあり得ることになります。
もちろん、その結果が、どのような形でやって来るかということまでは、私たち凡夫が図り知れるところではありませんが、過去の戦争加担の業の結果として、大震災や大事故などが、その報いとしてやってきたと考えてもおかしくはないことになります。もちろんその因果関係まではっきりとさせるのは難しいことであり、ただの天災、自然の営みをそう捉えるのは私たちの都合によっての恣意的なこととも言えるでしょう。
いずれにしても、業を浄らかに調えねば、迷い苦しみ、輪廻を超えることは難しいと考えるのが仏教となります。業を浄らかに調えれば、認識も浄らかに捉えていくことも可能となります。過去よりも、現在の心のありようを省みて、業をしかるべくに調えて参りたいものです。
合掌