日記

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改悔批判での満井勧学の間違い

2024年01月17日 | ブログ
「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」は、生死即涅槃の法義です。仏智見から見れば自他一如として、仏と衆生と隔てるものはありません。それを凡夫の分別心が両者を隔絶してしまうのです。

満井勧学のこの説明は、当然に苦しい。

仏智見は、単純に、自他一如と観るわけではない。

仏智見とは、一切は空性として如実に直観知する仏陀による見方のことである。

確かに、空性としては、一切、自他共に一如ではある。

つまり、悟りも煩悩も当然に空性を本質としているということは同じではあるが、それで、悟りと煩悩が同じとはもちろん言えないのである。

はたらきがまるで違うし、煩悩があるならば、まず迷い苦しみは無くならないし、空性を了解すること自体も、そもそも難しいのである。

また、凡夫の分別心が、悟りと煩悩を分けるわけではない。

悟りと煩悩を分けるのは、空性了解の有無である。空性了解できていない凡夫が、悟りの状態にあるなどとはもちろん言えないのである。

更に、悟りは無分別ではない。

悟った仏陀は、如実知と如量知にて、空性了解から世俗の煩悩による迷い苦しみのありようもご覧になられるのである。空性了解のない凡夫煩悩からではもちろんそんな見方も無理なのである。

正確に述べるのであれば、無分別なのは、空性として離戯論であるということを示している事態であり、世俗、凡夫、煩悩のある立場からでは、それも真に理解することも無理なのである。

空性を本質としてあること以外に悟りと煩悩が同じなわけなど全くないのである。

満井勧学の間違いは歴然としている。門主同様に一から仏教を学び直すべきであろう、、

ちなみに、下記論文からであれば、上記のことを良く学ぶことができます。

「ツォンカパ後期中観思想における二諦説の研究」拉毛卓瑪氏
https://otani.repo.nii.ac.jp/records/6784

https://otani.repo.nii.ac.jp/record/6784/files/%E5%AD%A6%E4%BD%8D%E8%AB%8B%E6%B1%82%E8%AB%96%E6%96%87%EF%BC%88LAMAOZHUOMA%EF%BC%89.pdf

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改悔批判に「新しい領解文」を依用
https://note.com/ryouge/n/n4117ea307888

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=237521546057973&id=100094003868182