日記

日記

凡夫、阿羅漢、仏陀、それぞれの認識のあり方について

2024年01月19日 | ブログ
懐かしい表を探し出してきた・・

実のところ、仏陀の如量知も如実知も、その知に違いはない。空性を現量に了解しながらに、世俗のこともご覧になられるということを、世俗の側から一応、便宜的に述べてあるだけである。

先日の「真実執着の戯論」とは、この表では「虚偽の顕れ」のことになる。

第八地以上の菩薩でも、モノ・コトは、まるであたかも実体として成立してあるかの如くに顕れてくるのである。

所知障を断滅するまで、これはどうしょうもない。でも、空性の理解が十分であるため、煩悩は生じず、業も汚されないのである。だから輪廻からも解脱しているのである。

この表のように、凡夫、阿羅漢、仏陀と、認識は歴然と異なっているのである。

それが、悟りと煩悩は、空性を本質として同じ(一如)だからと言っても、はたらきやあり方が同じになるわけでは全くないのである。

つまり、空について、縁起について、中観思想について、全く分かっていないのが、満井勧学の論なのである。正直、痛いレベルである・・


満井秀城勧学より『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』が発表されたらしいが・・

2024年01月19日 | ブログ
おぉー先日の投稿、タイムリーだったか。。まあ、中身は見なくても、それは改悔批判での解説だけからでもおおよそわかる。どうせ間違っているであろう。満井秀城勧学、一から仏教だけでなく、浄土真宗も学び直すべきであろう。

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「新しい領解文」を誤解のないように読むには勧学寮の解説とセットで読むことが推奨されていますが、それでも疑義が生じていることに対して、宗派の学習会で講義を担当している満井秀城勧学より『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』が発表されました。1月17日に行われた滋賀教区の学習会より配布されています。
今後は「新しい領解文」+「勧学寮の解説」+『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』をセットで拝読することが推奨されます。合わせて14,000文字を超え、仏説無量寿経に匹敵します。
https://note.com/ryouge/n/n7b5ce5f7318a

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「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」は、生死即涅槃の法義です。仏智見から見れば自他一如として、仏と衆生と隔てるものはありません。それを凡夫の分別心が両者を隔絶してしまうのです。

満井勧学のこの説明は、当然に苦しい。

仏智見は、単純に、自他一如と観るわけではない。

仏智見とは、一切は空性として如実に直観知する仏陀による見方のことである。

確かに、空性としては、一切、自他共に一如ではある。

つまり、悟りも煩悩も当然に空性を本質としているということは同じではあるが、それで、悟りと煩悩が同じとはもちろん言えないのである。

はたらきがまるで違うし、煩悩があるならば、まず迷い苦しみは無くならないし、空性を了解すること自体も、そもそも難しいのである。

また、凡夫の分別心が、悟りと煩悩を分けるわけではない。

悟りと煩悩を分けるのは、空性了解の有無である。空性了解できていない凡夫が、悟りの状態にあるなどとはもちろん言えないのである。

更に、悟りは無分別ではない。

悟った仏陀は、如実知と如量知にて、空性了解から世俗の煩悩による迷い苦しみのありようもご覧になられるのである。空性了解のない凡夫煩悩からではもちろんそんな見方も無理なのである。

正確に述べるのであれば、無分別なのは、空性として離戯論であるということを示している事態であり、世俗、凡夫、煩悩のある立場からでは、それも真に理解することも無理なのである。

空性を本質としてあること以外に悟りと煩悩が同じなわけなど全くないのである。

満井勧学の間違いは歴然としている。門主同様に一から仏教を学び直すべきであろう、、

ちなみに、下記論文からであれば、上記のことを良く学ぶことができます。

「ツォンカパ後期中観思想における二諦説の研究」拉毛卓瑪氏
https://otani.repo.nii.ac.jp/records/6784

https://otani.repo.nii.ac.jp/record/6784/files/%E5%AD%A6%E4%BD%8D%E8%AB%8B%E6%B1%82%E8%AB%96%E6%96%87%EF%BC%88LAMAOZHUOMA%EF%BC%89.pdf

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改悔批判に「新しい領解文」を依用
https://note.com/ryouge/n/n4117ea307888

https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=237521546057973&id=100094003868182