仏教における悟りは空性了解が、本来、重要なものとなるが、浄土真宗では、空性了解より信心領解が重要となる。
この違いは目的の相違による。
その違いは、悟りを目的とするのか、彌陀摂取を目的とするのか、である。
浄土真宗では、彌陀摂取により彌陀と一如、一味となることで、如来と同等の二種(法性・方便)法身を得れるとするため、空性の了解へと向けた智慧の開発、空性了解による法身の獲得、また、衆生済度へ向けた福徳、功徳の集積、円満なる福徳による色身の獲得を必要とは考えないのである。
この両者にまたがる目的の隔たりを理解しないと、浄土真宗を理解することは難しいのであります。
浄土真宗は、彌陀摂取により、凡夫のままにて救われ、凡夫のままにて二種法身を得れて成仏できると考えることになるわけです。約仏とはこの観点となります。
では、輪廻の因縁となっている煩悩や業はどうなるのかとなれば、修道、菩提道次第による浄化を経ずに、彌陀との一如、一味の際において、彌陀への包摂にて(彌陀によりて)浄化されることになると考えるわけです。
この論理が大智度論にあるのは、前に考察した通りです。
このため、浄土真宗は当然に本覚法門ではないわけです。
また、煩悩と悟りをイコールとするわけでもないのであります。
あくまでも彌陀包摂による煩悩、業の浄化が成仏には必要と考えるわけです。
そのため、煩悩と悟りが本来一つなどとは当然に表現はできないのであります。
この表現は、仏教も浄土真宗も、その両者の目的も理解できていないために生じた誤謬であるわけなのであります。
約仏の観点からももちろん間違いであるのであります。