懐かしい表を探し出してきた・・
実のところ、仏陀の如量知も如実知も、その知に違いはない。空性を現量に了解しながらに、世俗のこともご覧になられるということを、世俗の側から一応、便宜的に述べてあるだけである。
先日の「真実執着の戯論」とは、この表では「虚偽の顕れ」のことになる。
第八地以上の菩薩でも、モノ・コトは、まるであたかも実体として成立してあるかの如くに顕れてくるのである。
所知障を断滅するまで、これはどうしょうもない。でも、空性の理解が十分であるため、煩悩は生じず、業も汚されないのである。だから輪廻からも解脱しているのである。
この表のように、凡夫、阿羅漢、仏陀と、認識は歴然と異なっているのである。
それが、悟りと煩悩は、空性を本質として同じ(一如)だからと言っても、はたらきやあり方が同じになるわけでは全くないのである。
つまり、空について、縁起について、中観思想について、全く分かっていないのが、満井勧学の論なのである。正直、痛いレベルである・・
実のところ、仏陀の如量知も如実知も、その知に違いはない。空性を現量に了解しながらに、世俗のこともご覧になられるということを、世俗の側から一応、便宜的に述べてあるだけである。
先日の「真実執着の戯論」とは、この表では「虚偽の顕れ」のことになる。
第八地以上の菩薩でも、モノ・コトは、まるであたかも実体として成立してあるかの如くに顕れてくるのである。
所知障を断滅するまで、これはどうしょうもない。でも、空性の理解が十分であるため、煩悩は生じず、業も汚されないのである。だから輪廻からも解脱しているのである。
この表のように、凡夫、阿羅漢、仏陀と、認識は歴然と異なっているのである。
それが、悟りと煩悩は、空性を本質として同じ(一如)だからと言っても、はたらきやあり方が同じになるわけでは全くないのである。
つまり、空について、縁起について、中観思想について、全く分かっていないのが、満井勧学の論なのである。正直、痛いレベルである・・