日記

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「明暦の大火」の歴史の謎について・由井正雪の残党たちによる反乱蜂起説

2024年01月22日 | ブログ
もちろん、拙生、「新しい領解文」についてだけを考察しているわけではない。並行して美作後南朝史、宮沢賢治父子にない堂参詣説についても研究継続しています。

さて・・この「明暦の大火」の歴史の謎であるが、

少し前に美作後南朝史について考察している中で、

旧美作藩・津山総鎮守として知られている徳守神社の由来について
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/e9c36f8bede3c1e87edeb06c056d5a9d

「・・また、徳川紀伊家の初代となる徳川頼宣(徳川家康の十男)も松平忠輝同様に後南朝・高仁天皇の支持者であったとされ、家光以降の南朝勢力に対しての冷遇策への反発心があったと言われており、由比正雪の乱である「慶安の変」への関与も疑われることになります。(由比正雪の乱の背景には、南朝勢力に対しての論功行賞への不満、冷遇策により爆発することになったのではないかとも考えられています。)・・」

と取り上げたこととも繋がってくるのが、実は、この「明暦の大火」であると考えているのでもあります。

コメしたように・・

「・・拙生は、楠木正辰からの南木流軍学者、由井正雪(橘正雪)の残党たちによる南朝遺臣たち(関ヶ原の戦いは南朝遺臣勢力の結集により徳川家康の有利に働いたことへの論功行賞へ)の不満による蜂起反乱のための計画的な火事であったのではないかと見ています。由井正雪の「慶安の変」の本当の目的は、美作後南朝小倉宮家を擁立しての幕府転覆計画であったと思われるのであります。・・」

として、美作後南朝小倉宮家の高仁天皇を廃位させた徳川家に対しての反乱が、由井正雪による「慶安の変」であり、高仁天皇を支持していた徳川頼宣が、「慶安の変」後に江戸に10年近く蟄居処分となったのも、幕府が、「慶安の変」の本当の裏の首謀者を徳川頼宣と睨んでいた証左であるというわけなのでもあります。

南朝勢力のお陰で徳川幕府を開けたのに、その十分な論功行賞も無く、後水尾天皇が譲位して即位した美作後南朝の高仁天皇を、家光が30万もの兵を率いて上洛、即座に廃位させ、徳川和子の子である明正天皇を即位させることになったわけなのであります・・この不満が爆発した一つが、「明暦の大火」であると考えるのであります。

また、本妙寺の隣の阿部忠秋の屋敷が火元であったとする説も、慶安の変、承応の変への処分に対しての老中への由比正雪の残党による報復からとも考えられるのであります。

ただ、承応の変では、阿部忠秋の家臣である山本勘助の孫、山本兵部も関わっていたとされるなどの色々と不可解な点も。(南朝方)浪人たちへの一定の理解を示していた阿部忠秋が、実は首謀者と疑われないためにも、本妙寺出火と偽装した可能性ももちろんあるわけです。

怪奇な歴史研究室、毎回本当に勉強になります。お勧めです。

https://www.youtube.com/watch?v=OFyMuoMCYgQ


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